MistiRoom

旅することと、語ること。自由であること。

真に受けるな!向き合うな!

こんにちは、Mistirです。

お察しの通り、かなり長い間ブログを書くモチベーションが消えていた。
書いてもあまり読まれなくなったから……というのはあるっちゃあるのだけれど、そもそもTwitterでの更新報告もやめちゃったし、もっと言えば書かなくなったから読まれなくなったわけで、これは卵が先か鶏が先かみたいな話だ。

実際のところ、仕事が忙しなかったというのが大きな理由の一つだ。
「忙しい」という表現はあまりしないようにしているが、とにかく「忙しなかった」。
どう違うのか、というとこれは僕の定義なのだが、「忙しい」と言うとどうも物理的に時間が取れないイメージになる。
「忙しない」というのは、なんというか、「ありとあらゆる種類の雑多な出来事が舞い込んできて、思考のリソースを割けない」というようなイメージだ。
ブログを書いていなかった理由は、まさに後者だ。
昔からこのブログを読んでくれていた人は、僕がフリーランスのエンジニアであることを知っている人もいるかもしれないのだけれど、最近ベンチャー企業に就職してしまい、しかもそれなりの立場になってしまったのであった。

それで、しばらく真っ当に仕事を頑張ってきたけれど……
ふと気付いた。

あまり人生やら仕事やら、あるいはブログであるような趣味でさえ……
「真に受け」ちゃダメだな、と。
「向き合う」のは、ダメだな、と。

奇をてらったことを言いたいわけじゃない。
今の世の中、もし「この世の全ての情報と真剣に向き合った」場合、どんな存在が「真っ当な大人」の基準なのか?と考えると自ずと分かる。

多分……
「日々日経新聞から情報を収集し、今後のグローバル社会のために英語など使えて当然、もちろん恋愛も経験しており、プログラミングスキルも習得済み。老後のために2000万円くらい貯金する目処があり、余暇の時間はスキルアップに費やし、コミュニケーション能力も高く、筋骨隆々体脂肪率は12%、でもオンラインサロンとかには入ってないしその代わり日本の歴史問題は熟知している(ただし思想的に偏っているのはダメ)、経済はマルクスからピケティまで完璧。その上で絵が描けたり音楽が作れたりクリエイティブ活動もできてて、承認欲求は自分で満たせて、副収入も日々得ている」みたいな……
「この世のどこにも存在していない化け物」だけが「基準」になっちまうんじゃないか。

有名なニート(今は何してんだろ?)のphaさんも、もうずっと前から言ってたことだけどさ。

しないことリスト

しないことリスト

  • 作者:pha
  • 発売日: 2016/03/04
  • メディア: Kindle版
 

「普通」とか、「こうあるべき」みたいな基準がとんでもねえことになってる。
 
話は変わるけど、少し前、バイクに乗り出したばかりの頃。
その頃、普通の企業の普通の社員だった僕は、閉塞感に耐えかねて色々なところを走っていた。

バイクで走る理由の一つは、「こんなところにも人生がある」ということを認識することだった。東京に住んでいると、ここだけが唯一の人生だと錯覚してしまう。
それが錯覚だときっちり認識するために、バイクに乗っていた。
実際は、「こんなところにも家があるのか!」っていうくらいの山奥にも家はあるし、驚くような場所に人の生活がある。

けれど、気付くとバイクで遠くに行くことも惰性になり、それを忘れてしまっていた。
……否、フリーランスで生きていた頃はそれを別に思い出さなくても良いほどに僕は閉塞感や周囲の押し付ける義務感から逃れられていたのだ。
一方で、また最近「僕が僕に求める基準がとんでもねえことになってるな」と、明確に自認する必要を感じ始めている。
それは周りから求められているのか、それとも自分が自分に求めているだけなのか、どちらかはよく分からないけど。

でも本当に大事なこと以外のあらゆる情報に対し、「右から左へ受け流す」くらいの「強い意志」が必要なのは間違いない気がしている。
「強い意志」っていう強い表現を使ったのは、今の世の中、「情報を集めること」よりも「情報を避けること」の方が圧倒的に難しいからだ。それには強い意志が必要だ。
受け入れることよりも、受け流すことの方が難しい。

