Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

2019年:落合陽一の見る世界、そしてDWUの茶番、あるいは共同幻想の再構築

こんにちは、Mistirです。
あけおめ!

前回、そこはかとない最終回感を出してしまいましたが

mistclast.hatenablog.com

だんだん書きたくなってきたので書くことにしました。

タイトルは堅苦しいけど、堅苦しいことを言うつもりは全く無いのでキャラメルフラペチーノでも用意してテキトーにお読みください。

とは言いつつ、参照記事も全部参照してると30分くらいかかるので、是非お時間をとってお読みください。お願いしますマジで。

……。

発端は、こんな記事を読んだことだった。

ken-horimoto.com

ちょっと時間はかかるけど、滅茶苦茶面白いので是非お読み頂きたい。
というかこの記事をお読み頂かないとこの先に語ることが無意味になるので本当にお願いします。

要約してくれ、って言われてもこの内容を要約するのは無理だ……

……。


お読み頂けました?

この記事に対して、茂木健一郎氏が「理数系の素養がある人は日頃もっと難しい議論をしてるから理解できる」的なことを発言している。

lineblog.me

……まぁそれも一理あるかもしれないが……

はっきり言って、WEEKLY OCHIAIで語られていることに関しては最初のブログが指摘するように「意味不明なコントになっている」っていうのは正しいと思う。
落合陽一さん(以下敬称略)、多分連想した片っ端から発言してる。発言してその中で考えて、また発言してる。一種の自由連想法的発話。
天才型の人間は結構こういう話し方をして常人を置いていく場合がある。

で、僕も同じ
†天才型†
なので、理解できるわけである。
という冗談はさておき、実は落合陽一の指摘する話は「何言ってるのこの人?」で流すべき話でもなく、ベラボーに面白い話なのだ。
落合陽一の議論を分かるか否か、っていうのは「似たようなことを考えているか否か」に過ぎないと思う。たまたま僕は似たようなことを考えていたってだけだ。ただ、アプローチは明確に違う。

実際のところ、落合陽一がここで語ろうとしているのは思いっきり社会学とか人文学系列の議論だ。人文学軽視のこの時代に、落合陽一の議論はかなり重大なものだと僕は考えている。

……だからこそ、「理数系の素養云々」で臆面もなく「吸収」するのは、なんていうか……人文学を学んだ人間として、ちょっと遺憾の意である。
……といったような、ちょっとした怒りを込めた記事だと思ってください。

キーワードは「茶番」、そして「共同幻想」。
少し長くなりそうですが、是非ともお付き合いください。

 

この世界を生きること、そして「茶番」

唐突にも程があるが、こちらの動画をご覧頂きたい。


DWU VS 発達障害者作家借金玉【#023】


落合陽一の議論を解説するためにVTuberの動画を引用するのは僕くらいかもしれないが、冗談抜きに非常に重要な動画なんです。

解説すると、最近全然ディープなネタを取り扱わなくなった自称「深層webのお嬢様」であるDWU(ディープウェブアンダーグラウンド)と、下記書籍の著者である借金玉氏の対談だ。

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

 

こちらの本は僕も読んだのだけれど、かなり面白い。

DWUに関して言えば、動画は割と面白く見ているのだけれど、たまに余りにも世間や世界に対する感度……冒頭の動画の場合、発達障害に対する「感度」のようなものが浅すぎて……ちょっと勘弁してくれよと思うことがある。
特に引用した動画はひどくて、コメント欄でもかなり多方向から指摘されている通りだ。が、それも含めて最近「ディープウェブどころか浅瀬の存在」と愛されている(??)かなり不思議な存在でもある。

で、明確に議論の食い違いが起こっているのは「茶番」という言葉の食い違いだ。

これは動画を観て頂ければ分かるのだけれど、本当に……明確に……途方もなく……食い違っている。
面白いくらい食い違っているのに、そこにほとんど突っ込まないという地獄のような対談が発生している。

はっきり言って対談としては失敗パターンと言っていいようなモノなのだが、DWUのキャラクター性を考えると一概にそうは言えないので複雑なところである。
さしずめ「怪文書」の映像版、「怪奇映像」と言ったところか……
……言い過ぎか。

おそらくDWUの認識する「茶番」は割と一般的な文脈での「茶番」……つまり、ほぼ悪口に近い意味で認識していると思う。
「無意味(悪口)」「無駄(悪口)」と同じような意味で認識しているのだろう。

一方、借金玉氏のいう「茶番」は大幅に広い意味で、マイナスのニュアンスもプラスのニュアンスもどちらも包括している。

「社会を営む上での儀式・儀礼的なもの全般」を茶番と捉えているフシがある。
僕個人が思いついた限りだと、

  • エンターテイメント全般
  • 会社での年功序列、体育会系のふるまい
  • 就職活動
  • マナー
  • 「死にたい」という言葉
  • 「死にたい」という言葉を発した人を慰めること

……などなど。
借金玉氏のブログにもヒントがある。

menhera.jp

無限に存在する「儀式的なもの」「儀礼的なもの」全てを包括した概念として「茶番」という言葉を使っていると僕は認識している。
それでもイメージがつきにくい方は、先程の動画のコメント欄を見て頂きたい。

借金玉氏が指摘する「茶番」は、氏が「大事にしましょう」と言うように、
「とりあえず守っていれば生きやすい」
ものでもあり、……同時に、一部の人間には「極めて鬱陶しい」ものでもある。
例えば「上司の判子の隣に判子を押すときはおじぎの角度にしましょう」みたいなのは、一般的な意味でも「茶番」だし、「守っていれば生きやすい」の領分を超えている。
そのレベルであれば色んな人が「おかしい」と思うが、さらに敏感な感度の人がいる。
例えば、「会社の会議、9割くらい無駄じゃね?」とか思い始めたら多分、僕だったり借金玉氏だったりの仲間入りである。

さて。
そろそろもう一つのキーワードが立ち上がってくる。

「茶番」という言葉はDWUのように、「マイナスでしか捉えられない」という人がいる(というか、DWUの場合理解を根本的に拒絶しているような気がする……)

まぁ実際のところ「全て茶番に見える」と言ったような表現を悪口と認識しないのは、さっき使った表現をもう一度使うとすると「同じことを考えている人間だけ」ということになると思う。
そういう意味なら、僕はただ借金玉氏と「同じようなことを日頃から考えている」だけ、ということになるだろう。

「茶番」という言葉は誰もが一度は聞いたことがある言葉だし、比較的認識も共有しやすい言葉だと思う。
……動画では全く共有できていなかったが。

それでも、人文学的なタームを取り入れた上で言い換えてみるとどうなるだろう?

