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MistiRoom

自由のために、何かを語ろう

結局、生きるには力がいるのだ

魔王「力が欲しいか」
ワイ「どの組織にも依存せず手取り20万稼げる力ください」
魔王「……お前、それは欲求高いぞ」

ども、あけましておめでとうございます。
Mistirです。

最近、色々なことがあった。

そのとき、徹底的に、頭が擦り切れるほど「自分が何をしたいのか」を考えた。

その結果。

「何もしたくない」

と気付いた。

でも、ネガティブな意味じゃない。
なんというか、「前向きに何もしたくない」のだ。

……言ってる意味がわからないと思うが、少し聞いて欲しい。

「何もしたくない」。
これは別に、才能も無く、努力もせず、そのくせ与えられるものに不平を言って、努力する人間の足しか引っ張れないような奴なので、目を瞑ってどっか隅っこに挟まって、口だけ開けて雨と埃だけ食って辛うじて生きていたいっていう意味じゃない。

rocketnews24.com

まあ、なんというか、僕のブログを長いこと読んでくれている方は知ってると思うんだけど、僕はなかなかの社会不適合者でひねくれものだ。
だけど、何もかもに絶望しきってるわけでもない。

常に何もかもに絶望するのは、不合理でしんどい。
だから、合理的な帰結として、僕はこの世に心底絶望することはない。
……なんていうと、少々格好つけ過ぎだけど。

まあとにかく、「何もしたくないが、それでも行動していたい」のだ。

さて、ここまで曖昧に使ってきた「何もしたくない」という言葉を詳しく説明しよう。

「何もしたくない」というのは、概ね次のような意味だ。

・細かく指図されたくない
・他人に気を使いたくない(煩雑な人間関係から遠ざかりたい)
・飽きたらすぐ辞めたい
・嫌なことに対して嫌と言いたい

こういった条件を満たす範囲で、「好き勝手に行動していたい」

……こういったことは社会人としては我慢することが当たり前過ぎて、逆に見逃してしまう。この欲求を堂々と掲げると「いやそれは大人なら我慢して当然だよ」と言われてしまうだろう。

でも。
冷静に考えてみよう。
とっても冷静に考えてみよう。
「上に挙げたような欲求は、不自然か?」と。

不自然じゃないはずだ。
そして、上に上げたような欲求を心の底から切望する人たちはーー

僕の見立てでは、今後大いに増えることだろう。

さて。
結局のところ、この「何もしたくない」(=don't want to do anything.) は、言い換えれば結局……
「自由でありたい」(=want to be free.) っていうことだ。

不思議なことだ。
「する」ことに着目しすぎると、どう「ありたい」かがなかなか見えてこなかったりする。逆もまた然り。

世間は「どうしたいか」を常に問いかけてくる。
就活もそうだ。
「お前は何がしたいんだ」そればっかりだ。

今なら言える。
「何もしたくない」。
だけど、「自由でありたい」。

そう分かっただけでも、自分にとっては大いなる前進だったりする。

……さて、ここからが本題。
「じゃあ結局、自由であるためには何が必要か?」

……昔から、物凄く上手い絵を描きながら、休憩時間にも絵を描いているようなイラストレーターさんが羨ましくて仕方がなかった。
絵が上手いことが羨ましいわけじゃない。羨ましいという権利は、僕にはない。
だけど、何か羨ましくて仕方がなかった。

あの人達は、武器があった。力があった。
この世界を生き抜くだけの力があった。
しかも、それがきっちりと体に馴染んでいた。
それが羨ましくて仕方なかった。

更にこの世には、ただ絵が上手いだけじゃなくて芸人としてやっていけそうな人もいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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反則だ。

 

 

 

 

二本も剣を持っているなんて。
生まれたときから手に生えてたみたいに馴染んでるじゃないか。
完全なる対称を描いているじゃないか。

……力を持った人が、この世には存在する。
自由に生きるために足る力を。

「努力をしたから力を得た?」
そう判断するのは楽だけど、一種の思考停止だ。
例えば絵はわかりやすい。きっちり努力したから上手い、単純だ。

だけど。
どうやら事実として、世の中には僕よりも圧倒的に社会に上手く馴染み、それを苦としない人たちがいるらしい。
かつ、彼らはそれを不断の努力によって成し遂げているわけじゃないらしい。

……もしかしたら見えてないトコロで努力しているのかもしれないけど、それはそれ。

とにかく、「努力したから力を得られる」とは必ずしも限らないようだ。

さて。
じゃあどうする?僕はどうする?僕らはどうする?
社会に適合できない人間は、力を得るしかないのだ。
そうしないと、死んだように生きるしか道は残されない。
あるいは、無理をして組織に溶け込むことで、なんとか日々生きていくためのカネを稼ぐしかない。

なんにせよ。

結局、生きるには力がいるのだ。


その力は、その負担は昔と比べて大きなものになっているのだろうか?
それとも、今の時代は案外チャンスが多いのだろうか?

わからない。
まあいい。とにかく……
生きるためには力が必要だって認識して、力を追い求めながら生きることができるってのは、逆説的にだけど一種の希望でもある。

僕は社会に押しつぶされないために、必死で力を身に着けようと思う。
新年の抱負に代えて。

ってことで、みなさんあけましておめでとうございます。
今年もよろしくね。

ではまた次の記事で。

『さよなら絶望先生』のOPが語る「あの」時代と、「アニオタ」の消失

アニメは、いつからかオタクの手を離れたーー
「アニオタ」は、もうどこにも居ない。



ども、Mistirです。

最近はアニメがカジュアルな趣味になった。
リア充オタク」というような言葉も生まれ、何がなんだかよくわからない。

別に昔からオタク(orライトなアニメ好き)であってもリアルが充実している人いただろうし、今更何を、という話かもしれない。

でも、少なくとも筆者が中高生の頃に比べてアニメ趣味は確実に「カジュアル」なものになった気がする。
その境目はやっぱりこのアニメでしょう。

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けいおん』前後で、「アニメ」のイメージは大きく変容したように思う。
もちろんこれは筆者の印象に過ぎないので、あくまでも「時期を捉える」ための目安として考えて欲しい。詳細なアニメの受容の歴史分析は別の人に任せる。

で。
この『けいおん』のアニメは、2009年だ。
今から7年以上前。時代の流れは早い。

その3年前、2006年にアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』が放送され、

 2007年に『らき☆すた』のアニメが放送された。

中学の頃、友人がファンで、正直ちょっと引いた記憶がある。
今や「魔装学園は神」と言ってはばからないクソアニメ好きの僕であるが、かつては所謂「萌えアニメ」に抵抗があったのは事実だ。
きっとそれは、世間レベルでもそう変わらないものだったと思う。

アニメから少し離れるが、こちらも中学生の頃、PS2版のFateにはまり込む友人にドン引きしていた記憶もある。 

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今になってはもはや「カジュアルコンテンツ」「知ってて当然」の風格さえ漂わせているが、当時の中学生にとって「Fate」はどういう印象だったかというと、
誰も知らないようなよくわからないオタクチックなギャルゲー(←この言葉さえ知らないのだが)」
である。 

