Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

高級腕時計と、自尊心と。【SBGA469】

この記事は

mistclast.hatenablog.com

の続きです。
前回の記事は今回の記事の前フリです。

【前回のあらすじ】
638,000円の腕時計をクレカ一括払いで買った水上。
預金残高の運命やいかに。

高級腕時計なんか買って何の意味があるの?

購入してから20日強が過ぎ去った。
さすがに見慣れたものの、結果として微塵も後悔はしておらず、日々満足している。
寝るときや運動するとき、バイクに乗るときなどを除いて常に装着している。

前回の記事で「前の腕時計は針が気に入らなかった」ということを書いていたが、実のところ、より抽象的な目的がふたつほどあった。

ひとつめの理由。
まず、酔狂なお金の使い方をしてみたかった。
バイクのような幾分実用的、趣味を充実させるような要素があるものにお金を使うことはこれまでにもやっていた。
けれど腕時計にここまでの大きなお金を使うのは相当な抵抗があった。
罪悪感すらあった。

腕時計なんて極論、同じ機能が欲しければホームセンターで1000円で買えば良いのだ。
というより僕はチープカシオも好きだ。

mistclast.hatenablog.com


けれど、そもそも良いプロダクトを買うということに罪悪感を抱く必要なんか全く無いはずだ。
それに「頑張る理由」みたいなものが欲しかった、というのもある。
これは漫画家のヒロユキが腕時計にハマった理由にも近い。

 そこで思った。
「お金が貯まったことで無理して仕事をする理由がなくなってしまったなら、お金を使って、それでどんな面白いことが起こるのかを試してみればいいのでは。その手始めに腕時計を買ってみるのはアリだ。それで楽しければ、もっとお金を稼ぐために次の連載をやる気になるかもしれない」と。

第1章「腕時計との出会い」より

↑の本は腕時計好きとして読んでいてとても面白かったし、親近感を抱いた。
金銭感覚を除いて。

 そしてさらに悪いことに僕の時計ライフにおいて、この頃は本当に序章としか言いようがなかった。本数的にも、金額的にも。
 まだ「たったの1300万円」しか使っていない。

第2章「ロレックスを買おう」より

い、イカれてやがる……!

まあこの人と比べると64万円の腕時計くらい安いもんだ、と思ってしまったという気持ちが無いわけではなかった。僕も狂わされてしまたったのかもしれない……
そもそもこの人、本格的に腕時計にハマる前に既に60万円のオメガ持ってたらしいし、その基準からいけば僕はまだ腕時計の沼の入口にすら立っていないということになる……

まあとにかく。
何かしら頑張る理由として、酔狂なお金の使い方をしてみても良いかなと思った次第だ。

そしてもうひとつ。
これはタイトルの「自尊心」の話とも通ずる。

僕は。
「この最高にカッコいい、狂気すら感じるこだわりにまみれた腕時計を身に着ける自分自身」を手に入れたかった。
そして、そんな自己認識自体が、僕自身を何かしら引き上げてくれることに期待したのだ。

元々僕はApple Watchを持っていた。
アレはとても便利だ。
音楽の操作もできるし、ジョギングにも使えるし、財布にもなる。
色々なデザインから選べる。
便利さだけで言えば最上級だ。

だが、なぜそんなApple Watchを使わなくなったのか?

プロダクトとして面白くなかったからだ。
そして、面白くないプロダクトを身に着けたくなかった。
針が安っぽい、それだけでその腕時計を身に着けたくなくなったように。
何かしら気持ちの上で妥協するのが嫌だった。

話が変わるが、僕はZ900RSというバイクに乗っている。

www.kawasaki-motors.comZという伝説のバイクの名を冠したバイクだ。
僕はZ900RSを手に入れたとき、Z900RSと、もう一つ……ある意味、Z900RS以上に重大なものを手に入れた。
「Zに乗っている自分自身」だ。
Z900RSを手に入れたそのときから、僕は「Zに乗る男」に「成った」わけだ。

分かっている。
これはバカバカしい自己満足だ。
努力して地位を手に入れたわけでもなく、筋骨隆々の肉体を手に入れたわけでもない。
身も蓋もないが、金、それもローンで買っただけだ。
それだけなのだ。

だけど、それでも。
僕が「Zに乗るライダー」に成ったことには変わりがないのだ。
それは動かしがたい事実。

Apple Watchも似たような話。
僕は腕時計が好きだった。
高校の頃、制服やファッションには厳しくても、腕時計についてはとやかく言われなかったので調子に乗ってドン・キホーテでいろいろな腕時計を買っていた。
腕時計はその頃から僕と密接に関わるものだった。
そんな腕時計が好きな僕が、常に、便利なだけで面白いとは思わないプロダクトを身に着ける……

それは嫌だった。*1

だからこそ自分にとって妥協がないモノが欲しかった。
ロレックスあたりと見比べても、僕はSBGA469のデザインの方が好みだった。*2
そこまで考えて買ったわけだから、後悔があるわけがなかった。
購入したときから、僕は「グランドセイコーという狂気のプロダクトを常に身に着ける自分」を手に入れたのだ。
そしてドン底の自分自身が変わることに期待したのだ。

その結果は……?

「まぁ、多少は変わったんじゃねーの」という感じである。

せっかく格好良い時計だし負けないように身体も磨こう、パリッとした服を着よう、みたいな気持ちにはなるし、「こいつを2本3本買ってもなんら懐が痛まないくらい仕事頑張ろう」という気持ちも、まあちょっとは生まれた。
正直自分のアイデンティティになるくらい一本を使い込みたいので複数集めたい欲求はないのだけれど。*3

たとえ嫌なことがあっても左腕には高級時計がある。
大丈夫、俺はやれる。

……。
金持ち、もっと悪く言えば成金が高級腕時計や高級車を誇るのはどうかと思っていたけれど。
仕事も、人間関係も、人生ってのは基本的にままならない。
腕時計を買い替えるようには手軽に変えられないものだし、手軽に変えて解決!……というものでもない。特に人間関係は。

高級な腕時計や高級車を買って、少しでも自分が何かしら変わったような……もっと言うなら自尊心が上がったような気持ちになるなら、少しでも慰められるなら、たとえそれが錯覚だとしても安いもんなんだと思う。
……いや、僕にとって64万はクソ高いけど。
世の社長にとってはそんなもん安い、って人も多々いるだろう。
実際のところ群雄割拠の高級時計の中じゃ安い方だ。
リシャール・ミルやらと比べたりし始めたらキリが無いが……

そうやって「良いモノ」に囲まれながら、自分自身を無理矢理変えていくっていうこと自体は実際よくある話なんだろう。
まぁビル・ゲイツが激安腕時計してたり、そんなもん必要ないって人もいっぱいいるだろうけど。
……酒に頼るように、モノに、モノを得た自分に酔おうとすることも、決して悪いことではないはずだ。
お金で自尊心に栄養を与えられるなら、そのお金は無駄じゃない。
と思う。
だって、何度も言うけど……
世の中ってのは、人生ってのはままならないものだから。

高級腕時計の効能についてはさっき挙げたタイトルの長い本に詳しいので、そちらも興味があればお読み頂きたい。

そんなこんなで一切後悔せず今に至る。
ただ、少し重かったので革バンドに交換した。
快適だ。

SBGA469自体のレビューはほぼ書かなかった。
その内容に期待していた人には申し訳ないから一言だけ記載すると……

……最高です。
あとは動画で観てくれ。
……。
仕方ないじゃないか、この腕時計普通にカメラで撮るとただの紺の腕時計にしか見えないんだもん。
写真でカッコよく撮るのが難しいタイプの腕時計ではあります。

www.youtube.com

……。
一応、頑張って文字盤が映えるように撮ってみた。模様がわかりやすいよう明るさは上げてます。

あぁ^~心がぴょんぴょんするんじゃぁ^~

【余談】
YouTubeで腕時計のこと調べてると、この邪悪な動画がたまに引っかかるんだよね。

www.youtube.com

僕の主張と似て非なる、それでいて相当邪悪なことを言っているのだが、コメント欄のやり取りも含めて面白すぎるのでたまに見てしまう。

一応今更ながら念のため言っておくと、僕の主張は明確にこの人とは異なる。
「酔う」ためのモノは高額なモノ、資産価値があるモノである必要はない。
自分にとって価値があって、心から好きだと言えて、こいつなら自分を変えてくれると、そう思えるモノなら何でも良い。
チープカシオでも良い。本質を追求する自分自身の在り方が好きだから、1000円の質実剛健な腕時計を常に着用する。そんなスタンスも良いじゃないか。

……当たり前の話なので言うまでもないとは思うのだが、まぁ念のため……
↑の動画みたいな人もいることだし。
世界は広い。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた。

*1:なお、Apple Watchでカッコいいデザインの文字盤を探したりもしたが、どれも少しずつ僕の好みからはズレていた。強いて言えばクロノグラフ文字盤は比較的良かったが……

*2:ロレックスの方が資産性が上なので、ロレックスのデザインのほうが好きならばロレックスを買うと良いと思う。

*3:とか言いながらいろいろGショックを集めてしまったことは忘れて欲しい。

とても高い腕時計を買った

以前、Gショックの沼に落ちた。

mistclast.hatenablog.com

だが。
このとき、もう既に。
既に腕時計の沼に落ちていたのだ。

より深い沼へ

Gショックの沼に落ちた僕は次に、軽くて薄いアナログ式のソーラー電波時計が欲しくなった。
Gショックで「1秒たりとも狂わない時計」の魅力に気付き、それでいてラバー式のGショックのように軽い腕時計が欲しくなったのだ。

良いデザインのものを探してみたら、10万円程度で良い時計を見つけた。
これまでに買ったGショックで最も高いものでも7万円程度だったので、非常に悩んだ。
だが生き物大好き系の友人がたくさん高額な爬虫類を買ったりしているのに感化され、勢いで買ってしまった。

さて。
もう、この先の展開が読めてしまっただろうか?

そう。
10万円は、高い。
確かに、高い。

だが、タイトルの「とても高い腕時計」ではない。

結論として、その時計は悪くないものだった。
想定通り、軽く、薄く、狂わず、電池交換も不要で、格好良い。
何の不満があるだろうか。

……残念ながら、あったのだ。
不満が。

針である。
針が安っぽかったのである。

針の質感がどうしても全体の質感に見合っていなかったのだ。
その腕時計の特定を避けるため、ここでは詳細をあまり語らないでおきたい。
今回の本題はその腕時計の批判ではない。

そのときに知ったのだが、そもそも一般的な電波ソーラー時計などのクオーツ式の場合、質感を伴う重い針を動かすのは技術的に困難らしい。
実際、同価格帯の腕時計を色々見てみたが、僕が望む「針の質感」を満たすものは存在しなかった。*1
そして僕は10万円を使った直後だというのに、理想の腕時計を探し始めた。

探した結果、見つけてしまった。

www.grand-seiko.com

グランドセイコー SBGA469「勝色」である。
お値段、638000円

僕はグランドセイコーという腕時計を「誰があんな地味な腕時計に大金払うねん」と思っていた。
もともとクロノグラフのような機械感のある腕時計が好きだった。
だが。
針の質感、という点にフォーカスして腕時計を選んでみると……
グランドセイコー以上に美しい針の時計は無かった。

否、針だけではない。
今なら分かる。
昔はただの地味な腕時計に見えた「それ」が、どれだけハイレベルなプロダクトなのかということを。

文字盤を見て欲しい。
黒にすら見える、濃紺。
武士が演技を担ぐために用いた色で、通称を「勝色」。
岩壁をイメージした立体感のある盤面が、その「勝色」で染められている。

僕は青の腕時計が好きだ。
疲れているときも、腕時計を眺めているとモヤモヤしたものを吸い込んでくれる気がするから。

スプリングドライブという機械式でもクオーツ式でもない第三の駆動方式を採用していて、機械式のように電池不要で動きながら、クオーツ式のように狂わないらしい。
そういった技術にも惚れてしまう。

www.youtube.com



念のため家電量販店でグランドセイコーの実物を見てみた。
……美しい。
美しすぎる。

プロダクトとしての完成度が、違う。

あー、これはダメですわ。
こいつに魅了される人の気持ちがよく分かった。
この時点で「薄くて軽くて狂わない時計」のようなカタログスペック的な物欲、言い換えると大義名分は消え去っていた。
そこにあったのはひたすらに純粋な物欲である。

……うん、決めた。
何年か経ったら買おう。

……

1ヶ月後。
僕は選択を迫られていた。
プライベートで色々あり、自尊心がダメになっていた。
そんな僕に悪魔が囁いた。
「高い腕時計を身に着けたら、自尊心も上がるかもよ?」

悪魔の戯言だとは分かっている。
そう、これは物欲に体の良い理由がついてしまっただけなのだ。
悪魔は囁く。
「勝色だよ?勝てるよ?」

僕は悪魔に負けた。
雑魚である。

さて、買うと決めてしまったからには買い方が問題である。
このSBGA469「勝色」、まさかのオンライン限定商品だ。
なので先程述べた実際に見た実機も、厳密には別の製品である。

それにしても。
嘘だろお前。
638000円、オンライン限定。
……嘘だろお前。
高級腕時計の世界、どうなってんだよ。
そもそも60万円付近でこの腕時計「コスパが良い」とか言われてんだよ。嘘だろ。原付き2台以上買えるぞ。

せめて、せめて分割払いを……

ふっざけんな馬鹿。
2回払いくらいさせろよ。
そりゃ後から分割で3回払いにできるけどさぁ。
利息高いんだよな……

中古美品を無金利ローンで買うという手もあった。
だが、グランドセイコーは正規ルートで買えば購入者限定のオーナーズクラブに入れるのだ。

www.gs9club.jp

修理履歴なんかもここで管理してくれるらしい。
マジでふざけんなよお前……

あああああああ……!!!!






やっちまったわ……!!!
一括払いじゃ……!!!

どうなっちゃうの私!?