……もうお分かりでしょう。
この記事のタイトルにある通り……

「共同幻想」である。

共同幻想について

「共同幻想」。
この言葉は吉本隆明の『共同幻想論』で示された概念だ。 

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

 

この本、もうめっちゃくっちゃものっすごっく難しい。 
ここでの議論に関してはWikipediaレベルの認識で構わない。
僕も大して認識ができていると思えないし……

ja.wikipedia.org

共同幻想 

個人と他者との公的な関係。国家法律企業経済株式組合がこれに当たる。また、宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。

「国家は幻想である」。
「法律は幻想である」。
ここで「確かにそうかもしれない」と考えるか、「いや、あるじゃん!日本ここにあるじゃん!」と考えるか。
僕は前者をこそ、オーバーだけれど「人文学的素養」と呼ぶ。

もちろん後者の認識の人を「素養がない」というわけではない。
もし後者の認識の人は、とりあえずこう考えて欲しい。

「国家は幻想である」よりも、「法律は幻想である」を考えるほうがわかりやすい。

例えば、
A.「10リットル流血すると人は死ぬ」
B.「コンビニで雑誌を盗むと窃盗罪で逮捕される」
どちらも「事実」ではありそうだけれど、この2つだと、議論の粒度というか「事実のレベル」が違うのは分かるだろう。

Aは生物学的、Bは法律の話。
それも正解なのだけれど、Aはそもそも「人が共同で取り決めた具体的な何か」に起因しない自然発生的なもので、Bは「人が共同で取り決めた具体的な何か」に起因するものだ。
かなり「浅瀬」な議論で申し訳ないのだけれど、端的に言って後者を「幻想」、それも「共同された幻想」と解釈することをここで「共有」できただろうか。

……この「共有」もまた、ある種の「共同幻想」の醸成だ。

さて。
B.「コンビニで雑誌を盗むと窃盗罪で逮捕される」
というルールの世界で生きている人間……抽象化すると、「共同幻想を営む『いわゆる』人間のことを」、ちょっと嫌味な言い方をするなら"人文学的素養のある人"は、「『カギカッコ付きの』」と表現することが多い。
 ……しかしまぁよくシラフで「素養のある」とかいう表現使えるな……もう二度と使いたくない。皮肉で使ってたけどもう使わない。

さて、ここまでで皆さんは「同じことを考えたことのある」人間になったわけだ。
ということで最初の記事を読み返してみましょう。


共同幻想2.0

ken-horimoto.com

結論を言えば。
多分、落合陽一は「共同幻想2.0」を構築したい、あるいは構築された未来を夢見ているのだと思う。


例えばアメリカは聖書に手をついて大統領が宣誓する。これはもうものすごくわかりやすく、強い「共同幻想」だ。

宗教はある種、最強の共同幻想だ。
僕は勝手に共同幻想が「抑止する共同幻想」と「推進する共同幻想」の2パターンがあると整理している。
例えば法律は前者に属し、「意識高い系ビジネス書」は後者に属する。
宗教は素晴らしいことに、両方兼ねている。

言い方を変えると、宗教は強固な「フレームワーク」だ。
「宗教的な考え方を遵守していれば楽に生きられる」。
実際はそう簡単にはいかないだろうが、少なくともある程度以上の道筋を示してくれるのが「宗教」という共同幻想だ。
※文脈的に「宗教」=「共同幻想」=「茶番」が導けてしまうが、この記事に宗教批判の意図は一切ない。それはここまで読んで頂いた方であればご理解頂けるだろう。

その点、日本には強固なフレームワークが……
共同幻想が、ない。
本当に、全くと言っていいほど無いのだ。

というか厳密に言えば……
……日本は共同幻想をことごとくブッ潰されてる。

岸田秀は『ものぐさ精神分析』で日本人の精神性がペリーの強制的な開国によって分裂病(現代で言うところの統合失調症)的に分離された、と指摘した。
だが、そこまで遡らずとも終戦後から現代までも波が激しすぎて……
「一体日本人という国民は、何を信じて生きてきたんだ?」
とも言いたくなってしまう。

終戦後は「復興」が共同幻想だったということでいいだろう。
高度経済成長時代とバブル期は「経済成長」だろうか?この二者だと微妙に幻想の強度と中身が違っていたと思われるが。
で、バブル崩壊以降は……ガチで何もなかったんじゃないだろうか?

否、何か「信ずるもの」……例えば、「ITが世界を変えてゆく」といった「希望の共同幻想」が醸成されかけたところで……
2011年、津波が流してしまったんだった。

ここは東浩紀が現在進行系で悩んでいるようで、氏の著書を読んでいると「震災前と震災以降で書けることが変わってしまった」「震災前だけにできたノリがあった」ことを痛々しく感じていることがよくわかる。

そんな日本で、落合陽一は例えば……自然が培ってきたもの、例えば「サバの模様」を産んできた地球46億年の叡智を、ブロックチェーンであるとかAIであるとか、そういった「大きな技術」で再現する。
それが「信ずるもの」……「神」として機能する。
それらが日本あるいは日本国民を「推進する」。
概ね、そういったことに強い希望を抱いている……あるいは。
自らの手で推進しようと思っているのだと、僕は推測する。

そして、そんな落合陽一に対して僕が思うことは……

前向きな諦め

僕は今後、日本にアメリカで言うところの「聖書に手をつく」といったような「強固な共同幻想」ができることには、あまり期待していない。
AIがいくら発達しても、ブロックチェーンがいくら理解されても、共同幻想にはなり得ないと思う。
「日本人という国民性」なんて語りたくないけれど、それでも日本は多分「共同幻想を抱く」ことは苦手なんじゃないかなぁ、と薄々思っている。
「AIが仕事を奪う」とかさ。なんというか「負の共同幻想」は得意なイメージだけど。

ただ、ぶっちゃけると日本国民、あるいは落合陽一ファンのエリート層がどういった共同幻想に突き進むか、なんていうのは……
僕にとっては割とどうでも良くて。

厳密に言えば、僕自信がその「共同幻想」に属することはないだろうと言うだけの話なのかもしれない。

借金玉氏は「茶番」に能動的に乗っかることを推奨しているが、僕は可能な限り離れて個人として気楽に生きる方法を模索している。
まぁそれでも最低限「茶番」は必要ではあるけれど。

これは極論なんだけれど、例えば上司が明らかにおかしい決断をしようとしていて「いや、ねーわ」と言わないことも守るべき「茶番」の一種だ。
「茶番」と思いつつも「上司殿、あなたの頭は大丈夫ですか?」と言わねばならない。
……勿論冗談です。冗談ですよ?真似しないでね?

