Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

年の暮れに「現実」と「現実味」について考えながら、僕は何かを書く

ども、Mistirです。

突然ですが、今回の記事から大幅に路線変更します。
……まぁ、いつも通りお気軽にお読みいただければ。今後はこういった記事が中心になるよって認識していただければ幸いです。

……年末。
帰省を前にして僕は様々な映画を観ていたのだけれど、ある二本の映画が様々な意味合いで非常に大きな影響を僕に与えてくれた。
一本目はこの映画。

 「手を話したら、彼女は空に落ちていく」ーー
僕はこの監督の作品がそもそも好きなんだけど、それを抜きにしても衝撃を受けた。
なんだ、なんなんだこの世界観は。
重力が「逆」の世界に生きるヒロイン、パテマと主人公のボーイ・ミーツ・ガールの物語なんだけど、世界観も雰囲気も非常にニクい。
空がぱっくりと口を開けて全てを飲み込む深淵に見えてしまう、その描写。
空を覗き込む怖さ。
空の美しさ。
地下世界の廃墟じみた描写にもヒロインの可愛さにも、物語後半に登場する「空の果て」の描写にも、なんというか恋に近い感情を覚えてしまった。

ああ、僕はこの映画が好きだ、と。

勿論突っ込みどころは無いわけじゃない。色々アラはある。でも、そんなことどうでもいい。
僕はこの映画が好きなのだ。

次の日にはアニオタの友人が家に来た。
プロジェクターと100インチのスクリーンがある、逆に言えば他には酒くらいしか無い僕の家で昼からできることなんて映画を観ることくらいだから、とりあえず映画を観ることにした。
タランティーノにもダニー・ボイルにもスピルバーグにも興味はなかろうから、とりあえずこの映画を観ることに決めた。

こちらはもう徹底的に吹っ切れた「エンタメ」だった。
脚本は『魔法少女まどか☆マギカ』で有名になった虚淵玄が担当しているんだけど、氏の作品は全体的に「なんかダークサイドに行っちゃう」っていう印象があって、好きになりきれなかった。
この映画は、違う。
徹底的なエンタメだ。
よくわからない厨二病電波ストーリーにも見える導入から、説明臭くなくスッキリと世界観を理解させるその手腕。
おっさんと美少女のロードムービーを骨格にしながら、純粋なハリウッド映画的興奮(僕はこの興奮を「『アルゴ』のラストシーン的なアレ」と呼んでます)や、社会に対するドライな視線も加えられてて、本当によくできた映画だった。

正直、夢中になった。
途中から、我を忘れた。

いつもいつも映画は分析しながら観てるんだけど、そんなのもうどうでもよくなった。
この映画は濃縮したエンタメの、一撃必殺だ。
ただただひたすらに愉しめる、極上の体験だ。

……本当に良い映画だった。

……もう少し他の映画でも観ていたかったが、夜行バスは待ってくれない。
余韻に浸りながら、東京駅鍛冶橋駐車場から夜行バスに乗って地元に帰った。

夜行バスでじっくりと考えた。
最近ずっと、こういった「物語に没入して我を忘れる」って経験をしていなかったなぁ、って。
……いや、違う。
そもそも時間を忘れてしまうような経験をしてしまうことが、ほとんどない。

冷めてる。
何をしているときも自分を客観的に見ている自分がいる。
自分がいる世界を客観的に見ている自分がいる。

現実味がない。
何をやっていても、自分から離れたトコロで何かが起こっているように思えてしまう。
でも、好きな映画を観ているときや好きな小説に没頭できるときは、なんというか我を忘れられる。
最近腰を据えて小説を読むことも少なくなってきてたから、そういった「我を忘れる」経験に久しかった。

なんというか、「我を忘れる」瞬間にはリアリティがある。
その瞬間、確かに……「我を忘れながらも」「我はそこに存在している」。

「我、ここに在り」。

……。と、さすがに何を言ってるんだって話だけど。
まぁ単純な話、「僕は何をやってるんだろう?」と思いながら仕事をしてるときと、我を忘れるほど何かに没頭してるとき、どちらに「生きてるっていうリアリティを感じられるか」って話だ。
僕は明確に、後者だ。

……だとすると。
僕のリアリティは、リアル(現実)にはない。

僕のリアルは、常に小説だとか映画の中にだけ存在するものなんじゃないか?