なお、この記事はセイコー関連のアフィリエイトは一切含まれておりません。
なので上記グランドセイコーのサイトから何か買ったとしても僕には1円も入らないので、安心して638000円払ってください。

そして余談ですが、SBGA469「勝色」とSBGA211「雪白」はだいぶ悩みました。
雪白の方が軽いし。
けど最後の決め手はやっぱり濃紺に惹かれたことです。

www.grand-seiko.com


お読み頂きありがとうございました。
後編に続きます。
そっちが本編です。
この記事は前フリです。

mistclast.hatenablog.com

*1:厳密にはknotの機械式がかなり良かった。だが、どう頑張っても後述するSBGA469の代替品にしかならないな、と思い購入には踏み切らなかった。

自分に酔うこと、世界に酔うこと

自分に酔っていた。
昔のことだ。

3つ兼部して、生徒会長やりながら、学力は学年トップで、京都大学を目指している。
そんな自分に酔っていた。
具体的にはライトノベルやら色々読みながら、俺って主人公みてえだなぁと思っていた。
むしろ、これからにせよ……
「主人公になるんだ」と思っていた。

痛々しい過去、と切って捨てるべきだろうか。
でもあの頃、自分に酔って酔ってクラクラしながら前に前に進んだ結果として今がある。
それは間違いない。

そして今

酔えなくなった。
自分に。世界に。
というか、今自分に酔えるやつなんているのだろうか?
さっと調べただけで世の中、同い年やら下の世代で「すげーやつ」ばかり出てくる。

入試すらないN高は大量の東大生を排出しているらしい。

note.com

なんだなんだ。
京都大学目指したくらいで酔っていた自分がバカみたいじゃないか。
しかもウチの高校からだと独学せず目指せるのが教育学部だけだったから教育学部にした、その上で落ちたっていうオマケ付きだぞ。

「自分に酔う」なんてそんなことしなくても、今楽しめていたら良い、楽しいこと、夢中になれることをやれば良い、という人もいるかもしれない。
違うんだよ。
僕みたいな人間はさ、自分を一歩引いて眺めて、そこでスゲー、おもしれー、って認められないと楽しくないんだよ。
夢中になることと自分に酔うことが不可分というか。
夢中になっていたとしても「自分」という「他者」を客観視しているというか。

例外は酒、セックス、美味い飯。
それ以外はずーっとぼーっと自分をどこかメタに眺めている感じがある。

他人と比較しないこと

他人の凄さに気付いて、相対的に自分がしょぼく見えるから自分に酔えなくなった。
解決方法は極めて単純で「他人と比較しない」ことだ。

単純だ。
……不可能だけれど。

考えてもみてほしい。
自己すらも他者呼ばわりするレベルでメタに見ようとする人間が「他者と自己を比較しない」なんて、ほぼ不可能だ。
不可能に向かって走ってもロクなことにならないことくらい知っている。
だからといって、積極的に他人と自分を比較してたらそれこそ地獄へ一直線だ。
袋小路だ。

……今の若い子はどうなんだろうか。
こんな袋小路に入って絶望してんのかな。
袋小路の先には冷笑しかない。
あるいは、冷笑の果てに袋小路に入るのか。

積極的に酔うこと

袋小路から抜ける方法はあるのか。

分からないけど……
無理してひねり出すとすると……例えば。

無理してカッコつけること。
無理して粋であろうとすること。
無理して楽しむこと。
バカでいること。
無謀であること。
それでいて、ヤケにならないこと。

……そうやって、偽装した「酔い」に身を浸しまくるしかない。

……もしかすると、あるいは。
僕が「自分に酔えていた」と思っているあの頃も……
そんな「偽装した酔い」の真っ只中だったのかもしれない。
そんなド幸せってわけでもなかったしなぁ。

楽しむことも、夢中になることも、生きることも、自分に酔うことも、全て技術だ。
なんとなく自然にやってる人がいるけど、その人も適正があったやら努力したやらでそういった技術を手に入れた、ってことだろう。

自分に酔えないと幸せになれない僕らは。
自分に酔う技術を身につける他無いのだろう。

そして世界に酔いながら、酔って酔って、頭がボヤケたまま死ぬしかない。
明晰な精神のまま死ぬのは辛いからな。
自分に酔うことそれ自体に酔って、酔って酔って突っ走る。
そういったことができれば。
僕は強くなれたと、そう言えるのだろう。

ま、酒でも飲むかぁ。
アナタもちょっと飲みなよ。
少しは世界に酔えるかもよ。

虫が殺せない。生きにくい。

虫が殺せない。
いや、理由があればギリギリ殺せる。
例えば夜、寝室で蚊が飛んでいたら、無心でキンチョールを撒き散らしたりはできる。
積極的に自分を加害してくる虫を殺す、それはまあ仕方ないと納得できる。

以前、とある水族館の屋外の池で溺れかけている毛虫を見かけた。
池は柵で覆われており、近づけなかったのでどうしようもなかったが、毛虫はとても苦しそうだった。
助けることもできず、助けないこともできず、動けなくなってしまった。
結局どうしようもなかったのでそのまま帰った。
その日一日落ち込んだ。

別の日。
でかいゴキブリが家に出てきた。
僕は蜘蛛は触れるが、どうしてもゴキブリが苦手だ。
理屈ではゴキブリはそこまでばっちぃものではない、加害してくるものではないと分かっているのだが、苦手なものは苦手である。せめて脚に鋭い毛が生えていなければまだマシだったのに。
仕方ないので頑張ってスプレーや洗剤で駆除した。
ゴキブリは苦しそうに死んだ。
その日、そして次の日半日程度落ち込んで何もできなくなった。

別の日。
池で溺れかけているアブのような虫を見つけた。
苦しそうだったので助けた。
俺は何をしているのだろうと思った。

今日。
2023年11月11日。
家の共用部分、足元の壁にアゲハチョウの5齢幼虫がいた。
蛹になる直前にも見えた。
今年の11月は9月のように暑かったが、今日急激に寒くなって、虫もおそらく混乱していたことだろうと思う。

ここで蛹になってしまうと、掃除担当の人に洗い流されてしまう可能性が高いという位置だった。
なんとか移動できないか、と僕はマンションの共用部分に這いつくばりながらそいつを動かそうとした。
だがガッチリと壁に張り付いていて、取れる気がしない。
しかもなんか糸を出してるようにも見える。
これはやっぱり、越冬のために蛹になる直前では?
だとすると触れるべきではない。
けれど放置していても殺されてしまう可能性が高い……
何度か動かそうとしたが、無理だと悟り、なすがままに任せることにした。
もしかすると、このタイミングで動かそうとしたことでとどめを刺してしまったかもしれない。
3時間ほどへこんだ。

【追記】
3日後、蛹になってた……
生き物ってすげぇ……
【追記ここまで】

……。

……生きにくい。
生きにくすぎる。

たまに生物系YouTuberを観るが、よく躊躇いなく生き物を殺せるなぁと思うことがある。もちろん彼らも無益な殺生はしないのだが、ここまで書いた僕のような行動をする人間とは精神構造が根本的に違う気がする。
いや、というより生物系YouTuberのほうがまだ一般的感性で、僕のほうが特殊なのだろう。

僕も映像越しなら「もうちょっとスマートに殺してあげられないのかな」と思うことくらいはあっても、あまりかわいそうだなぁとか思ったり、へこんだりすることはない。
けれど、自分が直接的に「死」に関わるのがどうも苦手で仕方ない。

刑法の勉強をしていてよく思う。
虫の生死ですら心が揺らぐのに、人の生死に直接関わる人はどのような精神性で生きているのだろうか、と。
冤罪の可能性が極めて高いと言われている袴田さんの事件は、検察側が再審有罪立証をする方針らしい。つまり、「なんとしても死刑判決を出したい = 袴田さんを殺したい」ということだ。
なんのために?メンツのために、か。
あるいはプライドのために、か。
一体、どんな精神性なのだろう。

世の中にはそんな精神性の「人間」……つまり、メンツやらプライドやら惰性のために「人」を殺せる人間がいるわけで。
彼らに比べりゃ、そりゃ僕なんか生きにくいだろうなぁ、と思う。
そして彼らが羨ましく……いや、ならないな。
ただただ理解に苦しむ。
あるいは彼らは彼らで苦しんでいるのだろうか。
組織の軋轢に押しつぶされそうになりながら、誰か……他者を殺そうとしているのだろうか。
想像する他無い。

ああ、生きやすくなりたい。強くなりたい。
もう少し鈍感になったほうが良いのか。
しんどいなぁ。

あゝ、躁鬱

しばらく仏教がマイブームだった。

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飽きた。

いや、厳密には飽きてはいない。
けれどプライベートのトラブルだとか色々重なり、ちょっとした鬱状態に陥り、頭からブッダは離れていってしまったのである。
そもそも僕は仏教思想を面白いとは思ったが、修行僧でもなんでもない。ましてや悟りを開いたわけではない。
ブッダが離れて行ってしまうのも必然だ。

ということでここしばらくただの虚無虚無の実の虚無人間になっていた。
筆者は司法試験(予備試験)にチャレンジしていたが、ここ半年は勉強をやめてはいない、けれど勉強してるともいえないといった微妙な距離感をキープしていた。
間違いなく言えるのが、このままではあと10年経ったところで合格はしないだろうな、ということだった。

そんな中、本屋でこんな本を見つけた。

読むとあまりにも自分のことが書いてあって、一気に二周読んでしまった。
心当たりしかなかった。

筆者は双極性障害、いわゆる躁鬱病の診断を受けたわけではないのだが、少なくともその傾向があると自覚はしている。
高校の頃3つ兼部して生徒会長やりながら4時間睡眠で大学受験に挑んでノイローゼになったあたりからその傾向は自覚していた。
ガーッとやる。そしてガーッと何もできなくなる。

社会人になってバイクにハマったときには、バイクで長距離を走ることだけが幸せだと思い込んでいた。お盆休みに3500km走ったこともある。
思えば司法試験なんざ始めたのも躁の産物だったのだろう。

ここのところは逆に「何もできない」時期が続いていた。
現実のトラブルだとか、逆にやや単調さが続いている仕事と変わらない日々に精神がすり減っていたらしい。
職場(フルリモート)の環境はとても良い。
それどころかフリーランスなのでフルタイムで働いてすらいない。
にも関わらず、精神は摩耗していく。

『躁鬱大学』の内容は全部引用したいところなのだが、それはただの転載なので、ごく一部引用したい。

躁鬱人にとって重要なのは「なにをやるのか」ではありません。そうではなく「どれだけ多彩か」ってことだけです。

『躁鬱大学』p.85

「『この道一筋』は身に合いません」
 もうこれは頭に入りましたね。浅く広く行きていきましょう。浅く広く生きていることに自信を持ちましょう。

同上 p.183

思えば、ここ1-2年は生活を狭く狭くしていた。人と会うことも減らし、SNSもやめて内に内にこもっていた。
いわば自己充足できる人間を目指していた。

だから『こづかい万歳』などという自己充足した人まみれの漫画などにハマっていたのかもしれない。

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『躁鬱大学』を読んで色々と悟ってしまった。
この道一筋、自分自身で何かを見つけるなんてことは自分には無理なんだろうなぁ、と。

思えば仕事が上手く行っていた……というより、勢い任せでなんとか頑張れていた頃は、積極的に他人に振り回されていた気がする。
自由主義者で個人主義者だから他者に抑圧されるのは大嫌いなのだが、他人に頼られたり思わぬチャンスを与えてもらうことが嫌いというわけではなく、交流会やら飲み会やらに積極的に参加していた。

ここのところ、あまりそういったことに意味を感じられなくなり、人との交流が著しく減っていた。
そして先述した通り、SNSには色々失望してアカウントを削除していた。

さて。
急に話が変わるが、先日、久々にキャンプに行った。
SNS……具体的には旧TwitterことXのメインアカウントは削除したのだが、厳密には連絡用のアカウント(フォロワー、フォローともに1人)が残っていたため、たまにトレンドを見たり、このブログの反応を見るために残していた。
このブログもしょっちゅう更新していた頃に比べると反応が随分減ってしまった。それともXの仕様変更のせいだろうか?……いや、単純にこれだけ更新頻度が減ってXもやめたのだから当然だろう、自業自得だ。

それでもたまに見ると、過去の記事に反応を頂けていたりする。
よく反応を頂いているのがこの記事だ。

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久々にキャンプ場で読み返してみた。
そしたらすっげぇ泣いてしまった。
30代がボロ泣きである。
自分の文章でボロボロに泣いてしまった。

どこに消えたんだ。
この情熱は、どこに消えたんだ!?
どこにあったんだ!?

今の自分が抜け殻のようになってしまっていることが、本当に悲しくて悲しくて、どうしようもなくなってしまった。
……まあそれでも、キャンプに行くくらいの元気はギリギリあったわけだし、今も情熱は形を変えて残っているのかもしれない。
それでも、何か自分の根本的な変化を感じざるを得ず、キャンプ場で涙が止まらなかった。
なお平日でキャンプ場は空いていたし、声を出さないように泣いていたので、あまり他のキャンパーに迷惑はかけていないはずである。念のため。

しかし……
情熱というか、何かしら喪失した熱のようなものを取り戻すためには、今の腑抜けた自分には少し時間がかかりそうだ。
内に内に向かってもダメなことは重々理解した。
もう他者に頼るしか無い無力感を覚えている。
誰か僕を救ってくれないか。

SNSをやり直してみようか。
でもTwitterはもう死んじゃったしな……たまにしかログインしないけれど十分わかる。イーロン買収前、「Twitterなんてスラムだよ」と思ってた。今はもうスラム通り越して地獄じゃないか。


まぁ……
躁鬱大学履修生として、無価値なことを色々やってみるしかないか。

気分屋が基本気質ですから、「気分屋的生き方をすると気分が安定する」という法則を大切にしましょう。コツはまずくだらない事を遊び半分でやることです。価値の無い事、無駄なことから始めましょう。そうすれば中途で止めてもがっくり来ません。価値あることをしてしまうと、しんどくなった時に途中でやめられなくなるから、損です。逆に無駄なことをどんどんやるのは、治療に役立つから無駄ではありません。気ままに散歩するとか、買わなくても良いから百円ショップに行ってみる、とかを薦めます。多様な刺激を脳に送り込む事になるから、それが躁鬱病の人の脳に良いのです。昼休みにB級グルメを食べに行きましょう。自分の気持ちが動いたものにフッと手を出す、これが大事です。通勤のコースを変えてみる、途中で道草してコーヒーを飲む、とかをしてみましょう。コーヒーの入れ方とかデザートの作り方とか、そういうことの薀蓄が増えるだけでプラスです。「この道一筋」というのは躁鬱病の人には似合いません。フアン・ファンと生きて、日々目先を変えるのがよろしい。多彩で幾分賑やかな時を送るようにしてください。生活を万華鏡のようにしてください。平穏と充実は両立します。

 

『躁鬱大学』サブテキストである『神田橋語録』より

https://hatakoshi-mhc.jp/kandabasi_goroku.pdf


さて。
余談だが、ChatGPTくんにも少し聞いてみた。



……。
賢いなぁ。

ではまた。(強引な締め方)

ゴリゴリの無神論者が「仏推し」になった理由

釈迦パねぇ。
これは最近の僕の偽らぬ心境である。

最近ゴリゴリと仏教を勉強している。
どうしてこうなったのかを語ろうと思う。
統一教会問題で宗教のイメージが底を割るこの世の中、このような話をするのは抵抗があるのだが、一度文章化しておいたほうが良いと思った次第である。

僕は仏教徒でもなく、信者でもない。
あと、相変わらず無神論者である。
だから強いて言うなら「仏推し」が一番表現として正しい。
なぜ僕は仏を推すのか。
語りたい。

僕の世界観について

僕は無神論者である。
どういうことか。

僕は世界を「作用の総体」であると考えている。
例えば、石を持って、頭の高さから落とす。
重力に従って石は落ちる。
床が柔らかければ傷つくかもしれないし、石は割れるかもしれない。

落下という作用があり、床の破損という作用がある。
その前に石の存在という作用もある。

世界は結局、そういった作用の総体でできているに過ぎないし、そういった作用の根源を辿ると「何もない」というのが僕の世界観だ。

例えばそういった作用を神、あるいは何らかの知的な存在が作ったとする。
フライング・スパゲッティ・モンスターでも良い。

www.village-v.co.jp


だとすると、弱肉強食の作用も、戦争も全て神が作ったことになる。
生まれてすぐに殺される弱い生き物も全て。
人に戯れで殺される生き物も全て。
なんでそんな残酷な世界を作るのか?
それに、「創造神」たる知的な存在は誰が作ったのか?