さて、「受け流す」とはどういうことか。

例えば、僕が長野の山奥に移住して農業を始めた人間だったとする。
農業人口は減っている。若年層で農業を始めるという行為だけで尊い。そのはずだ。少なくとも僕はそう信じる。
そんな僕に、「これからは英語が必要」とか、「プログラミングスキルが重要」だとか、そういうことを言ってくるやつがいたら、「うるせーバカ」で終わりだ。
「受け流す」っていうのはそういうことだ。

「必要な情報」っていうのは、立ち位置や目標から逆算されるものだ。
「誰にとっても必要な情報」なんてものはこの世にそうそう存在していない。
仮に存在していたら、それはどこかで大体の人は身につけているはずだ。例えば「歯が傷むなら歯医者に行くべきだ」とか。
症状でググってはいけない。

finders.me

けれど、腐るほど毎日湧き上がっている情報に身を委ねすぎると、「誰にとっても必要な情報」が腐るほどあるように感じてしまう。

結論、それは嘘なのである。
いや、本当かもしれないけど、多分だいたいの人にとっては嘘なのである。

誰しもが小学生の頃とか中学生の頃に「こいつ、今後生きていけるのか?」みたいな奴に出会ったと思う。だけどそういうやつほど地元で結婚して適当に真っ当な人生を送っていたりする。
そいつらに英語教材を送りつけてあげる必要は、誰にもないのだ。

情報だけじゃない。
出会う人、出会う物事、出会う仕事、出会う世界。それら全てに真正面から向き合いすぎると、どん詰まりだぜ。最近そう思うのだ。

今日は考えていることを適当に書いただけだ。誰かのためじゃない。
この記事自体、自己矛盾だ。だから読んだらその後、捨ててほしい。


NakamuraEmi「大人の言うことを聞け」Music Video


お読みいただきありがとうございました。
ではまた。

 

ClariS 10周年記念ベストアルバムを語れない

こんにちは、Misitrです。

音楽を聴くとき、どうも自分はメタに考えすぎる傾向がある。自分の出自が文学部ということも理由なのだが、なんというか、一種のクセのようなものだ。

アルバムのどこにどんな曲が配置されているか?
そのアルバム自体どういった意味を持っているか?
最後の曲は何を語るのか?

僕の知る限り、ClariSはそんなメタ戦略が異様に上手いアーティストだった。
そして。

 

www.clarismusic.jp



この2分割10周年記念ベストアルバムで、それは極致に達した。

こんなもん語れるか

何かこのアルバムについて語りたいのだけれど、とても難しい。
あまりにも難しい。
なぜ難しいのか、今回はそれ自体について語りたい。

ClariSというアーティストはSeason 01とSeason 02に分かれていて、Season 01はクララとアリスで2014年まで、Season 02はクララとカレンで2014年以降現在まで活動している。

今回のベストアルバムは2分割になっているが、「Season 01をPinkに」「Season 02をGreenに」という配分ではない。

例えばPinkには3曲目にSeason 02の名曲である『Gravity』を配置していて、この時点でファンとしては「あ、Season 01と02で分けてるわけじゃないんだな」と勘付くわけだ。

PinkとGreenは現メンバーのクララとカレンそれぞれのイメージカラーだ。つまりそれぞれのイメージに近い曲を配分した……
そう解釈するのが妥当に思える。

そう思える……のだけれど、どうも単純にそういうわけではなさそうだ。

というのも、Season 01からずっとメンバーであり続けているクララのイメージカラーのPink側。
こちらにはSeason 01のセルフカバー (というよりメンバーチェンジ後の再録) バージョン、それもこれまでにシングル等に収録されなかったものが、なんと4曲も収録されている。
つまりこれらは実質的に新曲だ。

少し考えてみてほしい。
なぜ、PinkとGreenにこれらの新曲を均等に分配しなかったのか?