……こんな厨二病じみたこと、いい歳こいた社会人が考えるかフツー。
……構わないだろう、僕は「フツー」じゃないのだ、それでよかろう。

で、なんだかんだで地元・H県に帰ってきた。
まぁなんやかんやで色々な人と会ってたんだけど、今日12/31は1日フリーだったので家の周りを自転車で走り回っていた。
昔、毎日のように通っていた中古の本やらゲームやらが売ってるディスカウント・ショップ。
併設してたゲームセンターとトイザらス

今日行ってみると、トイザらスがパチンコ屋になってた。

おもちゃ屋のパチンコ屋への変貌。
そう書くとなんだか寂しく見えなくもないが、要は資本主義の静かなバトルがひとつ上手い感じで終わっただけである。
寂しくもなんともない。
ただ、訴求力のなくなってたのであろうトイザらスという大規模なチェーン店が消えたに過ぎない。
トイザらストイザらスで今まで色んな所に「勝って」来たのだろうし、「負ける」こともあるのだろう。
それだけの話だ。

……ただ。
間違いなく言えるのが。

リアリティがない。
現実感がない。

「ああ、パチンコ屋になっちゃったんだ。
どこもかしこもパチンコ屋になっちゃうなぁ」

 

それがどうしたんだろう。僕と関係があるだろうか。

適当にふらりとディスカウント・ショップで買い物したりゲーセンに寄ったりしてから、家に帰って小説を読んだ。

私たちが好きだったこと (新潮文庫)

私たちが好きだったこと (新潮文庫)

 

 4人の男女が一つのアパートに暮らす物語。
よく知らないけど、『テラスハウス』とかもそういった番組なのかな?

この小説は、正直、最初の方は好きになれなかった。
まず「バーで出会った男女が話の流れで同居し始める」っていうのがそもそも謎だった。
無茶苦茶すぎるだろ。大御所作家とは言えやりたい放題だなオイ。

で、別の意味でもヤリたい放題である。察して下さい。

ということで「私たちが好きだったことってどうせセッ◯スだろ?」となんかもう大変にひねくれた読み方をしていたのだけれど、読みながらだんだん考えが変わった。
登場人物が全員「クズ」と「聖人」と、どちらの要素も非常に高度に共存させていて、そのことについて作中でしっかりと言及されているのだ。
登場人物たち、とりわけ女性サイドは行為だけ取り出すとかなり「クズ要素」の高い行動を取る。
はっきり言って、結構酷い。
……だけど、そういったクズさを否定するでもなく、そのクズさを受け入れる心を神格化するでもなく、ただただ恐るべきバランス感覚のもと物語は進んでいく……。
比べるまでもなく、『楽園追放』のエンタメ性はこの小説には無い。
ロボットも出てこないし粋なおっさんがカッコいいこと言うでもない。
だけど、すっと心に沁みてくるようなこの小説に、僕は「我を忘れて」いた。

読み終わった僕は一息ついて、今、このブログを書いている。
書きながらリアリティを味わっているのかそうでないのか、それはよくわからない。
とにかく、あと4時間弱で、一年が終わる。

僕はこの記事を書き上げて、投稿ボタンを押す。
家族とご飯を食べる。
その後、家族が買っておいてくれた僕の好きな缶コーヒーを飲みながら、他の小説を読む。
色々なことを考えながら。
そうして現実感がないのかあるのか結局のところよくわからない一年が終わっていくのだろう。
それは悪いことでも良いことでもない。
ただ、「悪くない」。

一年間僕のブログをお読みいただきありがとうございました。
来年からもよろしくお願いしますね。

では良いお年を。
また次の記事でお会いしましょう。

【ほぼ全て】ご感想へのご返信(2015/12/29)

ども、Mistirです!
年末ですね。皆さんいかがお過ごしですか。

ってことで、これまでの記事へのご感想のうち未返信のものに関してご返信させていただきます。
※「返信はしない」と述べたものに関してはしておりません。

では、早速。

mistclast.hatenablog.com

前提といたしまして、多分今後こういった記事を書くことはなくなるか、相当少なくなると思われます。
なんか、今は人の発言を分析することに意味を見出せないんですよね……
「物語」や「作品」は喜んで分析するのですが。
だから以下のご返信もやや歯切れの悪いものとなっております。
僕の変化を反映しているものとして、ご了承下さい。
では、参ります。

 伊豆

こんばんは。
記事を拝読していたら「卑屈の壁」が立ちあらわれて少しへこみました。

「人見知り」を克服した人に対しての「すみません。まだ、人見知りのままで」という卑屈w
「人見知り」ですけど、それが?なにか問題でも?
と言い切るにはコミュ能力に対しての憧れを捨てきれないようです。ww

モヤっとしてたのですがリンク先の「才能は欲求」「威圧感の無い人」が
心にストンと落ちてきてモヤっとが払拭されました。^^


余談。

「伝える」から「思う」になったくだりは、私は違和感を感じなかったです。

ウザがられる程嫌われてる人に「伝える」という行動は
「ストーカーになるんじゃないの?「でも思う心は自由だよね。」
(君の気持ち分かるよ、応援するよ、そんな君、過去の僕の為に歌をうたうよ!(←妄想ww))