と、まぁそのレベルの最低限の「茶番」を守りつつ、本当にしょうもない「茶番」からは距離をとって自分のために費やしたほうが良いじゃん、と真剣に思う。

「共同幻想からなるべく脱するという共同幻想」とでも名付けようか。
「それ、共同幻想じゃなくて自己幻想じゃね?」と思われそうでもあるが、なんとなくこの発想は共同幻想と言って良い気がする。

なんとなく、ここ最近「個人として前に進みましょう」「確かなものを確かに掴みましょう」みたいな考え方が共同幻想化してる気がするんだよね。

何の話をしてるかって?

































 

mistclast.hatenablog.com

いや、筋トレブームって明らかに「共同幻想の消失(それも2011年以降の明示的消失)」と、「ネットが推し進めた個人主義」が一種の転換を起こして生み出した新しい「共同幻想」じゃん?マジで。
あとミニマリズムとかもそうだし。

mistclast.hatenablog.com

 どっちも共通してるのは、「やればやるだけ確実に成果が見える」 ≒ 「脱:一般的な(ネガティブな)意味合いでの『茶番』」。

そういう生き方って結局何なの?
ただの個人主義?
違うと思うんだよなぁ……

っていうのを、こんな感じで発信していく「茶番」に生きること。

まぁ、それくらいなら僕でもできるかもしれない。

それはそれとして、落合陽一の議論、期待するところは今後もフォローしていきたい。
取り入れられるものは全部取り入れないとね。

改めまして、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

最近Twitterアカウント消しちゃったので、広める手段がなくなりました。
もし面白かったらシェアして頂けると嬉しいです。
【追記】
結局、更新報告用アカウントは残すことにしました。
今後も細々更新して細々広告することにいたします。
【追記ここまで】

お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。

 

後ろ向きに、前を向いて、自由に生きる

こんにちは、Mistirです。


「これから僕らはどう生きる?」


正解のない問いだけれど、考えて、考えて、考えて、26年間考え続けた結果、僕は
「自由であるか、自由のような風味の何かを摂取し続けられるなら、それだけでいい」
っていう結論に至りました。

正直、最近ブログを書こうとしては消して……を繰り返していた。
どんな言葉も滑っていくというか、どんなことを書こうとしても自分と離れている気がした。

それは多分、上にある答えに辿り着いてしまったからなのかもしれない。

僕は自由であればいい。
それ以上のものにも、それ以下のものにも興味がない。
けれど逆に言えば、全ての価値基準を自由に置く程度には、自由に向き合っているつもりだ。

だから僕の思う「自由に生きる」ことについて語って
"MistiRoom"というブログを……
「第一部完」としようかな、と思う。

とりあえず区切るだけで、辞めるとは言わないけどね。

 

このブログのこと

このブログには自分のことについて好き勝手に書き散らしていたけれど、結局それは僕の「悪あがきの記録」だったのだと思う。

どうすればいいか分からない。
だから足掻く。

そんなことばかり繰り返していた。

足掻かずにどこかの価値観に自分を落とし込もうとしても、どんな価値観も僕にフィットしてくれない。

退廃的な価値観が嫌いだ。何もかもに嫌悪感を撒き散らして、あらゆるものを批判する。冷静な議論を投げ捨てた感情論も、完璧な何かが存在することを前提とした理想論も嫌いだ。

前向きな価値観が嫌いだ。まるで人類が皆この世界を推し進める……アップデートするために存在していて、バカではない一部のエネルギッシュな人たちが世界を作る「べき」であり、その世界に属する「べき」であるかのような、そんな同調圧力が嫌いだ。

退いた価値観が嫌いだ。もう金持ちになることも諦めて、年収300万円もあれば人は豊かに幸せに生きられるんだよ、っていう思考が嫌いだ。

僕は酒を飲むとたまに口癖のように言っていた。
「本質的に僕は、寝ることと食べることとエロいことにしか興味がない。ついでに言えば、あとは酒と金」と。
唯一バイクは例外的なものである。
欲望を通り越してライフスタイルそのものというか。

鬱陶しかった。
僕の中に何かしら高潔な欲望が眠っていると、誰かに期待されることも自分に期待することも鬱陶しかった。

それでも僕がブログを書いていたのは、「自分のことをわかってほしい」という何かしらの欲求があったから……なのかもしれない。

けれどいつの間にかその欲求が薄らいでいた。
「俺は凄いやつだ」と叫びたい気持ちも、いかに自分が不幸な人生を送ってきたか主張したい気持ちも、どちらも消えていた。

それは多分。
今、自分が目的に即して生きるために何をすればいいか。
それがだんだん分かってきてしまったからだと思う。

生き方のこと

2018年12月、僕は会社に退職願を提出した。
厳密に言えば有給の後辞めるから、2019年1月末で退職となる。
2月からはフリーランスとして活動する予定だ。

「自由が好きだからフリーランス!」と、そう安直に発想したわけではない。
第一、フリーランスになれば正社員にはなかったあらゆる面倒事がのしかかってくることくらいよく理解している。
理解した上で、それら全てを自分で背負ってみたかった。
2年半前から独立は第一候補として検討していた。
行ったり来たりしつつも、ずっと変わらなかった。

ここで詳細にフリーランスになった理由を語るつもりはない。
けれど、とにかく会社組織の色々な点が自分に合わなかったのは間違いない。

仕事はスムーズに見つかった。
とりあえずご飯は食べて行けそうだけれど、今後は契約が切られないように全力で自分を磨いていく必要がある。

会社員だった頃は、正直そこまでの自己研鑽の必要性を感じなかった。
その都度その都度できる全力でカバーしていた実感があった。
今後は極論、死ぬか生きるかの話になる。
少なくとも自分はそう認識している。