上のリンクにあるように、発売日は2007年。
らき☆すたの放送開始の年と同じである。

しばらく後、友人から同ソフトを借りた僕は、寝る間も惜しんでコンプリートし、人生で背負った厨二病という業を悪化させることになるのだが、それはまた別の話。

……元々潜在的にオタクだった僕にとって「誰も知らないような名作を自分だけが知っている」※的な感覚はとても尊いものだったのだが、もはやFateはそんなレベルの作品ではなくなってしまった。なんとも言えない気持ちだ。
※2007年時点で既にFateは一部の人には有名だったと思うのだけど、中学生で知っているとなると相当絞られてくると思ってます。ついでに言えば、ネットがそんなに広がっていない世の中でFateをプレイした中学生は、きっと当時の僕の気持ちを理解してくれると思う。

この「特権意識」に似た感情は、後で重要な意味を持ってくる。心に留めておいて欲しい。

閑話休題
そろそろ本題に入ろう。


なぜ『涼宮ハルヒの憂鬱』と『らき☆すた』を例として挙げたのかというと、偶然僕の周りにこれらの作品にハマっていた奴らがぽつぽつ現れていたからである。

そして2007年、『らき☆すた』の放送と同じ年にあるアニメが放送される。
そう。

さよなら絶望先生』。
この作品は、どうも「当時」を物凄く深く表現していたような気がする。

少しだけ、語りたい。


さよなら絶望先生』OPが語る時代

この記事は「さよなら絶望先生」を知っている人向けに書いている。
少なくとも、作者の久米田康治の作風を知っていないと、この先は読んでいてもきつい気がする。
ってことで、一応『かってに改造』以降の作風は知ってますよーって人のみ読んでください。

思うに。
当時、例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』や『らき☆すた』からアニメを観始めた層は、『さよなら絶望先生』に結構大きな衝撃を受けたのではないか。

冷笑。
徹底的に社会を冷笑するそのスタンス。

多分、2006年ごろに深夜アニメを好きになった層は、ある種の「後ろめたさ」を抱えていたのではないかと考えている。

あの当時、(深夜)アニメは「後ろめたい」趣味だった。
「深夜アニメの存在」自体を知らない人の数が圧倒的に多かったのだ。
今みたいにTwitterもなければ、ニュースサイトもほとんど存在しない。
そんな時代だ。

一方で、「こんな面白いものをみんな知らないんだなぁ」といううっすらとした「特権意識」のような感情は、誰しもが大なり小なり抱えていたように思う。


そう、そんな二つの歪んだ感情の狭間で、アニオタたちは揺れ動いていたのだ。

そんな時代に現れた『さよなら絶望先生』のオープニングは、ある種、時代をあまりにもクリティカルに切り取っていたように思う。

深夜俺はテレビを観ていた
やることもないからボーッと見ていた
ザッピング、成功者が誉められていた
(あの人は軸がぶれてない素敵)

(…)

わかったぜ 報われぬ そのわけ
人として 俺、軸がぶれてんだ

それならば居直れ!もう
ブレブレブレブレブレまくって
ふるえてるのわかんねぇようにしてやれ!
ずれるぜ!もうブレブレ人間
でもきっと 君がいたら変わる?
(アタシがいるよ、気付いて)

www.kasi-time.com


なんだこの歌詞は。
アニメ本編には直接関係ない。
関係ないが、この「冷笑的な」アニメを見る層の心臓を一撃で仕留めるような強烈なオープニングだ。

「君がいたら変わる?」

この「君」の解釈は幾らでもできるだろうけど、「深夜アニメそのもの」と解釈することに不自然はなかったのではないか。
あるいは「アニメのキャラクター」でもいい。
「誰も知らない世界を知ること、それが自分を別の世界へ連れて行ってくれる」。この感覚を、誰が笑えようか。

色々語ろうとすると長くなるので、この程度で抑えておくとして二期である『俗・さよなら絶望先生 』のオープニングについて語ろう。
二期は2008年の1月から3月、一期から1クールしか休みを置いていない。

そんな二期のオープニングは、シリーズでおそらく最大の人気を誇る、この曲だ。

空想ルンバ

空想ルンバ

 

 

俺の値段を誰が決めた?
虎や豹が僕らの心にも
(獣たちがひそむこと しらないからやつら)
安い値をつけやがって
解き放つぜ!

さぁ逃げまどえその隙に
踊ろよ 僕たちはルンバ
微笑み 軽やかに 君と
その日は来るのか
わからなくて

(…)
人に値段があるのなら
それは誰が決めるのか?
僕もプライスを決めようか?
君の価値さえも
決めかねて
わからなくて

www.kasi-time.com

2008年の時代に、この歌詞を「深夜アニメ視聴者」にぶつけたオーケンは天才としか言い様がないと思う。
というかオーケンの昔からの芸風が「2008年に深夜アニメを観ていた層」あるいは『さよなら絶望先生』という作品にクリティカルマッチしたという方が近いか。

とにかく。

僕はこの曲があまりにも「自分のための歌」になりすぎて、耳が擦り切れるほど聞いた。
断言する。
絶対にこの曲を数百回聴いた人はいるはずだ。
暗い部屋で一人。テレビは付けたまま僕は震えている何か始めようと


さて、ここでも『人として軸がぶれている』と同じく「君」が出てくる。

「君の価値さえも決めかねて わからなくて」。

なんていう重い歌詞を書くんだ、この人は。
先程と同じように「君」をアニメそのものと解釈するなら、まさにこの一行が、アニメを好きだった僕らの心そのものだったのかもしれない。

何度も何度も聴いた。

そう。
空想ルンバ』は。
「僕が思うそのままのことを、歌っていた」

そして一年と半年が経った。
2009年7月。満を持して、それは始まった。

『懺 さよなら絶望先生』。

そのオープニングこそ、今回最も語りたかった一曲だ。

この曲の評判は、『空想ルンバ』のどストレートな評判に比べて、かなり悪かった気がしている。

ドロドロした「音楽」としてかなり危ういAメロ、Bメロから、急に開放感のあるサビ。にも関わらず、サッパリ意味が分からない林檎もぎれビーム!の連呼。


というか、この言葉には元ネタがある。

宇宙友好協会 - Wikipedia

簡単に言えば、ある宗教団体チックな団体が『「リンゴ送れ、C(カタストロフィ)」というメッセージを受け取った人だけがUFOによって救われる』と主張してたのだけど、それがマスコミに漏れてエライことになりました、って話。

そんな難しいことは考えなくても、「リンゴ送れ、C」という言葉は
「救われて」
「ここではないところに行く」
ための合言葉だと覚えておけば、十分だ。

※ちなみに最初は『林檎もぎれビーム!』ではなくガチで『林檎送れ、C』にするつもりだったそうだが、それを聴いた宇宙友好協会メンバーが「ついにキタああああああ!!!!」ってなるのを防ぐため『林檎もぎれビーム!』にしたそうだ。草。

www.animatetimes.com


さて。
それを踏まえてこの曲。

なお、難解だ。

何百回、下手すると何千回聴いたかもしれない。
そうすると、この曲が「僕ら」に対して決着を突き付けてくる曲だってことに気付く。

君が 想う
そのままのこと
歌う 誰か
見つけても
すぐに恋に落ちてはダメさ
「お仕事でやってるだけかもよ」

www.kasi-time.com

導入から強烈な右ストレート。
オタクに直撃。

あなたが言うのか。
散々、「俺らが想うそのままのこと」を歌ってきたアナタが言うのか。
さらにそれはお仕事だって、よりによって「声優さんに」言わせるのか。
二番では「マニュアルではめてるだけかもよ」とも言う。ひどい。

この部分の衝撃は、当時から色んな人が指摘していた部分だ。

ドロドロしたAメロ、Bメロを経て、開放的なサビに入る。

「変わったアナタを誰に見せたい?」
ないがしろにしてきたやつに!