「人見知り」が「相手に対して失礼」と思っている方が
「相手の気持ちを無視して伝える」のも「相手に対して失礼」と思っての流れだと感じました。

 

過去記事にも目を通して頂いたようで、ありがとうございます!
克服した人に卑屈になっちゃいますよね。ヤツはヤツ、オレはオレで良いとは思うんですけどね。
なるほど、「思う」は特に「伝える」の文脈とは関係ないって話ですね。ふむ……

 wasa

そもそも、この文章の流れから読み取れる「俺は努力したからお前らもしろ」という目線がいまいち気に食わないように思えます。
勝手にしてくれと言いたくなってしまう。

コメントありがとうございます!
僕もそういったところに過剰反応するクセがあるので、そこで反応しちゃったのかも。今後は僕の記事、こういった内容のものは減っていくかもです。余談ですが。

 つるじ

この文章からは善意を感じるような気がします。「君も悩む必要は無い。一歩踏み出すんだ。」という具合の。よって責める気は毛頭無いのだろうなと、私は思います。
成功者は自分の成功譚をあたかも正解であるかのように語りがちです。この文章は大多数の人の心に響くかも知れませんが、それだけのように思います。誰も知ったことではないので。
駄文失礼しました。

コメントありがとうございます!
ああ、なるほど。度々引用してる中島義道的な考え方ですね。 

善人ほど悪い奴はいない  ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

 

なるほど、成功者の成功体験と同類ですか。僕も無意識のうちに、そういった要素に嫌悪感を覚えちゃってたのかもしれません。

 BadBoy 17

この文章に「人見知りだと思うことをやめた。好きな人には好きだと伝えるようにした」と書いてありますけど、ふつう人見知りの人間って、好きな人に好きだと伝えられないから人見知りなんじゃないですかね。
それに対して星野源さんは、自分が人見知りだと思いこんでいるから、好きな人に好きだと伝えられなかった、しかし自分が人見知りであるという意識を取り払った結果、人見知りでは無くなった……つまり本来人見知りでは無いのに自分が人見知りだと思い込んでいたということになるわけで。
結局、この文章の意味するところは『人見知りだと言うことが恥ずかしいこと』なのではなく『星野源が自分を人見知りだと勘違いしていたことが恥ずかしいこと』なのではないでしょうか…
というより、この文章はそもそも多くの人に同意を求めるために書かれた、いわばポエム的なものなのでしょうね。

コメントありがとうございます!
星野源が自分を人見知りだと勘違いしていたことが恥ずかしいこと』ですか。なるほど。多分、矢印は自分に向いていたのでしょうね。多方面に向いてるものとして僕が解釈しちゃっただけで。僕が厳密に見すぎていた部分があったかもしれませんね。それは一種悪趣味だったかもです。
引用元のツイートの「正論」っていう言い方に僕が反応しちゃったんですね。

 にこじろう

面白く拝読しましたが、私の解釈とは真逆ですね。
私の解釈では、星野さんの文章は、要するに、「僕は、過去にラブラブ過ぎた人から言われた一言ですっかりブロークンハートしちゃったトラウマから、自分は人見知りな性格と思い込み、周りにもそう宣言することで、周りと壁を作ってきた。そうすることで、他人とのコミュニケーションに伴い必ず発生する心の痛みから逃げてきたんだ。でも本当は僕は寂しがり屋なんだって気付いたんだ。だから頑張って人見知りバリヤーを解除することにしたんだ」っていうちょっと萌え話的な文章に読めたんですが。
ちょっと私の頭が沸いてるからでしょうか。

コメントありがとうございます!
この方の感覚を凄く好きな女性の方はとても多いみたいで、おっしゃるような反応の方が多いことは察せました。多分、そういったハートブレイク的な要素をすっ飛ばして僕は読んでいたわけですね。

 id:nonkini

自分はそれほど違和感は感じませんでしたが、星野源氏は「人見知り」=劣っている⇒克服すべきもの と思い込んでいたんでしょう。世間一般にはそんなもんでしょう。
ライフハッカーの記事にあったように、優劣など考えず生きられたら… それが理想ですね。

コメントありがとうございます!
僕も「人見知り」=劣っている、っていう理屈は直感的には実は分かります。誰とでも仲良くできたらその方がええやん、と。
そういった考え方を僕は「理論」で否定するわけです。まぁ、認めたくないからですねw
僕も優劣っていうのに凄く向き合ってますが、最近マシになってきたかも?