いや、別に世界の「作用」を「神が作った」のなら、それはそれで構わないのだ。
だが、それを人間が認知できるわけはないし、考えるだけ意味がない。
考えても絶対に分からないことは存在しないのと同じだ。
つまるところ、僕はゴリゴリの不可知論者でもある。

世界は作用でできている、と仮定するならば人間も当然そうであるべきだ。
人間はナントカのために生きている、みたいな考え方は極めて不合理だ。
いや、別に本人がそれで良いなら良い。
キャプテン翼が「俺はサッカーのために生きてる!」って言ったって全然構わない。
けれど例えば「あなたは誰かを愛するために生まれてきた」とか「愛されるために生まれてきた」そういう系のやつ。
冷静に考えて「そんなわけあるか?」って思わないですか?
僕はそう思う。

この考え方はニヒリスティックで、かつ悲観的だと思う。
でも僕と同じ考え方の人、多いんじゃないですか?

まあ僕と同じ考えの人はどれくらいいるかなんて置いといて、「神はいない、信じる宗教はない」人はたくさんいるのを前提としましょう。
まして「『ありがとう』を集める」とか、三流宗教じみたことを言いながら従業員を過労死させた経営者なんかは100倍信用できないと考えてる人はもっとたくさんいるのを前提としましょう。

そんな我々はどう生きるか。

大宗教時代

さて。
世はまさに大宗教時代である。
いきなり何を言ってるのか、と思われたかもしれない。
日本人は基本的に無宗教だし、科学と医療のおかげで宗教の役割は終わりつつある。

……そんな世の中で何が起こったか?
「自分の生きる指針は自己責任で決めろ教」の誕生である。
これに尽きる。
「自分の生きる指針は自己責任で決めろ教」には色々な宗派がある。

「YouTuber宗」
「オンラインサロン宗」
「ビジネス書宗」
「投資でFIRE宗」
「VTuber宗」
「アイドル宗」
「酒宗」
「仕事宗」
「結婚宗」
「金宗」
「健康宗」
「筋トレ宗」
「IT宗」
「慈善活動宗」
「出世宗」
「セミリタイア宗」
「ゲーム宗」
「与党を批判宗」
「野党を批判宗」
「オリーブオイル宗」
「味噌宗」
「BL宗」
「シュークリームのシュー宗」
「ザコシがシュー宗」

……なんでもいいんです。なんでもありだから。

まあ、確かにそれで10個くらいの宗派に属しといて、上手く生きていくっていうのがだいたいの人の生き方だと思うし、それは決して悪いことじゃない。
けれど宗派を見つけるのは自分で頑張る必要があるし、しかもその宗派は別に「人が生きやすくする」ために存在するものではないから、その宗派に属して生きやすくなるかは全くわからない。

むしろ属してしまったが故に明確に不幸にしかならない宗派もある。
「薬物宗」とか。

そして上手くどこかの宗派に属せない人は、マジで絶望しか無いのが今の世の中だと思う。
上手くどこかの宗派に属せても、あまり幸せを感じられないって人は結構多いんじゃないか。

現代病の正体

で、今は情報だけは無駄に多い(情報宗)から、結果として「あの宗が良い、この宗が良い、この宗に属してる人は幸せ!」みたいな情報はアホみたいに入ってくる。
寓話のような話だが、国民がみんな幸せで有名だったブータンは、情報に触れすぎた結果みんな不幸になったらしい。

agora-web.jpなぜ不幸になったのか。
周りとの比較が発生したからだ。

ずっと周りと比較して、ずっと数多の情報に触れて、あれがいい、これがいいとブレブレ。
集中力は落ちていく。
そう。
現代人の心は常にざわついている。

だから
「キャンプ宗」
「ミニマリスト宗」
「マインドフルネス宗」
「サウナ宗」
あたりの「心を落ち着かせることで幸せになろう」的なコンテンツが途方もなくブームになってるのは、至極真っ当で当然の成り行きだ。

で、気付いた。
「全部仏教で言われてることやんけ」と。

勉強すればするほど気づく。
「すげぇ!ウィトゲンシュタインが言ってること、釈迦がもうほぼ言ってる!*1
「すげぇ!ドーパミン異常状態(依存症)の抑止方法は全部仏教で説明されてる!」
みたいな。
気付いたら「推し」になってたわけである。

仏教の良いところ

まずそもそも、最初に気づかれた人がいるかもしれないが、僕の世界観が最初っから仏教的世界観だ。
一応仏教にもかなり形而上学的な要素が含まれるが、基本的に「仏以外は誰もわからんから気にせんでOK」という感じのようだ。
それにベースが世の中のペシミスティックでニヒリスティックなところを受け入れた前提で、「じゃーどーやって現実的に生きましょうかね」とあくまでプラクティカルに考えているように感じる。

例えば「四苦八苦」は仏教用語だ。
生老病死に愛別離苦(愛する人との離別)、怨憎会苦(恨み妬み嫉みによる苦しみ)、求不得苦(欲しい物が手に入らない苦しみ)、五蘊盛苦(心身が思い通りにならない苦しみ)、と現実的に分類した上で「一切皆苦」、つまり生きてるとなーんも思い通りにならん、と結論づけている。
現実的だが、現実的過ぎんかという気すらする。

で、そんな苦しい世の中をどう生きるか。
とりあえず、釈迦*2はそんな世界で「解脱」したわけである。

仏教で言うところの「解脱(涅槃、ニルヴァーナ)」とは、輪廻転生の輪から抜けたことを言う。
輪廻転生は「何度も生きられてラッキー」ではなく、「苦しみが永久に続く輪」という位置づけのようだ。
これは多分当時の人々にとって人生は今よりさらに苦しく、さらに楽しみが少ないものだったことに由来するのだろう。

で、輪廻転生などと言うと急に宗教チックと言うか形而上学的だが、これに関してスリランカ上座仏教長老のスマナサーラなんかは「どうでもいい」と断言している。ここ笑うところである。

とにかく、生きている間は、「殺さない、盗まない、邪な行為をしない、嘘を言わない、無駄話をしない、粗悪語を話さない、噂話をしない、余計な欲、余計な怒りを管理して、客観的に物事をみることを守りなさい」と言ったのです。そして、「すべての生命に慈しみを育ててみなさい」と。そうすると、死後がないとしても、この世の中を立派に生きてきたあなたの勝ちです、となるのです。幸福三昧です。では、死後があったとしても、同じくあなたの勝ちです。死後があったら立派に生きてきたこの人は当然よい死後のはずでしょ?


『仏教は宗教ではない』「輪廻転生を考えるのは時間の無駄」より

なんというか、プラグマティックである。
実際聞き手のイケダハヤトもそう指摘している。

「ニルヴァーナ」はバンド名として有名だが、これは意味合い的には「無風」を指す。

「涅槃」は、サンスクリット語「ニルヴァーナ」の音写漢訳語です。これが何を意味するのかややこしい議論がありますが、すなおに「風が吹き(ヴァーナ)息む(ニル)こと」「無風状態」でよいと思います。不安なとき、苦しいとき、私たちは「胸がざわざわする」とか「心が揺れる」と表現します。風が吹くと樹や草がざわざわさわぐことからの連想で、おそらく万国共通の感覚です。

『わかる仏教史』角川ソフィア文庫 1章

釈迦が解脱したのは輪廻転生の輪から抜け、その叡智を他者に教えるため……か、あるいはもっと大きな何かがあったのかもなのだが、今我々は別に輪廻転生を信じる必要も抜けたがる必要もないし、そもそも解脱なんか仏教に全てを捧げなければ無理なので、考えるだけムダである。

ただ心がざわつくのが無くなって、生きる指針ができて、元気に生きられるならそれでOKなのだ。

で、釈迦から言わせれば「そんなの余裕だぜ」ってことなのだ。多分。
なんせ釈迦はこの世唯一の「目覚めた人」なのだから。
……まあ本当に言ったかどうかは知らんけど。

要するに?

結局なんで「仏推し」になったのかといえば、「それが楽だから」である。
あと単純に勉強してて結構おもろい。

ミニマリズムやら筋トレ、マインドフルネスやらの目的が「心のざわめきを抑えること」なら、サクッと仏教の方を勉強したほうが早い。
っていうか、部屋の掃除も筋トレも「修行の一環」と捉えてしまえば、副産物でキレイな部屋も筋肉も手に入るのである。
合理的……美しい。(笑)

僕は「人生には意味がない」と思っているけど、仏教を勉強して最近は「じゃあちょっとでもマシに死ぬためにちょっとでもマシな人間になろう」とは思っている。

筋トレやってると、「なんでこんなことやってんだろう。ムダじゃね?」としょっちゅう思う。
どーせ死ぬんだから酒飲んで死のうよ、と。
こんなつらいことばっかやるの、ただのマゾヒズムじゃん、と。
けれど「ちょっとはマシな人間になるため」と思えばなんかそれなりに頑張れる。気がする。

あと、浄土宗や浄土真宗の「念仏を唱えさえすれば良い」「極楽に行ける」なんかはいかにも形而上学的で、抵抗があった。
僕はスマナサーラをよく引用しているように上座部仏教の世界から入ったから尚更だった。
けれど少し勉強してみると「これはこれで合理的では……?」と思うようになった。

念仏を唱えてる間は他のことを考えられないのである。

「浄土真宗は結局『本願ぼこり』(=念仏唱えるだけで救われるなら悪いことめっちゃやったろう、っていう考え方)にどう向き合ったんだろう?」という疑問が出て、調べてみたくなり『歎異抄』を以下の記事で読んだのだが……
浄土真宗の真意は「自分ではどーしよーもない」ということに気づくことにあるようだ。

sanjobetsuin.or.jp

長くなるので解釈は省略するが、「心のざわめきを(念仏によって)抑えて、自分の力、人間の力で何かがどうにかできるという傲慢な妄想を捨てる」という発想と解釈すると、極めて合理的に思えてきた。

他の宗教ではダメ?

そのように現代科学に適合させて解釈することで形而上学的な曖昧さが排除されて、生きる指針になることが仏教の良さだと考えるなら、他の宗教でも良いのではないかと思われるかもしれない。
もっともな疑問だ。

だが、キリスト教の「人間は原罪を背負っている」という発想を形而上学的発想抜きで考えるのはちょっと無理矢理過ぎる。
それにいかにも苛烈で、僕の肌には合わない。
神道は人生の指針、っていう感じではないし、そもそも死を遠ざける「穢れ」の考え方がいまひとつ僕には合わない。まあ神社行くの好きだけどね。
一休宗純が正月に骸骨をつけた杖を持って歩き回った話とか、「穢れ」思想の対極のように思えて大好きだ。

以下の書籍に詳しいが、仏教は改良がなされまくって、日本の神道やら儒教やらとも混ざって、混沌とした状態になっている。
言い換えると自分の好みに合わせてカスタマイズできる。
これは僕の不遜な発想ではなく、現職の僧侶が言っていることだ。

第一、やや原理主義的な上座部仏教と日本でカスタマイズされた浄土真宗なんかでは方向性があまりに違いすぎる。
ただ「ざわついた心を落ち着ける」という点においては全然違いはなく、そして……
どんなお寺でも、行ったらそれなりに落ち着く。
これが本当に副産物なんだけど、「寺参りが楽しくなる」という趣味も生まれる。
寺でちょっと眼を閉じるだけでも、日々の諍いから離れられる気がする。
良いことづくめなのである。

そんなこんなで僕は今後も仏教を在家で推して参る。
推して参る……参拝?

最後に

知り合いには「僕が『この壺を買っただけで幸せになれる』とか『これをしなければ地獄に落ちる』とか言い出したら殴ってでも止めてくれ」と伝えている。
これは非常に大事である。
スマナサーラが良い基準を立ててくれている。

イケダ 危険な宗教の見分け方はありますか?

スマナサーラ 我々は「神様だ」とか話し始めたらそれでアウトでしょうに。

イケダ
 わかりやすい!(笑)。

スマナサーラ
 それ以上判断する必要はないでしょう。

 

『仏教は宗教ではない』「神様だと言い始めたら終わり」より

余談だが、スマナサーラの語り口は極めてざっくりしていて、それでいて端的で飾りがなくわかりやすい。
これは『学問のすゝめ』の福沢諭吉によく似ていて、とても好感が持てる。

……福沢諭吉に「好感が持てる」とか正しい感情なのだろうか?


あと、『セックス依存症になりました』という作品にこんな場面がある。

この作品では「押し付け先」はキリスト教だが、圧倒的に仏、厳密に言えば阿弥陀仏の方が押し付けやすいと思う。
日本では教会より寺の方がアクセスしやすいし。

あと、神社とか寺とか、「形而上学的なものを経て人間を救おうとした」……つまり、神社で言えば「神社を経由して神にアクセスすることで人を救おうとした」と思ってたんだけど、今は発想がちょっと変わって、「神社とか寺とか、その存在そのものが、形而上学的なものを抜きにして人を『治癒』しているんだ」と解釈するようになった。
この辺は厳密に語ろうとすると結構しんどいのでまたの機会に。

さて、夜も遅くなってしまった。
僕は仏教徒ではないので酒を飲んで寝ることとする。
*3

*1:さすがに分析哲学の文脈ではないけど

*2:「釈尊」と言ったほうがガチっぽくなるがガチっぽくなりすぎるので「釈迦」で統一する。本当は「釈迦」は一族の名前なのであまり正しい呼び名ではない。

*3:そもそも酒飲んじゃダメ、は日本ではあまり適用されてないとかなんとか……

生きる意味が見つからない人へ、あるいは死ぬことが怖すぎる人へ

あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃんだよ

映画『ソナチネ』より

この記事では、

  1. 生きる意味が見つからなくて苦しい人
  2. 死ぬことが怖くて怖くて逆に死にそうな人
  3. 両方の人

に対し、様々な側面から、なるべく客観的に解決策を提示したい。

「生きる意味がないなら死ぬのなんて怖くないんじゃないの?」と思った人、あなたは健全だ。
いや、健全は言いすぎたかもしれない。
実際生きる意味が分からなすぎて死んでしまった人もいるのだから。
けれど、おそらく、「生きる意味が分からなすぎて死んでしまった人」ですら、死が怖くなかったわけではないと思う。
むしろ逆なのではないか。
生きる意味が分からないことと、死ぬことが怖いことは、十分両立するし、しかもそれどころか、双方が双方を強化する関係にある。
だからこそ、片方を解決することは片方を解決することに繋がる。

半信半疑で良い。多々脱線もする。それでも必要なことだけ書くつもりだ。
気軽に読んで欲しい。

筆者について、あるいは死ぬのが怖いということについて

筆者は軽度のタナトフォビアだ。
「軽度」は自己診断で、もしかすると重度なのかもしれない。というか軽度か重度かの境目なんか知らない。
まぁとにかく、日常生活は送れているレベルだ。

……いや、実は微妙なラインなのかもしれない。
楽しい飲み会の場で、トイレに行ったとき、ふと自分が死にゆく存在だって気付いて、過呼吸に似た症状が出て、落ち着くまで随分時間がかかったことがある。
寝る前に似た発作が出たこともある。
以下の感覚は非常によく分かる。

ここでいう「フィルター」が、割と頻繁に外れる。
この感覚が無い人が分からない。
それで考えて考えて、昔こんなことを書いた。

mistclast.hatenablog.com

このときは対症療法的なところにしかたどり着いていなかった。
今回はもう少し先までたどり着いたつもりだ。

生きる意味について

さて、少し話を変えて生きる意味について語りたい。
急に話が変わるようだが、最終的にはひとつのところに収束するので、気長に読んで欲しい。

最近こんな動画を観た。

www.youtube.com

この動画は興味深い内容なんだけど、詳細は省くとして、こんなことを言っていた。

人生に目的や意味がないと感じるなら次の質問に答えてください
"何のために生きてる?"
"何のためなら死ねる?"
この質問に答えられないと存在意義を見失います
(上記動画 5:50付近)

おそらくこの学者は、非常に優秀な人なんだろう。
非常に優秀だからこそ、基本的なことが分かっていない。

冷静に考えてみて欲しい。
「人生に目的や意味がないと感じる」人が、「何のために生きてる?」か考えて、答えが出るはずがあるか?
翻訳の問題なのかもしれないけれど、あまりにひどい。
一応原文も確認したけれど、「人生」は客観的意味で、「何のために生きてる?」はおそらく「自分が」という主観的意味なのだと思われる。
いや、だとしても、だ。

「私は客観的に『人生』には意味がないと思いますが、『私の人生』にはこういう『ミッション』があって生きる意味があると思います」ってなる人。
そんな人、いないことはないにせよ、そんないるか?
少なくともここまで読んでくれてる人だったら、ため息しか出ないんじゃないか。
そんなの考えてると頭がおかしくなるわ。

学者先生よ、あなたは「運動したいんですができなくて困ってるんです」って人に「なぜ運動できないのか考えてください」って言うのか?
……いやこれは言う人いそうだな。例えが悪い。

とにかく。
あくまで個人の考えだが、「人生に意味がないと思う」人は「私は何のために生きてるのか」なんて分からないと思う。
もちろんなんらかの宗教的体験や大きな体験を経て、自分の人生に意味を見出す人もいるだろう。その人のことを悪く言う気はない。
でも、それは基本的に自発的に見つけられるものではない。

まして、「何のためなら死ねるか?」
笑わせんじゃないよ。
タナトフォビアがそれに答えるとしたら「死なないためなら死ねる」としか答えられませんわ。

ということで、私は一生幸せになれないことが確定しました。
ゲームオーバーです!
みなさんも僕と一緒に不幸になろうね!