さあ行こうぜ
絶望のわずかな「こっちがわへ」
きっとシャングリラだよ
君となら
合言葉「林檎もぎれビーム!
でもどこへ行ったとて同じだろうか
「アナタはずっとそこにとどまってるの?」

……開放的なのに、終わり方はすこぶる歯切れが悪い。
ここで、初めて「絶望」というワードが歌詞の中に登場した。

でも、この歯切れの悪さこそこれまで『さよなら絶望先生』のオープニングに心酔してきた僕らの気持ちそのままなんじゃないか。

「でもどこへ行ったとて同じだろうか」。

でもどこへ行ったとて同じだろうか
「アナタはまだ探してさえないのよ」
この絶望の夜は明けるのだろうか
「アナタに一つ教えてあげるわ」

「この絶望の夜は明けるのだろうか」。
最も強烈なこのクエスチョンに対する……あるいは、これまでの全ての問いに対するアンサーとして、至高のCメロが始まる。

エブリシンガナビーオーライ!
明けぬ夜は無い
それが愛のお仕事そして
「マニュアルなの」

あまりにも鮮烈な、そして残酷な解答。
僕らが疑った「愛のお仕事」を、「マニュアル」を 、受け入れろ、と。
「愛のお仕事であるが故に、絶望」「マニュアル通りだからこそ、絶望」、その認識が誤りであると告げる。
「受け入れろ」。それが、この曲が最後に残したメッセージだ。
そうすれば、夜が明けると。

ラストのサビ。
実は、1番のサビおよび2番のサビと、全く言葉の変化がない。
ただ一点、「迷いがない」という点を除けば。

そして曲は終わる。

さあ行こうぜ、、、

1番、2番の「さあ行こうぜ」と同じでも、違う意味合いに見える。

「受け入れて、進め」
それが唯一の方法ーー。

実は、全く同じメッセージを大槻ケンヂは小説で書いている。

グミ・チョコレート・パイン チョコ編 (角川文庫)

グミ・チョコレート・パイン チョコ編 (角川文庫)

 

かなり後半に、ここまで書いたメッセージと全く同じ内容を登場人物の一人に語らせている。
気になる人は読んでみてください、面白い小説なので。

そろそろまとめに入ろう。

結局、あの時代は何だったのか

僕が時代のターニングポイントと認識している『けいおん!』の放送は2009年。
『懺 さよなら絶望先生』の放送と同じ年だ(『けいおん!』の方が3ヶ月だけ早い)。

 躊躇いなく『けいおん!』のファンを公言している人は、当時たくさんいた。
「アニメ趣味」に対する抵抗が、確実に少し(世間的にも、ファン当事者的にも)薄れていた。

それは「良いこと」でありながら、同時に……
「後ろめたさ」を抱えたアニメファンにとって、少し複雑な気持ちを与えたのではないだろうか。

そして時代にスマートフォンが登場し、SNSの波が世間を巻き込んで巨大化していく。
「アニメ」は世間を侵食する。

時は2016年。
世はまさに大アニメ時代!

……とは言わないが、2007年あたりと比べると、全く話が違うことは言うまでもないだろう。
「オタ臭の薄く」かつクオリティの高いアニメは、かなり広く話題になる。
『君の名は』の名を出すまでもないだろう。

なお、以前記事を書いた『あの花』が放送されたのは2011年だ。
当時、既に「アニメに対する抵抗」のようなものは、世間から相当排除されていたように思う。

mistclast.hatenablog.com

 

時を経て、アニメが世間に受容されるようになったこと。

それは同時に、僕らの後ろめたさが薄くなってきたことと、特権意識が持てなくなったことを意味している。

もはや、月に500円払えば延々とアニメを見られる時代だ。

anime.dmkt-sp.jp

そういう、時代なのだ。

コソコソ一人でアニメを観て、知り合いとアニメの話をする時代じゃないのだ。
リアルタイムでアニメを観て、twitterでワイワイ「みんなで」実況する時代なのだ。

「昔は良かった」。
そんなことを言うつもりは、まったくない。

ただ。
もう、アレ程のインパクトで……
人として軸がぶれている』のような曲が。
空想ルンバ』のような曲が。
林檎もぎれビーム!』のような曲が。
「アニメのオープニングとして」現れることは、未来永劫ないのだろうな、と思うだけだ。

そう思うと、「あの時代の奇跡」ですらあったように、思うのだ。

そして今。
僕は社会人になって、未だにちまちま、アニメを観ているけど。
まだ「それが愛のお仕事 マニュアル」だと受け入れて、「さあ行こうぜ」と飛び出すような元気はない。

人として軸がぶれている」まま、時代に取り残されてしまっているような気がする。

蔑称の意図も含まれていた「アニオタ」という言葉は、もはや死んだ。
同時に、そこに内包されていた甘美な後ろめたさと特権意識も、死んだ。

君(アニメ)は、僕をどこにも、連れて行ってくれないのだ。

僕はこれからもアニメを観るだろう。
やることもないからボーッと。
そんな僕の軸は、未だにブレ続けている。

今日はこの三曲を聴きながら、色々と考えて寝よう。


お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事で。

5年経ったからこそ語る、『あの花』という作品

ども、Mistirです。

Fire TV Stickを買い、プロジェクターに接続し、悠々と100インチのスクリーンに投影する。
そんな贅沢なライフを送ってます。

で。
最近ようやくNetFlixあの日見た花の名前を僕達はまだ知らないを観た。

 実は、僕が最も苦手なタイプの作品だ。
こういった「お涙ちょうだい」は非常に、なんというか、向いていない。

現に友人にも言われた。
「今更あの花観て心キレイになろうとしてもお前はもう無駄だぞ」と。
ほっとけ。

そんなあの花を今更観始めた理由の一つは、バイクでやたらと秩父(あの花の舞台)に行くようになったことだ。
秩父のダムを巡ってると凄く旅した気分になれるゾ。

で。
秩父、道の駅とかでもあの花のポスター貼ってるし、お酒売ってたりするのよ。

 
なんか……これは観ないといけないと、そういう気分になった。


ってことで、帰ってから観始めた。

すぐに結構な嫌悪感に襲われた。
正直、一話目はかなりの嫌悪感だった。

でもなんやかんやで最後まで観た。
最終話。

もうボロッボロですわ。
涙止まりませんわ。
最近涙もろいけど、そのレベルじゃないっすわ。

確信したんですよ。
これは、「これからの」物語だって。
このアニメは、既存の物語に対して、実のところかなり「アンチ」のスタンスだ。
それが分かってたら、このアニメはずっとずっと心に残り続ける。
すっごく丁寧に、「ある展開」を避けている。

ってことで。
初放送から5年。
今、改めて『あの花』について語ろう。
一応、ネタバレ注意です。

都合の良い展開とは?

