MistiRoom

"僕の足に絡んだ蔦は あの日蒔いた種だった" 吉井和哉『Island』より

生きてるだけで、罪悪感

恥の多い生涯を送って来ました。

太宰治人間失格』の有名すぎる冒頭の一文。


自分の人生に「後悔」や「罪悪感」を抱いていないと決して出てこない発想だ。

生きてるだけで、罪悪感。
時折僕はそんなことを思う。

「後悔」と「罪悪感」は明確な区分が難しい。
この記事では特に区別せず扱う。

過去の話

過去、仕事で大きな罪悪感を抱えた出来事があった。
「失敗した」のではない。
「成功してしまった」のである。

滅茶苦茶な発想、滅茶苦茶に予算がかかる方法だったが、当初の「想定通り」の結果を出す仕組みを実装してしまった。
スキルや知識が溜まった今の自分なら、「持続可能性が無い」、「効率が悪すぎる」等、色々な理由で絶対にやらない方法だ。

そのプロジェクトの途中で僕は独立したのだが、ずっと「罪悪感」を抱えていた。
……厳密に言えば、直後から「罪悪感」を抱えていたわけではない。
スキルが身につくにつれて、自分がやらかしたことが理解でき始め、それで「罪悪感」が膨らんでいったのだ。

数年後、そのプロジェクトの関係者と会う機会があった。
あの仕組みを実装してしまったことを謝罪した。
そのとき、その人は僕にこう言った。

「でもあのプロジェクトがウチで一番成功だったよ」と。

……この言葉に、僕は救われた。

罪悪感とは?

罪悪感とは、何か?
それは「判断」だ。

自分の行動の価値を、評価を、自分自身で「判断」する。
それはあくまでも自分自身の「判断」であり、他者の思考は介在していない。

例えば。
飲み会で記憶をすっ飛ばす直前まで飲んで、朝目が覚めて怖くなる。
こう思う。
俺は何かとんでもない無礼を働いてしまったのではないか?

おそるおそる参加者に飲み会の様子を確認すると、むしろ酔った僕というコンテンツを楽しんで貰えてた形跡がある。*1

結果オーライだが、恐怖感が拭えない。
それは自分の行動を「判断」しているからだ。
もしかしたら取り返しのつかないことをやってしまっているかもしれない、と。*2
そういった自分の行動は、結果オーライだとしても「自己評価」としてはマイナスなのだ。

「判断する」ということ

「判断」は良くない。
これは心理学的にも仏教的にも共通して言えることらしい。

 

共通して書かれている。

『「やる気が出ない」が一瞬で消える方法』に関しては、このようなタイプの本はもう飽きるほど読んだので読む気がなかったのだが、Amazonのレビューで著者のクライアントの方が司法試験に合格していて、あまりのインパクトに買ってしまった。

結果的に「買ってよかった」と思う。
他の本と明らかに違う観点から書かれている。

序盤の内容を要約すると、

  • 自分で何かを判断することに慣れすぎると……例えば、ある程度職場での地位が上がって何でも自分で判断するような立場になってしまうと、自分の中に「万能感」が生まれていく
  • 「万能感」は、自分の力で何でも解決できるという考え方を育てていく
  • 現代はインターネットにスマートフォンなど、この「万能感」を育てる土壌がありすぎる
  • 現実はむしろ「ままならない」ことの方が圧倒的に多く、そのギャップから「無力感」が培われていく
  • だから「何もかもがままならない」環境、例えば自然に触れるということには大きな意義がある

といったところだろうか。

心当たりがありすぎた。

おそらく、自分の行為に対し「評価」「判断」を加えていくというのは、あまり意味がないことなのだ。
人は「判断」できるほど強くないし、「判断できている」と考えるならば、それは「万能感」のあらわれであり、ある種の「傲慢」だ。
僕がマイナスに判断・評価した「行為」も、誰かにとってはそうではなかったりする。
おそらく、判断したがるこの心は一種の自意識過剰なのだ。

だから不要な判断をやめて、生きていこう……

と。

……残念ながら、これで終わる当ブログではないのである。

「罪悪感」。
「恥の多い生涯」。

もしも。
罪の大きさが、ここまでの議論を吹き飛ばすくらい大きいものだったら?

罪を意識し続けるということ

刑法は、故意がなければ人を罰しない。
何故か?
ざっくり言うと、「それが悪いことと分かっていて、『それをやらない』という選択肢も取れるのに、あえてやったんだから、あなたには責任を問えるよね?」という発想である。*3

だが「特別に」一部の罪について「過失であっても罰する」としている。
例えば自動車の運転。
これらは上記のロジックとは別で、こちらもざっくり言うと「人を轢き殺してしまうという可能性を予見していて、その結果重い注意義務が課せられてるということは当然なのに、その注意義務に違反したらあなたは処罰されても仕方ないよね?」
という発想である。*4

僕は、……おそらく、故意で犯罪を犯すことは無い。そう思いたい。
だけどバイクの運転をしている以上「過失」で人を殺してしまう可能性は十分にある。
そして「過失」の処罰根拠は、完璧ではないにせよ妥当なものに思える。

そうなったとき、僕は……
罪悪感を。
「これは俺の『判断』に過ぎない」と流し。
刑事上民事上の責任のみ果たし、あとは気楽に生きるのだろうか?

これは「極論」か?

分かっている。
これは「極論」だ。

だが一方で。
「自分の行為を判断しない」を繰り返していると、「自分が嫌いな存在になってしまう」という恐怖感がある。

具体的に言えば。
品格を地面に投げ捨てたオッサン、オバハン。
SNSで自分の意見に同意してくれる人だけで徒党を組んで、聞くに堪えない暴言を垂れ流す人々。
立場の弱い下請けを部活の後輩と間違えるビジネスマン。

……彼らの共通項は何か?
「自ら」を「省みない」ことだ。
即ち「自省」しないこと。

「自省」とは何か?
自らの行為を逐一拾い上げ、「評価」し、あるいは「判断」することである。

……僕は「自省」する。
そして「自省」に疲れ、「自棄(ヤケ)」になる……

あれ?
僕は、僕のなりたい人間に、……なれているか?