……正直、猛烈に不安なんだけれど、同時に。
やっと今まで噛み合わなかった人生に少しだけ筋道が見えたような感覚を得ている。

「噛み合わない」。
それは自分の人生に対するキーワードだったのかもしれない。

京都の某大学に落ちて、そのまま哲学を学ぼうとしたけれど、なぜか色々なことがあってフランス文学を専攻することに決めて、その後何故かIT系エンジニアになってしまった。

自分の中では一貫した理由を後で説明することはできるのだけれど、どうも後付感が否めない。

きっと京都の某大学に落ちた時点で……否、京都の某大学を受けようと決めた時点で、自分の生き方を支える歯車に致命的なズレが生じてしまったのだと思う。

小学生の頃から、僕はずっと水族館で働きたかった。
昔から魚が大好きで、ずっと魚の図鑑ばかり読んでたような人間だった。
その頃の経験は、ブログにも役立っている。

mistclast.hatenablog.com

けれど僕は文系に進んだ。

理由はその頃極端に読書に傾倒していたことが大きいけれど、もう一つ。

「自分が文系に進んだらほぼほぼ敵がいないから」
という実利的な理由でもあった。
「文系科目で当然のように稼ぎ、数学でダメ押しする」という「戦略」が自分には容易に想像できたのだ。
その戦略は功を奏した。

今思うと、あの頃から「自分が水族館で一生働くこと」は真剣に想像できていなかった……想像しないようにしていたし、そこから「自分の将来が想像できない方向」ばかり選んでいたように思う。

それがやっと今、収束したような気がしている。
徹頭徹尾「戦略的」だったが、やっと戦略のための戦略ではなく、生きるための戦略を今後は選べるような気がしている。

「噛み合った」人生を送る人たちが羨ましかった。
そんなもの幻想だとは分かっている。
けれど、それでも……
「噛み合った人生」という「幻想」を追い求めずにいられなかった。

今はどうだろう。
僕の人生は「噛み合って」いるのだろうか。
分からないけれど、少なくとも目指すべきところは明確になった。

そうなってくると……なんだか。
どんな文章を書いても、白々しい。
そんな感覚を覚えている。

自分の中に色々とモヤモヤしたものは残っているんだけれど、結局の所それは全て、「食と睡眠とエロと金、諸々背負い込んだ自由のため」に収束すると分かってしまったし、それを実現するためにやるべきことがおぼろげながら見えてきてしまった以上……
何を語ろうと途方もなく白々しい。

僕に高潔な欲望は何もない。
世界をアップデートしようと思わないし、世界を変えようとも思わない。
「まだ消耗してるの?」などと他人を煽りはしない。
革命のファンファーレを鳴らすこともない。
ブランド人間になるつもりは毛頭ない。

でも。
多分。きっと。
僕のことを、誰かに分かってもらえれば。
それで良かったのだ。

だが。
最後に残った「誰かに分かって欲しい」、そんな欲望さえ……なくなってきた。

それでも。
……誰かが、僕の何かに対して同意してくれると嬉しい。

mistclast.hatenablog.com

そんな気持ちが残っているから、明確に「ブログを辞める」と僕は言い切れないのだろう。

怪文書まとめ

どこに行きたいの、と。
そう、よく言われる。

週末は延々とバイクで走り、体を鍛え、昼食の時間は面倒くさいのでプロテインと完全食を混ぜた謎の物体で済ませる。
ミニマリズムに目覚め、ありとあらゆるものを捨てたがる。

そんな日々を送っていると、どうも何かを目掛けて突っ走っているように捉えられがちだ。

正直、自分でもよくわからない。
けれど止まっている場合ではないと思うから、とにかく走り続ける。
……それは「欲望」に駆動された結果なのかどうか、自分でもよくわからない。
ただ、自分を縛るあらゆる制約から自由になりたい。
自分の中のあらゆる弱さから自由になりたい。
その気持ちに偽りはない。

書き終わってから気付いたけれど、この記事は逆説的に「誰かに分かって欲しい」という密度の高い叫びになってしまった。
多分、僕はまだ何かを語りたいのだ。

それでも語れないとするならば。
それは自分の中に渦巻くものと、自分が取り入れてきたものの差異の大きさと言うか……

要するに、書くに値するほど自分の中で熟成させられていないのだ。
いろんなものが燻っていて、それぞれのものとしっかり向き合えていない。
今後は良質なインプットを増やして、自分と向き合う作業を続ける必要がありそうだ。

また語りたくなるときが来るまで、とりあえずインプットの量を絞って質を上げようと思う。
だからTwitterのアカウントは一度消すことにしました。
また語りたくなったら語ります。そのときはよろしくね。

【追記】
Twitterのタイムラインを眺めることを辞めた瞬間語りたいことが色々湧いてきましたが、更新しても報告できないことが滅茶苦茶辛いので、アカウントは復活させました。
ただ、フォローそのままにしてると確実にタイムライン眺めちゃうので、フォローは外すことにしました。ひどく勝手な運用ですが、モチベーションキープのためよろしくお願いいたします。
【追記ここまで】

お読みいただき、ありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。

 

ClariS 新アルバム "Fairy Party" 全曲レビュー

こんにちは、Mistirです。

最近ClariSにハマっている。
Apple Musicで全アルバムが配信されてるから一気に聴いてみたんだけど……
いや、こんなに度量が広くて深いアーティストだったとは。
正直恐れ入った。

アニソン歌手ってそれぞれ「色」を持ってる。
例えばAngelaなんかをどんなアーティストかって説明すると「圧倒的歌唱力と声量で世界観をとことん表現するアーティスト」だろうし、fripSideなんかは「清涼感ある歌声を正当進化した小室系サウンドに乗せて届けるアーティスト」ってことになるだろう。

ちなみにこの2アーティストがコラボしたときには情報量が渋滞してた。


angela×fripSide「僕は僕であって」Music Clip(short ver.)


