Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

吉井和哉『HEARTS』はとんでもない名曲だから聴いて欲しい

最近咽頭癌の根治を発表した吉井和哉。

筆者は吉井和哉のファンである。

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そんな吉井和哉の中でも筆者にとって、あるいは吉井和哉本人にとってもおそらく、特別な一曲がある。
それが『HEARTS』だ。


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ベストアルバムに収録された新曲であるこの曲は、あまりの風格を放っていて、当時から大好きな曲だった。

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  • アーティスト:吉井和哉
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30歳を超えて、その歌詞はより痛切なものを伴って筆者に突き刺さるようになった。

「最近の曲は〜」などと言い始めると老害になったなぁ、という自覚はあるのだが……

ここのところ、抽象的で何を言ってるか分からない曲ではなく、何を歌った曲なのかがパッと分かるようなものがよく流行る印象がある。
だが時代を超えて普遍な価値のある曲は、あらゆる聴き手のあらゆる状態の心に浸透するような、そんな普遍的な曲だ。
そんな曲は必然的にある程度抽象的な歌詞にならざるを得ない。
筆者は個人的にそう考えている。

『HEARTS』はとりわけ抽象的で難解な曲である。
圧倒的な詩情、ノスタルジー。

そんな『HEARTS』について解説するのは野暮だ。
解釈するのも野暮だ。
だが……それでも。

『HEARTS』はもっともっと、ずっとずっと語られるべき曲だ。
筆者は真剣に、この曲はノーベル文学賞に値すると思っている。
だから野暮、無粋を承知で語ろうと思う。

『HEARTS』解説

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『HEARTS』は難解な曲だが、旅立ちの曲であることは誰が読んでも間違いないだろう。
始発のバスを待ち、乗って、出発する。
そして次の場所へと向かう。
それ自体は明確だ。

だが、散りばめられたフレーズは全て難解だ。
例えば冒頭の「最後の白い鳥」は何を意味するのか?

それを明確にすることにはあまり意味は見い出せない。
その答えは各々の聴き手が見つけるものだからだ。

だから、筆者はこの記事ではこの曲の「視線の動き」に着目して、揺れ動く旅人の心に迫ってみたいと思う。

空想上の世界

最後の白い鳥は何を餌に生き延びてる
新月の蒼い海を確かめるように高く低く

旅人は、「最後の白い鳥」に思いを馳せる。
孤独な一羽の鳥だ。
鳥は自分自身ではない、当然だ。
けれど、旅人にとってはそこに思いを馳せる理由があったのだろう。
果たしてそれは想像上の鳥なのか、それとも実際に見た鳥なのか。
たとえ実際に見た鳥であったとしても、何かしらの想像、空想が働いていたことは間違いない。

殻が割れるまでどこかで見ているように

鳥を介して世界を思う。
彼は鳥に思いを馳せながら、自分自身の記憶を辿っているのかもしれない。
そしてバスを待つ。
バスを待ちながら、そこにいる人々を眺める。
そして思う。

心が心を許せる時にはどうして姿形はないんだろう

唐突に意味深な内省が始まる。
想像上の鳥は、自己の内省的問題とここで繋がったのだ。
その過程は本人以外に知る由もないが、何かしらの「残酷性」を想起させる鳥に対する想像が、「彼」を内省に導いたことには間違いがないだろう。

瞳に映る情景、あるいは

-5度の雪国のスタバの横に昇る朝日

全体の文脈も含めて、筆者はこのフレーズ以上に「凄まじい」という言葉が似合うフレーズを知らない。

「抽象からの急激なまでの具体への転換」は宇多田ヒカルがよくやっていた手法だ。


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キングダムハーツ2のOPとしても有名な曲だが、非常に壮大で、神秘的でもあるような曲だ。
その壮大さ、神々しさが最大限に達した大サビで

年賀状は写真つきかな

というフレーズをぶち込めるのは、おそらくこの人くらいしかいない。
圧倒的なエネルギー量の内省の揺れ動き。ダイナミズム。
抽象的問題と分離された具体的自己の問題をぶっ放し、その上で混ぜ合わせようとするエネルギー。
宇多田ヒカルと吉井和哉には遠くないものを感じる。

閑話休題。

改めて、

-5度の雪国のスタバの横に昇る朝日

ここまでの急転換で、かつ聴き手をその世界に一気に誘うようなフレーズは他に存在しないのではないか。
聴き手はなんとなく「最後の白い鳥」というフレーズで冬の情景を思い浮かべていたはずだ。
そこで急激に現実と『HEARTS』の世界がリンクするこのフレーズで、我々もその世界に叩き込まれてしまう。

一方で、これが旅人たる彼の視線と考えてみると、この歌詞は彼の瞳に映る客観的な情景にシフトした、と考えることもできる。
だが、そう考えてみると「おや?」と思うようなフレーズに続いていく。

「どこにも行かないでくれ」と書かれたニュースペーパー

このニュースペーパーは本当に存在するものだったのか?
それは分からない。
けれど、筆者にとっては以下のように解釈するのが自然だ。

スタバも、ニュースペーパーも、(少なくとも後者は)「彼」の瞳に映ったものそのものというよりは、「彼」にとってそれこそが「見えてしまったもの」だったのではないだろうか。
そして始発のバスに乗りながら、また明確な内省へと向かう。
後悔、あるいはノスタルジーを抱えながら……。

帰りたい 帰れない あの日の街には
そろそろ始発のバスに乗る
心が心を笑える時にはどうして姿形はないんだろう

「あなた」との決別

カモメの群れが歌い出した 潮騒のピアノに合わせて
愛しい誰かのくちびるみたいなように

カモメの群れ。
それは現実にあったものなのか、それとも空想だったのか。
それはもはや、どうでもいい。
けれど「彼」は核心に迫ろうとしている。

「愛しい誰か」を思い出す。

追いつけないほど遠くへ行ったけど
あなたはいつも側にいる気がした

過去形だ。
彼はバスに乗ってここを発つ。
だが、それはこの地からの旅立ちだけを意味するものではないということは、語るだけ野暮だろう。

次の場所へ
さよならごめん
迷わず飛べ

誰に別れを告げているのか。
誰に謝っているのか。
「この地に」なのか。
「愛しい誰か」なのか。
「過去の自分自身」なのか。
あるいは、「今の自分自身」なのか。

何かを、忘れられないものを抱えながら、彼は、人は生きる。
ときに罪悪感を抱える。
それでも別れを告げ、謝り、後ろ髪を引かれながらも、それでも迷わずに飛ぶことになる日が来る。
それは旅人にとって、人にとって、必然なのだろう。

まとめに代えて

癌って聞いたときはビビり散らかしましたが、根治したのは本当に良かったです。
新曲、楽しみにしてます。
ファンより。

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