まずは一話段階で僕が「うわぁ」ってなった理由を。

そもそも、一話段階ではいかにも「都合の良い作品」に見える。

  • 引きこもっているにも関わらず気にかけてくれる幼馴染(あなる)(妙にエロい)、それから父親
  • 死んだ美少女の「復活」


……なんというか、「これでもか」ってほど主人公に優しい世界に見えてしまう。

話はちょっとそれるけど、よく「最近のラノベは〜」という論旨で、以下のような批判を見かける。

  • 主人公が異世界に転生したりとかなんとかして
  • 最初から異様にステータスが高くて
  • 努力せずとも妙に女にモテて


で、それらを満たしてる「最近のラノベ」は

  • あたかも読者=オタクの願望を満たしているように見える


的なアレだ。

っていうかそもそも、そういう批判が出始めたのは概ね……
『僕は友だちが少ない』っていう、良くも悪くも記念碑的な作品が流行した時期、つまりあの花より少し前の時期に近い。

で、この「最近のラノベ批判」は間違ってる部分も多いと思うけど、
「読者が『現実よりも優しい世界』を創作に求め始めてる」っていう意味では、同意してもいい批判なんじゃないかと考えてる。

この話をするとどうしても社会批判じみてくるから、話を戻そうか。

その文脈で『あの花』一話を見るとすると、これがもう、やっぱり……
どう考えても。
「現実より相当に優しい世界」に見える。

社会人的に言えばそんな感じで引きこもれるのが心底羨ましい。
羨ましすぎて殺意が湧く。

しかもなんか、めんまが見えるようになったのを
「鬱屈と思春期の性欲が混じって現れた」
となんか妙に冷静な分析をしてるあたり、いかにもキモオタ感が溢れてて「うわあ」ってなる。

って感じで半信半疑な感じで一話は見ていた。
……それくらい偏屈な見方をしていてもなお「あのエンディング」はぐっと来てしまうくらいのパワーが有るのが凄い……

さて。
数話観て、認識が変わってくる。

あれ?
これ、いわゆる一般的な「蘇り系」だとすると、主人公がだんだんと立場を取り戻していく……って流れが自然のはずなのに……
そして、過去のトラウマが徐々に精算されていくはずなのに……

真逆じゃね?

いや、確かに主人公は「隠れ家」でぽっぽと会うことで少しずつ仲間との繋がりを取り戻していくわけなんだけど……

観てて確信に近づいていく。

あ、これ、何一つ……都合が良くない。
逆だ。
むしろ、全ての「都合の悪さ」がどんどんあぶり出されていく。

多分最初にこの物語に衝撃を受けるとしたら、確実にみんなここだと思うんだけど

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やっぱり、なんというかシリアスな笑いの極みみたいなシーンだ。

いや、笑うのは正しい。
現に僕も笑った。

だけど、最終話まで観るとやっぱり印象が変わってくる。

先に言ってしまうと、この作品は見事なまでに
「そこで、止まっている」
人しか出てこない。

前に進めない人しか出てこない。
もっとも分かりやすいのがこの人。

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この人はもう「これでもか」というくらい、「そこで、止まっている」

で、「蘇り系」の作品は基本的に「そこからどう進むか」こそがテーマだったりする。
「そこで、止まっている」時間を、過去の象徴が現れて、動かし始める。

それが王道なんだけど……なんだけど。

この作品は……なんというか。
「そうさせない」という、強い意志を感じるのだ。
その意志に気付いた瞬間、僕はこの作品が大好きになってしまった。
さあ、語ろう。

救われない人々

この作品は、「そこで、止まっている」。
そして、「救われない」

ゆきあつはもう露骨of露骨だし、主人公はどう考えても(第三者目線で言えば)あなるとくっつけばいいのに、全然その気配がない。というか、そうなってはいけないという物語の意志を感じる。
あなるの心情を察するともうきっついきっつい
これは本当にきっつい。
少なくともめんまを視認できないあなるからすると、主人公はまさしく「そこで、止まってる」し。
ゆきあつはもう語るまでもない。

さりげなく、物凄く作品として技巧的なのがぽっぽという存在。
確かに最後に明かされるトラウマっていうのは後付感が否めないんだけど、その代わり「世界を回ったとしても、この場所に戻ってきてしまう」=「場所に囚われている」っていう設定が、他の人たちとは違う形で「時に囚われて前に進めない」ってことを表現してるわけで。
作品としてのバランスにだいぶ貢献してる。

実はつるこが一番わかりにくい。
さりげなくこの作品の中で最難度のキャラだと思う。いやマジで。
あまりにややこしいので、ニコニコ大百科を軽く読んでくれ。

dic.nicovideo.jp

つるこだけで記事一つ分になっちゃうから、本題に戻ろう。

さて、話も進みに進んで、いよいよ僕は10話まで見ました。

……救われてねぇ。誰も救われてねぇ。

過去を振り切るためだけに、苦しみながら「蘇った愛しい存在」を(各々が各々違う理由で)成仏させようとする作品などかつてあっただろうか?

冷静に考えると、気持ち悪くならないですか?

必死だ。
みんな、必死だ。
どれだけ苦しむんだ、お前ら。

何話だったか忘れたけど、あなるを口説くゆきあつなんか、もう凄いよね。
「救われないことが分かっているが故の、共依存的妥協」
吐きそう。

そう。
誰一人、救われないんです。
誰一人。
「誰かが救われるという展開」を、くどいほど避けてるんです。

見ようによっては、めんまのオカンは弟君のおかげで少し前に進めたようには見えるけど……吹っ切れた、とは確実に違うしなぁ。

じゃあなんだ?
この作品のテーマはなんだ?

……それがこれ以上ないほど分かりやすく表現されたのが、最終話だった。

あの最終話の意味

実はあの最終話のラストの「かくれんぼのくだり」は、あくまでも物語としての「シメ」に過ぎなくて、作品としての真骨頂は「懺悔大会」にあると思っている。
いやさ、かくれんぼのくだりも泣けるんだけど、力技で泣かされてる感あるのよ。泣けるんだけど。

もうお分かりだろう。
救われない彼らに許されたのは何か?
「懺悔」だ。

もうこれが全て。
それによって、何かが具体的に解決するわけじゃない。

でも、「懺悔」によって与えられるものがある。
それは何か?