では終わらないのでご安心ください。

大「生きる意味」時代

「生きる意味」が問われるようになって久しい。
宮崎駿『君たちはどう生きるか』はとても良い映画だった。
モチーフ(原作ではない)である吉野源三郎『君たちはどう生きるか』も読んだ。

共産主義思想家による啓蒙書って感じだった。
後半の「どうやって自らの罪を認めて生きていくか」に関してはあまり嫌いじゃないんだけど、個人的にちょっとキツイなと思ったのがここ。

英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬が出来るのは、人類の進歩に役立った人だけだ。そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打のあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ。

岩波文庫『君たちはどう生きるか』p.192

いやぁ……
キツい。
これはナポレオンという偉人について語ったものだけど、全体的にこの論調なのである。
じゃあ、人類に功績を残せなければ「真に値打ちのある」人生じゃないんですかね?
色々な事情でいわゆる「貢献」ができない人もいるわけで。

もちろん、「いやいや、普通に仕事して生きてたらそれで『社会』に貢献してるわけだから、それで十分なんだよ」とか、「自分のできる範囲で『貢献』するのが大事なんだよ、現に何かできることがあるだろう」とか。
色々なことをイマジナリー吉野さんだとか、色々な「善人」が言ってる声が聞こえるんだけど、なんかモヤモヤするんだよな。

そりゃあもちろん僕だって善人じゃないにせよ悪人じゃない(多分)し、居酒屋で大声で自分がいかに成功したかをひたすら自慢して、セクハラもパワハラも誇りに思ってるような「下品なオッサン」が大嫌いだから、これまで人類が発明した様々なものに乗っかりながら「でも俺には関係ねーし」と言って死んでいくことが真っ当な態度だとは思わない。
それでも「人生の意味は『社会』とか『人類』に貢献することです」って言われると「ウッ」ってなっちゃうのだ。
逆らいたくなるほどに。

それに今は「貢献」概念や枠が本当に広くて、目立つものは本当によく目立つ。
YouTubeを開いてみるといい。社会に「貢献」しまくっている人らがたくさん観られる。今すぐ。5秒後に。

僕は大学の頃フランスの思想家ジョルジュ・バタイユの小説を専門に研究していたのだが、何度も何度も何度も何度も読み返した一節がある。
この小説で主人公は情緒不安定を極端にこじらせ、ストリップバー(あるいはそれに近い、いかがわしいバー)に入って、ふらふらになりながらこんなことを思うのだ。

こんな滑稽な状況のうちにあって、不安定な椅子の上でなんとか平衡を保っている私の存在は、人の形をとった不幸そのものであった。これに対して、光に満ち満ちているフロアの上の踊り子たちは、近づきがたい幸福の象徴であった。

伊藤守男訳『空の青み』河出書房 p.68

この濃厚な自嘲、自虐、そして極端な認知。
他人の書いた小説とは思えなかったのだ。
それは僕に限ったことではないと思う。

食われて死ぬ

またまた話が変わるが、最近地元の兵庫に帰省した。
帰省すると必ず姫路市立水族館に行く。
山の上にある珍しい水族館で、それでいて極めて良い水族館だ。
入館料も520円と衝撃的に安い。
もう何度も何度も行っている。

大量のイワシやらサメやらエイが泳ぐ水槽を眺めていた。

www.youtube.com

この水槽だ。
僕が見たときはこんなふうに「狩り」はしてなかった(というか、おそらくこれは色々な状況が重なって起こったことと思われる)。

が、一匹のイワシがサメかエイに攻撃されたのか、痙攣して沈んでいくのを見た。
もう明らかに今際の際だった。

次第にそのイワシにアジが群がってきた。
延々とつつかれている。
されるがままのイワシは明らかに惨めだった。
かわいそうだからさっさとエイに食べられた方がマシだなと思い、最期の時を見届けようと思った。

ほどなくイワシは沈み、エイが「バクッ」と食べていった。
跡形もなくなった。

イワシは「バ」の時点では生きていて、「クッ」の時点で死んだのだろうか。
そんなことを考えた。

そして僕はうっすら、こんなことを思う。
「人間は生きる意味がある」とか、「人生には意味がある」とか、傲慢過ぎる、と。
吐き気がするくらい傲慢だ。

彼(哀れなイワシ)は、エイに食われるために生きたのだろうか?
もちろん食物連鎖をひとつの宗教的事象として解釈するならそれは間違っていないだろう。
でもそれを正当化するなら、宇宙人が人間を虐殺に来た際にそれを正当化する必要がある。

彼は僕に看取られるために生きたのだろうか?
んなわけない。
そんなの僕が困る。

彼は一生懸命生きただけなのだ。
それを忘れてはならないのだと思う。

1つ目。「生きる意味が見つからなくて苦しい人」に対する答え。
それはもう明らかだ。
大丈夫、そんなもん最初から無い。

……さて、ここまで読んで頂いて、「ああ、仏教的な話ね。そういうのいいから」と思われた方がいるかもしれない。
半分は当たっている。
だが、残り半分は絶対に当たっていない。断言できる。

なぜなら。
この記事は、確かに半分は仏教の話をするつもりだ。

だが、残り半分は脳内物質の話をするつもりなのだから。

「生きる意味」の傲慢さ

「生きる意味」についてもう少し、別の例で語ろう。
やっぱり僕は、これは傲慢だと思うのだ。

昔、学校でアマゴ(川魚)のつかみ取りイベントに参加したことがある。
捕まえた魚は、生きたまま喉から串刺しにされて、生きたまま焼かれた。

せめてちゃんと殺してあげてよ、と思った。
もちろん僕は無理で、別の人が代わりにやってくれた。
その人は僕を情けないと思ったかもしれない。

でも「苦痛なく一撃で殺す方法」をそのとき教えて貰えてたなら、僕はそれをやったと思う。なんでそんな、よりにもよって、一番惨い方法で殺すのか。

YouTubeで生き物系YouTuberの動画を観てみるといい。
料理の動画でもいい。
簡単に、ごく簡単に生き物が死ぬところが観られる。
別にそれ自体は悪いことだとは言わない。

けれど、そんな世界で……
「人間の生きる意味は社会に貢献することです」って何なの?何様?人間様?
っていうのは凄く思う。

別に「人間内部」の話をする中で他の生き物は引き合いに出す必要はない、という考え方もあるだろう。
実際正論だと思う。

けれど、どーーーーーーしてもピンと来ないのである。
やっぱり釈迦の言う「生きる意味はない。生きるのは苦」っていう発想の方が、よっぽどマシ、大マシだと思う。

その上で、僕は「人間は他の生物に申し訳ないと思え!みんな不幸になれ!」と思ってるかというと、そうではない。
むしろ「幸福になる義務がある」と思っている。

それを語るためのヒントは、スリランカ上座仏教長老アルボムッレ・スマナサーラの議論が参考になる。

生きる意味は無いが、幸福になれ

実はここまで書いたことは大半、スマナサーラとイケダハヤトの対談本、『仏教は宗教ではない』に書いてある。*1

スマナサーラによると仏教は神を否定するわ、拝んでも意味はないと言うわ、天国があるとか地獄があるとか不確定なことは言わないわ、宗教という定義には当てはまらないと言う。釈迦ですら「師匠のようなもの」だと。
どこまで鵜呑みにして良いかは分からないが、読んでいると一理あるかもとは思わされる。

その上で「殺生と生きる意味」という章があり、その章の内容を別ルートから記したのがここまでの内容である。
引用しよう。

スマナサーラ 肉は物質ですから、肉を食べることが罪じゃないんです。命を奪うことが問題なんです。と言っても、命を奪わないと、肉を食べることはできないでしょう。この矛盾を見てほしいのです。究極的に何が言いたいかと言うと「生きることにはどんな意味があるのか」ということなんです。「そこまでやってあなたは、何のために生きているのですか」ということです。

イケダ なるほど、究極的な問いですね。

スマナサーラ 答えは「生きることには何の意味もない」なんです。

イケダ すごいですね。仏教ではそこまで断言してしまうんですね(笑)。

スマナサーラ ただ生まれただけです。「迷惑をかけても生き続けたい」と思っているだけなんです。100年長生きしたら、100年間悪いことしているだけ。他の生命に100年間迷惑をかけたでしょう。「長生きはありがたい」とか「健康でありがたい」とか人間は言いますけど、他の生命からすれば、全然ありがたくないんです。

イケダ あはは(笑)。人間が生きれば生きるほど、実際他者の命を奪うわけですからね。

スマナサーラ 逆に、「短命でありがたい」とか「病弱でありがたい」とかもないのです。死にたくないし、苦しいから。だから生きることには全く意味がないのです。

(中略)

スマナサーラ 食べるためなら殺生は構わない、という理屈は成り立たないのですよ。これは、どこに問題があるのかというと、「生きることに価値がある、意味がある」という人間の錯覚に問題があるのです。「生きることに価値がある」と言えれば、自分で殺したものを食べるべきか、殺されたものを食べるべきか答えられますけどね。我々は、ただやむを得ず食べているだけなのです。なぜそれを「やむを得ず食べています」というところに持ってこないのですかね。

イケダ なるほど。

スマナサーラ 食べなければ苦しいし、死にたくもない。生き物を食べるということは、残酷な食物連鎖でもある。だからと言っても食べなければ生きていけないしね。「やむを得ず食べています」という場合は、きちんと食べる量も管理するし、自然を破壊していないし、身体に悪影響も与えていない。「これを食べると健康にいいから」「これを食べると綺麗になる」とか、そういう恐ろしい世界も消えちゃいます。ほとんどの問題が解決するでしょ? だから根本的に土台が間違っていますね。「生きることに価値がある、意味がある」ということにね。生きることは尊くないのです。

イケダ なるほど。尊くないのですね。

スマナサーラ ということで、答えは「スーパーで買ってください」です。

イケダ (笑)。仕方ないですものね。

スマナサーラ たとえば、ふだん100g3000円で売っている牛肉が、特売で1000円で売られている。それを買うことは悪いですかね。高価な牛肉が半額の値段に下がっている、では今日は焼き肉にしましょうか。そんな程度でいいのですよ。

イケダ そんな程度でいいんですね。

スマナサーラ 「あなたはそれ以上どうすることもできないのに、そんなこと考えて何になるのですか?」ということです。理論は合っていますよ。自分が牛肉を食べるのだから、牛は殺されています。しかし、私が牛肉を食べることをやめたとしても、牛は一頭も助かりません。半額にしてでも売られてしまいますからね。日本人みんなが牛肉を止めましょうとなったら、日本の牛は守られます。これって現実的にあり得ない話でしょう。

イケダ まさに、あり得ないです。そこを目指すというのは変な話ですね。

スマナサーラ だから、実行できないことを考えるべきではないですね。時間の無駄です。それより、何か食べてまともな人間になりなさいと(笑)。もし、食べられた牛が幽霊になって現れても、「あっ! こいつはいい人間だ。人を助けるし、親切だ。食べられてよかった。自分が生きていても歳とって死ぬだけだったのだから」と思わせるような人間になったらどうですかね。

イケダ 余計なことを考えている暇があったら、頑張っていい人間になりなさいと。

スマナサーラ 人間に管理できないことはたくさんありますからね。地震を止めることはできないし、津波を止めることもできない。歳をとることも止めることはできないですしね。それに足を引っ張られて苦しんでも、人生勿体無いでしょうに。いつでも有意義なことを考えなさいということです。

『仏教は宗教ではない』「殺生と生きる意味」より引用

長い引用になってしまったが、どうしても上手く削れるところがなかった。
ここには大事なことがあまりにもあまりにも詰まっている。*2
ハーバード大教授には是非何度も読んで頂きたい。

さて。「生きる意味」についての議論は一段落した。
……わけではないのだ、実は。
それに、残り半分の「死ぬことが怖すぎる人へ」の議論は全くやっていない。

どこかのウェスタンな雰囲気の人が僕にこう言っているイメージが見える。
「ヘイヘイそこの兄ちゃんよ、アンタまさか『生きるのには意味がないから死ぬのが怖いなんて無意味』なんて言うつもりじゃねーだろな。それなら俺も銃を抜くのを躊躇わないぜ」と。
まあ落ち着いてくれよ。
僕はそんな机上の空論言わない。

生きることに意味はない。それは分かった。
けれど死ぬのは怖い、当たり前じゃないか。
酒もセックスも、大事な人も、大事な思い出も全部全部プツッと消えて、もう残らない。恐怖ですらも。
そんな恐ろしいこと、あるか?

さて、ここからは「生きる意味はない」ことを前提に、「それでもどうやって生きていくか」と、「死ぬのが怖い人への処方箋」について考えていきたい。
実は、僕の思考としてはここまでが後半で、ここから語ることの方が先にあったのだ。

君たちはどう生きるか

「人生の意味は『社会』とか『人類』に貢献することです」って言われると「ウッ」ってなっちゃうのだ。

某ブログにて

じゃあどうすりゃいいのよ。
スマナサーラはこう答える。

それに足を引っ張られて苦しんでも、人生勿体無いでしょうに。いつでも有意義なことを考えなさいということです。

(上記引用より)

結局こういうことなのだ。
けれど、「アレっ?」と思わないだろうか。

「人生は無意味なら、じゃあ好き勝手に生きたほうが良いのでは?」と。

そりゃ、死刑になっちゃ困るから嫌いな人を殺すわけにはいかない。
ぶん殴るわけにもいかない。
けれど、仕事してないときはずーっとYouTubeダラダラ観て、ポテチ食って、エロ動画観て、酒飲んで、テキトーに死んじゃうのが一番良いんじゃないか?
それで何が悪いんだ?