その答えはエンディング曲にある。
Pinkのエンディング曲『仮面ジュブナイル』と、Greenのエンディング曲『PRECIOUS』だ。

実際のところ、このベストアルバムについて語るということは……
この2曲について語るということだ。

だが。
……僕には、語れない。


あまりにも重い

僕はClariSについては、これまでに相当語っている。

mistclast.hatenablog.com

 一方で、間違いなく言えるのだが……
僕はClariSオタクとは言えない。

ライブには行ったことがなく、グッズの収集等もしていない。
ただ一人の音楽好きとして、好きだ、と。
そう言える程度なのだ。
(むしろ深入りするのが恐ろしく、距離を置いてすらいる)

これは僕がこれまで聞いてきたアルバムの中で最も恐ろしいメタ戦略を張っていた『SUMMER TRACKS -夏のうた-』および、その恐ろしすぎるエンディング曲『Summer Delay』についても同じように言える。

mistclast.hatenablog.com
『ClariS』というアーティストを贔屓目に見て「このアルバムすげえ!」って言っているわけではない。「このアルバムすげえ!」と、純粋にただ、そう言っているだけなのだ。

もちろんそれを繰り出したClariSというアーティストは凄いわけだけれど。

だが。
『仮面ジュブナイル』『PRECIOUS』について語るためには……多分、それでは足りない。
いや、もちろん語る権利はあるのだ。誰にでもある。僕にもある。

まわりくどくなってしまった。
端的に言おう。

『PRECIOUS』聞いた人ら。
これ、10年近くClariS追いかけてきた人ら、声出して泣いたんじゃねえかな……
いやぁ……だって俺ですら泣いたんだもん……。

冗談抜きにこれ、キリストの復活を目の前にした信者みたいになったと思う。

多分僕がその「凄さ」みたいなのをいくら語っても、「足りねえよ!!!!!」って我右の頬を殴られちゃうと思うんだよ。それなら左の頬を差し出すけどさ。

news.yahoo.co.jp

「-Green Star-」に収録される新曲「PRECIOUS」の歌詞の一説である「特別な今日は みんなと 素顔のままで 逢いたい」というフレーズのように、10周年記念日に配信した特別なライブで仮面を外し、新たなステージへ進むClariSの強い意志が表れていた。 

この記事にあるように、ClariSがこれまでにどのような歩みを進めてきて、どれだけ最高のタイミングで、この曲と素顔をファンに見せてくれたのか、っていうのは、語ろうと思えばいくらでも語れる。

でもいらないだろう、もう。
多分、『PRECIOUS』はあまりにも多くのファンを尊死させたはずだ。我も死ぬ。

『PRECIOUS』は、Season 02の第一期エンディング曲であり、第二期オープニングテーマであり、そして……
ファンの心に刻まれる、ClariSの最高傑作のひとつになる。そう確信した。

多分今後エレファントカシマシにおける『桜の花、舞い上がる道を』とか、サカナクションの『目が明く藍色』とか、そのあたりの位置に収まる曲になる。
……分かりにくい?

要は、タイアップ曲だけ知っている人は知らない可能性もあるけれど、アルバムまで聴き込んでる人が「最高傑作は?」って聞かれたら選びがち、みたいな。

じゃあ『仮面ジュブナイル』は?

一方の「仮面ジュブナイル」はなんなのだろう?と考えると……
実はこの曲はこの曲で「エンディングにしてオープニング曲」なのだと思う。

「Season 01のエンディング曲」ではない。
それは『Orange』だ。

Orange

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  • provided courtesy of iTunes

 
じゃあ何のエンディング曲にしてオープニング曲なのか、というと……

これは僕の考えなのだけれど、「これまでのミステリアスで、正体の掴めない、だけどKAWAIIアーティストであるClariS」としてのエンディング曲で、そして再オープニング曲なのだと思う。

「ClariSのことをよく知っている」。
そんなことを言えるファンが、どれほどいるだろうか?

ClariSというアーティストは、本当によくわからない。
『コネクト』のイメージで聴くと『ひらひら ひらら』でまず右の頬を殴られ、『シニカルサスペンス』で左の頬を殴られ、そして『ヒトリゴト』で慰められることだろう。

正体不明だからこそ、なんでもできる。
全貌が掴めない。
アニソンアーティスト?レトロフィーチャーなアイドル?
そんな、よくわからない存在。

……だが、素顔を露出するようになったというのもあり、だんだん「ミステリアス性」みたいなものは特徴として弱くなってきているのかな、と感じる人も多かったと思う。

素顔を見せてくれるのは嬉しいけれど、なんと言うべきか、正体不明の存在でいてくれてもいい。
そういった厄介なファンもいるわけだ。
この記事の筆者である。

……だが、仮面ジュブナイルを聞けばもう心配も何もない。
ClariSは「仮面をつけたアーティスト」として今後も新しい景色を見せてくれるのだろう。

……で、だ。

結局『Pink』と『Green』ってなんなんだろうね?