「許し」だ。
誰が誰を許す、というわけじゃない。
彼らは懺悔したことで、自分で自分を許すための糸口を掴んだに過ぎない。
でも、「許される前と後」では、何もかも違う。

背負ったものは、下ろせない。
だけど、「背負ったまま生きていくことはできる」。

この作品のタイトルとは何だったか。
あの日見た花の名前を僕達はまだ知らないだ。

本当に、秀逸なタイトルだ。
まだ知らない」のだ。
知らないままで、生きていくのだ。
いつか、知るために。

まあ言葉にすると簡単だけど、「救い」と「許し」の差は、結構難しい。
だから比較的ふわっと「『あの花』という作品の中では『何も問題は解決していない』っていう事実だけ分かってれば十分だと思う。

問題の解決はしない。
だけど、懺悔を経た彼らなら、過去を受け入れることができる。
この点で、何かしらの「救い」が与えられる作品群とは一線を画している、というのが僕の考え方だ。

これからの作品

「安易な救い」というと語弊があるけど、もう作品で「救い」を書くのって物凄く難しいんじゃないかな
分かりやすいトコロで言えば、『シン・ゴジラ』がどうやって「最後の解決に向かったか」っていうのを考えてみるといい(観てない人はごめん)。

少なくとも、「アメリカ映画的な分かりやすい救い」はなかったはずだ。
そういったものに対して「時代が懐疑的になってる」

何故か?
簡単な話だ。

「時代が救いを与えてくれないから」だ。
あらゆる「救い」に見捨てられて、僕らは今を生きている。

絶望的だけど、2000年代以前の作品よりも、「手軽な救い」は描かれにくくなってるんじゃないかな、実際問題。
一方で……
「優しい作品は、もうとことんこれでもかってほど優しく、最初から救われきっている」
そして、そういった作品群はそういった作品群で、また別の価値を有し始めている。
上の青字を体現しまくってるのがこの作品だろう。 

救いの必要性が、どこにも、微塵もない。
ありとあらゆる苦難が、ありとあらゆるトラウマが作品から締め出されていて、いっそ美学さえ感じる。


一方。
安易な救い難しくなったこれからの作品群の中で「懺悔」を最終話の主軸に据えた『あの花』の価値は、理解さえされるならば、今後ますます上がっていくんじゃないか、っていうのが僕の仮説だ。

ってことで、このアニメを観て感じたことを長々と書きました。
結構偏った考え方だと思うので、話のネタにでも使って頂けると幸いです。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事で。

成宮寛貴に対するグレート・サスケの発言が、ちょっと(相当)危険だ

こんにちは、Mistirです。

ウチにはテレビがないので、芸能ニュースには関心が薄いのですが……
「ちょっとこりゃマズイな」と思うニュースがあった。

グレート・サスケが「息子が過去に成宮寛貴に襲われた」と明かしたそうなのだ。

でも、これは明らかに変だ。
この「暴露」に対して、僕は黙っていられなかった。
「黙ってたら、いけない」。なんとも曖昧な言い方だけど、そうとしか言えない。

だから少しだけ、僕の記事を、読んで欲しい。
短い記事だから。


事の発端

成宮寛貴の疑惑〜芸能界引退までは、説明するまでもないだろう。
ネットで調べてくれ。

matome.naver.jp

この件は「ややこしすぎる」。
芸能人が薬物疑惑をかけられること、それとセクシャリティの問題は全く別の話……のはずなんだけど、ごちゃごちゃしすぎて「何がこの件の本質なのか」がどうも見えにくくなってる。
だから僕個人の意見を言えば、

・フライデーは人一人を犯罪者呼ばわりしたんだから、最後までそれなりの責任は取ってくれよ?
・成宮がクロなのかシロなのかは分からないけど、それにしても「薬物疑惑」から「セクシャリティを晒される」って滅茶苦茶だよなぁ。同情する。
・とはいえ、芸能活動やってる以上、薬物の件がなくても「セクシャリティ」が暴露される可能性があったんだから、ここで引くのは悪手だとは思うんだけどなぁ。

この程度に留めときます。

それよりも。
グレート・サスケだ。

明らかに変だ。
ここから、この記事は本題です。

グレート・サスケの発言

www.nikkansports.com

この意味深な発言が世を賑わしたのが12月11日。
2日後、その具体的な意味が語られることになった。

zasshi.news.yahoo.co.jp

これは、放っておいてはいけない。
同性愛に対する深い問題が含まれている気がする。
直感的に、そう思った。

「事実か否か」は問題じゃない。
いや、問題なんだけどさ。問題なんだけど……できるだけ、多角的に語ってみよう。

まず、最初のブログにあったこの発言。

引退する成宮さんへ その幕の引き方じゃぁ我々家族は逆に許しませんよ。10年程前に愚息があなたから受けたハラスメントが真実だったって認める事になっちゃうじゃないですか?

まず、この時点で論理的ではない。
友人に裏切られ、薬物疑惑と同性愛疑惑(もうはっきりとこう言ってしまうけど)を同時に世間に晒され、引退する。
そのことと、「ハラスメントが事実である」の繋がりが全く見えてこないのだ。

もちろん、「シナリオとしては」はっきりと、分かる。
仮にグレート・サスケが言っていることが全て事実だと仮定して……

・息子から相談を受けていた
・当時は信じられなかった
・が、「同性愛者である」という報道を見て、「急に腑に落ちた」。

そりゃまあ、人間の感情としては「全然不思議じゃない」。
でも、「わかる」とは決して言えないし、言ってはいけない。……この僕の葛藤、伝わっているだろうか。

言い換えてみよう。
これが「同性愛」ではなく、「異性愛」だったらどうだろう。

例えば、僕が超イケメンのアイドルだったとする。
だったとする。
そう、僕はアイドル。
そういうことでお願いします。

で。
僕が元彼女にハメられて、色々な性癖をカミングアウトされたとする。
「Mistirはよく赤ちゃんプレイを求めてきた」とかなんとか。
おっぱいが大好きだったとか。なんとか。
おっぱい!

で、僕は超ショック受けて、芸能界を引退する。

そうすると、「元議員の元プロレスラーが」言ってきた。

10年程前に娘があなたから受けたハラスメントが真実だったって認める事になっちゃうじゃないですか?

これは誰がどう考えても、変だと分かるだろう。

ここまでを踏まえて、まとめると、こういうことだ。
グレート・サスケは。
「同性愛疑惑を認めること、それは性的嫌がらせをしてたことを認めること」
と語っているのだ。
これは物凄くマズイ思想だ。

でも、本人は気付いていないのだ。
「同性愛者は〜」という前置きが、認識を鈍らせている。
いわゆる色眼鏡。

これはダメだ。
そりゃ、(真実であると仮定して)色々グレート・サスケの気持ちを察すること、汲み取ることはできる。
だけど、一度でも議員を経験した人間が、「色眼鏡越しに」そんなナイーブなことを語って、しかも文春にそんな文章を売り渡すなんてダメでしょう。

僕が言いたかったこと

「警鐘を鳴らしたい」なんて言うとオーバーだけど、この件は冷静に語られなきゃならない。
「息子を当時信じなかった」グレート・サスケのことを悪く言うつもりはない。だけど、それでも感情に任せて語っちゃダメなものがある。

一度冷静になろう。
問題は、分けられなければいけない。

サスケさん、頼みますよ。
ってことで「警告」は終わりです。


お読み頂きありがとうございます。
ではまた次の記事で。

炎上した「うな子」のCMを冷静に分析する気にならない

ども、Mistirです。

なんか……また、どこかのCMが話題になったようですね。

www.huffingtonpost.jp

通称、「うな子」
一応公式ページは削除されたらしいので……ここで別の方がアップロードされたものを貼るのはやめておきます。

で。…
このCMが話題になった結果、私の過去の記事を読んでくださってる方が増えてるようなんです。

mistclast.hatenablog.com

 びっくりしちゃいました。

ってことで久々にCM分析でもやってみるか、ってことで、ブレンディ並みの「素晴らしきアカンCM」が観られるかと思い、件の「うな子」を観てみました。

……

なんだこれは。

……しょぼいぞ……

はい。
作品として、単純にしょぼいです。

いや、そりゃインパクトはありますよ?
エロスはありますし。

でも……なんか、スッカスカだ。

先にこれが性差別かどうかっていう話をすると……別に議論するまでもない気がする。
スク水の女の子が、「食べられるために」「養ってと身を差し出して」「ぬらぬら濡れてる」んですよ。
……いや、ぬらぬら濡れてる要素はどうでもいいか。