スマナサーラは「輪廻転生を考えるのは時間の無駄」と言った上で、こう言う。

とにかく、生きている間は、「殺さない、盗まない、邪な行為をしない、嘘を言わない、無駄話をしない、粗悪語を話さない、噂話をしない、余計な欲、余計な怒りを管理して、客観的に物事をみることを守りなさい」と言ったのです。そして、「すべての生命に慈しみを育ててみなさい」と。そうすると、死後がないとしても、この世の中を立派に生きてきたあなたの勝ちです、となるのです。幸福三昧です。では、死後があったとしても、同じくあなたの勝ちです。死後があったら立派に生きてきたこの人は当然よい死後のはずでしょ?

『仏教は宗教ではない』「輪廻転生を考えるのは時間の無駄」より

まさにその通り、と言いたくなる一方、分からないこともある。
なんで「噂話をしない」など、倫理的なあれこれが必要なのか?と。
その方が良い生き方?うーん、確かに分かる気もするけど、なんだかなぁ。
立派になるのが良い生き方?うん?それって……「人生の意味は『社会』とか『人類』に貢献することです」に戻ってない?

そんな疑問に、現代科学の観点からバシッと答えを出そう。
なぜ、ずーっとYouTubeダラダラ観て、ポテチ食って、エロ動画観て、酒飲んで、テキトーに死んじゃったらダメなのか?

それは不幸だからだ。

……いやいや、何も「節制して人格形成云々」と言いたいわけじゃない。
つまり、だ。
「苦痛を避けてぬるい幸福を追い求めてると、苦痛に敏感になって、不幸になる」んですよ。

YouTube、ポテチ、エロ動画、酒。
これらに共通するものは何か?

依存しやすい、ということだ。
依存しやすいとは何か?
楽に手に入る快楽、ということだ。

楽に手に入る快楽に慣れるとどうなるか?
ドーパミンが効きにくくなるのだ。

依存症と希死観念

酒やタバコ、YouTubeで面白い動画を探して実際に面白い動画をみつけたとき、SNSでいいねを貰えたとき、そんなときに人の脳は「ドーパミン」を放出する。
そのとき人は快楽を覚える。

だがこのドーパミン、ドパッと出せば出すほど人間はそれに慣れていき、快楽を得られなくなる。
結果的にもっと、もっと……と対象に耽溺する量が増えていく。
次第に健康に害を及ぼしたり、「それがないと生きる意味がない」という状態になってしまったりする。
これを依存という。

依存の対象を失ったとき、人は死にたくなる。
酒を飲むことだけが楽しいと思っていたアルコール中毒患者が、急に酒を取り上げられたら?
「生きがい」がなくなってしまうわけだ。

だがそれだけではない。
「快楽ばかり追い求めていると、苦痛がやってくる」ことには、他にも科学的な理由があるのだ。
驚くべきことに、快楽と苦痛を処理する脳部位は重複しているらしい。
また、苦痛と快楽はシーソーのようなもので、なるべく水平を保とうとする性質があるらしい。
そして、快楽へ長く深く耽溺し続けると、このシーソーがおかしくなり、「快楽を感じる能力が下がり、苦痛の感じやすさが上がる(『ドーパミン中毒』第1部第3章より)」というのだ。

これは衝撃的ではないか。
苦痛を和らげるため、ストレスを和らげるため、楽しいことをすればするほど、苦痛から癒やされるのではないのか。
癒やされてるはずなのに、苦痛を感じやすくなってしまうなんて、そんなものおかしいではないか。
だが、……妙に実感が湧くのではないだろうか。

そう。
「苦痛を避ける方法は、苦痛から目をそらすこと」ではないのだ。
「苦痛と向き合うこと」なのだ。

苦痛と向き合うこと

『限りある時間の使い方』に興味深い事例が紹介されている。

冷水を被る真言宗の修行についてのアメリカ人僧侶: スティーブ・ヤングの体験だ。

 肉体的な苦痛に直面したとき、人は本能的にその感覚から気をそらそうとする。たとえば注射が苦手な人なら、注射を打つあいだ、診療所の味気ないポスターを必死で見つめていたりするだろう。  
 ヤングも最初はそうだった。凍てつく水が肌を刺すたびに、何か別のことを考えようとしたり、意志の力で冷たさの感覚を消そうとしてみた。目の前の現実がつらすぎて心を別のところに向けるというのは、常識的に考えれば妥当な反応だと思う。  
 しかし、刺すように冷たい水を何度も何度も浴びるうち、ヤングはそれが誤った戦略であることに気づいた。むしろ意識を冷水に集中させて、強烈な冷たさを全力で感じたほうが、苦痛が軽減されるのだ。 
(中略)
 修行生活を終えたあと、ヤングは自分の意識が変化していることに気づいた。今ここに集中する技術を身につけたおかげで、日常のさまざまな場面で感じる苦痛が明らかに減っていた。以前なら考えるだけで憂鬱になっていた雑用にも、前向きに取り組める。  
 問題は活動そのものではなく、自分の心の中の抵抗にあったのだ。
 抵抗をやめて、目の前の感覚に注意を向けると、不快感は静かに消えていった。のちに彼は高野山の住職からシンゼン・ヤングという新たな名を与えられ、今では瞑想の指導者として活躍している。

『限りある時間の使い方』第6章より

これはマゾヒズムの一種なのではないか、と思っていたのだが、『ドーパミン中毒』を読んでどうやら科学的な根拠があるらしい、と気付いた。

 断続的に苦痛に晒されることによって、私たちの快楽と苦痛のシーソーが快楽の側に偏り、時間と共に苦痛を感じにくく、快楽を感じやすくさせるのである。

『ドーパミン中毒』第3部第7章より

これは途方もない衝撃である。
そして、このことは死について、生きることについて考えるための大いなるヒントなのではないか。

死を恐れる要因のひとつ

死の恐怖にとらわれ、いわゆる「発作」に襲われる理由は人それぞれだ。
だが、僕の場合は平穏を感じているときのほうが危ない、という実感がある。

ホリエモンは「死ぬことを考える暇もないほど忙しくする」を対処法としているが、どうもそれはなんか「死ぬことの本質」から逃げているのではないか、という気もしていた。
それで忙しくしまくって、それで最期に「ああ、良い人生だったな」と思うのはどーなのよ、と。
だからといってひねくれて「なるべく苦しまないように生きよう」としてても、苦しい。
しゃーないので酒を飲んだりYouTubeを観たりするわけだが、やっぱり苦しい。
じゃあ死んじゃえばいいじゃん、という話だが、それは「死ぬほど」怖い。
なんだこれは。
でも結局この状態は、「ドーパミンに慣れてしまって苦痛に敏感になっている」という生理的作用に過ぎないのではないか。

長くなったが、結論に向かおう。
僕は今、こう思っている。

「生きることは意味がない」という前提を徹底的に抱えて、釈迦が言ったように「一切皆苦」、人生は苦しいと認識した上で、マゾヒスティックに「苦痛に向き合って」いれば、それなりに良く生きられて、それは間接的に「死に向き合う」ことにもなっていて、最終的に良く死ねるのではないか。
というか……それしかないのではないか。

そもそもこの記事を書いた理由が、仕事が結構楽になって、家で自由に好き勝手やっていると、どんどん苦痛に弱くなっている自分に気付いたからだった。

それは人間的に弱くなっているだけかと思っていた。
広い意味ではそれも間違いではないのだが、「苦痛と快楽のシーソー」について、快楽側に偏る行動ばかりした結果、恒常的に苦痛を感じる状態になっていたということなのだと思う。

そして僕の場合、この状態になると死の恐怖がやってくる。
もっともっと幸福になりたくなるから、もっともっと苦痛を避けたくなるから。
その結果、「死」という究極の苦痛が究極にフォーカスされてしまうのだと思う。

死を隣に生きている人間の方が死を感じない。
これは理由があることなのだろう。
実際、バイクにハマり切っていたとき、僕は死から最も遠いところにいた。

もちろん、この発想も対症療法に過ぎない。
根源的な「死そのものの恐怖」「死そのもの」の問題は、何一つ解決しない。

けれど、そればっかりは(少なくとも現代科学では)本当にどうしようもないのだ。
三度目の引用になるが、

それに足を引っ張られて苦しんでも、人生勿体無いでしょうに。いつでも有意義なことを考えなさいということです。

ということなのだろう。
釈迦が全部語ってるし、しかもそれに科学的な根拠まであるとしたら、もう僕らに何も言うことはない。*3

まとめ

「人生の意味は『社会』とか『人類』に貢献することです」って言われると「ウッ」ってなっちゃうのだ。

改めて、これに対する僕の答え……つまり、そんな僕がタナトフォビアの発作に陥らずどう生きるべきかについて具体的に要約したい。

  • まず、ご立派な方が「社会貢献がどーたらこーたら」「人生の意味を探せ」とか言おうが、「人生に意味はない」というところからスタートする。だから「人生のミッション」的なものもいらない。(エラい人が「人生の意味を探せ」と言うなら「君、釈迦よりエラいの?」って聞けば良い)
  • その上で、延々SNS見たり酒飲みまくったりドーパミンが変に出まくる行動はなるべく控える。
  • なるべく苦しみを避けずに向き合いながら、その上でなるべく死なないように楽しく生きとく。
  • そのついでにテキトーに社会貢献しとく。

それしかないのだと思う。
それくらいで良いのだと思う。
それで死ぬとき、「無意味だったししゃーないか。まあ悪くなかった」って思えたら勝ちだし、「あまり良くなかったけど、まあ無意味だし」と思えたらそれはそれで勝ちだ。
「俺の人生は意味があった」とか思いながら死ぬ、これはどうもあまり良くなさそうだ。だとすると、イワシくんの人生(魚生?)に意味はあったのか?とか、じゃあ意味があるこの人生が失われる死はえげつねぇ!怖い!って考えちゃうから。

じゃあ今すぐ殺されても良いのか?と聞かれると、それは良くないとスマナサーラも答えるはずだ。
自殺について、はっきりこう語っている。

 ただで死ねるのになんでわざわざ自殺するんですかね。
(中略)
 自殺する願望を無くすために、宗教は「自殺は重罪です」と言っています。他殺は重罪であると言えば納得いきますが、自殺は重罪だと言うのは理解できません。気が弱い人を脅す話かもしれません。宗教の脅しに騙されてでも、自殺はしないほうがいいに決まっている。しかし、長く生きたからと言って、何か得られるわけでもないんです。誰だってあっけなく死ぬんです。だから、かっこよく生きてみればいいのではないでしょうか? 善いことをして、人を助けてあげて、皆の役に立つ人間になって、明るく生きてみればいいんです。充実感を感じられるように生きてみればいいんです。自分がどのように生きるのか、というプログラムは、自分で作るのです。自分が決めたことを、結果が出るまでやるのです。死の間際になったら、「何の悔いもない」と宣言して亡くなれれば、正しく生きた人間だと言えるでしょう。

『やさしく自由に生きる智慧』「自殺は負け」より

結局のところ、どこまでもシンプルなのだ。
読者の方の中にも、最近生きてて苦しい、苦痛に弱くなったと思う人がいたら、「幸せを探索する行動」や「依存」が凄く増えてる可能性を探してみて欲しい。
「適度だったり、人生にプラスになっている行動」は「趣味」だとか「仕事」だとかと呼ばれる。一方、「過度だったりマイナス」なら「依存」だ。
「依存」あるいは「快楽の追及」「苦痛からの逃避」と「生きる意味」「死への恐怖」は密接に結びついている。

意識が高いがアホな人(特定個人を指すのではない)に、「君も社会貢献しろよHAHAHA」などと言われても、なおさら快楽を追求したくなるだけだろう。そしたら余計に死にたくなる。けど死ぬのは怖い。

でも、僕がここで書いた論理なら、ちょっとは、ほんのちょっとは、いったん目の前のスマホをスポーンと投げて苦痛と向き合ってもええかもしれない、と思えるのではないか。
だとしたら、これ以上の喜びはない。

お読み頂きありがとうございました。
今回は久々に過去のノリでブログを書いてみました。
ではまた次の記事で。

参考になる本その他

スマナサーラとイケダハヤト対談の合本版。上下で分かれた電子書籍ならKndle Unlimited会員は無料で読めます。

依存症をサクッと学びたい人のために。

冒頭のあまりにも鋭い一言の引用元。

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  • ビートたけし
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*1:なお、筆者はイケダハヤトという人に良い印象は無いが、この本でのイケダハヤトは良くも悪くもフラットな聞き役である。

*2:実は過去の記事でもこのくだりを引用していたのだが、当時は今ほど深く理解できていなかった。

*3:スマナサーラと釈迦の言うことにどれだけズレが無いか検証したわけではないけれど、それは大きな問題ではない。

【こづかい万歳】強さ議論 / 最強キャラランキング【5巻まで + α】

『こづかい万歳』という作品が好きだ。

コミックDAYSで課金して先読みした上で単行本を買う程度には好きである。
こづかいという制限の中で強く、そして狂いながら生きていく人たちの悲喜こもごもな人生に触れ、自分の人生を見直す契機としている。

そんなこづかい万歳に登場するキャラクターたち……実在する人々らしいのだが、時にはあまりに狂気個性が強く、通称「怪人」と呼ばれている。
公式の呼び方は「こづかい超人」である。

最近出てきた「会社推し」の人はTwitterでかなり話題になった。


僕は思った。
「そろそろ最強キャラランキングを作らねば」と。
なんでだろう。自分でも分からん。
とりあえず、こづかい万歳キャラデータベースとしてもご活用頂けると幸いである。

判定方法

第1話からの主要登場人物を、

  • 合理性 20点満点
    • こづかい(お金)をどれだけ有意義に使えているか。金銭的合理性だけでなく、精神的な持続可能性等も加味する。
  • 超人性 40点満点
    • 忍耐力、精神の高潔さ等、人としての基礎的な強さ
  • 怪人性 40点満点
    • 常人の発想力、世界観を逸脱している度合い

の3つの尺度、最高100点満点で評価する。
合理性の満点が他の要素と比べ低いのは、合理性と他の要素は対抗する関係になりがちで、どちらかを補正せねば直感に反する結果になるからである。
その上で「『こづかい万歳』における強さとは」と考えてみて、「お金をいかに合理的に使うか」ではなく、やはりなんというか超人性や怪人性を重視するべきだな、と考えたのである。

当初、DAYS掲載の最新話までランク付けすることを予定していたが、既巻分のみに絞ったほうがネタバレにも配慮できるかと思い直したため、まずは既刊最新話の5巻36話までを対象とさせて頂きたい。
ただし、例外としてあまりに話題になった恐怖の42話だけは対象に含めることとする。

