MistiRoom

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死んだら、負けだ

こんにちは、Mistirです。

炎上に口を出したくない。
そう日々言っているんだけど、我慢できなかった。

どうしても言わないといけない。
そう思ったのです。

 

 

松本人志のこと 

僕は、松本人志という人間に特に思い入れはない。
その発言全てを肯定するつもりはまったくない。
ズレてる、と思うことも多い。
実際、この発言も異様なまでに賛否両論だ。
かなり強い言葉で否定されたりしている。

だけど、僕はこの発言に関しては「肯定」しなければならない。
どうしても。

賛否両論の激しい言葉だけれど、僕はどうしても。「僕」は。
肯定しなければならない。

その上で、こうも言える。

「死」は負けではない、と。

「死」は負けではない

「何言ってんだよこいつ」と思われたかもしれない。
支離滅裂だと感じただろう。
今はそれでいい、もう少しだけ話を聞いて欲しい。

そもそも、「勝ち負け」なんていうものは「生者の論理」だ。
生きている人間が「ルールを決めて」、そこに勝ち負けが生まれる。

とりあえず僕は無神論者で、死後の世界を信じていないからこう言える。
「私」が「死」ねば、「私」は「無」になる。
そのとき、「私」はもう「無い」のだから、勝ちも負けもない。

別にこれが「死後の世界」やら「来世」を信じている人であっても、話は変わらない。
少なくとも今の「私」は消えるのだから同じだ。

当たり前だ。
「生者」の論理は「死者」には適用されない。
それだけの簡単な話だ。

「死んでから英雄として祭り上げられた存在もいるだろう」と反論されるかもしれない。
だが、その「祭り上げ」は全て「生者のため」にある。

極論、葬式も同じだ。
葬式は死者のためにあるのではない。
生者のためにある。

……この「前提」について、あまり議論する気はない。
僕が下した結論はひとつ、「死者に勝ちも負けもない」だ。
「ははぁ、このMistirとかいうヤローはそう考えてるんだな」、その程度に思っていただければ十分だ。

大事なのは、そんな事を考えているMistirとかいうヤローが。
何故「死んだら負け」という発言を、肯定するのか、だ。

「死」は「有効」だ

炎上覚悟で言う。
「死」は有効だ。
有効な、ソリューションだ。

電通の高橋まつりさんの事件あたりからぽつぽつとある気がするが、
「誰かの死が巨悪を明らかにする」例が少なからず見られる。

今回の松本人志の発言も、ローカルアイドルのパワハラ自殺を受けての発言だ。

そう。
僕らは向き合わなければならない。
認めなければならない。

「誰かを自殺に追い込むほどの巨悪に対して」
「誰かを自殺に追い込めるほどに精神の腐った奴に対して」
そいつの悪を社会に暴き、
「誰かを自殺に追い込めるほどのゴミ屑が生み出した地獄」
から最も合理的に逃れるための、「一つの有効打」。
それが、死であると。

認めたくないだろう。僕も決して認めたくない。

でも、認めなくてはならない。目を逸らしてはならない。

断っておくが、この「事実の指摘」は
「ナイフを持って走ってくる相手に対して、銃で撃ち殺すことは一つのソリューションである」
と同じ「事実」を述べているに過ぎない。

何が言いたいかと言うと、「誰かを銃で撃ち殺すことによって負うリスク」に関しては一切議論していないということだ。

「一つのソリューションである」。
それ以上について言うつもりはまったくない。
言うまでもないだろうが、「人は困ったら死ぬべきだ」などとは微塵も思っていない。

詳細に語ろう。

そもそも「人を自殺に追い込めるようなやつ」は……
少なくとも今回話題になっているような、「パワハラで人を追い詰めるような人間」は、人間だと思ってはならない……人間ではないのだ。

魔物だ。

普通の人間なら、いくら殺したい相手がいても「さすがに殺すのはないな」とか「ここで死なれると自分が酷い目に遭うな」とか、なんでもいい、とにかくブレーキをかける。ブレーキがかかる。

だけど、何故かわからない……本当にわからないが、世の中には「かけない」「かからない」人間がいる。

news.livedoor.com


合理的に考えるなら、そいつらは人間じゃないのだ。

人間じゃないやつに、人間が真っ向から戦いを挑んだら、どうなるか。

確実に負けるのだ。

圧倒的悪意を持つ存在に、……あるいは、悪意さえ持たず悪を成す存在に。
同じ能力の人間が挑んだら。
まず勝てないのだ。

別にこれは説明するまでもないだろう。
これほどの巨悪相手でなくてもいい。
普通あるはずのブレーキを持たない人間とマトモに戦ったらどうなるか。
これは誰でも、長いこと生きてたら一度くらい味わったことがあると思う。