まぁ性差別云々は語られてるから、全体の構成に関して少し語ると……
ですよね。

まず、なんで女の子が自分から養ってって言うの?
まずその時点で意味がわからない。
ブレンディのCM場合、飼われている「生徒たち」は世界の仕組みに疑いを持ってないんですよ。
その世界観はディストピア小説の王道を観ているようで、物語的だった。

一方……「うな子」は……よく分からない。世界観もクソもない。
物語的というか詩的なフィーリングで作っているのだろう……と好意的に解釈するには、ちょっとどころじゃなく下品だよなぁ……

でさぁ。
ラスト、「さよなら」って言いながら出て行くわけだけど……
なんでそこだけ変に現実を避けてんだ?
人間が売るから面白いのに。徹底的に炎上マーケティング狙うならいっその事最後、首に「3,000円」とかって値札つけて、黒いタレでもかけられて火あぶりにされてたら面白かったのに

……市役所が焼け焦げそうだけど……

なんかあまりにも「人に食われるものを育ててる」っていう現実をガン無視した展開に、一瞬「え?うなぎって栽培漁業だったっけ!?」って思っちゃいましたよマジで。

栽培漁業(さいばいぎょぎょう)と養殖漁業(ようしょくぎょぎょう)の違(ちが)いについておしえてほしい。:農林水産省


……まぁ、映像はなんというか……耽美、と見えなくもない……んですよね。
でもやっぱりさっき言ったように、耽美狙いとすると下品なんですよね明らかに。

逆に言えば下品なのに耽美、とも……言えなくもないかぁ。

さて。
歯切れ悪く語りましたが、この記事は……
うな子」が作品として「ブレンディ」と並べられるようなものではない
ということが言いたかっただけです。
テーマは確かに似てるといえば似てますけど……
極論、「うな子」は……



スク水の女の子が『養って』って言って住み着いてくる。なんかぬるぬるしてる。ある日『さよなら』って言って出ていった。うなぎであった。嗚呼、うなぎであった。完」

……これで終わりなんですもん。

だから、ブレンディと同列に扱われるとブレンディが可哀想というか……

ああ、語っても不毛だ……
悲しくなってきた。

シン・ゴジラでも観よう。

mistclast.hatenablog.com

 

おまけ。

AGF ブレンディ ミルクひろがる挽きたてカフェオレ 500ml×24本

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 「濃い牛乳を出し続けるんだよ☆」

ではまた次の記事で。
お読み頂き、ありがとうございました。

日本一残念なボールペン「ジェットストリーム・プライム」の中身を最大限に活かす方法

ども、Mistirです。

さて、以前三菱鉛筆の「ジェットストリーム・プライム」をボロボロに批判する記事を書きました。
 

mistclast.hatenablog.com

 
実は、この記事は当ブログの中では結構長いこと読まれています。
残念に思う人が多いんですかね。
それとも、「ジェットストリーム プライム」で検索するとかなり上の方に来るからか……

それはそうとして。

一向に三菱鉛筆さんが「カッコいい」外装を出すことが無さそうなので……

そろそろ、断言しましょう。

ジェットストリームの芯を最大限に活かす、最高のボールペンについて……

それは、このボールペンであると。

ヘルベチカ ヘルベチカ多機能ペン4in1 赤

ヘルベチカ ヘルベチカ多機能ペン4in1 赤

 

 

由緒正しき日本の文具メーカー、伊東屋のヘルベチカ、多機能ボールペンです。

私は白を使っています。

黒もあります。

ヘルベチカ ヘルベチカ多機能ペン4in1 黒

ヘルベチカ ヘルベチカ多機能ペン4in1 黒

 

 

最初はキレイな外装に入ってます。

 

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で。
モレスキンと組み合わせてみると……

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結構色気あるでしょ?
このミニマル感のあるモノトーンデザイン……(うっとり)
真鍮製の重々しさ……(うっとり)

書き心地は、そのまんま。
ジェットストリームです。
ジェットストリームに差し替えて使うのですから、当然ですが……。

最初に入ってた芯?
……まぁ、ごく普通の油性だったような……忘れました。
 
さて。
このボールペン、いわゆる振り子式で、使いたい色を上に向けてノックすると、その色が出てくるタイプです。
このシステムには好みがあるとおもいますが、やっぱカッコいいですよね。


……何より……
このシステムを採用しているおかげなのか……
超細い!!

この細さで三色+シャープペンは衝撃的です。
……まぁ、私はシャープペンをめったに使わないのですが……

そして、実売価格4000円強。
これはライバル製品であるLamy の4色ボールペンよりも安い価格です。

安さだけで言えば……
これ。

ステッドラーアバンギャルド
これも良いボールペンなんですよ。

……クリップを、除けば。

なんですかこのクリップ。
クッソ硬い。
だからって強引に広げようとすると……
取れる。

くっついてるだけじゃねーか!飾りか!
……

手帳などにクリップで挟む人にとっては、致命的です。
なので、このボールペンを買うのであればヘルベチカでいいと思います。
細くてカッコいいし。


スタイリッシュでもあり、機能的であり、シンプルでもあり、ゴージャスでもある。
ってことで。
私にとってのジェットストリームの最強外装はこれだ!ってお話でした。

さあ、次は貴様だエナージェル。

最強のゲルインキボールペンはエナージェルだと思ってます。
君の見た目がゴージャスになる日を、僕は首を長くして待ちながら……同時に色々検討してみます……フフフ。
文具は改造するもの。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事で。

【追記】
ってことで、頑張ってゲルインキでこのボールペンを使いたいってことで探してみました。

 

はい、これで楽しくゲルインキでこのペンを使ってます。
めでたしめでたし☆
もちろん赤と青もあるよ。

 

ハイテックC04金属レフィル レッド LHRF20C4R
 

 

ハイテックC04金属レフィル ブルー LHRF20C4L
 

やったぜ。
……速乾性の高いエナージェルの4c互換替芯も、できたら早く発売してくれないかな……

映画『シン・ゴジラ』を観て号泣したから熱く分析する

ども、Mistirです。

映画『シン・ゴジラ』を観てきました。

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はい。

泣きました。
号泣です。
ボロッボロ泣きました。

「あー、この映画みて泣いてる人多分他にいないんだろうな……」
恥ずかしく思いながら周りを見ると……やっぱり、泣いてる人はあまりいませんでした。

何故泣いたのか?
それは、この映画があまりにも明確に、一つの結論に向かって……まっすぐに突き進んでいたためです。
極上のエンタメでもありながら、同時にあまりにも強い「思想」が示されていた。
全てのパーツが、全てのシーンが、一つの結論を描いていた。
映画のギミックも、事前の印象も、「利用できるものは全て利用し尽くして」
その「思想」がはっきりと理解できた時……僕は泣くしかなかったのです。

これは語らねばならない。
……ってことで、語ることにしました。
しばし、お付き合いください。

【注意!】以下、多数のネタバレが含まれます。
必ず観終わってからお読みください!