ではさっそく始めよう。
登場人物は見出しにおいては敬称略とさせて頂きます。

1巻

1話〜2話 作者 吉本浩二 21000円

起源であり原点である。
それなりに売れている漫画家であるにも関わらず、45歳にして321円の甘納豆を食べる浪人生に嫉妬する姿は、多くの読者を恐怖の渦に叩き込んだ。

『こづかい万歳』(以下全て同じ) 2話より

そんな吉本先生のスコアはこちら。

  • 合理性  10/20点
    • 21000円という安さで頑張っているのは分かるが、いかんせんお金の使い方にガバいところがある。お金が大量に入ったとき寅さんのBOX買ってたけどアマプラの松竹チャンネルなら300円ちょっとですよ。まあそういう問題じゃないのかもしれないけど。(でも別の話で寅さんのためにネトフリ入ろうとするんだよな……)
  • 超人性 21/40点
    • ある意味誰よりも超人だが、その立場を加味するのは良くないので他の超人たちと同じ枠組みで判断する。
      奥さんと子供二人抱えながら21000円で耐えるのは確かに凄いが、やや地味。
  • 怪人性 22/40点
    • お菓子コーナーでムーンウォークするクセがあるのだが、漫画的表現と思われる。ところどころ奇妙な行動はあるものの、強キャラたちと比較すると足元にも及ばない。
      ただ27話において湿気たお菓子に涙するところはなかなかポイントが高い。

53点。
ちょうど基準になりそうな良スコアが出ました。

3話 筒木剛 20000円

初のこづかい超人なのだが、のっけからかなり強い。
総合力の非常に高い、万能型超人と言えるだろう。
そんな筒木さんのスコアはこちら。

  • 合理性  8/20点
    • こづかいを減らさずに食べられるBBQにがっつくハングリーさ、一人飲みの自由な感じが高評価だが、食生活の危うさで相殺されている。医療費の方がよっぽど高くつく可能性があるぞ。
  • 超人性 28/40点
    • 「1ゲーム麻雀で勝ったらお菓子を1つ食べられる」というルールを遵守するなど、かなり自制心が高い。凄いと思う。僕には無理。
      あとその食生活でよく毎日元気でいられるなぁ……
  • 怪人性 25/40点
    • 真っ当に食生活を心配する上司に対し「最安で野菜ジュースを買えるドンキを探す」という対抗策が強い。そういうことじゃないでしょ……

61点。
序盤の強キャラとして妥当なラインでしょう。
いわばエルデンリングの序盤の関門: 忌み鬼マルギットにあたるキャラであると言えるだろう。
……言えるか????

4話 吉本浩二の奥さん 7000円

文才に溢れる人。
あなたエッセイで稼げるでしょ……

そして超人な奥さんのスコアはこちら。

  • 合理性  13/20点
    • 7000円に抑えるための様々な技法はツッコミどころもあるものの、全て高く評価できる。
  • 超人性 30/40点
    • 7000円でよしとするだけの様々な技法を生み出す忍耐力の強さ、お酒大好き人間であるにも関わらず金銭に関して働く非常に強い自制心、高評価とせざるを得ない。
  • 怪人性 21/40点
    • あまり奇行は目立たない。でも旦那さんの仕事改善のための道具は経費として出してあげようよ……
      エッセイの中で繰り広げられる独特な酒へのこだわりでやや加点。


      3話より。

64点。
筒木さんより強くなってしまうのはやや直感に反するが、合理性、超人性の高さを考えると妥当なラインか。
それくらい7000円という金額にはインパクトがある。

5話 工藤静男 20000円

ポンタの人。「怪人」っていう呼び名が生まれたのはこの人のせいではないだろうか。
作者からも妙に扱いが悪い静男さんのスコアはこちら。

  • 合理性  10/20点
    • このポンタへのこだわりは合理性に起因するものでなく、もはや執着の領域なので低評価でも良いのだが、会社の許可を得てまでポンタを貯めるちゃっかり感は評価したいところ。
  • 超人性 25/40点
    • このポンタへの情熱は超人の域であると言ってもいいだろう。もっと良い節約方法あるだろとか言ってはいけない。
  • 怪人性 32/40点
    • 吉本先生のこのセリフを導いたのが全てである。

      5話より

67点。高い怪人性が他の登場人物を突き放した。

6話 佐野修司 25000円

静男が強すぎたこともあり、ここから少し弱くなっていく。
この作品はバランスもしっかりしているのである。

人情派バイカー佐野さんのスコアはこちら。

  • 合理性  13/20点
    • 趣味を楽しむため、バイクを自力で修理し、自分の弁当や家族の料理も作る。この作品に珍しくスマートな生き方である。
  • 超人性 31/40点
    • 合理性の欄に記載の通り、かなりの聖人。もっとツーリング行って欲しい。
  • 怪人性 9/40点
    • 真人間過ぎるぞこの人……

53点。作る弁当が美味そうなんだよなぁこの人。普通にライフハック感のある有益な話であり、前話のうっすらとした狂気との対比が目立つ。

7話 村上夫妻 各24000円

佐野さん同様、健全な村上夫妻のスコアはこちら。
(別に静男さんが不健全なわけではないが……)

  • 合理性 14/20点
    • 節約を勝負形式にしたり、身体や肌のケアもバッチリ。しかもジョギングの目的地を銭湯にしたりと、非常に合理的に生活をエンジョイしている。なかなかできることではない。
  • 超人性 28/40点
    • 子持ち夫婦でここまで健康的に節約生活を過ごしていくというのは、それだけで超人ポイントとして評価できる。
  • 怪人性 10/40点
    • 描写的にちょっと変わった夫婦感もあるのだが、微笑ましさが勝る。(静男さんを思い出せ)

52点。佐野さんとはタイプが近いので、近い点になるのは必然である。

2巻

8話 吉本一家

最強キャラランキングとしては評価対象外。ほのぼの回。次への布石か……

9話 村田克彦 15000円

6話、7話の路線で「5話までの路線は例外だったのかもな」と思わせたところに投げ込まれた兵器。
言わずと知れたステーションバー村田であり、長らく当作品における範馬勇次郎の役割を担ってきた男。
っていうかお前そんな序盤で出てたのかよ。

  • 合理性 10/20点
    • なんだろう、合理性の考え方がバグる。高すぎるとか低すぎるとかじゃない。「測定不能」があればそうしたいんだけど、仕方がないから中間の10点とする。
  • 超人性 32/40点
    • ここまで怪人だともう普通に超人だよ。Twitterで指摘されてたけどこづかい15000円のうち7000円がきしめんで、きしめん1杯350円だから20日ずっときしめん食ってるのこの人……?
  • 怪人性 40/40点
    • こいつが満点じゃないなら誰が満点なんだよ

82点。知ってた。

10話 山崎あみ 6500円(推定)

ステーションバー村田と比べるとあまりにも真っ当な山崎あみさん、通称アーミン。

  • 合理性 13/20点
    • 居酒屋が好きで家を居酒屋風にしてしまう、というのは節約として非常に好感度が高い。前話とのギャップが酷い。
  • 超人性 13/40点
    • 低めのスコアだが、この人たちの良さは気軽に真似ができそうなところにあるのでこれで良い。
      【追記】吉本先生の奥さんを高評価とするならば、こちらも高評価でないとつり合いが取れないのではないかと考えたが、小遣いの安さに比して超人性を推認させるエピソードがかなり少ないため、初期採点のままとしている。仮にここで30点をつけていたとしても、53点で平均的スコアなので許して頂きたい。
      何の追記だよこれ。
  • 怪人性 10/40点
    • 人として真っ当過ぎる……

33点。村田と50点近くの差がついてしまった。

11話 吉本夫妻と定額給付金

この回だけでも語るべき回なのだが、記事の趣旨からズレるためスキップする。適宜ググって頂きたい。

12話 谷健 0円

凄いのが来た。

  • 合理性 10/20点
    • 村田とは違う意味で「測定不能」である。精神構造が根本的に違う。
  • 超人性 36/40点
    • 仏教的な悟りを開いてないかこの人?普通の人間はこの領域に辿り着けるのか……?

      12話より。
  • 怪人性 20/40点
    • 村田とは違う意味でなかなかの怪人である。だが、こづかい怪人という枠組みを超えているので高得点をつけるのは少し違う気がする。

66点。高得点もやむなし。

13話 真田一郎 50000円

こづかい超人、怪人というより、普通のおっちゃんである。
だが急に現れて野草の解説していくあたり、なんかゲームキャラっぽさがある。

  • 合理性 10/20点
    • 市民農園の活用や釣った魚の活用等、合理的に生きているようにも見えるが、なんかただ「滅茶苦茶趣味が充実しているだけ」にも見える。折衷して10点。
  • 超人性 20/40点
    • 植物にも魚にも道具にも詳しい、たまにこういう人がいる。超人とはちょっと違うので20点。
  • 怪人性 22/40点
    • 急に現れるあたりがポイント高いが、それ以外はだいぶ普通の人である。そもそも吉本先生はこの人と本当にこんな出会い方をしたのだろうか……?

52点。まあ妥当なラインだろう。

14話 石井力 37000円

既婚男性の少し切ない話。まぁでも……3人お子さんいるみたいだし、仕方ないか……?
あと正直ちょっと楽しそうではある。

  • 合理性 5/20点
    • あまり小遣いの使い方の合理性云々の話ではないため低評価。
  • 超人性 20/40点
    • 超人という感じではないが、3人の子供のために自らの部屋を出ていった哀愁を評価したいところ。
  • 怪人性 14/40点
    • 彼を怪人というのはちょっと違うだろうと思う一方、喧嘩しても車にスーッと消えていくのはちょっと面白いのでその分を加点。

39点。2巻は一人とんでもないのがいる分、他の人はバランスが取れてますね。

15話 すみれちゃんのパパ 23000〜24000円ぐらい

とか言ってたら、久しぶりに静男路線の人が来た。

  • 合理性 4/20点
    • フリーランスエンジニアでフリーWiFiで作業すんな!交通費は経費計上できるんだから小遣い扱いにすんな!あとモーニング昼まで放置はもう節約とは言いたくねえ!ということで低評価とする。
  • 超人性 22/40点
    • 色んな意味で強いメンタルを持っている。
  • 怪人性 27/40点
    • ツッコミどころ満載の存在ではあるが、やや地味である。

53点。結構強キャラのイメージがあったが、合理性の低さが脚を引っ張ったか。

3巻

16話 沢田夫妻 各30000円

人間 VS イオンとかいう狂ったキャッチコピーがついた回。でも内容は意外と真っ当である。

  • 合理性 15/20点
    • 最適を突き詰めすぎた経験を経て、「大事なもの」を最優先することに落ち着かせるというのはまるで人生であり、高い合理性として評価したい。イオンの話だけど。
  • 超人性 15/40点
    • 彼らは「超人」ではない。普通の人たちだから普通の幸せに辿り着いたのだ。イオンの話だけど。
  • 怪人性 15/40点
    • 途中イオン怪人になりかけるが、2年で気付いて脚を洗えて良かったなと思う。なりかけたことを評価して高スコアとするよりは、現在の彼らを祝福したい。ということで低評価。

45点。沢田夫妻に幸福あれ。

17話 成瀬広太郎 20000円

久々に来た少々(血糖値が)やばそうな人。

  • 合理性 12/20点
    • 「コンビニでしかお菓子を買わない」というのは非合理な選択にも見えるが、彼の境遇を考えるとメンタルキープのための合理的な行動にも見える。なんか気持ちはよく分かる。ただ体壊しそう……。

      17話より

  • 超人性 27/40点
    • 「最後の晩餐」のために実質17000円で1ヶ月を過ごすのはなかなかの自制心だ。仕事も大変そうである。評価したい。
  • 怪人性 30/40点
    • この顔が全てである。

69点。久々の高得点だ!

18話 森山拓也(通称モリタク) 21000円

キャラのクセが凄いので怪人に見えるが、よく読むと(急にトレーニング始める以外は)「ランチとトレーニングと小説執筆が趣味の司書さん」であり、結構真人間である。
真人間でない人がいっぱい出る漫画みたいに言うのやめろ。

  • 合理性 14/20点
    • 外食の良さに気付き、外食を楽しむために運動する。極めて合理的だ。
  • 超人性 22/40点
    • 趣味のために運動したり、小説執筆を続けていたり、結構ストイックである。
  • 怪人性 22/40点
    • 吉本先生からも「メンドくさい奴」と評価されるほど癖が強く、急にトレーニングを始める怪しさはあるが、怪人としてはやや弱いか。他が強すぎんだよ!

58点。中堅寄りの強キャラといったところか。

19話 岩倉誠 28000円

ダイソー怪人。

  • 合理性  11/20点
    • 「ヤケ買いしたくなったら100均で使う」というのは割とよく聞くライフハックだ。実際ダイソー楽しいしね。
  • 超人性 21/40点
    • なかなかメンタルが強いところを評価。

      19話より。
  • 怪人性 26/40点
    • 絵面が強すぎるところを評価したいが、これは本人の評価というより吉本先生のせいでは……??

      同上。

58点。奇しくもモリタクと同点である。モリタクよりもインパクトはあるが、モリタクはモリタクで合理性とストイックさが高評価だったため並んでしまったか。

20話 町田宏 20000円

スーパーカブ……ではなくスズキ蘭おじさん。

  • 合理性 11/20点
    • 取り立てて不思議なことをやっているわけではないが、2万円という少ないこづかいで上手く生活している。
  • 超人性 28/40点
    • バイクという明らかに金のかかりそうな趣味なのに関わらず、最後に現状のこづかいを維持する選択を取れるのは、非常に精神が強いと言わざるを得ない。
  • 怪人性 20/40点
    • とろろご飯を食べている顔が凄いが、それ以外は普通の人である。

      20話より。

59点。超人性は案外高い人なのだが、それ以外が真っ当過ぎたか。

21話 先崎夫妻 夫30000円、妻15000円

みんな大好きサイゼリヤ回。僕も好きです。

  • 合理性 10/20点
    • サイゼリヤを利用しているという以外、特筆すべきことがない。
  • 超人性 18/40点
    • 同上
  • 怪人性 15/40点
    • 同上。旦那さんのキャラのクセが強いくらいか。

43点。旦那さんの服がはだけているのと、吉本先生のこの感覚を除いてはかなり普通の夫妻であることから伸び悩んだ。

21話より。

番外編 プロトタイプ読み切り 『家族よ!俺を許してくれ!!』

吉本先生の意図に反しこづかい円グラフがウケてしまったという奇跡のような読み切り。最強キャラランキングとしては考慮対象外。

4巻

22話 兵頭勉 25000円

コワモテ犬好きノンアルおじさん。

  • 合理性 13/20点
    • 飲み会にシラけ、犬の散歩とノンアルに目覚めるというのはかなり良い生き方に見える。
  • 超人性 27/40点
    • 合理性欄で語った通り、メンタル強者である。
  • 怪人性 15/40点
    • コワモテではあるのだが、怪人という感じではない。

55点。少し平和な回が続き、感心はあれど物足りなさも感じている。

23話 畑山夫妻 各35000円

別荘夫妻。

  • 合理性 17/20点
    • 割と衝撃を受けた回である。コロナ禍であったことも加味すると非常に評価が高い。そんなお金の使い方があったとは……
  • 超人性 25/40点
    • アイデア一本勝ちである。
  • 怪人性 12/40点
    • アイデアを行動に移す凄さはあるが、怪人という感じではないな……

54点。合理性(お金の使い方の有意義さ)はトップクラスなのだが、このランキングにおいては評価軸として低いため、総合点は低くなってしまった。
……合理性を高めに評価するとポンタ静男とかステーションバー村田が相対的に低くなっちゃうんですよ……それはおかしいからこうなったんです……ご容赦頂きたい……

24話 月島鉄平 27000円

「残つま(残飯おつまみ)」というパワーワードが強烈過ぎるが、ステーションバー村田などと比べるとただのナイスお父さんである。

  • 合理性 13/20点
    • 残飯というのがどうかとは思わないでもないが、謎のクリエイティビティを発揮している。
  • 超人性 28/40点
    • 夜勤明けに息子の成長を実感しながらビールを飲むお父さん……仕事大変だろうに、なかなかの人格者である。そしておつまみ作りのセンスが高く高評価である。
  • 怪人性 20/40点
    • 「うほっ うまいぞ裕二郎〜!!」には怪人性があるが、吉本先生が悪い。

      24話より。

61点。超人性の高さが影響し、久々の高得点だ!