程度の問題

結局のところ、これは程度の問題なのだろう。
「向き合うべき罪には向き合い、そこまででもないものはスパッと忘れる!」
この一行で済む話だ。

だが、そんな器用なことができる人がこの世にどれだけいるというのだろう。

4月、僕の親友だった男が首を吊って死んだ。
僕はそこには罪悪感を覚えないようにしている。
何故なら、友のそんな死に後悔を覚えないわけがないからだ。
後悔を覚えないわけがない。
そこに納得の行く結論など最初から無かった。
最初から詰んでいた。

刑法チックに言えば「予見可能性はあっても、回避可能性は無かった」のだ。
だから誰が僕を責めようとも「俺は悪くねえ」と言う。

……でも。
「俺は悪くねえ」と言って良い行為と、言ってはならない行為の差は何なのだろうか?

……まぁ。
少なくとも、自省を繰り返して今、僕は僕がなりたい人間になれているということはない。
僕は今、無意味な自省……即ち過去の「判断」の濁流に飲まれかけている。
そう、ここまでに書いたことがまさに一つの大きな「判断」そのものなのだ。

多分、ブログに書くことで頭の中でぐるぐるとただ回っていた無限の「判断」を、俯瞰して見られるようにはなっていると思う。
だから僕にとってこれは必要な行為……なのだろう。
これもまた「判断」チックではあるが。

吉井和哉『Island』

何度も何度もやっては失った
足しても引いても割っても間違った

吉井和哉『Island』の歌詞だ。

吉井和哉という男は、もう、これでもかっていうくらい、「俺」なのだ。*5

mistclast.hatenablog.com

↑は気付いたら1万6千字になってしまったおそらく過去最長の記事である。
それくらい僕は吉井和哉に思い入れがある。

なんで……こう……ここまで、ダサい男の後悔を、孤独を、全て表現してくれるのか。
あなた自身は日本一レベルでカッコいい男の癖に。

……否、違う。
吉井和哉を聴いていると、こんなダサい「俺」が、吉井和哉のようにカッコよく悩めると、悩めていると、そう感じさせてくれるから、こうも刺さるのか。

『Island』の2番のサビがこれである。

激しい雨に打たれ カミナリ落ちました 僕の足に絡んだ蔦は あの日蒔いた種だった

この重い重い後悔、あるいは罪悪感は、ラストのフレーズに結実する。

心が疲れたら 歌でも歌いながら あの日蒔いた種が育った 名前のない島へ行こう

いつか。僕にとって、いつか。
あの日蒔いた種が、名前のない島へ育つ日が来るのだろうか。

それを待ちながら、罪悪感、あるいは罪悪感のようなものに後ろ髪を引かれつつ、それでも前を向いて生きていくしかないのだ。

僕には、それしかない。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた。

 

*1:かなり危ない酔い方はするが、酔うと基本的にとてつもなく明るくなる。……らしい。

*2:昔は結構本格的な失敗が多かった……

*3:この辺は学説が色々ある。これはあくまでも一例である。

*4:筆者は法学に触れて1年目である。新過失論の理解として間違っていたら優しく指摘して欲しい

*5:大槻ケンヂは『林檎もぎれビーム!』の中で「君が想うそのままのこと 歌う誰か見つけても すぐに恋に落ちてはダメさ 『お仕事でやってるだけかもよ』」という強烈なことを歌っているが、仮に「お仕事でやってるだけ」であっても恋に落ちることをやめられないのが僕という男だ

それは「孤独」じゃない

孤独。
現代病である。
だけどそれは本当に「孤独」なのか?

ここからはあくまでもフィクションだ。

あなたの一日

SNSを眺める。
幸せそうな人たち。
その中に、時々、幸せそうな友人たち。

YouTubeを眺める。
楽しそうな実況者。大量の閲覧数。

あなたは、孤独を感じる。
だけどあなたにもSNSでそれなりのフォロワーがいる。
あまり政治的な意見はないが、たまに「なんじゃそりゃ」と思ったときに自分の意見を呟く。
「いいね」を貰える。
ほら、あなたはもう寂しくない。

ゲームでもやろうか。
それなりに楽しい。
このゲームはあまり知られていないけれど、カルト的な人気を持ったゲームだ。
自分よりも深くそのゲームを知っている人が、そのゲームについて驚くほど鮮やかな解釈をブログにまとめてくれている。
ほら、あなたはもう寂しくない。

暇だな。
誰かと飲みに行こうか。
後輩を誘う。
後輩はあなたと同性で、あなたはヘテロセクシュアルであり、かつ後輩には恋人がいるので、恋愛に発展する可能性はまずない。

後輩はどうもあなたのことをそれなりに尊敬してくれているらしい。
その上あなたと飲むのをかなり楽しんでくれているらしく、定期的にその後輩からむしろ誘ってくれるのだが、あなたは都合が合わずずっと断っていた。
誘ってみるか。
快諾してくれた後輩と楽しく飲んで、休日が終わった。
ほら、あなたはもう寂しくない。

……いや、そんなことはない。
やはり寂しい。
なんだこれ?

……
さて。この「フィクション」をあなたはどう思っただろうか。
異世界の物語だと思っただろうか。
それとも自分のことのように読んだだろうか。

前者であれば良い。
後者ならば、……あなたは、僕の同類なんだと思う。

バイクのこと

僕はバイクが好きなのだが、バイクで一人で走っているとき、時折酷い不安に襲われる。
それは旅に伴う不安ではない。
「このままで良いのか?」という不安だ。
「このままで良い」という矮小な自己満足を否定する不安だ。
言い換えると「このままで良くない」ということだ。

なぜ「このままで良くない」のか?
まだまだ自分にはスキル(お金を稼ぐ能力、その他諸々)が足りないからなのか?
おそらく違う。
この「このままで良くない」には、あまり理由がない。
ただただ、「矮小な自己満足を否定する」なんらかの作用が暴走を起こしているだけなのだ。

さて、ここで僕はあえて「矮小な自己満足」という表現を使った。
だがそもそも、自己満足に「矮小な」も「偉大な」もあるのだろうか?