【fripSide×angela】 「The end of escape」MV(試聴用ショート版)


だが、その点で語ろうとすると……

ClariSは、見えてこないのだ。
色がない。特定の色を持っていない。
全体として「懐かしい感じの曲を歌わせたら一級品」っていう特徴を持っているのは間違いないんだけど、王道アニソンから古臭いバラード、電波チックな曲まで、本当に幅広い。
もちろん、それが「無個性」を意味しているのかと言えば……違う。
決して違う。

ボーカル二人の声は癖があるわけではなく、にも関わらずどんな曲もフラットに歌い上げてくれる。
だから曲の良さが映える……

そういった曖昧模糊とした考えを抱いていたが、少し認識を改める必要が出てきたのは……
つい先日配信されたこのアルバム、

Fairy Party(完全生産限定盤)(グッズ付)

Fairy Party(完全生産限定盤)(グッズ付)

 

 "Fairy Party" を聴いてからだった

ということで全曲レビューします。

 

1.Overture

オープニングのインスト曲。
ハリーポッターのメインテーマにそこはかとなく似てるミステリアスな曲。

先行配信してた表題曲の"Fairy Party"(アルバムではエンディング曲) がミステリアスな雰囲気だったってこともあって、「今回はミステリアス路線なのか?」と思わせてくる。
……が、次の曲であっさりと打ち砕かれる。

……この時点では、このオープニング曲があくまでも「伏線」であることに気付く余地はない。
だがClariSのアルバムはいつも、ちょっと過剰なまでに曲順に演出を含ませてくるのだ。慎重に聴いていこう。

2.1/f

1曲目の予想を打ち砕く、ミステリアスの欠片もない優しい一曲。
ClariSに限らずアルバムを聴くときはいつも「このアルバムのリードナンバーはなんだろう?」と考えながら聴くんだけど、続く三曲が全てシングル収録曲であることから考えても、このアルバムオリジナル曲がリードナンバーといってもいいと思う。

……普通にとにかくストレートでいい曲だし、正直めっちゃ語りにくい……。

全曲レビュー、2曲目で折れそうである。

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鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックス)

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックス)

 

 まぁ無理して語る必要もないか(手のひら返し)。
というのも、後に出てくる "CheerS" もそうだけど、特に最近のClariSはたまに「ド直球の前向きな曲」を出してくる。
まぁだいぶ前の"Wake Up" の頃からちょくちょく出してた気もするけど、このアルバムに至っては先頭5曲分の2曲がストレート前向きソングである。

これは何の根拠もない話だけど、もしかすると……
それはメンバーの1人であるカレンの存在が大きいのかな、と思ったりする。
それが分かるのがもうちょっと後の曲なんだけど、そのときに改めてこの曲については語ることにしようか。

3.ヒトリゴト

皆さんご存知(??)アニメ『エロマンガ先生』のOP曲。

なんていうか、「ClariSのことはあまり知らないけど『俺妹』のOPのことは知ってる」人がイメージする「ClariSといえばこんな曲」そのままのイメージの曲なんじゃないかな。

そもそも『エロマンガ先生』自体が『俺妹』の作者の後継作品っていうこともあって、その辺りも露骨に意識して作られている一曲だと思う。

誤解を恐れず言うと、ClariSってちょっとチープな音や展開使ってる曲が多い。
でもそれは明らかに意図的で、俺らおっさんファンの心を掴んでるってのはあると思う。
要するに、ちょっと昔のアイドルっぽさが意図的に演出されてる。

この曲はそういった演出がフル活用だ。
全体的にどこか「ちょっと昔のアイドルソング」と「ちょっと昔のアニソン」感を引きずるAメロと、爽やかに駆け抜けるサビ。
……いいね……(語彙力不足)

4.SHIORI

アニメ『終物語』ED。

息の長い人気の『物語』シリーズだけど、もうファーストシーズンの『化物語』から10年弱になる。
……時の流れは残酷すぎる。

『化物語』EDの『君の知らない物語』は未だに語り継がれる名曲で、ClariSも実はカバーしてたりする。
で。
この曲 "SHIORI" は名曲『君の知らない物語』を彷彿とさせる一曲。

特にサビの疾走感と切なさ、キャッチーさは特筆モノだ。
物語シリーズそのもののプロデュースというべきかClariSのプロデュースというべきかわからないけど、世界観の作り込みが凄いなぁとしみじみ思わされてしまう。
さっきの『ヒトリゴト』もそうなんだけど、ClariSはオタクにとっての「懐かしさ」を強制的に呼び起こす魔法でも持ってるのかと言いたくなる。
それくらい自然に曲の節々にノスタルジーを練り込んでくるからたまらない。

5.CheerS

アニメ『はたらく細胞』ED。
怒涛のアニメタイアップ曲三曲目である。

もうどうしようもないくらいの、ド直球ストレート球速200km、って感じの応援ソング。CとSが大文字ってのは突っ込むだけ野暮ってもので、まさに「ClariSとしての応援ソング」ってことなんだろう。

それにしても……
冒頭の

君らしいペースで歩こうよ

の直後やサビの冒頭に壮大なシンバルの音入れちゃうあたりが良くも悪くもとてもClariSらしいw 
ClariS、アニソンタイアップする際は基本的に曲 (音)の情報量がめっちゃ多いんだよな……

で、ここまでがタイアップ曲である。
後半にもう一曲タイアップが混ざるが、ここまでで一曲一曲が情報量の塊みたいなタイアップ曲を全部放出して、ここからは「アルバムとしての曲」というカラーが強くなってくる。

話が逸れるが、これはアニソンに限らずどんなアーティストでもそうなんだけど、タイアップ曲はアルバムの最初の方に入っていることが多い。
それはタイアップ曲が気合い入れた一曲だから、っていうこともあるだろうけど、それ以上に「物語として完結しているから」ということもあるだろう。

アルバムはただの作品の羅列ではない。作品の並び順が、流れが、全て一つの物語の構成要素であり、閉じられた「テクスト」であり……作品だ。
そのことを前提としても、ClariSは他のアニソンアーティストと比べてもアルバムの構築にめちゃくちゃ気を使ってるタイプのアーティストだと思う。
この3曲はあまりにも「一曲で完結してる」曲だから、潔く(アルバム全体のリードナンバーである1/fの直後に) 3曲連続で並べたのではないか、としか思えない。
まぁ「本当の意図」なんて知らないけどね。
筆者の戯れとして読んで頂けると嬉しい。

閑話休題。

ある意味ここからがアルバムの本番。
そう僕は思う。

 

6.陽だまり

新メンバー(と言うにはもう4年経っている) カレンの初ソロ曲。
というか、ClariSの初ソロ曲。

正直に言おう。
はっきり言って「ソロ曲」って聞いた時、「え、それ意味ある……?」と思った。


ツインボーカルこそがClariSの魅力。
正直、ClariSは歌唱力が圧倒的にあるタイプのアーティストってわけでもないし、個性の塊って感じのアーティストって感じでもない。
わざわざソロで歌う意味は……?