まずはPinkから聴いた、というファンはとても多いはずだ。
さっき語ったように、実質新曲がとても多いこと、それから「真の完全新曲」である『PRECIOUS』よりも『仮面ジュブナイル』の方が時系列上発表が先行する曲だからだ。それに、ClariSファンは1曲目が『irony』ってだけで、条件反射的に「こっちから聴くべきだ」と判断するのだ。
そして先程も言ったように3曲目に『Gravity』があることで「ん??」となる。

それはそうと、Pinkのエンディング曲である『仮面ジュブナイル』を聞けば、まずファンは安心する。
「この人ら、絶対に解散する気ないな!!!!」と。
余談だがアニソンアーティストファンは全員「アーティストが急に活動しなくなる」ことを何よりも恐れているのだ。それはClariSのような大御所でも変わらない。

一方で、正直に言おう。

『仮面ジュブナイル』は、ClariSの二人の世界観が前面に出されすぎていて、「分かっているファンのためにリソース全振り」のような曲だ。
どう聞いても一種の「ファンサービス」ソングなのだ。

多少のむず痒さがあった。これが10周年記念ベストアルバムのエンディング曲であることに。

だが。

やられた。

完全にやられた。
もう完璧に殺された。
『PRECIOUS』に。

そして理解した。
『Pink』は、Season 01、02を問わず、「これまでのClariS」に思いを馳せるためのアルバムだ。
そして、『Green』は……「これまでのClariS」を全て知った上で、「これまでのClariS」が決して終わらないことを理解した上で……
「その続き」を歩むための、一歩目のアルバムだ。

「Season 02でのカバー4曲」『仮面ジュブナイル』『PRECIOUS』はたったの合計6曲だけれど、もうこの6曲がこのベストアルバムを、ベストアルバム以上のものにしてしまっている。

話を戻すと、『仮面ジュブナイル』同様、『PRECIOUS』も「ファンサービス」だ。
だが。
もうなんていうか、破壊力が違う。
まず純粋に、あまりにも曲が良い。もうあまりにも曲が良い。
そしてとても曲が良い。
とても曲が良い。

……要は、なんというか『仮面ジュブナイル』を聞いて抱いた不安のようなものが、一瞬にして消えていったのだ。
「うん、分かってる。私は全部、分かってる」
と、そう言われた気がしたのだ。

……誰に!?

僕が信頼するもの

僕は、ClariSのファンを信頼している。
「ソロで歌って欲しい曲」4曲の選出で、『ひらひら ひらら』『recall』『Dreamin'』『泣かないよ』が選別されるような、そんなファンの厚さと熱さを信頼している。
特に『ひらひら ひらら』が選ばれたことには拍手喝采した。
よく分かってるなぁ!!!!!

……何様なんだ貴様は。
そんな批判は甘んじて受けよう。僕はただの限界が近いオッサンで、ClariSのにわかファンだ。今は限界を超えてブログを書いている。しんどい無理。

まあ要するに、そんなにわかファンの僕だが、ClariSが大好きだし、ClariSのファンも大好きなのだ。
ClariSの世界観を構築してきたのは、ファンの存在が非常に大きいだろう。

だが。
その中に、『最上のClariSファン』が存在している。
誰よりもClariSを愛し、誰よりもClariSを理解する存在。

そう。
ClariSのスタッフ、ClariSに楽曲を提供するクリエイターの皆さんそして……
丸山真由子氏(以下敬称略)だ。


好きなアーティストはたくさんいるけれど、ここまで「関係者全員が全力で理解して愛しているアーティスト」となると、ClariS以外思いつかない。
というか僕の好きな他のアーティストは全員自分で曲を作っているパターンばかりだ。

僕の主観を差し引いても、この愛情の深さは異常だと思う。

特に丸山真由子という名前をピンポイントで挙げたのは、少し躊躇ったけれど、どうしても必要だった。
「渡辺翔氏の名前も挙げるべきだろう!」とか、読者としては色々言いたいことはある
と思うが、どうか許して欲しい。

『PRECIOUS』を聞いたときの心の動きを文章にしてみよう。
「……!!!!!これ、丸山さんだよな……丸山……うわあああああああああ丸山さん……ClariS……丸山さん……アリス……丸山さん…………………………………………」
ここで死んだ。完全に死んだ。