スマホでゴシップを眺める。これは矮小。
哲学書を読む。これは偉大。
そんなバカな話はない。

自己満足は自己満足に過ぎない。それ以上でも以下でもない。
だが、自分の自己満足は、どうも矮小に思えてしまう。

自分を俯瞰で考えてみると、バイクなんてなかなかどーして、かなりいい趣味だと思う。
それでもこの「自己満足を否定する作用」の対象になる。

「自己満足を否定する作用」に耳を傾ける。
……トップYouTuberはもっと尊敬を集めている。
……あなたと同年代の彼は年収1000万円を超えたらしい。
……彼はもう結婚していて、家庭を築いている。
……創造力を駆使して芸術を生み出す人々がいる、それに比べてお前は。

色々な声が聞こえる。

彼は最後に問う。
「自己満足している場合か?」と。

そこでドラッグやら、風俗やら、ギャンブル、過剰な飲酒に走ってしまう人もたくさんいるだろう。
だがあなたはそれをしない程度の理性はあった。
だから自己満足を「肯定」することにした。
それでもなお、「彼」は君に問いかけてくる……

「自己満足している場合か?」と。

彼の名を「孤独」と呼ぶこともできる。
だが、僕は気付いている。
お前は多分……否、間違いなく「孤独」ではない。

僕のこと

そんなことばかり考えて生きている。
昔からこんなことばかり考えて生きていたが、色々あってここ5年で悪化したように思う。
結果、僕は合法的な範囲内で「分かりやすいもの」を求めるようになった。
酒。
良いバイク。
年収。
スキル。
地位。
結婚。
セックス。

これらは「矮小な自己満足」と違い、明確な効果がある。
一瞬「彼」の声を「消せる」のだ。
でも、それはおそらく「彼」の思う壺。

ここで挙げた中で実際にいくつか得られたものもある。
だけどついに「彼」の声は消えてくれなかった。
「彼」はすぐに声を上げてくる。

僕とあなた、僕の同類であるあなたは、「彼」に抗わなければならない。
「彼」を無視し。
僕を面白がってくれる人のために生きながら。
「矮小な自己満足」を全力で肯定しなければならない。
それは自分自身の中に眠る光だ。

「面白くあれ」と唆してくる「彼」は。
僕らをどんどん、つまらなくしている。
抗わなければならない。
それは辛い戦いだけれど。

……何年かかるかなぁ……しんどいなぁ……

 

なんで頑張ってるかわからないし、そもそも頑張っていない

やあ、司法試験への道に挑みながらITエンジニアとして活動する筆者だよ。

……。
……俺は何がしたいんだ、本当に。今回は(今回も?)ただの日記である。

疲れている

昔から非常に疲れやすい。
元日本一有名なニートであるPha氏が書いた本だけど、全文引用したいほど感銘を受けている。

全文引用はできない*1から、せめて試し読み部分だけでも読んでほしい。

booklive.jp

僕は筆者ととても近い価値観を持っている。
……はずなのだが、逆方向に走っている。

それは何故か?多分、僕に勇気が無いのだ。
「この一度きりの人生を、適当に流して、それでも納得できるし、後悔しない」と断言するだけの勇気が。

そもそもあまり勉強してねえ

だったらその分挑んでやる、といろいろな経緯から挑み始めた司法試験への道*2だが、どうもまだ煮え切らない態度でいる。
まず、ぶっちゃけここ数ヶ月は1ヶ月あたり40時間前後しか勉強してない。
これは司法試験を目指すにはひっくり返るほど短い勉強時間であることは言うまでもない。

理由は一つ。
疲れてしゃあないのである。
だがしかし。実のところ、今の仕事は全然忙しくない。
にも関わらず慢性的にずっと疲れている。
定期的に運動しているし、食事にもそれなりに気を配っている。
……割に頻繁に飲むのでそれが原因の可能性ももちろんあるのだが……

だが、この疲れやすさは生来のものだと思っている。

大学3-4年の頃、僕は……
一番酷いときには夕方4時に起床していた。
完全に日常が崩壊していた。
バイトとゲーセンで一日が終わっていた。
よく就職できたなと心から思う。
そもそも色々な経緯から人間不信になりゲームやったり絵を描いたりネットにハマりこんだり、そういったクソみたいな大学生活を送っていた。
今、僕は全ての大学生に言いたい。
マジでサークルに入れ。
人間関係が過度に陰湿じゃないとこならどこでもいい。
僕は大学生活をやり直せるなら借金してでも登山部とかそういうとこに入る。
社会人になってから本格的な登山とかやろうとしてもなかなかハードルが高いんだ。
「誰かから教えてもらえて」「一生の人間関係も構築できて」「目標さえ決めて取り組めてたら就職にも役立てられて」「もしかしたら恋人すらできるかもしれない」なんて、一石二鳥どころか五鳥くらいある。

……まぁ、あの混沌としていた大学生活を、今、後悔しているわけではないのだけれど。

閑話休題

リモートワークが始まりたての頃もそうだ。
10時始業だとすると9時45分に起きていた。
このままではヤバい、と焦りは抱えていたが、状況は変わらなかった。
ギリギリまで身体が動かないこともしょっちゅうだ。
社会人になって以来、休日も下手すると昼まで寝ていた。*3

僕の本職であるITエンジニアという仕事は、こんなヤツでもスキルさえあればなんとかやっていける仕事ではある。
あと自分で言うのもなんだが、僕には一種偏執的なまでの言語化能力がある。
これはいわば「数学ができる文系」みたいなもんである。
あまり数が多くない分、ちょっとでも得意なら結構な武器になる。
ということでこんなヤツでもなんとか泳いでいけるし、なんならそれなりに稼ぐこともできるのである。

そんな僕が弁護士になり、人と人との生の争いに当事者として入り、弁護過誤のリスクを負う……?
自由と平穏(と怠惰)を誰よりも愛する男が……?

そんなもんできる気がしない。
というか司法試験合格する前から弁護士になった後のことなんか考えるな、と思う人もいるかもしれない。
僕もそう思う。
でも……この試験、実務のこと考えずに挑めるような性質のものではないのだ……。
まあ多分、だからこそ合格したあと弁護士にならずそのまま予備校講師になる人も多々いるんだろうなぁ。

「いっちょ弁護士にでもなったるか」と法学部に入って、それでモチベーションを保ちきれず諦めていく、あるいは自分に向いてないと思って挑戦をやめる学生は腐るほどいるんだろう。

悔しくて仕方がねえ

それでも曲がりなりにも500時間ほど勉強して、六法の世界を一巡するくらいはやった。論文過去問を読んで何に問題意識を持てば良いのかくらいはざっくりと分かるようになった。
そして今合格者に自由に質問できるオンライン予備校でアホほど大量に質問しながら勉強を進めている。

そして思う。
何もかもが悔しい、と。

まず、僕は先程自分が「偏執的なまでの言語化能力」を持つと言った。
司法試験(予備試験)の合格者たちにとって、それは「前提」である。
彼らはそのずっと先にいる。
それが悔しい。
素人目にも鮮やかだと理解できる解説を示されてしまう。