 


































 

 

 

 

 

【本編開始】

 

1.プロセスと「個」-The Process and Pieces-

※ここから語るのはあくまでも「分析」であり、考察ではありません。
「牧教授とは一体何者だったのか?」といったような本編ではグレーの要素に関して語るつもりはございませんので、ご了承ください。


さて。みなさん。
シン・ゴジラ、いかがでしたか?

事前情報だと某超B級映画バトルシップ辺りとよく比較されていて、「B級チックなんだろうな」と思っていました。

バトルシップ [Blu-ray]

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 事実それは遠くなくて、ラストバトルなんかは明らかに「超B級」要素が含まれていて、笑うしかないシーンなどもあります。


でもそれも含めて、やっぱり「計算づく」であって、映画そのもののパーツとしか思えないんですよ。
最終的に全てがつながってくる。
順に語っていきましょう。


僕は庵野的な描き方に詳しいわけではないのですが、映画冒頭からやっぱり何か露骨に癖のある現実の描写が繰り広げられていることがわかります。

ひとことで言って、ねちっこい。
ねちっこくて、矢継ぎ早。

「いや、そんなところテロップいらんでしょ!」ってところでもなんか妙にカッコいいテロップが表示され、説明される。
速すぎて読めねえよ!

矢継ぎ早にシーンも展開も切り替わりますが、同時に「人」も切り替わります。
たくさんの人物が登場しますが、……ぶっちゃけ、たくさん出過ぎて覚えられませんよね。
かろうじて主役(っぽい人)が誰か理解できるくらいです。
「あ、この人ヒーローっぽいこと言ってる!」

※以下、登場人物の画像はこのサイトより引用いたします

cinema.ne.jp


主人公、矢口。

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彼は理想に燃えるいわゆる「ヒーロー」の役割として描かれます。
そのおかげで、なんとなく政府上層部のグダグダ感、意思決定の遅さが……とっても悪い印象で僕らに伝わってくるんですよね。

矢口がいくら「正論」を言っても聞き入れない「上層部たち」。
これがこの国のやり方なわけです。

……が。

それって別に不自然なことじゃないんですよね。
っていうか、現実的に「巨大生物の可能性が」なんて、信じる役人がいたらその方がびっくりです。

この段階では「個々に行われる」会議の「グダグダ感」が妙に「リアルに」繰り返される。
ヒーローは異物です。
ここでは観客はニヤニヤしながらイライラするしかないわけですね。

ホンットに露骨でわかりやすいのが、初期形態のとてもキモいゴジラに発砲しようとするシーン。

「射撃許可」を求めるプロセスの、アホらしいほどの多重の面倒くささ。
こんなに射撃許可の多重性(テンポの悪さ)をしっかり、ねちっこく、めんどくさく、そして同時に……テンポよく描いた映画がかつてあったでしょうか?
もはや音楽的でさえあります。


このシーンは、ギャグでもあり、リアルでもある。
そりゃあ、実際に民間人がいて、市民がいたら……射撃許可は「あんな感じ」にはなっちゃうでしょうね……と。
なんとなく、そう納得させる「リアリティ」がある(実際に総理大臣がその許可を与えるのかはわかりませんが)。

もしかすると、あそこで射撃してたら……あの「キモい形態ゴジラ」には効いていた可能性がある。
……と。
この流れで考えてみても面白いのですが、あのシーンは
「意思決定一つにも恐ろしいほどの多数の『個別な』要素が絡んでいる」ということだけ覚えておけば良いと思います。

薄々気づかれていると思いますが、僕がこの映画で語りたいのは
「個」について
です。

ここで首をかしげられた方もいるかもしれません。
この映画は……どっちかというと、「集団の映画」というイメージが強い。
でも、その裏側にあるのは「個」なんです。

とりあえず、意志決定のグダグダから既に、物語の「最後のメッセージ」まで繋がっているんですよ。
後でじっくり語るので、覚えておいて下さい。

さて。
グダグダを繰り返しながら、「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」が発足されるところまで話は進みます。

ここで僕はグッときちゃった。
「うわあああああすっげえスムーズに切り替わった!」
……そう。巨災対が発足されると、映画は「政治劇主体」からごくごく違和感なく「ヒーローたちの活躍」へと切り替わります。

イライラの政治劇から、エンタメへ。


「テメーらどうせ出世無理だから自由にやれキモオタども!!!!(どんなセリフだったか正確に覚えてなくてすみません……)」的なセリフで一気に切り替わるわけですね。

まあ、ここで「エンタメ」へ流れてはいきますが、それでも政治劇が終わるわけではなく……むしろ悪化していくのですけれどね。
でも、この時点で僕は「ここからはヒーローたちの映画と政治劇がシームレスに繰り広げられていくんだ!」と解釈したので、その後の細かいアラが気にならなくなりました。

例えば……

f:id:Mistclast:20160821163643j:plain

クオーターで超有能なカヨコさん。
……というかもう「石原さとみ」さん。

彼女の英語とか。
彼女が所属しているのがほぼほぼ100%「エンタメ」側の世界であると考えると、違和感はなくなります。

とまぁ、ここからはエンタメと政治劇が並行して進みます。
そして……

ふたつ目の戦いが、幕を開けるのです。

さて、この章では「積み重ねられていく『個』について」語りました。
矢継ぎ早なシーン、テロップによって、意思決定一つにも馬鹿みたいな数の『個』が積み重ねられている」ということがリアルに描かれている。
それだけ覚えていてくだされば問題ありません。

では次の章。
この映画が「何と戦っていたのか」という問題です。

2.第二の戦争 - The Second War -

……さて。
映画中盤から、戦いは「ゴジラとの戦い」だけではなくなることに気付いていましたでしょうか。

イムリミットとの戦い。
イムリミットを迎えると、どうなるか?

そう。
国連によって、核が落とされます。

全てを無に返す、圧倒的な「暴力」。
「一個の力」。
ゴジラとの戦いと並行して、この「力」との戦いが描かれているわけです。
ここからは、ゴジラとの戦いと並行した「第二の戦争」が始まっています……

……と、色々語ろうとしましたけど、やっぱりこの「第二の戦争」に関してはラストバトルに全ての文脈が含まれています。
その中で語ったほうが良い気がしました。

ってことでさっさと次章に進みましょう。

3.決戦 -The Last Battle-

最終決戦。
爆笑シーン、「無人在来線爆弾(流用)」も登場します。
インパクトが半端ない。

dic.pixiv.net

こんなん笑います。

B級映画ファンどもが僕に散々シン・ゴジラを勧めてきた理由の9割はこのシーンです。
……多分。

このシーンは初代ゴジラのオマージュとか色んな意味があるらしいですが……
僕は、少し違うものとして見ています。
っていうか、その解釈だとこの爆笑シーンが泣けてしまうのです。

後で語りましょう。

さて。
この「ラストバトル」。
気付きましたか?