勝負にならないのである。
彼らはまず負けないから。

ここから話をわかりやすくするために、そういったブレーキの外れた奴らを「加害者」、そういった奴らに虐げられる人を「被害者」と呼ぼう。

もし、そんなどうしようもない「被害者」が、「いわゆる」という修飾付きで、「負け」る場合ーー。
例えば、被害者に慰謝料を払う。
社会的な責任を負う。
それはどんな場合か。

3つしか無いと僕は考えている。

1.加害者がよほどのバカである場合 (被害者が極めて賢い場合)
2.被害者の運がよほどいい場合

そして、
3.被害者が非業の死を遂げた場合

だ。

認めたくない人がほとんどだろう。
僕も認めたくない。

それでも、逆に僕は問いたい。 
以下のツイートをした人にも、多くの人にも、みんなに問いたい。

あなたは。
もしも被害者が死ななかったとしても、加害者の存在を知り得ましたか?

違うだろう。
被害者の「死」という一撃によって、やっと、加害者が世に晒されたのだ。

その事実からは絶対に目を背けてはならない。

1.加害者がよほどのバカである場合 (被害者が極めて賢い場合)
に関しては、もちろん「冷静な第三者の冷静な判断力なら」……
「弁護士に頼ればいい」などと言うこともできる。

だが……ここで今まで以上に主観的な言葉を言うならば。
そんな言葉は、それこそ松本人志の言葉よりも、圧倒的に無意味だ。
むしろ弁護士に頼らなければならない状況に追い込まれる時点で、加害者と被害者の非対称性が物語られているようなものだ。

何度でも、言おう。
死は「有効」だ。
今の世の中で、巨悪を暴くための機構が完成されていないから。
今の世の中は、まだまだ不十分だから。
あるいは、今の世の中で「情報によって群衆が動く」効果が、あまりにも大きいから。
死は「有効」であってしまうのだ。

その上で。
僕は言う。
死ぬな。死んだら、負けだ。

人が死ぬということ

僕の話をしよう。
僕が何故今生きているのか。

死ぬのが怖かったから。それもまぁ、なくはない。

mistclast.hatenablog.com

 
でもそれ以上に、ただ。
運が良かったからだ。

何度も昔、思った。
「今僕が死んだら、こいつらに復讐できるのだろうか」と。
今僕が死んだら、こいつらは絶対に一生苦労するだろうな、と。

それでも僕が死ななかった理由は、僕が正しかったからじゃない。
僕が冷静だったからじゃない。

運が良かったからだ。

逆のことも言える。
人は簡単に、死ねる。

無責任なやつが、「日頃から元気なやつは死なない」とか、「死ぬ死ぬ言ってるやつは死なない」と言っているが、そんなの全部ウソだ。

人が「死ぬ」という決断を下すその瞬間、ボーダーを超えるそのきっかけ。
それは、本当になんでもいい。
ただ風が吹いたから。それさえもあり得る。

同時に。
人は簡単に死ねるが、人が死ぬということは簡単な話ではない。
これは矛盾なく成立する。

要するに、人が死ぬということはどんなきっかけでもあり得るが、同時に人が死ぬということに、単純性はどこにもないということだ。

あらゆる瞬間、死は僕らの側にあって。
同時に、死と生を分けるボーダーラインのすぐ側にいる人も少なからずいるだろう。

そんな人たちにかけられる言葉は。
「死なないでくれ」という、「私」から出る嘆願でしか無いのだ。

自分の中にある「死にたくない」という感情に徹底的に向き合ってきた哲学者:中島義道も、最終的に他人に「何故死んではならないのか」を説明するときには「『私』が死んでほしくないから」としか言葉を持たなかった。

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 これは「死ぬ」ということの重大さを、真っ向から受け止めているからだと思う。

「死ぬ」という決断を下す、その一歩手前にいる人の前に、どんな言葉も無力だ。
それが分かっているからこそ、そうやって言うしか無いのだ。

僕もそうだ。
今から死のうとする人の心に巣食う重みに対抗しうるほどの言葉なんて、そうそう存在するはずがない。
それが「個人」に向けられたものでなく、「今にも死にそうな多くの人」に掛ける言葉ならなおさら……
なおさら、「死なないでくれ」という嘆願を述べるしかない。

これが、「死んだら負けなのだ」と叫ぶ1つ目の理由。

おそらくこの論理に説得力を覚える人はあまりいないだろう。
無理がある。自分でもそう思う。

だから、もう一つの理由は「生者」の枠組みで考える。
「生者」としてこの世に存在する人間にとっての話をする。

「生者」にとって。少なくとも、間違いなく。
たとえ、「死」が有効なソリューションであったとしても……
それは間違っていると。
たとえ有効でも、それは選ぶべきではないと。
そう叫ばなければならないのだ。