その鮮やかさを理解しながら、美しさを理解しながら、それをまっすぐに目指せていない自分が悔しい。
悔しいと思いながら、動けない自分が悔しい。
頭が回らない時本当に回らないのである。
酒飲んで寝るだけの日も多々ある。

第一、誰にも迷惑かけてないんだ。
自分で稼いで自分で食って自分で飲んでる。
それで何が悪い?
何を悔しがる必要がある?
生きてるだけで上出来だろ。
……そんな自分をシンプルに認められるなら、ここまで苦しんではいない。

……それでも。
思い返すと、勉強を初めてしっかり早起きするようにはなったし……朝飯食ったり日経新聞読んだ後現実逃避してると30分くらいしか勉強できないこともザラだけど……
怠惰でいても良かった頃の「焦り」とは、今の「焦り」の性質は別のものになった。
多分これは悪いことではないのだと思う。

でも。何もかもが足りないし、やはり「何をやってるんだ俺は」という感覚は抜けないと思う。
お前にはエンジニアが向いてるよ。……と、誰かが言っている。
そうかもしれない。
でもそれだけじゃ悔しいなら、死ぬほど勉強でもすればいいじゃねえか。

……けどダメなんだよなぁ……あーマジで頭回らねえ……
でも、どこかできっちり開き直れないと……

と言いながらもう1年くらい経ってしまった。
いつまで俺は同じことをやっているのだろう。もう飽きたぞ。

……でもよほど狂人でもないと、「明日から仕事以外の全ての時間を勉強に費やすぞ」とはならんと思う。
ただ淡々とやるべきことをやることの、なんと難しいことか。
でももうアタシは日常だけで精一杯なんですよ。ホント。

ネットには「怠惰じゃない」人たちが山程いる。
成功したYouTuberもそうだし、SNSの有名人たちもそう。
でも人間の本質ってそうそう変わらんし、僕の疲れやすさと怠惰も基本的に変わらない。
そんなみんながみんな凄い存在にはなれませんて。

それでもなお自分の怠惰に抗うなら、しっかり抗い切りなさいな。

……それができないから、こんな文章を書いている。
こんなことばかりずっとずっと考えている。
明文化したらスッキリするかと思ったが、全然スッキリしねえ。畜生。
そりゃそうだ、もうこんなことは100回も1000回も考えた。
明文化不足が疲れの原因じゃないんだ。

……寝るか。寝よう。そうしよう。
いつか「俺はバカなこと考えてたな」って笑える日が来ることを願いながら。

*1:それはただの転載である

*2:司法試験を受験するためには、司法試験予備試験という合格率3-4%の狭き門を通るか法科大学院に入る必要がある。筆者はどちらも検討している

*3:一応、バイクを得てからは少し変わった。ツーリングのためなら5時に起きることもなんとかできるようになった。

「好きなものと向き合うこと 今だって怖いことだけど」

あらかじめ断っておくが、今回はかつてないほど抽象的というか、曖昧な話になる。

音ゲーの話

僕のブログは基本的に脈絡がなく話が飛ぶ。
だが適当なところで統合するのでご安心頂きたい。

幼稚園から中学の頃までエレクトーンをやっていた。
中学の頃、諸事情でやめた。
やめた直後、悪い友達の誘いで音楽ゲームに出会ってしまった。

ポップンミュージック
2022年の段階で15年以上もの歴史を持つ古株音楽ゲームだ。
僕が中学の時点でシリーズは15作も出ていた。

僕はある曲に出会ってしまった。
そして人生を大きく変えられることになる。

*1


初めて観たときはあまりの馬鹿馬鹿しさに笑った。
再度観て、曲の凄まじさに気付いてしまった。

「世界が終わった後に壊れたラジオから流れる音楽」をイメージして作られた曲。
狂気的なピアノは、一時的な落ち着きを経て、最高潮に達した狂気と美の戦争のようなセッションへ向かう(1:30〜)。
そして濁流のようなピアノは最後の最後まで続く。

ゲームとしての難しさは、この曲を正確にゲームの譜面として再現した結果に過ぎない。恐ろしいのはこの曲そのものだった。
そして、この曲はあまりにも中学二年生の僕に刺さってしまったのだ。

そこから僕はこの曲のクリアを目指すことになるのだが……
この頃から、僕はなんというか、「狂信者」のようになってしまったように思う。

色々ありすぎて語れないのだが、「恐ろしい難易度のもの、それをクリアすることは過程も含め総合的に芸術」という今に至るまで続く思想は、確実にこの曲から生じている。

そして、「こんな素晴らしい曲、とにかく世界に広めねえと!!!!」と思う気持ちもあった。今もある。*2


が……それよりも。何よりも。

語れない、のだ。

廃墟の話

僕は廃墟フェチである。廃墟を見るとき、そこに残された生活の痕跡をみるとき、こう……心に郷愁と寂寞感と愛が混ざったような何かが来る。
上述した『neu』という曲を聴いているときも、そうだ。

これは多分、「好き」という感情なのだろう。
けれどそれを前にしたとき、僕はいつも戸惑ってしまうのだ。

アイドルの話

僕はアイドルを好きにならないようにしている。
ClariSは好きだが、意地でも「ガチ恋」しないようにしている。
音楽が好きなだけだ。

どうしてもこう思ってしまうのだ。
「惚れちゃったとき、相手に彼氏とかいたら、惨めにならないか?」と。

……いや、分かっている。
分かっているんだ。
この発想の方がよっぽど惨めだ。
割り切って楽しんでいる人の方がよっぽど良い。

けれど、「自分が狂うほどに恋い焦がれているもの」に、「自分よりも誰よりも近いところにいる人」が存在すると考えると、多分僕は嫉妬で自分の身を焼いてしまう。
その範囲において「アイドルに彼氏がいたときに炎上」という現象が理解できる。
……まあ、同時に僕の理性の部分は
「恋愛禁止とかしょーもないな、向こうには向こうの人生があるんだから」
「好きな相手が幸せならそれがベストじゃないの」
「第一アイドルとして向き合うのと、人間として/恋人として向き合うのって全然違うでしょ」
とも言っているんだけど……
理性と感情は必ずしも合致するものではない。
むしろ合致する方が稀である。

『群青』

筆者がこれまで書いてきたものの中でも最も脈絡のない文章になってしまったが……
要は、筆者は「好きなもの」との距離感、付き合い方が、割と特殊なのだ。

多分、「真っ当に好きなもの」が無いわけではないのだが、「ガチ恋対象」と「それ以外の欲求(食欲性欲睡眠欲アルコール欲承認欲求その他諸々)」に全振りしがちなんだと思う。
いや、あるいは「好きなもの」を前にしたら、古の腐女子のように尊みが爆発(暴発)して、それでいて上手く発散できないというか……