 hokushi

読み手の自意識によって、感じ方が大きく異なるのかな。

自分の人見知りをコンプレックスに感じている人には、啓蒙しようとする上から目線。
→不快 or 自分もがんばろう

人見知りじゃない人や、克服した人には、成功体験の喜び報告。
→良かったねぇ とか へぇ〜

ただ、「自分もがんばろう」の人は、彼がうまくいったからといって、鵜呑みにしてはいけない。成功を保証しているわけではないから。
さらなるトラウマを抱える可能性も高い。
そういう意味では「無責任」という感想もあるか。

コメントありがとうございます! 
なるほど、読み手を選ぶ側面は非常に大きそうですね。確かに、この記事を「正論」と言ってしまうと傷つく人というか、無用に否定されちゃう人が絶対にいると思いました。

 ゆう

にこじろうさんとだいたい同じ考え方です。
星野さんの人見知り、というレベルは単にシャイだとかなかなかうまく喋れないというものだけではなく、人に挨拶できない、面倒だしストレスがたまるからなるべく挨拶したくないといった高度な(?)人見知り状態だったと思われます。でも、いくら人見知りだと言っていても他人には挨拶しないのでは、人間関係を築けないし、そこから抜け出したい思いがあったのだと思います。誰にでもフランクに話せる人が羨ましい。でも、自分は出来ない。むしろ、会話なんて気を使ったりするのは疲れるからしたくない。
これは人それぞれですね。私は共感できました。

(私は、学生なのでビジネストークについては分かりません。すいません)

好きな人のくだりは「思う」じゃなくて「伝える」じゃないですかね。ここはミスかと。


星野さんの文章は、同意を求めるようなものではなく、自分の考えを整理しているように思えます。なので、それほど威圧感とかは感じないです。


乱文失礼。

コメントありがとうございます!
なるほどなぁ、高度な人見知り状態ですか……そういった発想がありませんでした。そういう意味では、最近「高度な人見知り」状態ですねwそこから抜け出したいという、星野さんの個人的な思いの発露があの文章だったわけですね。

 y

人見知りするかしないかで言ったらする方に周りが気を遣うのは間違いない
努力するかは人それぞれ
星野氏は人が好きだから努力してるんじゃないかな
一人でいい人は気にしなくて良いと思う

コメントありがとうございます!
最初から「人それぞれ」な問題だったのかも。「正論」ってコトバに過剰反応してたのは僕なのでしょう。
僕は一人で良いのかどうかビミョーですが、まぁテキトーにやってテキトーに周りには人がいるから深いこと考えなくてもいいのかも。

……さて、これでこの記事の全てのコメントへご返信したわけですが……
歯切れ、悪いですねw
まあご容赦下さい。自分の記事に対して無責任といえば無責任ですが、もうこの領域は僕の「管轄外」です。
考え方が最近大幅に変わりまして……

まあ言い訳はさておき、次の記事へ進みますね。

mistclast.hatenablog.com

 

……この記事もなんですけど。
解決しちゃったんですよね……
この記事の途中で、

何千万の「正論」を聞き飽きた。

ってあるんですけど、結局それは要するに「情報の過多に対する過剰反応が原因の一つ」だったわけです。
……で。それに対して……

 

Twitterやめてネット減らして入ってくる情報絞って、今までTwitterやネットに使ってた時間と脳のリソースで小説読んだり映画観たり考察したりするのに全て振り分ける

 
で、ほぼ解決しちゃったんですよ。
バカみたいでしょ?
僕、バカなんです。

今の夢というか目標の一つが結構はっきりしてて。
自分自身が圧倒されるほどの量の小説や映画の感想を、考察をEvernoteクラウド記憶アプリ)に残そう、と……
そういう目標ができました。
ってことで、何をご返信してもぁ……って感じなんですよ。
全てのご感想に目を通しましたが、今の自分がなんというか……みなさんの真摯なコメントにご返信できる気がしなくて……

ごめんなさい、この記事へのご返信は今はやめておきます。
全て目を通させていただいておりますので、何かございましたらコメントしていただければ。

mistclast.hatenablog.com

 

 BadBoy 17

なんか今回はやけにぱっとしないのですが、これはつまり、評価されたいという欲望を否定したいのでしょうか……それともみすちーさんにとってブログは語ること自体が報われる行為であるのに対して、絵を描くことは評価されることでしか報われた感覚を味わえず(あるいは画力が低いために書いていても満足感を感じられない)、その差異に苦悩しているという内容なのでしょうか……
自分も多様な趣味を持っていて、それぞれの趣味に時間を割けないために、一生報われないだろうなと思ったことはありますが、正直報われようが報われまいが、趣味とは内なる欲望に触発されて行うものであり、そこに有益さや生産性などが生じようとも、根本的に意義や目的の存在するものではないと思っています……だからこそ趣味なのでは。

