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"僕の足に絡んだ蔦は あの日蒔いた種だった" 吉井和哉『Island』より

生きてるだけで、罪悪感

恥の多い生涯を送って来ました。

太宰治人間失格』の有名すぎる冒頭の一文。


自分の人生に「後悔」や「罪悪感」を抱いていないと決して出てこない発想だ。

生きてるだけで、罪悪感。
時折僕はそんなことを思う。

「後悔」と「罪悪感」は明確な区分が難しい。
この記事では特に区別せず扱う。

過去の話

過去、仕事で大きな罪悪感を抱えた出来事があった。
「失敗した」のではない。
「成功してしまった」のである。

滅茶苦茶な発想、滅茶苦茶に予算がかかる方法だったが、当初の「想定通り」の結果を出す仕組みを実装してしまった。
スキルや知識が溜まった今の自分なら、「持続可能性が無い」、「効率が悪すぎる」等、色々な理由で絶対にやらない方法だ。

そのプロジェクトの途中で僕は独立したのだが、ずっと「罪悪感」を抱えていた。
……厳密に言えば、直後から「罪悪感」を抱えていたわけではない。
スキルが身につくにつれて、自分がやらかしたことが理解でき始め、それで「罪悪感」が膨らんでいったのだ。

数年後、そのプロジェクトの関係者と会う機会があった。
あの仕組みを実装してしまったことを謝罪した。
そのとき、その人は僕にこう言った。

「でもあのプロジェクトがウチで一番成功だったよ」と。

……この言葉に、僕は救われた。

罪悪感とは?

罪悪感とは、何か?
それは「判断」だ。

自分の行動の価値を、評価を、自分自身で「判断」する。
それはあくまでも自分自身の「判断」であり、他者の思考は介在していない。

例えば。
飲み会で記憶をすっ飛ばす直前まで飲んで、朝目が覚めて怖くなる。
こう思う。
俺は何かとんでもない無礼を働いてしまったのではないか?

おそるおそる参加者に飲み会の様子を確認すると、むしろ酔った僕というコンテンツを楽しんで貰えてた形跡がある。*1

結果オーライだが、恐怖感が拭えない。
それは自分の行動を「判断」しているからだ。
もしかしたら取り返しのつかないことをやってしまっているかもしれない、と。*2
そういった自分の行動は、結果オーライだとしても「自己評価」としてはマイナスなのだ。

「判断する」ということ

「判断」は良くない。
これは心理学的にも仏教的にも共通して言えることらしい。

 

共通して書かれている。

『「やる気が出ない」が一瞬で消える方法』に関しては、このようなタイプの本はもう飽きるほど読んだので読む気がなかったのだが、Amazonのレビューで著者のクライアントの方が司法試験に合格していて、あまりのインパクトに買ってしまった。

結果的に「買ってよかった」と思う。
他の本と明らかに違う観点から書かれている。

序盤の内容を要約すると、

  • 自分で何かを判断することに慣れすぎると……例えば、ある程度職場での地位が上がって何でも自分で判断するような立場になってしまうと、自分の中に「万能感」が生まれていく
  • 「万能感」は、自分の力で何でも解決できるという考え方を育てていく
  • 現代はインターネットにスマートフォンなど、この「万能感」を育てる土壌がありすぎる
  • 現実はむしろ「ままならない」ことの方が圧倒的に多く、そのギャップから「無力感」が培われていく
  • だから「何もかもがままならない」環境、例えば自然に触れるということには大きな意義がある

といったところだろうか。

心当たりがありすぎた。

おそらく、自分の行為に対し「評価」「判断」を加えていくというのは、あまり意味がないことなのだ。
人は「判断」できるほど強くないし、「判断できている」と考えるならば、それは「万能感」のあらわれであり、ある種の「傲慢」だ。
僕がマイナスに判断・評価した「行為」も、誰かにとってはそうではなかったりする。
おそらく、判断したがるこの心は一種の自意識過剰なのだ。

だから不要な判断をやめて、生きていこう……

と。

……残念ながら、これで終わる当ブログではないのである。

「罪悪感」。
「恥の多い生涯」。

もしも。
罪の大きさが、ここまでの議論を吹き飛ばすくらい大きいものだったら?

罪を意識し続けるということ

刑法は、故意がなければ人を罰しない。
何故か?
ざっくり言うと、「それが悪いことと分かっていて、『それをやらない』という選択肢も取れるのに、あえてやったんだから、あなたには責任を問えるよね?」という発想である。*3

だが「特別に」一部の罪について「過失であっても罰する」としている。
例えば自動車の運転。
これらは上記のロジックとは別で、こちらもざっくり言うと「人を轢き殺してしまうという可能性を予見していて、その結果重い注意義務が課せられてるということは当然なのに、その注意義務に違反したらあなたは処罰されても仕方ないよね?」
という発想である。*4

僕は、……おそらく、故意で犯罪を犯すことは無い。そう思いたい。
だけどバイクの運転をしている以上「過失」で人を殺してしまう可能性は十分にある。
そして「過失」の処罰根拠は、完璧ではないにせよ妥当なものに思える。

そうなったとき、僕は……
罪悪感を。
「これは俺の『判断』に過ぎない」と流し。
刑事上民事上の責任のみ果たし、あとは気楽に生きるのだろうか?