全てが「個」によって形成されている……
まるで、アリの大群が牛を倒すかのように。
使えるものを、全て使って。
全て壊して。


このラストバトル、「ヤシオリ作戦」の流れは以下の通りです。

  1. 無人新幹線線爆弾で足止め
  2. 無人飛行機で消耗させる
  3. ビルで足止め
  4. 第一次注入
  5. 無人在来線爆弾(パワーワード)で足止め
  6. 第二次注入

最終的な目的、「凝固剤の注入」は、身も蓋もない言い方をすれば

・たくさんのストローをゴジラの口に突っ込んで薬を飲ませる

……それだけの、恐ろしいくらいに……「地味な」話です。
ちなみに、もしも核兵器が使われていたら?

  1. 核兵器爆発

……おしまい☆
一撃で終了でしょう。
東京ごと。

……さて。
何故わざわざ、この映画では決着方法がこんなに「地味」で無ければならなかったのでしょうか?
「経口投与」って聞いたら、ミサイルとかに薬を載せて口を狙う……とか、そういうのを想像しますよね?

でも、恐ろしく「地味」な絵面を選んだ。
プロセスはド派手ですが……結末は、ここまで「地味」。

考えてみてください。
核兵器は、国連という、世界という「集団」から生じる圧倒的な「個」の暴力です。
※ここでいう「核兵器」は劇中での「核兵器」です。

一方、ヤシオリ作戦では……徹底的までに「個」が反復されているんですよ。

新幹線が。
無人飛行機が。
ビルが。
山手線の電車が。
そして、自衛隊員たちが。

アリの群れのように、ゴジラに戦いを挑んでいる……。

ここまで映画を見ていた人たちならば、分かるようになっています。
この映画、序盤で「無能っぽい」と見せかけていた人たちも全て一人ひとりが「個」として、働いているんですよ。

例えば、総理代理。

f:id:Mistclast:20160821170943j:plain


もう誰がどう見ても無能キャラで、何故か伸びたラーメン食べてますが(エヴァネタ?)、外交上大きな役割を担います。

途中で死んじゃう総理も、国民のことを本気で考えた結果、全ての行動が成り立っていたことが分かります。

一部の『シン・ゴジラ』批評で、この映画が「カリスマ(≒矢口)によって救われる、一人の指導者を求める映画だ」と批判されていましたが……

私の意見は、全くの真逆です。

その象徴が、このセリフ。

「次のリーダーがすぐに決まるのが強みだな」

このセリフは皮肉っぽく使われていますが、以下のセリフと組み合わせると、印象が変わる。

「礼は要りません。仕事ですから」

f:id:Mistclast:20160821171403j:plain

 一人ひとりの恐ろしく心強い「個」が、それでも……あくまでも……「集団」で、「仕事として」動く。

この考え方は極めて「日本的」であり、批判されやすい考え方でもあります。
でも、この映画ではそれを心底「理解した」上で、再構築したようにしか思えないのです。


国連軍が使いたくて仕方のない「核」は、
「集団(≒国際社会、国連)から生じた圧倒的な『一個の』暴力」です。

……「ヤシオリ作戦」で描かれているものは、真逆ではないでしょうか。
使える知力を、力を、全て使い果たして……アリのような「個」が、巨大な「力」に戦いを挑んでいる。

これは、個人主義でも集団の過剰な重視とも、また違う「第三の考え方」とも言えます。

一人ひとりが最強の「個」が、名前のついた「個」が、それでもあえて「集団として」……一人ひとりの「存在」を薄めながら……動いている。

さあ、ここからこの「分析」の結末です。

思い出してみてください。

パラパラと「流されていく」シーンが。
観客の頭からも忘れ去られる人の名前が。
地名が。
無用な会議が。
犠牲者が。
その全てが。

数本のストローへと、結実する。

知力・自衛隊員の命・人々の思い、あらゆる……「プロセス」を結実した、「ストロー」へと、思いを繋ぐ……。

本当に、「全てを」使いきっています。
高層ビルでさえ、新幹線でさえ利用する。
核という一個の「暴力」を拒絶し、使えるものは全て……全てを使い尽くす。

途中、ゴジラが活動を再開し、第一次注入隊が全滅する。

それでもなお、作戦は終わらない。

ここまでを踏まえて、伝説の爆笑名シーン、「無人在来線爆弾(流用)」を思い出してみてください。

ゴジラに比べると小さな……それでも数多の電車が、巨大なゴジラの身体をアリのように這い上がり、そして倒す。

そして……それだけ焼け野原じみた消耗を繰り返しても……それでも、人は「負けない」。
第一次注入隊の犠牲を払いながら、第二次注入隊の決死の作戦続行。

その結果が、誰一人喜ばない、勝利。
ハリウッド映画なら「FOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!」ってなっているシーン。

そんなシーンで聞こえるのは、全てを噛み締めるような、安堵の溜息……。

勝利のために、使い尽くした。
全ての資源を、使えるものを。
何もかも、使い尽くした。
これは勝利だったのか?何だったんだ?

誰もここに、ホントウの喜びはない。
なんかゴジラも立ってる。

でも。
喜びはないけれど。
それでも……!

ここで、物語を「理想の側面(≒矢口サイド、エンタメサイド)」と「現実の側面(政治サイド)」を「政治サイド」から接続する、独特な立ち位置で見つめていた「ある人物」が結論付けるのです。

f:id:Mistclast:20160821172956j:plain

「この国はスクラップ&ビルドでのし上がってきた。今度もやり直せるさ」


これ聞いて、もう僕は涙が止まらなくなりました。

集団の偏重だとかなんだとか、色々批判される余地はあるでしょう。
それでも……この、ともすれば「無様で非効率な日本的やり方」が、ダメな部分を受け入れられながら……最後には新たなる形として結実されている。


地味でも。

使えるものを全て使って、無様に戦って、全てを使い尽くしても。
無様に負けたように見えても。
焼け野原になっても。


それでも、何度でもやり直せるさーー


なんという、地味でダサいメッセージだろう。
でも、それがあまりにも心に響いた。
何故なら、そのメッセージに、この映画が積み上げてきた全てが繋がっているのだから。

まとめます。

4.終わりに

僕は正直なところ、庵野にもゴジラにも思い入れはありません。
だからこそフラットに観た結果……「庵野的要素」や「ゴジラ的要素」を無視して分析していますので、一周回って深読みし過ぎの点もあるかもしれません。


まぁそれでも……やっぱり、無駄な程にねちっこく繰り返される「個々の『名付けられた(=テロップで示される)』」、シーン、人、場所、兵器、その全てが……

「無名」ではない、と。
そう語られているように思えてならないのです。

最強の集団は、最強の個で成立する。
集団に、名は必要ない。
それでも、名はある。

……といった、とにかく絶妙な集団と個の関係性が……個人主義」「集団主義」というような二元論に陥らず、描かれているように思えます。

この映画は日本を褒め称えるだけの映画?
いやいや、この映画は極めて丁寧にイデオロギーを排除していました。
原発問題なんかもほとんど絡めていない。
日本のやり方が必ずしも正しかったか?そういうことも言っていない。
改めて言えば、序盤の「発砲許可シーン」がなく、発砲していたならば犠牲者は半分以下になっていたかもしれません。

ただただ、主人公の理想が、「日本的なやり方」が、最後に至る場所……

何度でも、やり直せる。

この映画は、それを示しただけというのが僕の結論です。

僕はその結論に、何か熱いものが堪えきれず、涙した。

それだけで……十分なのです。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事で。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