直接ご返信させていただきましたが、お答えしていなかった
「評価されたいという欲望を否定したいのでしょうか……それともみすちーさんにとってブログは語ること自体が報われる行為であるのに対して、絵を描くことは評価されることでしか報われた感覚を味わえず(あるいは画力が低いために書いていても満足感を感じられない)、その差異に苦悩しているという内容なのでしょうか」 
の部分にご回答いたします。
端的に申し上げると、「評価されたいという欲望は否定出来ないし否定されるべきものでもない。だけど、『評価を求めて』創作をすると、大抵何かがズレる」が僕の考えです。
なので、後半部分の「絵を描くことは評価されることでしか報われた感覚を味わえず(あるいは画力が低いために書いていても満足感を感じられない)、その差異に苦悩している」はある程度近い内容ですね。
まぁ「本来の創作って一人にでも伝われば十分なんだよなぁ」っていうボヤキを8000字に渡って続けていると思っていただければ。

 ものくろこーひー

毎度拝読させていただいてます。どももー。
確かになんで描くのか?を疑問に思うことは、たくさん描くような人には向いてないとは思いますw
しかし普段描かなくとも、ある日突然思いついた時に絵を描くことも一つのお絵かきスタイルであると思います。
描いてる時になにを込めたのかMistirさんが思い出すことができれば、それはこのブログでは同じような効果、それでいて文章では手の届かない頭の中を抽出するような、絵を描くことにそんな価値が出てくるかもしれないと勝手に想像してみましたw

ご感想ありがとうございます! 
最近、Twitterから距離を置いたら「無意識のうちにTwitterのRTを稼ぐゲームとして絵を捉えていた」という事実に気づきまして……
だから自分の中での絵の価値観が一度リセットされつつあります。今後、もしかしたら思い出したように絵を描くかもしれませんね。
……ただ、今はやりたいことがあって。それが幸せっす。

 asahi

こんにちは。

絵を描いて「評価されたい」という気持ち、私にもすごくあります。私は、その気持ちを産むひとつの要因として、「他人と自分の内面を共有したい」という願望があるのではないかと思います。

たとえば私は、美しい景色を見ると絵を描きたくなります。光を反射する水面や青々とした木の緑などを見ると絵を描きたくなって、その絵を人に見せたくなります。「私にはこの景色はこう見えていて、すばらしいと思うんだけど、あなたにはどう見えているの?」と聞きたくなる。いくら同じ風景を同じ場所で見ていても、自分と他人は個別の存在だから、自分が見えている風景と他人が見えている風景は違います。その上で、自分が感じたことを他人も共有しているのかを知りたくなる。そして自分が美しいと感じた部分を他人も美しいと感じてくれているとすごくうれしくなる。そこには、どこまでいっても交われない個別の存在であるというある種孤独の中で、自分の内面を一部でも共有できたのではないかという、他者と交われたという充実感があるのではないでしょうか。「他者から評価される」ということは、自分が他者と共有したかった自分の内面の一部を、他者が共有し共鳴してくれたという、自分の心の孤独を掬い取ってくれるという一面があるのではないか、と思います。

mistirさんの、某ゲームキャラの女の子の絵、私はこのキャラを知りませんが、穏やかな表情や赤い頬、ふわりと服に乗る髪に柔らかなフォルム、一方で違和感を生む歪んだ時計、なんとなくですが、mistirさんがこのキャラのどこに琴線が触れているかが伝わってくる気がしますし、このキャラの素敵な部分を表現したいという気持ちが伝わってきます。絵がうまくなりたい、といのは、「自分の内面を、より正確に外に出せる技術を会得したい」という欲求なのではないでしょうか。

すごく自分語りになってしまってすみません。実は私も絵が上手になりたいと思っているいる一人なのですが、壊滅的に下手なのです。表現したいことができなくて、いつも絵を描くとヤキモキしています。下手すぎて何の絵かも理解されないことも多いのですが(重症です)、たまに色使いで何を表現したかったか気づいてもらえることがあります。「あなたにはこう見えていたのね。」といってもらえるだけで救われることがあります。褒められなくても、ただ自分という人間の内側に育った気持ちを理解しようとしてくれたことを嬉しく思うのです。それが共有できたらなおのこと嬉しい。

表現したいものを見失っている、とありましたが、描くために表現を探しているとなかなか出てこないもののように感じます。一方、外に出して誰かに理解してほしいと思える自分の内面の欲求が現れて、それを表現する最適な手段が「絵を描くこと」と感じたときに、手が動くのではないのかと感じました。

ご感想ありがとうございます!
自分の絵に関してそうやって観ていただくことって滅多にないので、お恥ずかしいですね……w
でも、確かにそういった自分の気持ちを、見方を伝えたいっていう欲求はありました、少なくともこの絵を描いた時は。
コトバにできないものを伝える……それが絵の最も根源的なパワーなのかもですね。
そして創作全てにも言えることである、……と。
長らく忘れていた衝動でした。もう少し、考えてみます。