……俺はどうしたら良いんだろう?
多分、それをなんとか上手く消化する一つの手段として、こうやって文章を書いているのだと思う。
消化しきれている気はしないが。

ところで、漫画『ブルーピリオド』では主人公: 矢口が自分の好きなことが「絵を描くこと」だと気付き、狭き門である東京藝術大学の現役合格を目指す。

良いなぁ、と思う。
まあ……この作品は「好き」に対しそこまで素直な作品ではないのだが……(特に7巻以降)

今更だが、この記事のタイトルはYOASOBIの『群青』の歌詞から拝借した。


www.youtube.com

『ブルーピリオド』の世界をインスパイアして描かれたこの曲のことを、僕は多分それなりに「好き」なのだと思う。
だけど一方、「好きって厄介だなぁ」としょっちゅう思う。

「綺麗」に昇華・結実する「好き」なんて、そうそう無い。
大事なことだからもう一度言う。
「綺麗」に昇華・結実する「好き」なんて、そうそう無いのだ。

中島義道の以下の言葉に僕は深く同意する。

各人に、何か好きなことがかならず一つはあるはずだ、というのは大嘘です。その好きなこととは万引きや売春であってはいけないのですから、社会的に評価される、できれば職業と結びつくことでなければならないのですから、じつはきわめて制限されている。*3

まあ万引きや売春に比べれば僕の「好き」は極めて真っ当だ。
だが、だからどうしたという話でもある。

「水上です!好きなことは偉大なるwacが作ったneuです!良いからお前らあの狂気と秩序をギリギリのラインで兼ね備えたピアノを聴け!!!」とでも自己紹介しろと言うのだろうか。
そんなことは言えんのでもう少し社会的な自己紹介をする。
そして僕は僕が嫌いになる。
ただ、「好きなものはそれこそ万引きであろうが売春であろうが、自分の中に秘めてりゃいいだろう。むしろなんでいきなり自己紹介の話になった?」という反論もあるだろう。
真っ当だ。

だが僕の「好き」との向き合い方は、なんというか……
そういう話じゃないのである。

To be, or not to be, that is the question. 

「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」
こう訳されることもあるシェイクスピアハムレット』の名言だが、ここではこう訳したい。

「このままで良いのか、良くないのか。それが問題だ」

結局、過去の感情であれ、今の感情であれ、「好き」が爆発しそうであれ、それを否定する必要は全く無いのだが、「ああ、俺は"neu"という曲に囚われているんだなぁ」と思ったところで、それ自体に特に意味はないのである。

好きなものは、死ぬときに「ああ、出会えて良かったな」と。
「これに出会えて、良い人生だったな」と。
そう思えれば、それで良いのかもしれない。

そもそも「そんな向き合うな!やるべきことをやれよ!」が、今の僕に向けられて然るべき言葉なのかもしれない。
筋トレも勉強もできてないしなぁ……今日も酒を飲もうかな……

でも、なんなんだろうか。このモヤモヤは。
綺麗にまとめすぎている気がする。

本当になんなんだろう。
もしかすると、僕は。
「好き」が俺を何者かにしてくれると、どこかで信じているのだろうか。
それとも、この世の軽い「好き」を僕は薙ぎ払いたいのか?
そもそも……俺は「何」が「好き」なんだ?
実は「何」も「好きじゃない」のでは?

あー難しい。本当に難しい。
この先には何も無い気がしている。

……うん。今日は少し法律の勉強して酒を飲もう。
だって僕は「法律の勉強」が、「嫌いじゃない」、あるいはそれなりに「好き」だから。

……でも。
この「好き」は。
"neu" に向けられた「好き」と比べると。
とてもくすんだ色をしている……

それでも、僕は、あるいはあなたは、……進むしかないのだ。多分。


……また会おう(雑にまとめる)!!

 

*1:音楽ゲームのプレイ動画は著作権的には「お目溢し」を受けているだけなので、ニコニコ動画から貼り付けることは必ずしも完全なシロとは言えないことは把握の上、当事者から批判が出た場合は措置を取らせていただきます。

*2:おそらく作曲したwac氏はそれを考えていない。氏の唯一のオリジナルアルバムである『音楽』に収録されているこの曲を聴けば分かる。「なぜこの展開にしたのか」が、氏の発表してきた曲について知識が無いと分からない作りになっているのだ。他方、それを聴けば氏にとって特別な一曲であることが痛いほどに分かるようになっている。

 

音楽

音楽

Amazon

 

*3:いつ読んだ言葉か思い出せなくて調べてみたら『私の嫌いな10の言葉』だった。孫引きで恐縮だが、今手元になかったのでこれで許してほしい。

todays-list.com

令和の世にロマン主義者現る

午前中にONE PIECE FILM REDを観たあと、いつものように勉強をサボり家でひたすらノートに思考をアウトプットして、衝撃の事実に気付いた。

水上(筆者)の行動原理は全て「ロマン」の一言で片付いてしまうことに。

  • 魚とか水族館、海が好きなのは何故?
    →ロマンを感じるから。*1
  • 僕の母校だと一人も実績がなかった京都大学を目指したのは何故?
    →ロマンを感じるから。*2
  • 大学の頃、初めてのスマートフォンとして手に入れたiPhone4に物凄く興奮したのは何故?
    →ロマンを感じるから。*3
  • 絵とか全く描けないし適性も無いのにイラストレーターを目指したのは何故?
    →ロマンを感じるから。*4
  • バイクに乗り始めたのは何故?
    →ロマンを感じるから。*5
  • 伊豆が好きなのは何故?
    →ロマンを感じるから。*6
  • 千石先生とか爬虫類が好きなのは何故?
    →ロマンを感じるから。*7
  • エンジニアとして独立したのは何故?
    →ロマンを感じるから。*8
  • 博物館が好きなのは何故?
    →ロマンを感じるから。*9
  • 司法試験なんぞ目指し始めたのは何故?
    →ロマンを感じるから。*10
  • 発酵食品が好きなのは何故?
    →ロマンを感じるから。*11
  • VR空間に復活した京急油壺マリンパークに大興奮したのは何故?
    →ロマンを感じるから。*12