25話 松崎信一 24000円

孤高のラジオ配信者。ある意味トップクラスに人間味のある人。

  • 合理性 10/20点
    • VTuberでも個人でやるとなかなか再生が伸びないっていうし、普通の人のラジオだとなかなか聴いてもらえなくなるよなぁ……と思いつつ、クリエイティブに向き合う彼を中くらいに評価したい。
  • 超人性 25/40点
    • あまり多くの人に聞かれなくても淡々と配信を続ける彼を評価したい。
  • 怪人性 10/40点
    • 怪人……というより、「普通の人」感が際立つ。なんだかどちらかというとしんみりする方向性で。

45点。彼のこの漫画での立ち位置の独特さと同じく、独特な点数である。

26話 小坂井友樹 25000円

ファッションモンスター。

  • 合理性 14/20点
    • 少ない費用で「ファッション」という趣味を全力で楽しむ彼はこづかい界のスターである。
  • 超人性 27/40点
    • 凄いことはやっていないようにも見えるが、YouTubeでオシャレを勉強し、地道にオシャレファッションを集め、自己肯定感すら改善するというのは、何気なく凄いようにも思える。
  • 怪人性 20/40点
    • あまり怪人感はないのだが、単行本加筆エピソードにより加点したい。(詳細は買って確かめてね)

61点。意外な高得点である。

27話 臨時こづかい

「お菓子 配給制……!!?」

28話 林田和夫 25000円

「こづかい超人」公募後初の挑戦者。キン肉マンかよ。
それはそうと、一人目からクソ強いのが来てしまった。

  • 合理性 17/20点
    • アンタ凄すぎるだろ……「お金の使い方が有意義」とかいう次元じゃねえ。
  • 超人性 40/40点
    • 文句なしの満点である
  • 怪人性 23/40点
    • ここまで凄いとほぼ怪人である

80点
村田という「最強」に、一歩一歩積み重ねた努力だけで辿り着いた正真正銘の超人。
あと一歩及ばなかったが、大きな爪痕を残した。
『こづかい万歳』という作品も新時代を迎えた瞬間である。

29話 三浦薫 20000円

カレー怪人。

  • 合理性 15/20点
    • 趣味と実益を高度に兼ね備えている。
  • 超人性 25/40点
    • カレーの料理の腕もそうだけれど、カレーやそのコミュニティに溺れていくロジックの流れがなんか丁寧で面白いところを評価したい。
  • 怪人性 30/40点
    • これまでに無かった「周囲を洗脳する」という特殊スキルを高く評価したい。

      29話より。怖いって。

70点。地味に一人もいなかった70点代である。強キャラだが、ステーションバー村田、城主林田に一歩劣るという点において納得のいく評価ではないだろうか。
公募後の強者ラッシュが凄い。
あと吉本先生、やっぱアンタが一番怖いよ。

29話より。

5巻

30話 ハリソン夫妻 各15000円

洗脳したーーーーーーーーー!!!!!

洗脳しちゃったーーーーーーーーーー!!!

……ぶっちゃけ、これに尽きる。
いやまぁ当人たちが目標に向かって頑張ってるならそれで良いんだけどさ。

  • 合理性 9/20点
    • そんな15000円まで減らさなくても……
  • 超人性 22/40点
    • ファミチキ再現は素直に凄い
  • 怪人性 28/40点
    • 今までにいなかった「呪いを無事広めた」という感じの独特な怪人性がある。カレー怪人ともまた違う、なんだろう、このゾワゾワ感……

59点。まぁちょっと趣旨の違う回だし仕方ないか……

31話 竹田浩 10000円

心タイムスリップレトロゲーおじさん。
……やべえのが来た。いや、改めて公募後、やべーの増え過ぎでは……え?この人は公募じゃない……?
小学校の先生……?

  • 合理性 15/20点
    • なんだろう、ここまで極限になると精神的に解決するしかないんだな……
  • 超人性 30/40点
    • 僕は別のブログでこの人に出会ったときの印象として「そこまでやるならもう司法試験とか目指した方が幾分楽じゃないか」と評した。
  • 怪人性 28/40点
    • 「これが怪人じゃなきゃ何なんだ」という気持ちと、「これを怪人と言ってはいけない」という気持ちが戦っている。ステーションバー村田とかとはベクトルが違うんよこの人……

73点。納得の70点代だ。
なお、この人に感化されて僕はときどきSwitchでレトロゲーをやっている。確かに精神が静かになる感じがあって良い。

32話 椎名明光/坪井拓也 19000円/20000円

通称「汚いエル◯ック兄弟」。実際は兄弟ではない。

  • 合理性 12/20点
    • 確かに合理的だけど、これなんていうか仕事とか副業では……
  • 超人性 28/40点
    • 高いスキルを有しているのは間違いない。けどこれ副業では……
  • 怪人性 22/40点
    • 怪人……ではないな

62点。高めではあるのだが、「副業で稼いだ分は自由にできる人」というのは、小遣い制として少し別枠な感はある。……いや、レギュレーションとか無いんだけどさ。

33話 河川敷の人 8000円

まず河川敷の人ってなんだよ!!!!
この人はこづかい万歳の「貧困に困ってるわけではなく、家庭のためにガマンしているだけ」という不文律を破ってしまった人である。
ステーションバー村田なんかは十分お金を貰えるにも関わらず、あえて小遣いを制限しているというとんでもなさから「怪人」という呼称に根拠がある感があった。
だがこの人は感情の置き場に困る……

  • 合理性 10/20点
    • ある意味良い生き方……なのか……?
  • 超人性 24/40点
    • スナフキン的な意味で超人かもしれない。
  • 怪人性 20/40点
    • 先述した通り、「怪人」と呼んで良いか悩ましい。

54点。この人がこんなに低くて良いのか……?という感もあるが、この人に関しては河川敷でまったりしてるだけなので、村田らと比べて低いのもやむなしか。

34話 サブスク戦争と「自分以外の何かになりたかったあの頃のオレたちグッバイ!!」

だから吉本先生はアマプラの松竹チャンネル入ろうよ!!
それはそうとして、僕は未だに自分以外の何かになろうとしている。
……続けます。

35話 勝又進 3万円

滅茶苦茶やべーやつ。
こづかい万歳そこまで読み込むやついねーだろ。

  • 合理性 7/20点
    • 村田と同じく採点不能気味。だが強いて言うなら尊敬してる漫画の作者暑い車に乗せるな!!!!何かが間違ってる感あるので低め。
  • 超人性 30/40点
    • 色々すげーというかやべーこと言ってる……
  • 怪人性 35/40点
    • おい吉本先生、アンタが生んだ「怪人」だ。なんとかしろよ。

72点。極めて納得の70点台。むしろカレー怪人と近い点で良いのか感ある程度には怪人だが、向こうは合理性が高かったので仕方ない。

36話 泉聖子 50000円

逆ベクトルの人なので、この基準で評価するべきではないのかもしれない。だが一応。

  • 合理性 15/20点
    • あー、こういう人もいるんだなぁと思う一方、「お金を使うための小遣い制」という発想には感心してしまった。
  • 超人性 25/40点
    • 「欲が無い」っていうのは僕からすると超人に見えるけど、本人はそんな意図は無いんだろな。小遣い0円の人ともまた違う。
  • 怪人性 0/40点
    • この人を怪人って言うのは違うなぁ。

40点。土俵が違うね。聞いてるかタンクトップ勝又。

 

……さて。これで既刊分は評価が終わった。
だが約束通り、あまりに話題になった42話は先行して評価しておきたい。
2023年6月現在DAYSで公開されている範囲では41話のパワーも凄かったのだが、……42話には遥かに及ばないのだ。

EXTRA

42話 大石賢三 23000円

やべーやつ。
働き方改革の方向性や、SNSで見られる労働嫌悪の方向性に真っ向から歯向かうバーサーカー。
まさかの32歳。お前何があったんだ……

  • 合理性 5/20点
    • この人にとっては合理的選択かもしれないのだが……合理性に高得点はさすがにつけられない…… 
  • 超人性 34/40点
    • 出勤気分を出すため……?朝の通勤時間に……??30分電車に乗って……?家に戻って……????仕事をし………????????……?????
  • 怪人性 38/40点
    • 村田には一歩劣るが、最強格なのは間違いない

77点。「最強格だが、ステーションバー村田や城主林田とは並べてはいけない」という意味合いにおいて非常に納得のいく点数だと思うがいかがだろうか。

総括

では、採点が終わったところでランキングを発表しよう。
結果発表〜!
BGMにシャイニングスターでも流して頂きたい。


www.youtube.com

〜50点

32位    ご自宅居酒屋山崎    33点
31位    車中の石井    39点
30位    無欲の泉    40点
29位    サイゼリヤの先崎夫妻    43点
27位(同率)    イオン夫婦沢田    45点
27位(同率)    孤高の配信者松崎    45点

堅実なライフハックを見せてくれた人々や苦労人が目立つ。
みんな幸せになってほしい。

50点以上

25位(同率)    健康夫婦村上    52点
25位(同率)    趣味人真田    52点
22位(同率)    作者吉本    53点
22位(同率)    人情派バイカー佐野    53点
22位(同率)    遅延モーニングすみれパパ    53点
20位(同率)    別荘畑山夫婦    54点
20位(同率)    「河川敷の人」    54点
19位    犬派の兵頭    55点
17位(同率)    ランチトレーナーモリタク    58点
17位(同率)    ダイソーの岩倉    58点
15位(同率)    原付ツアラー町田    59点
15位(同率)    こづかい洗脳のハリソン夫妻    59点

ところどころクセが凄い人がいる。だが、「こづかい万歳」の中ではあっさりラーメンのような人々である。

60点以上

12位(同率)    忌み鬼筒木    61点
12位(同率)    残つまの月島    61点
12位(同率)    ファッションモンスター小坂井    61点
11位    汚いエ◯リック兄弟椎名と坪井    62点
10位    吉本先生の奥さん    64点
9位    超絶ミニマリスト谷    66点
8位    ポンタ怪人静男    67点
7位    糖質ガンギマリ講師成瀬    69点

ここまで来るとさすがに濃い。
1巻の登場人物が結構多いのも特徴である。
個人的にはやはり忌み鬼筒木とポンタ怪人静男がお気に入り。

70点以上

6位    カレー洗脳の三浦    70点
5位    タンクトップの蛮勇勝又    72点
4位    タイムトラベラー竹田    73点
3位    「労働者」大石    77点

「最強一歩手前四天王」という感じである。熱くなってきた……!

80点以上

2位    「城主」林田    80点

おそらく、納得の2位なのではないだろうか。
さて、名誉ある5巻までの「最強」を勝ち取ったのは……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【こづかい万歳】最強キャラ

1位    ステーションバー村田    82点

みなさん。
村田に全力の拍手をお願いします。

 

終わりに

いかがでしたか?

……4時間くらいかかったぞ……
返せよ……貴重な4時間……

 

岡本太郎について誤解していたこと

どちらの道に進むか迷ったら難しい道を選べ

この名言は、芸術家・岡本太郎の発言である。























嘘である。
岡本太郎は一言もそんなこと言ってない。

だが、15年間岡本太郎のファンを自認する僕は、なぜかいつの間にかそう解釈してしまっていた。
そしてその趣旨についてとんでもない誤解をしていた。

正確にはこうである。

「安全な道をとるか、危険な道をとるか、だ」
 あれか、これか。
 どうしてそのときそんなことを考えたのか、今はもう覚えていない。ただ、このときにこそ己に決断を下すのだ。戦慄が身体の中を通り抜ける。この瞬間に、自分自身になるのだ、なるべきだ、ぐっと総身に力を入れた。
「危険な道をとる」


岡本太郎『自分の中に毒を持て』第一章

 

「危険な道」である。
「難しい道」とは言っていない。
いや、さらに厳密に言えば、「困難な道」とは言っている。

私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。

(初出不明)

だが、「選べ」とは言っていない。
太郎さん自体のスタンスを表明しているだけだ。

なぜこの微妙な差異が重要なのか。

太郎さんのこと

僕は15年ほど前、ヴィレッジ・ヴァンガードで太郎さんの『自分の中に毒を持て』に出会った。
いたく衝撃を受けた。
そして長らくバイブルとなった。

けれど当時、自分の受験の心の支えとして太郎さんを上手く利用していて、なんとなく「そういうことじゃあないんだろうなぁ」という感情を抱いていた。

数年後、社会に出た。
どうも太郎さんの「どちらの道に進むか迷ったら難しい方を選べ*1」という発想は資本主義社会やら、成長圧力に支配された今のSNS社会に親和的過ぎる。

そんなこんなで、どうも少し冷めた目で見るようになっていた。
もちろん太郎さんを捨て去ったわけではなかったけれど。

それからさらに数年。
太郎さんのブームが来てしまった。
ファンとしては嬉しさもあるけれど、ちょっと複雑な感情もあった。
NHKが『TAROMAN』なんていうパロディなのかなんなのかよく分からないのを作っていたけれど、アレは絶妙に太郎イズムを理解している感があって尚更複雑だった。
(YouTubeで直接ご覧ください)


www.youtube.com



太郎さんはああいう「誤解された」「大衆化」、少なくとも否定はしなかっただろうな……
どっちも太郎さんは「上等」って受け入れる人だもんな……
自分の展示物、手が触れられるようにして「盗まれたら盗まれたで構わない」とか言う人だもんな……
などなど。

そうやって僕と太郎さんの距離感はずっと微妙なラインにあった。

そんな中、太郎さんの本を今再読して「あれ?僕、もしかして間違えてた?」と気付いたのである。

太郎さんが抗ったもの

太郎さんが選んだ道は、「危険な道」であり、「困難な道」だ。
先程述べたように、それはどうも現代のビジネスやら資本主義社会に絶妙に親和的で、少し疲れる感じを抱いていた。
そしてストイックに過ぎるようにも見える。

だがそもそも、太郎さんはストイシズムの信奉者ではない。
決して違う。

宗教はとかくペシミスティックだ。死ななきゃ許してくれない。うまいものを食っちゃいけない、美人を見て色気をおこしちゃいけないなんて、一番いいものをみんな取り上げ、生命をいためたり、卑しめたり、生きるよろこびをすっかり抜いてしまってから、やっとよしという。

岡本太郎『自分の中に毒を持て』第一章 および『私の現代芸術』

ではなぜ、何のために「危険な道」を選ぶのか。
がむしゃらに、ストイックにただリスクを負うのではないとしたら、何のためなのだろう?