いや、こんな気持ちにさせてくれる「アーティスト『集団』」ってClariSだけだと思う。マジで。
一生信頼します。一生ついていきます。

結論

「語れない」というタイトルで5000字になりました。
それが全てです。

夢の続きを 一緒に

ClariS 『PRECIOUS』

お読み頂き、ありがとうございました。
元気ならまたいつか何か書きます。

 

これだけは言いたい

こんにちは、Mistirです。生きてます。
仕事がかなり忙しいというか、色々あって充実してます。
一方そのせいで、いまいちブログが書けなくなった。

その上で、これだけ言いたい。

……ClariS10周年記念ベストアルバムについて語るまでは、ブログやめられねえ……!!!!!!!!!!!


これだけです。ほんとコレだけです。
とりあえず、また。

祖母の話

こんにちは、Mistirです。

前回、「今後はバイク中心に好きなこと書きたい」とか言っといてなんだけど。
近況に絡めて少し話がしたくなってしまった。
忘れた頃に夢に出てくる祖母の話だ。
また夢に出てきた。

祖母の話

僕の家庭環境は少々複雑なので厳密に話すのは難しいのだけれど、高校まで僕は祖父母と同じ家で過ごしていた。
大学受験で半分ノイローゼみたいになっていた僕は祖父とひどく仲違いし、好きだった祖母にも大いに迷惑をかけてしまった。
祖父は知らないうちに鬼籍に入ってしまっていたらしい。
悲しかったけれど、相手の過ちを許し、相手の過ちを責めすぎる自分を省みるにはあの頃の自分は若すぎた。

一方の祖母は、僕が大学の頃に脳梗塞にかかってしまい、会話ができなくなってしまった。
もともと足が悪く歩けなかったところに重ねがけの不幸だった。
大学の頃、老人ホームに預けられていた祖母と一度会ったけれど、僕を見て何かを言いたそうで何も言えない、それだけしか分からなかった。

社会人になってから僕は東京に上京したので、祖母の世話は親に任せきりだった。

一年ほど前、親に無理を言って祖母にまた会わせてもらった。
親はあまり僕を祖母に会わせたくないようだった。僕に気を使っているのかもしれない。僕もなるべく親のことは詮索しないようにしている。

祖母は相変わらずだった。
僕をかろうじて認識しているようで、涙を流した。
僕は、ありがとう、ごめん、ありがとう、と、そんなことしか言えなかった。
ありがとうと言いたくなかったけれど、いつが最期になるのか分からないから、全て言わなければならないと、そんな義務感が僕にそう言わせた。
心からそう思っていたのだ。本当に申し訳なかった。本当に感謝していた。

その後、もともとたまに見ていた、祖母が急に元気に話し始める夢の頻度は上がった。
目が覚めた瞬間、夢だったことに気付く。
どうしようもないのだ。本当に、どうしようもない。

そして今年、コロナがやってきた。
2月頃に友人の結婚式のため地元に帰ったが、当然のように老人ホームは面会謝絶になっていた。

4月、5月、6月。
緊急事態宣言で鬱々とした日々を過ごしながら、祖母の夢を見る機会が増えた。
元気に話している祖母。元気に歩いている祖母。何も疑わず喜ぶ僕。

目を覚まして泣きそうになる。

外出自粛程度で、何が憂鬱だ、何が不自由だ、あの人に比べたら……

そんなことを思いながらも、やはり退屈なものは退屈で、じゃあ祖母のために地元に帰るかと言えば帰らず、僕は僕で適当に生活している。

ただ、やりきれない。
一言で言うなら、やりきれない。
悲しい夢じゃない。嬉しい夢だから、なおさら叩き落されたときの辛さが大きい。

教訓など何もない。
ずっと祖母のことを考えているわけにもいかない。
でも、今の気持ちをどこかに書かないでおくには荷が重すぎる。

少し吐き出したかった。
どうにかするために、じゃない。忘れるために。
自分が救われるために。

……。
次は「前回のアレはなんだったんだ?」ってなるようなこと書こうと思います。
実はバカなので新しいバイクを買い、納車待ちです。
でも感染者数の増大に憂鬱な日々が続いてます。納車されても下手すると乗り回せないなこれ……