 

mistclast.hatenablog.com

 

 BadBoy17 (id:Badboy17)

もし東京にお住まいならユナイテッドシネマ豊島園で4DX導入記念で12月2日から12月11日まで4DX3D版で放映してますよ。
余計なお世話だったら申し訳ありません
http://www.unitedcinemas.jp/toshimaen/film.php?movie=3486&from=movie

ありがとうございます!
……家で見ちゃいましたw 良い映画だったんですが、ちょっと僕的に許せないポイントもあるっていう映画でしたね……
僕の映画観はいずれ語りたいところです。

 nicho

なんか救われたような気がしました。
ありがとうございます。
自分③の可能性もあるけど…(ノД`)

ありがとうございます!
僕も3かもしれないので、同じですねw

 

mistclast.hatenablog.com

 

 BadBoy17 (id:Badboy17)

映画エイリアンとかはもうどこをとっても性的なメタファーだらけですよね

コメントありがとうございます!
そうです、その通りです!
ホラー映画の性的なメタファーは研究がたくさんあって非常に面白いですよ。「抑圧と解放」がホラー映画の一つのテーマですからね。

 いわし二号

男根のメタファー語りありがとうございました。正直、このトレンドを目にした次の瞬間にはMistirさんの分析を期待していました。期待どおり、この問題点の気持ちの悪さがずいぶん腑に落ちました。

隠喩にはレベルがあるということですね。
作り手も視聴者も暗黙の了解で対象物を合意しているほぼ直喩のもの(=チョコバナナ)から、個人的解釈である隠喩(=Mistirさんのドラえもん)まで無段階です。ツイート主が思う「作り手も男根のメタファーとして提供しているし、視聴者もそう見ている」という決めつけと、現実のギャップに、今回のツイートの問題があると思います。さらにそれに、「外国人」という使い古された「虎の威」で説得力を持たせようとしているところが苦しいです。

さて、私は育休中30代のおばさんですが、このツイート主にはおばさんならではの気持ち悪さがもう一つあります。
こちら、のうりんのポスターに対する他のおばさん発信のツイートですが、

https://twitter.com/jasminjoy/status/671833881784377344

なんでしょうね。被害者意識?ご自身が被害者なわけではないのですが、男が女にこんな役割を期待していて、それがこういうところに反映されているのだ!という固定観念が見えます。(このツイートに対しては、「ならばリラックマは凶暴性や生命力を排した理想の動物像か?」と聞きたい。セクシーさを含む可愛らしさに、いちいち被害者妄想を投影しないでほしい。)
今回のメタファーのツイート主もこれと同じで「男(特にオタク)は、常に私たち女に未成熟な像を押し付け、軽んじて征服したがり、私たち女はその危険に脅かされている」という被害者意識を感じてなりません。

知的水準が高いと自認して高尚な語りをする女性ほど、こういった偏ったご自分に気付かずご高説をぶつ。この我田引水な思考回路こそが、女性の活力云々を妨げているんだと思います。

飛躍しました。長文失礼しました。

ご感想ありがとうございます!
……明晰かつ的確なコメントで、僕には上手くご返信ができないです……w
男性か女性かは別にして、なんかアラがある語りですよねぇ、この人。少なくとも僕にはそう思えました。

 ハートフル雅橋 (id:Fujikaze065)

 男根のメタファーがツイッターで話題になり、Mistirさんに考察していただけるのではないかと期待しておりました。ポルノとメタファーを同列視して語ったことや、エセ西洋人・ステレオタイプなガイジンを引き合いに出したことが炎上の一因であるとの指摘、しっくりきました。メタファーは作品を楽しむひとつの要素として考えるものであり、件の人物のようにまず何が何でも批判や中傷をしたい、その為の道具として、ある種アラ探しのように"メタファー"を引っ張り出してくると途端に薄っぺらく訳の分からない主張になってしまうように感じます。ただ件の人物は、ステレオタイプな思考で凝り固まっているようにも思えますが。


 楽器が男根のメタファーという見方は、私も結構面白いと思います。
けいおんまどか☆マギカ、ガールズ&パンツァーと言った少女達が主役の作品では、徹底的に「力強さや威厳を持つ"男"」が排除され、ステレオタイプな"男"や"チカラ"と言った存在は少女たちの道具としてのみ存在しているように思えます。特にガールズ&パンツァーでは戦車が恋愛対象のメタファーとしてかなり印象強く描かれており、この観点から見ると一層楽しめるように感じました。