これは「極論」か?

分かっている。
これは「極論」だ。

だが一方で。
「自分の行為を判断しない」を繰り返していると、「自分が嫌いな存在になってしまう」という恐怖感がある。

具体的に言えば。
品格を地面に投げ捨てたオッサン、オバハン。
SNSで自分の意見に同意してくれる人だけで徒党を組んで、聞くに堪えない暴言を垂れ流す人々。
立場の弱い下請けを部活の後輩と間違えるビジネスマン。

……彼らの共通項は何か?
「自ら」を「省みない」ことだ。
即ち「自省」しないこと。

「自省」とは何か?
自らの行為を逐一拾い上げ、「評価」し、あるいは「判断」することである。

……僕は「自省」する。
そして「自省」に疲れ、「自棄(ヤケ)」になる……

あれ?
僕は、僕のなりたい人間に、……なれているか?

程度の問題

結局のところ、これは程度の問題なのだろう。
「向き合うべき罪には向き合い、そこまででもないものはスパッと忘れる!」
この一行で済む話だ。

だが、そんな器用なことができる人がこの世にどれだけいるというのだろう。

4月、僕の親友だった男が首を吊って死んだ。
僕はそこには罪悪感を覚えないようにしている。
何故なら、友のそんな死に後悔を覚えないわけがないからだ。
後悔を覚えないわけがない。
そこに納得の行く結論など最初から無かった。
最初から詰んでいた。

刑法チックに言えば「予見可能性はあっても、回避可能性は無かった」のだ。
だから誰が僕を責めようとも「俺は悪くねえ」と言う。

……でも。
「俺は悪くねえ」と言って良い行為と、言ってはならない行為の差は何なのだろうか?

……まぁ。
少なくとも、自省を繰り返して今、僕は僕がなりたい人間になれているということはない。
僕は今、無意味な自省……即ち過去の「判断」の濁流に飲まれかけている。
そう、ここまでに書いたことがまさに一つの大きな「判断」そのものなのだ。

多分、ブログに書くことで頭の中でぐるぐるとただ回っていた無限の「判断」を、俯瞰して見られるようにはなっていると思う。
だから僕にとってこれは必要な行為……なのだろう。
これもまた「判断」チックではあるが。

吉井和哉『Island』

何度も何度もやっては失った
足しても引いても割っても間違った

吉井和哉『Island』の歌詞だ。

吉井和哉という男は、もう、これでもかっていうくらい、「俺」なのだ。*5

mistclast.hatenablog.com

↑は気付いたら1万6千字になってしまったおそらく過去最長の記事である。
それくらい僕は吉井和哉に思い入れがある。

なんで……こう……ここまで、ダサい男の後悔を、孤独を、全て表現してくれるのか。
あなた自身は日本一レベルでカッコいい男の癖に。

……否、違う。
吉井和哉を聴いていると、こんなダサい「俺」が、吉井和哉のようにカッコよく悩めると、悩めていると、そう感じさせてくれるから、こうも刺さるのか。

『Island』の2番のサビがこれである。

激しい雨に打たれ カミナリ落ちました 僕の足に絡んだ蔦は あの日蒔いた種だった

この重い重い後悔、あるいは罪悪感は、ラストのフレーズに結実する。

心が疲れたら 歌でも歌いながら あの日蒔いた種が育った 名前のない島へ行こう

いつか。僕にとって、いつか。
あの日蒔いた種が、名前のない島へ育つ日が来るのだろうか。

それを待ちながら、罪悪感、あるいは罪悪感のようなものに後ろ髪を引かれつつ、それでも前を向いて生きていくしかないのだ。

僕には、それしかない。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた。

 

*1:かなり危ない酔い方はするが、酔うと基本的にとてつもなく明るくなる。……らしい。

*2:昔は結構本格的な失敗が多かった……

*3:この辺は学説が色々ある。これはあくまでも一例である。

*4:筆者は法学に触れて1年目である。新過失論の理解として間違っていたら優しく指摘して欲しい

*5:大槻ケンヂは『林檎もぎれビーム!』の中で「君が想うそのままのこと 歌う誰か見つけても すぐに恋に落ちてはダメさ 『お仕事でやってるだけかもよ』」という強烈なことを歌っているが、仮に「お仕事でやってるだけ」であっても恋に落ちることをやめられないのが僕という男だ