ではまた。

原点回帰したい

こんにちは、Mistirです。
お久しぶりです。

何度かバズり、結構たくさんの方に読者登録いただいていたこのブログですが、最近は全く更新もせず、読まれもせず……という状況でした。

なんというか、ブログなんだから書いたら読まれたい。
読まれるためにはSNSで周知したり、「バズる」ことを書いたり、まあ色々手段はある。けれどそこから距離を取りたかった。
じゃあ誰かたった一人、この世のどこかにいるかもしれない誰かのために何かを書けば良い?
……30も手前になるとそういうこと、できなくなるんよね。
否、それは歳を言い訳にしてるだけか。

でも昔みたいなテンションでモノを書けなくなったのは事実だ。
結果的に、何も書けなくなった。
……が。

リニューアル

単刀直入に言って、バイクブログ中心として続けるなら、書く意味あるかなという気がしてきた。
最近、僕の血肉を構成する要素のうちバイクの割合が著しく上がっている。
コロナショックでバイクに乗れず、結果的に濃度が上がっているのかもしれない。

どうせめったに更新しないんだ、何を書こうが自由だろう。
……と、思うんだけれども。
今後ガラッと書くことを変えるのならば、そう言っておくのはなんとなく義務のような気がした。まあ錯覚なんだろうけど。

このブログ、今回で最終回になるかもしれない。
まあその時はその時で許してください。

どうしてこうなった?

……ここまで書いて自己分析すると。
ブログ書けなくなったの……仕事と趣味が割と調子いいからなんだろうな。
仕事は運良くコロナの影響を受けにくい業界だったから、自分のことに集中できている。それなりにやりたいことができている。

このブログを一番頑張ってた頃は、本当に今思うと仕事が最悪の状況だった。最悪の状況の中で何かを探し続けているような、そんな日々だった。

思うに、書くことの原動力になる不満というものは、連鎖的に膨らむものなのだ。
世の中に不満があれば、政治にも不満が出てくる。
政治家に怒るなら。芸能人の不倫も許せなくなる。
芸能人の不倫が許せなくなったら、次はネット上の誰かの発言が腹立たしくなる。

それは不毛だけれど、同時にその不毛さこそを書くエネルギーにできる人はたくさんいる。それは例えば過去の僕だったのだと思う。

今は……怒りがあまりない。
コロナに対する怒りはある。だけどそれは一種の自然災害に対する感情だから、政治に感じる怒りとは性質が違う。

少なくとも、今の僕は「書くこと」に追い詰められていないのだ。
それはまさに「歳をとった」ということなのかもしれない。

それが良いことか、悪いことか。
それは……もう少し歳を重ねないと、判断できない。

少なくとも悪いことじゃないのだろうと、そう思いたいけれど。

一方で

タナトフォビア傾向は明確に強まっている。

mistclast.hatenablog.com

というか、この記事を書いた頃よりホリエモンに近づいている。
仕事やら趣味に没頭することで死を遠ざけようとしている。

この世界に執着したくなっているのだろう、多分。
「結局病んでるやんけ!」と言われてしまいそうだが、これに関しては幼稚園児だった頃からのものなのでどうしようもない。

……とはいえ。
「タナトフォビアライダーのバイク日記」みたいなブログにするつもりはない。癖が強すぎる。

まとめ

なんだかんだ元気です。多分。

お読みいただきありがとうございました。
ではまたどこかで。

 

他人を「許さない」というエンターテイメント

誰かを許さない人がいる。
誰かが失言をすると、その人が謝ったとしても、二度と日の目を見ないまでに追い詰められるべきだ、と「鬼」になる人がいる。

ここのところ僕はそれに触れて、たまらなく陰鬱になる。

そりゃ謝って済まないこともある。
僕も別に親を殺された人に「汝他人を許せ」なんて言わない。
許されてはならない悪もこの世に存在する。

だけど、そんな領域の話をしているわけじゃない。
舌禍なんて最たるもので、少なくとも「許されてはならない悪」という領域の話じゃない。

だけど、そういった領域の話に、「個人の怒り」を通り越して、「集団の怒り」を個人で受け持ってしまう人がいる。
そういった人たちは「大義」があるから、出口の無い怒りを「悪」と評価した相手にぶつけてしまう。