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  • それっぽいキラキラしたビジネスとか起業家とかが嫌いなのは何故?
    →ロマンを感じねえから。*13
  • 下品なおっさんが嫌いなのは何故?
    →ロマンを感じねえから。*14
  • Twitterに依存を繰り返しつつもなんか嫌いでついにアカウント消しちゃったのは何故?
    →ロマンを感じねえから。*15
  • 登山を始めたのにすぐやめちゃったのは何故?
    →ロマンを感じねえから。*16
  • 能動的に海外旅行したいと思わないのは何故?
    →ロマンを感じねえから。*17

でも、「ロマン」って一体何なんだろう?
今ひとつ答えが出ない。ロマンはロマンとしか言いようがない。
おいらはボイラー、ロマンはロマン。*18

大学の頃、必死で「何か」を探してた。
「何か」を具体的に言うと「依存対象」「救い」、そういったものだった。
でも、一番明確に表現すると「ロマン」だったのだと思う。
もしかするとそれに気付いていれば、行動が変わっていたのかもしれない。

合理性を追いかけながらも、心のどこかでは強く「ロマン」を求めていた。
今も求めている。
この気持ちが満たされる日は来るのだろうか。

皆さんにとっての「ロマン」は、何ですか?
ぜひ教えて下さい。

*1:西湖で再発見されたクニマスの実物を観たときとか鼻血が出るかと思った

*2:なお、僕が高2の頃ついに京大合格の実績が誕生。その先輩は「ウチの高校だと無理だったので予備校に頼ってよかったです!」と予備校にメッセージを寄せ、これには教師陣も苦笑い……で済んだのやらどうなのやら。

*3:あの頃のiPhoneに感じたロマンの大きさはマジで半端なかった

*4:絵の適性は「地道なことが好きなこと」と「(広い意味での)自分の性癖に正直であること」と「自分の感覚的な部分に向き合うことに耐えきれること」の辺りだと筆者は考える。この点、「短気は美徳」とされているプログラマの適性とは対極だというのが筆者の私見である。たまにプログラマイラストレーター、いるけど。

*5:バイク=ロマンと言っても過言じゃない、マジで

*6:伊豆 is ロマンの塊

*7:千石先生が『飼育してみたい夢の生物』として語っていたというミミナシオオトカゲをizooで観たときは鼻血とか変な液体が出るかと思った

*8:独立して得られる「自由」が偽りでも構わないのだ。ロマンとはそういうものだ。

*9:深海探索船の解説とかマジでたまらない。

*10:こんな分かりやすいことはない。司法試験にはロマンがある。ありすぎる。

*11:……さすがにちょっと無理があるか……

*12:「言葉を失うほどに」感動した。ブログでこの形容を使うときは、本当の最上級であるときだけだ。ぜひ体験してみてほしい。特に再現された建物を「歩いた」後に行ける、「みんなの思い出を寄せた空間」の、言葉通りの「エモさ」が、本当に本当に凄まじい

*13:あるいはビジネス好きの人たちの語る「夢」は僕の思う「ロマン」に妙に合致しねえから。

*14:好きな人いないと思うけど、僕の彼らに対するそれは尋常ならざるものがある。まぁ「自分がそうなるかもしれないから」というのも大きいのだけれど。

*15:ロマンの対義語だろあんなのよお!!!!!

*16:最初はロマンを感じた、んだよ……だけど大量にいる登山客、急いで登らないと駐車場とかテントの場所が取れないあの感じにフッと冷めちゃったんだよな……楽しいんだけどさ。

*17:なんかいわゆる「観光」にはロマンを感じないんだよな……好きだけど。

*18:このネタ何歳より上の人にまでなら通じるのだろうか……

ロスト・イン・パラダイス・イン・インターネット

新しく知ったこと、新しく始めたゲーム。
いたく感動した物語。分析結果。
その他諸々。

そういったことを、すぐに他人に伝えたくなる人間だった。
小学生の頃、テストが終わったら科学雑誌(学研とかその辺りが出してたようなやつ)で読んだ内容を裏紙にアウトプットしていた。
先生に褒めてもらいたかったのかもしれない。
親から止められたのでやめた。

そんな奇行ばかりしてた、でも本質的にはずっといじめられっ子だったので、「共有」にはずっと飢えてきた気がする。

そんな僕にとって。

インターネット、Twitterは。
天国だった。
はずだった。

お労しや 俺上

「何だこの醜い姿は……侍の姿か?これが……これが本当に俺の望みだったのか?」
……いや、マジでこれ以上言うことねぇなぁ……

静謐な世界で

つかず離れず、上手くネットを利用すれば良いという人もいるだろう。
僕は弱いから無理だ。
酒を飲めば酒に依存し、エロを見りゃエロに依存し、甘いものを食えば甘いものに依存する。
そんな人間にとってネットは天国であり、地獄でもある。

少し静かに自分の内面に向き合って、正しくいろいろなことを学びたくなった。
それには強い意志が必要だけど、そんなものは僕には無いから、しばらく物理的に遮断する。

何度も何度もこんなことをやっている気がするけれど、ようやく少し何かが掴めてきている。

多分僕は、ミニマリストを自称していたけれど、何もかもを捨てたかったわけではない。ネットへのアウトプットを辞めたかったわけでもない。仕事が嫌で嫌で仕方なかったわけでもない。

ただ、僕にとって、今の世の中は、少々、うるさすぎるのだ。
自分の声も含めて。
きっと多分、それだけなのだ。

静謐な世界で聞こえる自分の声は何なのだろうか?
しばらく無視してきたその声に、改めて耳を傾けてみたいと思う。

低すぎる自己肯定感、分断、退屈、依存

ある病的な懐疑論者の話

魚が好きだった。
今も好きだ。

きっかけは小学3年生だったか4年生の頃、水槽と金魚を買ってもらったことだった。
僕は金魚のことをひたすら勉強した。
金魚のことで知らないことはなかった。
派生して魚のこともひたすら勉強した。
水族館にもひたすら行った。
さかなクンさんをライバルだと思っていた。