ところがどっこい、である。
ソロで再発見してしまった。
ClariSというアーティストの底力を……!

さて。
今までClariSというアーティストを説明する時、「鼻にかかった声で歌うのがクララでちょっと大人っぽい声の方がカレン」と説明する必要があったが、このソロ曲のおかげでもうそんな必要はなくなった。

「『陽だまり』歌ってるめちゃくちゃ優しい声のお姉さんがカレンだよ!!!」である。

この人、こんな優しい声してたんだ……と。
聴き入ってしまった。

今まで聴いてたときには全く気付かなかった。
で、最近のストレートな応援ソング路線もなんとなく理解してしまった。

今まで "ClariS"というまとまりでしか考えていなかったけど、この二人の片方は「圧倒的な優しさ」だったんだな……と妙な納得感を抱いてしまったのだった。

……じゃあもうひとり、クララの方は?
……そろそろ白状しなければならない。このレビューは全曲レビューだ。
だが、実は。
一番語りたいのは、この3曲後にあるクララのソロ曲なのだ。
あまりにも衝撃が大きかった。

はやる気持ちを抑え、次の曲について語ろうか。

7.distance

さて、ここから怒涛のシリアス曲ラッシュだ。
急にアルバムの雰囲気が変わる。

それはそうと、この曲……
これいい……とてもいい……(数度目の語彙力低下)
2000年代初期を彷彿とさせる王道のバラード!!!
ああ、懐かしい、懐かしいぞこれ!!!!

そう、これぞClariSですよ。
タイアップしない曲は「タイアップしにくい曲」という立ち位置でガチッと固めてくる。
確かにあまりにも王道のバラード過ぎて……そして今のアニメに合わせるにはちょっと古典的すぎて、どうしても合わないと思う。
だがそれが曲として「手抜き」を意味しているかと言えば明確に違う。
そう、これだよこれ!!!!

そうだよ、こういう曲はカセットテープから流れているべきだ。
音質はあえて下げて聴いてもいいな……
……ここまでくるとちょっと変態か……

ああもう、サビもたまらないし、そこから「懐かしさ指数」みたいなのがさらに一段階アップするCメロが本当にクッソたまらない。
この曲は一押しだ。

8.パラレルワープ

不思議系かつシリアス爆発の一曲。
これもどことなく懐かしい。
さっきの"distance"とは少し違った懐かしさを覚える曲だ。

さっきのdistanceと続けて二曲、シリアスな雰囲気の曲が続く。
アルバム全体から見るとこの二曲は地味な印象が否めないが、完成度は言うまでもない。
そしてClariSはこういった「地味な曲」が一番中毒性がある。僕の持論だ。

しかし、通して聴くとまるでタイムトラベルしているかのように時空間を揺さぶってくるようなアルバム構成だ。
……それが意図的だと知るためには、実のところ12曲目まで聴き込む必要がある。

とりあえず次の曲に行こう。

9.Last Squall

先程少し触れた、クララのソロ曲。
そう、この曲こそ……
僕がこのアルバムで最も衝撃を受けた曲で、最も語りたかった曲だ。

びっくりした。
本当にびっくりした。

最初のシングル、"irony" を知っていると分かると思うのだけれど、あくまでも「素顔非公開、中学生の歌手」っていう側面ばかりが持ち上げられていて、歌唱力についてはあまり深く語られるような歌手ではなかったように記憶している。
もちろん「歌唱力が高い」というのは言われていたと思うけれど、それはあくまでも「中学生としては」という前置き付きだ。

例えば僕は鈴木このみというアーティストも好きなのだけれど、この人は本当に良くも悪くも「歌唱力」メインに注目されて来た人だ。


鈴木このみ「This game」PV(TVサイズ)


「歌唱力」。
それは漫画で言うところの「画力」であり、格闘家で言うところの「筋力」なのかもしれない。
高いほうが良いに決まっている。だが、それが全てではない。

ClariSの魅力について語るとき、一言目に「歌唱力」を持ってくる人はそういないだろう。
例えば初期の "irony"を今聞いてみると、歌い方は正直ちょっと野暮ったい。
もちろん、それは魅力がないことを決して意味しない。

……だが、ちょっとまってほしい。
……長々と語ったが、これは言い換えると。
「ClariSは歌唱力がメインの歌手じゃない」と言っているのと同じじゃないか?

認めたくないが、そうだ。
ClariSは最初から決して「下手なアーティスト」ではない。
だが同時に「歌唱力をウリにしたアーティスト」というわけでもない。
それは「大前提」のような認識でいた。

そんな僕に、突き付けられた。
「ClariSは圧倒的な歌唱力を持ったアーティストなんだ」、という事実を。

なんだよ……この表現力と色気。
……冷静に考えたら、もう10年近く歌手活動してるんだ、それくらいの歌唱力あって当たり前じゃないか。
でもここまでド直球に突き付けられるとびっくりする。

特に声と表現が発する色気がヤバイ。
本当にヤバイ。

「声がエロい」とか、そんな下卑た話じゃない。
それはこの曲を聴いた方であれば絶対に伝わると思う。
「色気」としか言いようのない何かが半端ないのだ。
そしてひたすらに……危うさを感じる。
否、危うさとは色気であり、色気とは危うさなのだ。

「色気」については無限に語りたい。が、余白が足りないので是非筒井康隆大先生の『創作の極意と掟』をお読み頂きたい。

創作の極意と掟 (講談社文庫)

創作の極意と掟 (講談社文庫)

 

たまに僕は色気について熱く語ることがあるのだが、大抵の場合危険人物扱いされる。
孤独である。

閑話休題。

……そう。
良くも悪くもクララという人とカレンという人は対極なんだ。
片方は圧倒的な優しさ、片方は圧倒的な色気と危うさ。

その二人が歌うから、ちょうど折衷したバランスの良い曲として僕らに届く。

でもこの曲に関してはそんな「バランスの良さ」はぶっ壊れてる。
そこにカレンがいないから。

なんとなくだが「開けてはいけない箱を開いた」ような気持ちになってしまった。

要約すると……
「すげーな」である(簡潔)

10.TRAVEL

「ClariSってたまにコッテコテの小室サウンド感ある懐かしい曲入れるよね枠」の一曲。
さっきの曲と比べて安心感が凄い。
ああそうそうこれこれ、これぞClariS。
なんやかんやこういう路線が安心するね!