100人が聞いて概ね90人以上が「アウト」と思う発言をした人間に対して、その人が謝っても「許さない」と責め続ける行為は、「責められない」。

だって、「相手が悪い」から。
「誰がどう見ても悪いこと」を、そいつはしたから。

だけどさぁ……
それってもうおかしいと思うんだよ。

責めるなら、許すのもセットだろうと思う。
「許し」、言い換えると出口の存在し得ない責めなんてただの遊びで、もっと言うならただのイジメだ。
「お前が自分の認識する範囲から消えるまで俺はお前を許さない」なんて、それは許しじゃない。
ただの怒りに身を任せた断罪だよ。
もっとはっきり言うなら、エンタメだ。

それが成立する世の中がたまらなく嫌だ。

「これで終わり」「これで打ち止め」が必要だ。
それを想定せず人を断罪するなんて、やっぱり間違ってる。


もちろん、被害者が「鬼」になっても仕方ない事件もこの世にある。
大分県の竹田高校であった事件なんかは、ずっとずっと騒がれて然るべきだ。加害者がまだ断罪も何もされていないから。

www.oita-press.co.jp


でも、何度も言うけどそんな領域の話をしているわけじゃない。
鬼になんてならないほうが良いのだ。
なるべきじゃないのだ。
だけど僕には、進んで鬼になっている人が凄く増えているように見える。

うんざりする。
それを全部スルーできない自分自身にも。

書き殴りです。
ではまた。

 

コロナが連れてきた過去の日々

大学の頃を思い出す。

真面目に授業は受けていたし、成績もそれほど悪くはなかったけれど、熱心に勉強していたとは言い難い日々だった。

社会人になりたくなかった。
厳密に言えば、「普通の」社会人にはなりたくなかった。
贅沢な悩みだと言うのは分かっていたけれど多くの人が通る道だろうし、今でも考え方はそれほど変わっていない。

何か夢中になれるものを探して、ペンタブ買って絵を描いてみたりだとかカードゲームに手を出したりしてみたけれど、どちらも今ひとつモノにはならなかった。
特に絵は変なコンプレックスをこじらせながら中途半端に頑張ってはいたのだけれど、自分の才能の無さには薄々気づいてはいた。

そんな日々の中、ゲームも酒も、全部現実逃避に思えた。
ずっと、うっすら、焦っていた。
「自分は正しくないことをしている」。

大学4年になると単位も足りてしまって、睡眠がだんだん乱れ始めた。
ひどいときには目が覚めると夕方4時だった。
体内時計を戻そうとしても、どうしても戻らない。

そんな僕でも、結局なんだかんだで社会人になった。
社会人一年目の土日は何をやっていたか今ひとつ覚えていない。適当にゲームセンターに行ったり、誰かと飲んだり、そんな日々だったと思う。
焦りは相変わらずだった。

そして焦りを抱えた日々を繰り返したある日。

僕は、バイクに目覚めた。

埼玉に配属され、上京先の大田区から毎日2時間近くかけて通勤していた日々。
仕事帰りになんとなく立ち寄った五反田の書店でバイク雑誌が目に入ったのがきっかけだ。

そこからはあっという間だった。
1年で2万キロ近く走り、2年乗って買い替え、さらに3万キロ走り、また買い替え……

そうして晴れてさえいれば走る、そんな日々を繰り返し、有名なツーリングスポットはだいたい走ってしまった。
ライダーハウス、ゲストハウスも20以上巡っただろうか。どれくらい経験したか、もう覚えていない。
サーキットデビューもしてしまった。

……そして。

なんとなく、飽きてしまっていた。

バイクに根本的に飽きるということはあり得ない。
バイクに飽きたら、バイクに乗りながら考えれば良いのだ。
有名どころを走り尽くしたとしても、バイクに終わりはない。
どこにでも行ける。
知らないゲストハウス、地方の知らない小さな博物館、知らない小さな田舎の料理屋。知り尽くすには一生あっても足りない。

そして去年の冬が過ぎた。
春になったら行きたいところをいくつも決めていた。







そして、ヤツが来る。

 

今に在り、そして過去へ戻る

僕は一般論としての「人の密集したところは避けるべきだ」ということすらわざわざ口に出して言いたくない。
その一般論は極論、「人の密集したところや、人と常に接する職業で稼ぐビジネスモデルに従事している人たちは滅んで当然だ」という論理を内包している。
その上で一般論を言う人たちを悪く言いたいわけじゃない。
「絶対的な正しさがある」と思う人たち、あるいは「正しいことを言っていれば正しい」と無自覚に思う人たちを良く思わない……というかはっきり言って嫌いだというだけだ。