ある日、水族館で母が僕に言った。
「本当に魚好きね」と。

僕は思った。
「……本当に好きだっけ?」と。

小学生の頃のことなんかほとんど覚えていない。
だけどこれだけは明確に覚えている。
自分のその感情に驚いたからだろうか。

その後、いつ、どのように、その金魚たちが死んでいったか。
それは全く、覚えていない。

話が変わって、とある女性社長の話

さらに話が変わって、ある本の話

最近読んだこの本に、あまりにも大きな衝撃を受けた。

この本には、僕の人生が全部書いてあったのだ。
まさに窃視されたような感覚に陥った。

特に恐ろしかったのがこの部分。

 たとえば、将来を思い悩む大学生にとって、自分に何ができるか、どんな仕事があるか、そういったことを考えるのは苦しい。しかも何をしていいのか分からない。おそらくそんなとき、「なんとなく退屈だ」という声が響いてくる。それにはとても耐えられない。だから、それよりも大きく鳴り響いている別の声を探す。たとえば、「資格がなければ社会では認めてもらえない」「資格をとっておけば安心だ」という世間の声。この大きく鳴り響いている声に耳を傾けていれば、苦しさから逃れられる。そうして、資格取得の決断を下す。決断してしまえば本当に快適である。資格試験の奴隷であることはこの上なく楽だ。しかも、世間からは「一生懸命頑張っているね」と褒めてもらえる。というか、周囲は褒める以外にない。
 ハイデッガーはそうしたあり方を指して「狂気」と言ったのだった。それは、好きで物事に打ち込むのとは訳が違う。自分の奥底から響いてくる声から逃れるために奴隷になったのだから。

第7章より引用

この引用部分は、序盤で引用されている哲学者: アレンカ・ジュパンチッチのこの指摘と併せて読むと、より明確になる。

例えば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。人々は彼らを、恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。

序章より引用


あまりにも分かってしまった。

思うに、僕は生まれてからずっと「狂気」の世界で生きてきた。
自分の声に従ったのではない。
自分の声をかき消すために、行動してきたのだ。
「退屈だ」
「このままではいけない」
という声を、かき消すために。

そしてもう一つ、分かってきた。
どうもこれは……全く……

万人に理解できる行動原理ではない、らしい。

今までやってきたこと

このブログを読んでくれている人には耳にタコだと思うが、筆者は京都大学を目指し始めた辺りから何やらおかしくなった。

高校に入ったばかりの頃は「漠然とした不安」を抱えながらも、適当な大学に行くと思っていた。将来は生物に関わる仕事に就くんだろうな、と思っていた。

ヒーヒー言いながら宿題をこなしてたら、気付いたら全国模試でも旧帝大を余裕で狙えるレベルになってしまっていた。
そしてコスパ良く成績を稼げる文系に進んだ。
生物に関わる仕事の道は事実上途絶えた。
まぁ、もともとそんな強く思っていたわけじゃないのでどうでも良かった。

それで教師から煽られ、「京大生は卒業式でコスプレをする」という情報を得た僕は、ドラゴン桜に影響されていたこともあり、「残りの人生を楽するために」京都大学を目指すようになる。
独学で唯一入れる可能性があったのが教育学部だったので、教育学にはほぼ興味がなかったが、教育学部を目指すことにした。

部活を3つと生徒会を兼ねながら、睡眠時間は4時間近くで頑張った。

そしたら頭がぶっ壊れた。

ノイローゼを経験した僕は、高3になったが、その頃にはびっくりするほど勉強しなかった。
友人と深夜にゲームセンターとか本屋とかばかり巡っていた。
その友人は、最近自殺した。

そして当然大学に落ち、別の大学に滑り込んだ。
実学は全部クソだと思っていたので他は全部文学部を受けた。
当時、中島義道にクソほど影響を受けていて、哲学を勉強するしか無いと思っていた。

大学は言ったらオタク活動でもするかーと思って漫研に入ったら、「絵を描く人間と絵を描かない人間の派閥争い」に巻き込まれる。
僕は絵がミジンコほども描けない人間だった。
だが絵を描かない派閥とそれに属していることにムカついた僕は漫研を辞め、そのムカつきだけを理由に絵を始める。
そして学部では哲学、それもドイツ哲学を勉強しようとするのだが、内容がより面白かったフランス文学に浮気し、フランス語を勉強し始める。

なお、フランスに全く興味はなかった。
先生が好きだっただけである。

就職は死ぬほど嫌だったので、フランス文学で大学院に行くか、死ぬほど絵を頑張ってイラストレーターになることを考えた。
当時、自分の実力だけで名を売り稼いでいるイラストレーターは僕にとって究極の嫉妬の対象だった。
あまりにも眩しかった。

だが絵の才能……「努力する能力」や「熱意」も含めた才能は自分にはなかったので、フランス文学で大学院に行くことにした。
だが僕と僕の家にはお金がなかった。

ここで僕の過去を説明すると、小2の頃両親が家を買った直後に離婚、つまり2度連続で引っ越しを繰り返し、その後引越し先の祖父母の実家に転がり込み、そこも土地開発の煽りで立ち退き、その後よくわからん引っ越しを経て、5度くらい引っ越している。
引っ越すたびにいじめられた。
今思うと当然だと思う。

話が逸れるが、僕は「いじめられる側にも理由がある」という論調に賛同している。
ただ、「理由はあるが責任はない」という主張をしたい。
いじめる側が一方的に悪い、それは間違いない。
だが、いじめられる側に(いじめる側が本当に目につく全てに噛み付く狂犬みたいな人間であった場合でない限り、ではあるが)「理由」はあるのだ。
「背が低かったから」かもしれない。
「髪色が薄かったから」からかもしれない。
僕自身の理由として、心当たりは多々あるのだが、割愛する。

話を戻す。
大学院に行くためにバイトを気合い入れて大量に入れてみた。

即座に風邪を引いた。
あ、これは無理だ。
そう察したので、就職することにした。

一番学問っぽいことをできる仕事ってことで、ITエンジニアを選んだ。

プログラマの三大美徳と呼ばれる怠惰、短気、傲慢を兼ね備え、なんならそれに加えて色欲や嫉妬も兼ね備えた僕にとってITエンジニアは割と向いていたらしい。
気付いたら独立したりしてそれなりに上手くやっていた。
まぁ独立するということは一社目で完全に上手くいってたわけではないということだが、忘れてほしい。

そして今。
色々あって司法試験合格を目指している。

依存症の話

自分語りに付き合ってくれてありがとう。
なぜこんな話をずっとしたのかと言うと、これだけ色んなことをやってると、色んな人に会う。
だが、何かが違うのだ。

なんというか……
周りの人間は、極論、

こんな感じの人が多いのである。
いや、ここまでは流石に珍しいけれど。
この人をLv100だとすると、Lv30くらいの人は結構いて、自分に近い人でもLv10くらいの中、僕だけLv2くらいで世界を生きている感覚に陥る。何のLvかは後に語る。

彼、彼女らはキラキラするように自分の経験を飾り立てている。……のもあるが、それだけではない、ように思う。
どうも僕とは違う行動原理があるように見えるのだ。

僕はずっと心の中の「退屈」「何かしないと」っていう、うるさいうるさい声に、ずっと疲れて生きてきたように思う。
それこそ小学生の頃から。

それは使命感なんて名のつく綺麗なものではない。
もしそうなら、その声に流されてTwitterを延々眺めたり、YouTubeを延々眺めたり、そんな行動に走るだろうか?
それこそ強迫神経症でも患っているかのように、わずかな時間を見つけてスマホを見てしまう。
そして見る対象は別に大した内容じゃない、まとめサイトだったりする。

だが、見てないと「不安」が襲いかかるのだ。

急に話が飛ぶが、皆さんは某起業家であるホ○○○ンが好きだろうか?
嫌いだろうか?
そしてどちらでも良いが、彼が幸せに見えるだろうか?