先程の「被害者」と「加害者」の軸で言えば、この僕の「叫び」に対して「お前は加害者を責めず被害者を責めるのか!」と、僕は責められるかもしれない。
実際、そのロジックで松本人志を批判している人をよく見かけた。

もしそう言われたなら。
言われるなら。
……僕は、そう言われてもいい。
有効なソリューションであったとしても、それは「違う」のだ。

最初の話に戻れば、「勝ち」か「負け」か。あるいは、数学などのごく一部の領域を別にして、「合っている」か、「間違っている」か。

それは、ヒトが決めるしかないのだ。
生きている人間が決めるしか無いのだ。
定義するしか無いのだ。

その点で、僕は主張する。
「死」が「勝ち」であると、定義してはならない。
絶対にならない。
その予兆さえも、この世に残してはならない。
絶対に、絶対にだ。
「死がソリューションとして有効だ」も、本来、絶対にあってはならない。
だが同時に、目を背けてもならない。

ここまで4500字前後、僕の主張は以上の通りだ。
以上のことを、いつもいつも厳密性を持って語るには、時間も何もかも足りない。

だから僕は叫ぶ。
たったの4文字。
「死は負け」であると。

何かに上書きするように。
大きなものに抗うように。
叫ぶ。
僕は、そんな人間が少しくらいは存在すべきだと思っている。

余談その1 

……ちゃうと思う……
いや、松本人志が仮にそう思ってたとしても、僕はこの発想には頭抱えるしか無い……
というか仮に松本人志がこの意味で言ってたのなら、僕は肯定しない……

強い弱いとちゃうからな。うん。
ここまでお読み頂いた方には分かってもらえると思う。
グリズリーに素手で勝てないからって、それは弱いことを意味しないから。

余談その2

僕は何度も、自分が死ぬことでこいつが苦しむのなら死んだほうがいいんじゃないかと思った。
主に小学生の頃だ。

何度死のうと思ったかわからない。

でも死ねなかった。
さっき言ったように、死ぬのが怖かったから。
そして運が良かったから。

僕はそいつらを……僕が死ぬことによってでも、苦しめてやろうと思った奴らを、「ゴミ」として扱えるように、クレバーで、より「高いところにいる」人間になろうと思った。

そいつらを心の底から見下して、笑えるように。
そんな人間になろうとした。

ラッキーなことに、僕はそれなりに頭が良かったらしい。
東京に出てきて、それなりに幸せな日々を過ごしている。

一方、たまに「奴ら」の「悲惨な末路」については、耳に入る。

そう。
小学生の頃夢に見た「あいつらを見下せるようになる」は、叶ったのだ。

そして僕が今思うことはたったひとつ。

……「それがどうした」だ。

本当に、今となってはあいつらがどうでもいい。
死んでようが、幸せになっていようが、興味がない。
不思議な話だ。

「忘れることが最大の復讐だ」なんて思わない。
復讐とは、そいつが最大に苦しむことだと思う。
それは間違いない。

一方で、僕が復讐やら恨みやら、そういったものに取り憑かれなかったのは……
何故だろうか。
……ただのラッキーとしか思えない。

だから正直なところ、同じような心境で生きている人たちに、メッセージは送れない。
何を言っても、僕の言葉は軽い。

僕は「死んだら負け」という言葉を、主に「生者」のために言った。
主に「ボーダーに」まだ立っていない人のために言った。
「ボーダーに」立っている人に言うための根拠は、弱い。そう自覚していると言った。

なら、僕は。
「ボーダーに」立っている人のためだけに、一体何が言えるのだろう?

真剣に考えた。
とはいえ正直に言おう、一時間や二時間考えたわけじゃない。
ふと思ったことだ。

僕は「ボーダーに」立っている人たちに、こう言うしか無い。

僕は貴方を肯定する、と。
今、そこで抗って「生きている」貴方を肯定する、と。
貴方がどんな手段で逃げたとしても。生きようとする、抗う貴方を肯定する、と。

これ以上、僕には何も言えない。

人が生きること、生きる上で抱える「呪い」のことについてはまた語りたいのだけれど、流石に長くなってしまった。
これくらいで切り上げよう。

……前の記事は愉快な内容だったので、今後も可能な限り愉快路線で行きます。
いや、ホントにこのこと語るつもりなかったんですよ……でも語らずにいられなかったんですよ……ゾンビランドサガの話した次の記事がこんな話とか……うん……温度差酷くてごめん……

お読み頂き、ありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。