それでも、今構築されつつある倫理を念頭に置くと「バリバリ外出しろ!」とは言いにくいし、実際にそうは一切思わない。

結局、各々が各々の正義に従って行動すべきで、他人から反発を受けるような抑圧の押しつけは無意味だから避けるべきだという、中庸を嫌う人がとても怒りそうな結論に僕は至っている。
だがそれこそが紛れもなく、僕が至った結論なのだ。

その前提の上で、僕は明確に「ツーリングくらいやっても良い」と思っている。
立ち寄るのはコンビニとサービスエリア程度、人が密集している気配を感じたら速やかに去る、……を心がけていれば、事実としてリスクは近所のスーパーに行くより低いだろう。

……ただ、なぁ。
「そういった人の密集を現実的に避けられるのか」という問題は捨てきれないし、それ以前に……

そんなカリッカリの制限のもとで走っても、楽しくないんだよなぁ……

ゲストハウスにも行けない、地方の小さな博物館にも行けない。小さな田舎の料理屋でご飯を食べることもできない。

それなら首都高でも走ってどこにも立ち寄らず帰れば良い。
事故のリスクを別にしてノーリスクどころかゼロリスクだ。

ただ……それはただただ、面倒くさい。

結果として、僕はここまでの考え方を全て抜きにして、ここ最近はツーリングに出かけていない。
というより土日の朝、あまりにも眠くて眠くて、とても朝起きて走ろうという気にならないのだ。

だから土日は昼ごろまで寝て、適当にゲームして、酒飲んで寝てを繰り返している。

結果として……
僕は過去に戻った。
過去の、最も焦っていた、最もどうしようもない日々を、今僕は繰り返している。
そして、そんな日々は。
結果的に、鉤括弧付きの「正しい」日々なのだ。
反吐が出るほどに、正しい。

僕が抜け出したかったその日々は、僕の手元に舞い戻り……
そして今の社会 (いわゆる一般論) によって、肯定される生き方になった。
これはなんだ?
喜べば良いのか?

……まぁ。
そもそも、「正しくない日々」をバイクによって脱したという認識そのものが錯覚だったのかもしれない。
そもそも日々やら人生やらの本質はそこまで変わっていない……

……などと言うと言葉としてはキレイだけど、なぁ。

事実として生き方が変わったというのは間違っていないだろう。
変わった、というか戻った、というか……

結果的に、最近は在宅で仕事、YouTube、ゲーム、YouTubeYouTube麻雀、酒、仕事YouTube、ゲーム、麻雀、酒、YouTubeYouTube仕事YouTube、酒酒YouTubeたまにニコ動みたいな日々だ。
VTuberの雑談流しながらゴリゴリにプログラムを書いている。
それで一切ペースは落ちていないどころか、仕事が退屈じゃなくなった分、むしろ効率的になった。
これに関しては皮肉なことに、唯一この状況で「不幸中の幸い」と言えることだけれど、それ以外に関しては……
割と、どうしようもない。

だが。
そんな日々が、限りなく「正しい」のだ。
気が狂いそうになりながら、同時に……
自分の中で「正しくなかった」日々が「正しい」ものになった感覚を味わっている。

自分の中で「正しい」日々が「正しくない」ものになったこの感覚。
「正しくない」日々が「正しい」ものになったこの感覚。
それは多分戦後を生き抜いた日本人がみんな経験した気持ちなんだろうなぁ、と一種の新鮮さは覚えている。

この日々の後、「正しい」ことと「正しくない」ことは何か、頭が擦り切れるくらい考えた人たちは、絶対に絶対に強くなる。
人として強くなる。
それを成長と言って良いかはわからない。
それでも、確実に強くなる。

「正しい」ことと「正しくない」ことについて馬鹿みたいに考えることは、鉤括弧付きではなく、本当に、正しい。そのはずだ。

決して片方に流れてはならない。
幸いなことに、(そして悲しいことに)、それを考える時間だけはある……

もう少し、過去と現在を身体で味わおう。
やむなく、だけどね。

お読み頂きありがとうございました。ではまた。