サビ直後の交互に歌うパートはコッテコテ過ぎてもはやちょっと笑っちゃう。
前アルバムの"recall"はこれに増してコッテコテな一曲だったから是非聴いてみてね。
それにしても「小室サウンドリスペクト感ある曲」を聴くと、コナンのOPをどうしても思い出すのは愛内里菜の曲がこういったイメージばかりだったからだろうか……
『恋はスリル、ショック、サスペンス』とか、コナンのパラパラのイメージが強すぎるけど、あの時点で小室サウンドブームは終焉を迎えつつあったはずだから、当時でさえノスタルジック感ある曲だったんだよね……

それにしてもこういった「小室チックなサウンドの曲」をそのまま現代に持ってきて的確に歌い上げてしまうClariSには脱帽だ。
……ちょっとコッテコテすぎる気はするけどw

11.PRIMALove

ClariSはアルバム後半、忘れた頃に「タイアップっぽくないタイアップ曲」をアルバムにぶっ込んでくる。

前アルバムだとこの位置にタイアップ曲の"Gravity"が入っていた。
ClariSは"コネクト"が一番わかり易いんだけど、「熱苦しい、『いかにも』なアニソンをフラットに歌い上げる」のが得意なアーティストだ。
だが "Gravity" はちょっと特異で、アニソンっぽいのは間違いないんだけれど、その一方で終始クール。
全体的に派手さはないけれど、軽やかに最後まで駆け抜ける一曲だ。
結果的に妙に爽やかで、僕の大好きな一曲でもある。

で、この "PRIMALove" だが……
"Gravity" と同じく、アニメタイアップと思えないくらい良い意味で地味だ。
でも同時に「そうそう、ClariSってこういう普通に爽やかな曲がいいんだよ、聞き飽きない」と確信させてくれる一曲でもある。

……どう考えても "Last Squall" のショックを引きずっている。
いやー、ClariSってさ……
少なくとも僕にとってはなんだけど、アニソン歌手として「ちょっと近くにいてくれてる」感あるんですよ。
どんな曲聴いてても近寄りがたさがないというか、等身大と言うか。

僕はGARNiDELiAっていうアーティストも大好きなんだけど、このアーティストは対極で、「近寄りがたさ」みたいなものがすげーある。
多分、PV観て頂ければ一瞬で伝わると思う。


GARNiDELiA 『SPEED STAR』-YouTube EDIT ver.-

で、"Last Squall" にはそういった「近寄りがたさ」をすっげー感じるんですよ。
等身大でとっつきやすい、それでいてちょっとミステリアスなClariSっていうアーティストの枠を一瞬で……それこそ圧倒的な色気と危うさで暴力的に超えてきた感じ。

その一方で、"Last Squall" 以降の2曲、"TRAVEL" と "PRIMALove" は本当に「いつものClariS」で、……見放されて泣いてたら急に慰められたような気分になる、というのは言いすぎだろうか。
でもマジでそれくらいの安心感。

徹底的に計算を詰めて曲を配置している。
ゾクゾクするくらいだ。
……だが、まだまだこのアルバムは終わらない。

12.Time Tunnel

インスト曲。
……全14曲で12曲目に箸休めのインスト曲置くアルバムなんて始めて聞いたぞ!?

それもそのはず、この曲は明らかに「箸休め」じゃない。
"PRIMALove" で安心させられた心を急に背負投げしてくるようなタイミングだ。

そうだ、このアルバムはそもそも……
一曲目から「不穏」だったのだ!忘れてた!!!

そしてそのまま、「裏のリードナンバー」である"シニカルサスペンス"に突入だ!

13.シニカルサスペンス

「安心してるところ悪いな!」と背負投げされた直後に、満を持してやってくる一曲。
確かに曲としては超シリアスなんだけど……

いや、これは逆に安心するわ……
だってこの曲……
ド直球に歌謡曲なんやもん……
嘘やろ!?ってなるレベルの曲。

"Time Tunnel" からどんな不穏な曲が来るのかと思ったら、本当に「コッテコテ」という表現では足りないくらい「コッテコテ」の歌謡曲だった。
この曲はやべえよ……ClariSにはレトロチックな曲が多いってのは何度も指摘してるけど、この曲はそういう次元超えて完全に昭和歌謡じゃん……

歌詞、読んでほしい。

utaten.com

天才でしょこれ。
これが平成最後にアニソン歌手が歌う曲ですよ。

「昭和『風』の曲」とかじゃなくて、これもう一度言いますけど……
もはや昭和歌謡ですよw

サビ前の交互に歌い上げるところなんか、「平成も終わりかけてるときに、アニソン歌手がツインボーカルでそんな演出するか!?」とびっくりしてしまう。

ClariSはタイアップしない曲は「タイアップしにくい曲」という立ち位置でガチッと固めてくる、とさっき指摘したけど、この曲はいくらなんでもやり過ぎだ!!!(大絶賛)

途中の「待って」「置いてかないで」とか絶対に笑わせようとしてるでしょ……
でも嫌味が一切ないんだよな……

いやー、この曲は凄い。
もう「これでもか」ってほど歌謡曲の文脈がわかった人が、その文脈を余すところなくブチ込んだ一曲だと思う。

で、結果として……
中毒性がヤバイ。
このアルバムで一番中毒性の高い曲だと思う。

というかこういう曲歌っているときのカレンの声の優しさは、いとも容易く(もちろん良い意味での) 幸薄感に変貌する……
改めて、クララの声の色気と凄いバランスだなぁと思う。
こんなこともソロ曲聴かないと気付けなかったから、ソロ曲の存在は凄く大きい。

そして満を持して(こいつ常に満を持してんな)、エンディング曲だ。

ラストナンバー.Fairy Party

Mistir大辞典に
「アルバム表題曲がラストの一曲に来る場合、そのアルバムは確実に名盤だし、その曲も確実に名曲」
って書いてあるんだけど、その記載は今回も正しかったらしい。

"シニカルサスペンス" のミステリアスに見せかけて実はそうじゃない感じではなく、アルバムの締めに相応しい、まさに「ミステリアスな」一曲だ。

この曲のみ先行配信されていて、ヘビーローテションしながらアルバムのリリースを楽しみにしていた。
アルバム全体のエンディングでありながら、曲のテーマ通りまさに「深夜のパーティ」に誘ってくれるような、不思議な一曲だ。

暗く、明るく、シリアスでありながら可愛く。
超贅沢な一曲で……そして思い出す。

ああ、それは。
このアルバムそのものだった、と。
そう、このアルバムは"Fairy Party" 、この曲も"Fairy Party"。

この曲をアルバム化したものがこのアルバムだし、このアルバムを一曲にまとめるとこの曲になる。
……あー、満足感が凄い。
もう一度最初から聴こう……

まとめ

アルバムを買えー!!!!! 