これは「危険な道」「困難な道」という文言にばかり着目していたら理解できない。
そして僕は、真の意味で理解できていなかった。
あるいは忘れていた。

何かを理解するために重要なのは、いつも対となる概念だ。

一方はいわばすでに馴れた、見通しのついた道だ。安全だ。一方は何か危険を感じる。もしその方に行けば、自分はいったいどうなってしまうか。不安なのだ。しかし惹かれる。ほんとうはそちらの方が情熱を覚えるほんとうの道なのだが、迷う。まことに悲劇の岐路。

岡本太郎『自分の中に毒を持て』第一章


「馴れた、見通しのついた、安全な」道。
それこそが太郎さんが切り捨てたものだった。

これだけに着目していると、どうもビジネス書っぽい。
だが、その真意をさらに読み解いてみる。

そしてみんな、必ずと言ってよいほど、安全な、間違いない道をとってしまう。それは保身の道だから。その方がモラルだと思っている。

(同上)

太郎さんは「選べ」と命じてはいない、と上で書いた。
それは太郎さん自身が選び、戦ったことを示しているに過ぎないだからだと僕は考える。
何と戦ったのか?
保身、モラル、……予測の範疇から逸脱しないもので塗り固められた、あらゆる規範。

 人々は運命に対して惰性的であることに安心している。これは昔からの慣習でもあるようだ。
 無難な道をとり、みんなと同じような動作をすること、つまり世間知に従って、この世の中に抵抗なく生きながらえていくことが、あたかも美徳であるように思われているのだ。徳川三百年、封建時代の伝統だろうか。ぼくはこれを「村人根性」と言っているが、信念をもって、人とは違った言動をし、あえて筋を通すというような生き方は、その人にとって単に危険というよりも、まるで悪徳であり、また他に対して不作法なものをつきつけるとみなされる。
 これは今でも一般的な心情だ。ぼくはいつもあたりを見回して、その煮えきらない、惰性的な人々の生き方に憤りを感じつづけている。

(同上)

僕はここに書かれていることに直面して、15年ぶりに太郎さんに出会って、そして叩きのめされた気がした。

太郎さんのことを理解できていなかったわけではない。
忘れていたのだ。
いつの間にか、「運命に対して惰性的であることに安心」してしまっていたーー。

何故か。

フライドチキンが食べたかった

はっきりと覚えている。
年収が300万円台だった頃、近所のバーで美味いフライドチキンを出してくれる店があった。
その頃は数千円が痛手だった。

僕は考えた。
いくら稼げばこういったバーでフライドチキンが毎週好きな時に食べられるか。
そして無理して抱えているバイクのローンも完済し、好きなだけガソリンを燃やすためにはいくら必要か。
その上で貯金も考慮。
その他諸々。

当時の会社に留まると当分は達成できない金額が出てしまった。

そこから数年、なんとか独立してそれくらいの額は稼げるようになった。
それからというものの、何度も何度も嫌な経験を繰り返し、すっかり僕は保守的になってしまっていた。

「どうやってフライドチキンを守るか」。
僕の主眼はそこに移っていた。
なんとなく、それはおかしいとは思っていたけれど。

「どちらの道に行くか迷ったら難しい道を選べ」。
あるいは
「どちらの道に行くか迷ったら危険な道を選べ」。
そんな言葉は、それだけではとても空虚だ。

なぜ必死こいて得たものをノリで捨てる必要があるのか。
そんな言葉だけに流されて捨てずに済むものを捨てるとしたら、それはとても愚かしいことではないか。
そう思っていた。

けれど、思い出した。
フライドチキンを得たのは。
「予測の範疇」に留まることを良しとしなかったからではないか。

そもそも、人は自分の知識の範囲内でしかものごとを考えられない。
そんな限られた知識を総動員して「予測」した、狭い範疇の中で生き続けて、死ぬ……。
そんなもの地獄じゃないか。
ふざけんな。
何を考えてるんだ一体。
死んでしまえ。

そう理解したとき、太郎さんの問いが鮮明に眼前に広がった。
「安全な道をとるか、危険な道をとるか、だ」
そしてこの問いに、「社会規範との親和性」なんて概念が入り込む余地なんて、無い。
これは徹頭徹尾「生き様」の問題だからだ。

予測ができてしまう

太郎さんイズムを理解できなかった、あるいは忘れてしまったことにはある程度仕方のない側面もある。
30年も生きると、予測できることが増えてくる。
何が面白くて、何が面白くないか。
何が幻想で、何が幻想で無いか。
どんどん見えてくる。
つまり、「外側」を見るのが難しくなってくる。

僕は子供時代に戻りたいとは微塵も思わない。
だが、「外側」に「幻想」を見られたという一点においては、やはり大人より子供のほうが有利なのだろうと思う。

じゃあ大人は幻想を抱けないのか。
一つわかりやすい方法がある。

Lv50を目指すなら最初からLv100にチャレンジすることだ。
そうすればLv40くらいなら軽く到達する。
つまり、自分が「ここ」と決めたら、意図的にその外を見るのだ。

例えば受験生ならば、今の実力でならA大学が限界として目指せると思うならば、A大学より偏差値が10高い大学を目指すべきだ。
A大学が目指せる、と思った時点で限界がそこになる。
A大学より偏差値が10高い大学を目指してれば、気づけばA大学くらいなら余裕になっているはずだ。
年収なんかでも同じ発想だ。
あまり即物的なことで考えすぎるとビジネス書っぽくなってしまうが……

即物的なことであれ高尚なことであれ、「全てが予測の範疇に収まる地獄」を抜けられるなら、何でも良い。
その地獄を厭う者ならば、誰もが使えるメソッドのはずだ。

悔しいことに高校の頃は十分そういった思考の枠組みがあったのに、……すっかり忘れていた。
完全に、忘れてしまっていた。
ここのところLv50を目指してLv10にしか挑めていなかった。
忸怩たる思いだ。
死んでしまえ。*2

まとめ

ここまで書いたことは


www.youtube.com

だいたいFukaseに歌われている。
なんか腹立つ。


以上です。

*1:だから言ってねえ!

*2:この記事の「死んでしまえ」は全て自分に向けてます

欲望を駆動せよ

 何をやっていても、〝他人の目からはどう見えているのだろう?〟と気になって夢中になれない。
 そういった〝生きてて全然楽しくない地獄〟にハマってしまうと、人間はどうなってしまうのだろうか。
 まず、朝起きるのが辛くなる。

若林正恭『ナナメの夕暮れ』第二章


ここのところ朝ずっと起きれていない。
欲望の枯渇を感じている。
今日に始まったことではない。

30歳になると「欲望をキープする」ということの大変さに気付く。
いやまぁ、酒は美味いしゼルダはおもろいし、楽しいこと自体はたくさんある。
けれどどちらかというと、そういった「楽しいこと自体がたくさんある」ことの方が問題で、「長期的な野望」みたいなものを抱くことがどんどん難しくなっているのを感じる。

筆者は2年前に司法試験の挑戦を始めたのだが、ここ数ヶ月全くやる気が起きず、とことん中だるみしている。
難易度に絶望したのではない。
むしろ、基礎論点なら六法以外何も見ずに答案を書けるようになってきたくらいだ。

だが、とても根本的なことが今更問題として立ちはだかってきた。
「弁護士になりたい」という欲望が、あまりに希薄なのだ。

そりゃまぁフワッとした憧れみたいなものはある。
色々な理不尽な事件について司法試験の勉強という枠組みから外れて学んできたし、そういった事件について能動的に関われる法曹という立場自体には大いに興味がある。
けれど、今の立場や仕事を手放して転身している自分に、やっぱりこう、全く実感が湧かない。

筆者は応用情報とかその他ITの資格をいくつか持っているのだが、それは「現在の仕事に100%プラスになる」という理由で取った。
そして実際にある程度プラスにはなった。
そこには実感に近いものがあった。

けれど、さすがに司法試験となるとなかなか厳しいものがある。
……もしかすると、逆に筆者が「司法試験合格に憧れすぎている」だけなのかもしれないが。

まぁ、もし実感がないならせめて「弁護士になってタワマン住もう」とかいうのも良いかもしれないが、それも実感が湧かない。
お金は確かにあるに越したことはない。
むしろ必要だ。
ただもう、なんか疲れたのである。

独立したての頃はたまーに池袋のアニソンバーとかに行って1万円弱使ったりしてた。
楽しかった。
だがどこかに虚しさがあった。
そういったバーより高価なキャバクラにはあまり興味が持てなかった。
一度仕事の付き合いで行ったが、「なんでわざわざ結露拭くねん、無駄やろ」としか思えなかった。

最近はそういったバーやスナックの類には全く行ってない。
その代わりに一人でたまに夜な夜な鳥貴族に行って、メガ金麦と唐揚げを頼む。
鳥貴族の唐揚げは一時期全く良い印象がなかったのだが、今はリニューアルしたのか筆者の好みが変わったのか、これが美味い。
あっさりしたムネ肉に濃い目のダシが効いた味がついていて、他の店の唐揚げのような露骨な豪華さは無いが、かえってサッパリ感もあって非常に良いのだ。
その他適当に飲んで二, 三千円である。

そんな生き方をしていると、「このまま10年ほどなんとか今の収入をキープできれば、それなりに逃げ切れるんじゃね」という気もしてくる。
というか実際できるだろう。

でも筆者は知っている。
「現状維持」を望んだ瞬間、人は終わるのだ。

青春が終わる、的なヤツではない。
現状維持すらできなくなるという意味だ。
なぜなら使わないモノは錆びていく一方だからだ。

欲望を駆動せよ

人間の生きるエネルギーは何か。
死んだように生きないためにはどうすれば良いか。

そういった問いの答えは2つで、「大義」と「欲望」だと考えている。
「大義」は「使命感」と言い換えても良い。

たまにいる。
大義とか使命感だけで生きてるような人が。
生粋の宗教家、活動家だったり、起業家だったり。
こういった人たちの中には「サイコパス」と呼ばれる人も結構いると思っている。

なんにせよ、レアケースではある。
目立つから世の中こういった人ばかりに見えるが、勘違いしてはいけない。
もし世の中大義とか使命感だけで生きてる人がもっと多いのならば、こんなにお酒を出す店が世の中に多いわけが無いのだ。
酒は大義や使命感と対極のものだ。
何故って、酔ってしまえばもう大義を追うどころではなくなるから。

もう一方は「欲望」だけれど、これは単純に見えて捉えがたい。
まず、たまに内部分裂を起こすという特徴がある。
「健康的マッチョになりたい」ならば「毎日二郎系ラーメンを食べたい」という欲望は捨てて、せめて「たまには二郎系ラーメンを食べたい」くらいにまで抑えなければならない。
次に、……ここで先程述べたことに繋がるのだが……使っていないと錆びつくという特徴がある。
今の世の中、手軽に満たせる欲望が多すぎるからだ。
否。
昔から「酒」という特効薬がそこには存在していた。
けれど、酒ばかり飲んでいてもいけないというのは昔から言われていたことだろう。

結局のところ、大義も程々には抱えながら、特効薬に依存しない長期的な「欲望」を、錆びつかせず磨き続けるというのが「朝起きれない」という現状に対して必要ということになる。

ちなみにここで「大義も必要」と言っているのは、ここのところノブレス・オブリージュどころか、「大義」どころか、その手前にある「人としての最低限」すらも捨て去ったような刹那的な人たちが増えたように思うからだ。
別に説教したいわけじゃない。
日本国発展のために他者を慮れとか、権利を得るためには義務があるとか、そんなつまらないことが言いたいわけじゃない。
むしろ筆者は(パターナリスティックな制約や権威主義を著しく嫌うという意味で)リベラル寄りである。
ただ、人として捨てちゃダメなものまで捨てちゃってる人が結構いるんじゃねえか、っていうことをたまに思うという、それだけである。

mistclast.hatenablog.com


閑話休題。

じゃあ結局、どうすれば欲望は磨き続けられるのか。
件のオードリー若林は「自分が本当に楽しいと思うこと」に気付くため、「肯定ノート」を書き始めたらしい。

 自分に、こんなに楽しいと思うパワーがまだ残っていたことに驚いた記憶がある。
 そうすると、世間の流行などに流されているわけではない、自分が我を忘れて楽しめることが少しずつ増えていった。

(同上)

「肯定ノート」が万人に向く方法かどうかは分からないが、少なくとも筆者は深く納得した。
というか、若林という人が自分と凄く似た考え方をしていて相当驚いた。

結局のところ、「自分に向き合う」しか無いのである。
そして自分の中にある萌芽を、徹底的に誇張する。
そうしないと、濁流に飲み込まれる。

それは見ようによっては不自然な生き方かもしれない。
けれど「僕ら」はもう、欲望を駆動するしか無いのである。

若林は「欲望を鈍らせる」のは「他者の目線」だと解釈した。
だが筆者個人の事情としては、「他者の目線によって鈍らされている」という感覚は、少しはあるのだろうが大きいわけではない。

思うに、昔から欲の持ち方に癖があるのだ。
自分のことを「欲が無い」人間とは微塵も思わない。むしろ欲深い人間だ。
だが、どこか常にその欲望について、冷めている自分がいるのだ。
メタに見て、冷笑している自分がいる。
楽しいことをしていても、切なくなる。
生来の懐疑主義者であり、それがいつの間にかネジ曲がり、冷笑主義を通り越した虚無主義的な自分をたまに見出す。

それは多分誰にでもある感情だろうし、故に「筆者は特別だ」と言いたいわけじゃない。
むしろ逆で、「みんなそうだから、(それが問題だと思っている人は)みんな解決しなきゃいけない」問題だと思っているのだ。
常に自分の欲望をテストしている人生なんか、……ちょっとつまらないだろう。

だから若林のように「肯定ノート」を書いていくか、それに似た方法でなんとかしていくしかないのである。

駆動に疲れたら

とはいえ、この方法には難点がある。
疲れるのだ。
滅茶苦茶疲れるのだ。

本当にもうダメってなったときは、肯定ノートなんてもう見たくない。
飲んで寝るしか無い。
否、むしろ酒を飲みたいから「疲れた」と言い訳しているのか。
わからんけど、とにかく疲れているのである。

もう、そういったときは休むしか無いのだろう。
僕もそろそろ疲れてきた。

そもそも木曜真っ昼間から何を書いているのかという話だが、現在筆者は個人事業主であり、運良く1日8時間週5日フルタイムで働かなくても良い立場である。
そのため時間はそれなりにあるのだが、最近こういったことを考えて頭が全く整理できていないでいる。
それは司法試験からの逃避なのかもしれない。
あるいは司法試験挑戦に疲れて「欲望はない」と考えることで、逃げ道を探しているのかもしれない。

自分の本心も一つではないのだ。
痩せたい自分と二郎系ラーメンが食べたい自分がいるのが矛盾しないように。

今日は自分のために文章を書いたが、それでもやっぱりスッキリはしない。
でもなんとかこうやって吐き出していた。
これが何かしら有益なものだったのかどうか、それは定かではない。

まあそれでも、動くしか無いのだ。
僕みたいな人間は。
欲望の枯渇や、現状維持を恐れるのならば……その限りは。