ご感想ありがとうございます!
みなさん、どれだけ「男根のメタファー 」で僕を想像してらっしゃるんですか……嬉しいですけどw
そうですそうです、列挙されたアニメは本当に典型的なもので(ガルパンは未見ですが、一応そういったタイプのアニメと認識してます)。
映画分析をメタファーを使ってやるのはベタな手法で、そうであるがゆえに楽しいんですよね。

 Iridium

 個人的には男性(と囁かれている)であるはずの久美氏の精神がいったいどう捻じ曲がってここまで女性的な、ナチフェミ的な思考回路を持つに至ったのかも気になってしまいますね……。
 
 みすちーさんも文中で仰っている通り、メタファー=暗喩として機能しているなら「そのものにはなれない」はずである、ということは少し考えれば理解できる事実でしょう。それから、あそこまで論を展開できる人間である以上は、久美氏も分かっているほうの人間であるはずなのです。ゆえに、分かっていながらに確信犯的(誤用)に児童ポルノと同じ文脈でこれらを語ることで同胞を奮い立たせ、確信犯的(正用)に炎上を作り出しているんじゃなかろうかと勘繰ってしまうんですよね。彼に放火された”オタク”たちは理性的にしろ衝動的にしろ何らかの形で必ず反旗を翻しますし、その旗に正論が記されていたとしても、決定的な溝を隔てた向こう側にいる”女性”たちは必ず嫌悪を抱き、溝をさらに掘り進めるからです。こうして”オタク”たちを散々な加害者に仕立て上げることで、比喩的な性表現さえ取り締まるディストピア的な規制社会をちゃくちゃくと作りあげているんじゃなかろうか。こわいなぁ。
 
 ……なんてことを陰謀論大好き人間としては考えてしまうわけですが、それはさておき。
 絵画には『愛の寓意』などでちょっとばかし有名な(ちなみにこの絵を有名にした中野京子さんもかなりフェミニスティックな展開で絵画を語る方です。…それ自体はこの話に関係ないのですが)寓意画というジャンルがあって、画面に配置されたオブジェクトや人物の配置などから絵の語っている意図を紐解く、という楽しみ方をするものが存在します。また宗教画は必ず沢山の暗喩を含んでいますし、メタファーでもって作品を楽しむのはこれに近い考え方なのかなーと思うと俄然、楽しそうです。文学や映像作品でそういう風に遊んだことはそういえば無いので試してみたい次第ですを

ご感想ありがとうございます!
そうですね、確かに確信犯的(故意犯的って言ったほうが良いのかな?)な一面は見られる用に思います。
楽しいですよね、メタファー。絵画にも応用できますし、何に対しても応用できて。
さらには「このメタファーは下手くそじゃないか?」みたいな見方もできます。例えば、以下の小説では「壁に釘で貼り付けられたトカゲ」が露骨にメタファーの役割を果たすわけですが、それを露骨と見るかどう見るか。楽しいですよ。

春の夢 (文春文庫)

春の夢 (文春文庫)

 

 ……これくらいにして、次の記事へ進みますw

 

mistclast.hatenablog.com

 

 id:telleroid

うわ〜んヽ(;▽;)ノ泣いた…
何処で泣いたかは秘密ですが♡
名前に重きを置いて考えた事もなく
習字の時のハラいが難しい字で形になり辛く
うらめしい事はありましたが……
氏名に対してはやはり同級生が学期途中に
変わった時に、ご両親離婚なり
何かしら別離があったのだなと悟ります。
そんな場面は端からも何か寂しさを感じたりは
しますよね
自分自身何者か当事者の子供なら
自分の問題としても考えるでしょう。

選ぶ余地なく法律的に氏名を語らせる日本と
自分の選択で氏名を語れる他国とがあるのに
いま知りました。(サンジャポ見た)

生きる過程の中で各々が重きを置く事は
様々なのだなぁって今更ながら思います。

理性的論理的感情論じゃなく語る事は
本来なら難しく、
その理性的な物言いでは互いに届きにくい筈なのに
理性的にそう語らなければ周囲は納得しないし
理性的なら却って納得するような現象で。

自分の立場(生きてきた道筋)をさし置いて
語る事は本来とても難しく
理性的に問題提起をしたとしても結果
知を分断させ格差を煽るような気さえ
します。
(理知的な物言い>感情的な物言い)
よって、さも理性的な面構えの奴が
旨味を吸うような……

だからと言ってどうお互いの目論見を
どう会話していけば良いのか……

しかし理性的論理的感情論に走らず冷静には
いたい所でもありますが…(すぐ泣く(≧∇≦))