 

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筆者はApple musicで聴いてるけどamazonのMusic Unlimitedでも無料だぞー!!!!!

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お読みいただき、ありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。

 

死んだら、負けだ

こんにちは、Mistirです。

炎上に口を出したくない。
そう日々言っているんだけど、我慢できなかった。

どうしても言わないといけない。
そう思ったのです。

 

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『ゾンビランドサガ』が高度すぎる "やりたい放題" でたまらない

こんにちは、Mistirです。

久々に「やべぇ」アニメが出てしまった。

早々に女の子が陵辱される『ゴブリンスレイヤー』……

www.goblinslayer.jp

……も、相当に攻めてはいるのだが。
どちらかというと、これはこの世界におけるゴブリンの恐ろしさや残忍さを愚直に描いた、ある種極めて「マジメ」な表現とも言える。
それが視聴者に正しく伝わっているのか否か、それは別として。

一方で。
「全てが狂っている」と評される、あるアニメが出現してしまった。

そう。
それこそがまさに、今回語ろうとしている『ゾンビランドサガ』である。

zombielandsaga.com


まだ観ていない方は、可能ならば第一話を観て欲しい。

www.nicovideo.jp


嫌だ?断る?観る気が起きない?
……フッ、強情だなぁ。

安心して欲しい。
観た人も、まだ観ていない人も、この「完成された狂気の世界」へと僕が誘おうじゃないか。

その昔。
「狂人のフリをし続ける常人は、即ち狂人である」と……誰かが言った。

それと同じだ。
『ゾンビランドサガ』という作品は、極めて技巧的で、ある意味では極めて「尋常な」精神の上で組み立てられたものだ。

だが……

そこに込められる「緻密なる狂気」の「圧倒的純度」は、僕らに「果たして尋常とは一体何だったのか」を見失わせてくれる。


その世界観をラベリングすることが許されるなら、僕はこの作品を、こう呼ぼう。

「誠実なる狂気」と……!

ってことで語るよ。

 

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検索できない場所へ、旅に出よう【後編】

こんにちは、Mistirです。

今回は前回の続きです。

mistclast.hatenablog.com

決して検索ではたどり着き得ない場所のお話。
今回はちょっと重めのお話と、ちょっとしたブログの告知的な何かです。

 

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検索できない場所へ、旅に出よう【前編】

こんにちは、Mistirです。

最近東浩紀の『弱いつながり 検索ワードを探す旅』を読んだ。

弱いつながり 検索ワードを探す旅 (幻冬舎文庫)

弱いつながり 検索ワードを探す旅 (幻冬舎文庫)

 

東浩紀という人はなかなかに毀誉褒貶の激しい人で、僕自身も氏の行動を手放しで絶賛する気は無いのだけれど、この本は同意できることばかりだった。

曰く「ネットは弱い繋がりができやすい」というのは錯覚で、本当は「強い繋がりが良くも悪くもより強固になる空間である」と。
政治主張、社会問題に対する姿勢、確かにどんな例を思い出してみても、ネット上で生まれる一種の「スクラム」は(ある意味では現実のものよりも)強固になりやすい。

では今後の世界で重要になる「つながり」とは何か。
偶発性を生み、人生に広がりを持たせる「つながり」とは。
それはネットから離れた「リアルの空間を旅すること」にこそ存在する、と氏は指摘する。

そういったリアルの空間の偶発性の中で「検索ワード」を探すことが大事になってくる、と。
確かに「知らない概念は検索できない」。
まず「検索するためのワード」を自分の中に蓄積しておく。そこを起点にして、現実からも、ネットの世界からも広く「知る」ということができるようになる……

と、雑にご紹介しましたが、今日の本題はこの本そのものの紹介ではなく。
「確かにこの世界には……いや、それ以前にこの日本には、『検索では知り得ないもの』がたくさん眠っている」というお話です。

 

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平成の終わりに、進化したネット依存について考え直してみる

こんにちは、Mistirです。

思いつきで一週間ほどTwitterとニコ動とYouTube、その他ネットサーフィンを断ってみた。

すると、色んなことが見えてきた。

 

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差別のことを考えたくない

こんにちは、Mistirです。

正直、こんなことを書いても何のメリットもない。
強いてあるとするならば、僕の思考がクリアになるだけだ。
それ以外は多分、全部がデメリットだ。

差別のことを考えたくないと、タイトルで書いた。
でも本当のことを言えば、「僕が差別主義者」なのだ。
そしてそれは一生治らないと自覚した。

だから、僕は「降りる」。
そう決めたという話だ。
こんなことを告白する意味は、何度も言うが……多分、ほとんどない。

 

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「自由」と真剣に向き合うこと。あるいは真剣に向き合ってこなかった僕らへ

こんにちは、Mistirです。

最近「自由」のことばかり考えている。
……というと、哲学的命題に取り憑かれているみたいになってしまうけれど……

僕の言う「自由」は、なんというか。
もっと低レイヤーの、ある意味では「しょうもない」自由だ。

例えば、嫌な人に嫌だと言う自由。
出たくない飲み会に出ない自由。
嫌な仕事を辞める自由。

……それを、
「しょうもない話だ」
「そんな自由最初からあるだろ?」
「俺はとっくに自由だぜ!」
と。
笑い飛ばすのは「自由」だ。

だが。
「本当にそういった『低レベルな話としての自由』について、僕らは本気で向き合ってきたのか?」というと……

正直に言ってしまえば、ほとんどの人が向き合ってないんじゃないかと思う。

今こそ語ろう。
僕らの手中に収まっていなければならない、シンプルな「自由」の話を。

 

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