なぜこの話をしたかというと、彼があまりにも僕に似ているように見えるのだ。
彼の方が多少……どころではなく、とんでもなく僕より元気だということは間違いないが。

「退屈だ、何かしないと」という、自分の中にある声。
それをかき消すための行動。
行動の中で、行動自体に依存する感覚。

それから、現代で話題になっている「ファスト映画」や「スマホ依存」、あるいは「映画の倍速再生」。
全てが繋がっているように思えてくるのは、僕だけだろうか?
そしてこれらの脈絡のない記述を貫くキーワードはなんなのだろうか?

自己肯定感

結論を言ってしまうと、僕は「自己肯定感」だと思っている。
先程述べた僕だけ異様に低い感覚、というのはこれだ。

自分がやってきたことを認めたい、割と凄いことをやってきた、という気持ちはある。
だが一方で、自分ができること、やってきたことを心から認められない自分がいる。

そして自分より「努力している」「強い思いがある」感じを出しながら、それでいて自分より(特に仕事上必要な)知識が少ない人間を見ると、無性に腹が立つ。
「え、なんで何一つ熱くなってない、やむなく習得すべきだったから習得した僕より、自分では好きとか頑張ってるとか言っているあなたが知らないの?なんで?ねえねえなんで?」
とか、そう思ってしまう。

この話を知人にしたら「自己肯定感の低さが生んだ怪物」呼ばわりされた。
少し気に入っている。

だがそもそも。
「好き」と言うことに、「熱中している」ということに、わざわざ条件をつけたり、疑いを持つのは、どうやら、自己肯定感の低い人間だけらしいのだ。

恐怖感から様々な行動を積み、最低限の成果を得てきた僕にとって、今、世界は宇宙人まみれになってしまった。
「水上さんはなんでもできる」
そう言ってくれる人が何人かいる。
そう言われるたびに、嬉しいけれど、泣きたくなるような気分になる。

まあ、もしかしたら他の人たちも何かを抱えながら、それで頑張って生きているのかもしれない。
けれど今の僕にそれをぶつける……「他の人だって実は辛い思いしながら、それを隠して頑張ってるんだよ」と言うのだけはやめてくれ。
多分吐いちゃう。

ただ、周りと話していて、想像以上に「繋がらない」ことが多く、多分本当に、何か自分はズレているのだと思う。
……もしかしたらそれを望んでいるだけかもしれないが。

分断

自己肯定感の高い、恵まれた経験をした人が、自分の経験ベースに恵まれたことを言って、炎上する。
あるあるすぎてどうでも良いくらいの話ではあるのだが、実を言うと、この炎上は当然であると思う一方、複雑な感情を抱くのだ。

もう一度言う。
僕にとって彼、彼女らは宇宙人なのだ。
多分彼らは少なくとも僕のように、自分の中にあるうるさい声を聞いて行動を続けているわけではない。
そんな人間の気持ちは僕には分からない。
でも、それは、おそらく。
向こうから見てもそうなのだ。

お前にどうせ俺の気持ちは分からない、とそう言うとき、僕も向こうからそう思われているということだ。

この分断は多分、終わらない、終わりようのないものなのだと思っている。

まあ、こういった人たち基準で社会システムが作られるのは本当に勘弁してほしいので、炎上に意義はある。
一方であまり責めないであげてほしい、とも思う。*1
それは僕が責められることと、鏡写しだから。

今やっていること

『暇と退屈の倫理学』にはこう書いてあった。
「何となく暇で、何となく寂しいけど、こんなもんかな……」と思えるようになることが、依存症からの回復である、と。*2

とてもよく分かるので、あまりスマホとか見ないようにしてます。
暇さえあればYouTubeとか流してたけど、……それこそ空白恐怖みたいな感情で、ずっと音を流していたけど、それもやめた。

そもそも、スマホやらYouTubeやらSNSやらの仕組みは「注意を引くことによる経済圏」、アテンション・エコノミーと呼ばれている。
依存症再生産システムである。
クソなのだ。
離れるに限る。

そして「そうか!俺の行動原理は狂気だったんだな!狂気的な司法試験とかやめよう!」ともならず、細々勉強は続けている。
本当に細々。
何か細いけれど、大事な糸であるように思うから。

仕事なんかで嫌なことは、容赦なく嫌と言う。
その結果凄く弱い社会人になってしまった気がする。
周りはなぜ耐えられるのだろう?とたまに……否、しょっちゅう思う。
もっとも、ここまで「狂気」で蓄積してきたスキルで、今は我儘が結構効く。
この我儘もいつまで続けられるか分からないので、「狂気」でカバーし続けるか、「狂気」の治療を待つか、どちらかの道しかない。

気付いたら孤立し始めてきたので、不安だったからこの記事を書いた。
結局のところ、僕の行動原理は「不安」なのだ。*3

さて、僕は承認欲求のためこの記事をネットに放つ。
でもそれで満たされる承認欲求なんて、本当に虚しいものなのだ。

それが分かっているならやめなよ?

分かっちゃいるけど、やめられない。
これを「依存」と呼ぶのである。
そしてそういう言葉を使う人間は、本当の意味では、まだ「分かって」いないのだ。
……いつか、分かる日が来るのだろうか。

*1:と言う割には選定したツイートに悪意があるように見えるが、どれを選んでも恣意性が出てしまうので、現段階で一番RTされているものを選んだ。

*2:付録脚注より

*3:『暇と退屈の倫理学』は付録で別の視点から「退屈」の原点を分析しているのだが、その議論は明らかに「不安」についての議論になっている。退屈と不安は極めて近い概念なのだ。