感情を押し殺す…
私の前では押し殺して欲しくないなぁせめて…
とか大切な人には思ってしまいますけれどね♡

又のblog楽しみにしておりま〜す♡

男女内おごるおごらない割り勘から読み解く
男女同権とかいろんな形の結婚とは〜等
Twitterで昔、件に対して何周もしてまして
みんなもう飽きてるかな。
これこそ、生きてきた道筋から
いろんな論が生じてどれにも賛同出来る
のですが…
私もいつもそれなりに悩むのですよ…
(相手との関係性、相手がお金持ちなら
良いのか、恋人なら長続きしたいから折半論とか
ある意味おごらない男ありえないとか、
…私的に嫌な折半はラブホ代です!って所に
女として弱者気取りかよってオマエモタノシンダクセニ
嫌だな自分!とか(≧∇≦)
いつかお話聞きたいです♡

 

ご感想ありがとうございます!
理性と感情は必ずしも分断して対立させればいいとも限りませんよね。
やっぱ、どっちの目線からも語ってみて考えるのが一番良い気がします。大事なのは焦らないことで。
……折半の話はよくわからなかったので、今度またお願いしますw

 asahi

名前は、アイデンティティを形成する上で大切な一部だと思いますが、その意味合いが昔と今とは少し違ってきているのかなって思います。

少し前までは、自分の産まれた「郷土」の中で一生を終える人が多かったように思います。都会に出ても、最後に死ぬときは先祖代々の土地で死に、産まれた土地の共同体の一員として墓に入る、みたいな常識が根付いていました。その中では「家制度」というのはとても大事だし、「どの家の息子」と「どの家の娘」が家族になり、今後その土地を守っていくのかを、周りの共同体の構成員に示すことはとても大切だったように思います。女性が結婚して男性の性に変えるのは、その男性の家に入り、血縁をつなげ、その土地を夫と共に守ることがその女性に課せられた使命であることを示した、一種のアイデンティティの形成方法だったと思います。(もちろん、ここで「だから女性蔑視だ!」といいたいわけではなくて、それが当然の時代だったということで、男性もそもそも産まれた土地がら離れないという同等かそれ以上の帰属意識を持っていたと思います。)

しかし、現在「郷土」という認識は薄れつつあります。親子3世代、別々の土地に家を構えることも珍しくありません。そうなると、名前で共同体への帰属意識を形成させる必要がなくなります。名前は固体を識別するための記号の意味合いが強くなり、そこにどのような意味を持たせるかは本人次第になってきているのだと思います。アイデンティティは産まれた土地から「与えられるもの」から、「自分で形成するもの」に変わってきています。

だから、夫婦別姓を認めれば、より多くの人が独自のアイデンティティを形成する幅が広がるのになと思います。昔のように、家や土地を守る決意を持って名字を変える人がいればそうすればいいし、名字が自分の個性の一部で一生変えたくないと考えている人がいればそのままでいれば良い。名前に帰属意識を期待しすぎない人も、名前に何かしらのこだわりがある人も満足できる制度にすれば良いのになと。ただ、今と昔とでは名前の持つ意味合いが変わっているということを心に留めておかないと、「感覚」とか「感情」での話し合い担ってしまうのではないかなと思います。

ちなみに、私は女性ですが、名前の字画数が名字を含めて大吉なので(運勢的な意味で)あまり変えたくないです。ただ、今の名字より運勢が良くなる名字の人と結婚するとしたら変えるかも知れません。私にとっての名前はゲン担ぎの一種で、よくも悪くもその程度です。

ご感想ありがとうございます!
家制度が崩壊しつつある今、名前の意味合いは?という指摘は非常に重要な指摘だと思います。
世の中が変わっても、それでも名前に対する「感覚」は変わらない、これまた重要で。
難しいですね。
僕はどうでしょう。本文で述べてるように、変えられたらショックなような、それでも別に良いような。
難しいんですよね。「理屈」ならどうでもいいのですが。

 id:syougisyougi

最後の方にある、
強引に夫の名字に変えられるのは嫌だ!
というのがこの問題の根底だと自分は思います。
確かに名前はそんなに大事ではないかもしれません、しかし大事でないからといって、いや、大事でないからこそ法律で無理やり変えさせられることは不快なのだと思います。
性別などといった人生を決めるような大事なことを変えられないなら、せめて名前くらい自分の好きにしたいものです。

コメントありがとうございます!
大事じゃないからこそ、ですか。……難しいですが、そういった発想もあるのですね。
法律が無ければ、確かに夫婦別姓という「自由」は享受できるわけですよね。でも、それが法律によってできなくなってる。それは法律によって強引に苗字を変えられるのと変わらない……
難しい問題ですよね、やっぱり。そこで苗字が大事かそうじゃないかは、実はそんなに問題じゃないのかも。

mistclast.hatenablog.com

えっと……
この記事の解決方法も、一つみつかっちゃいました。
……また今度機会があれば語りますね。
コメントへのご返信は、この記事は保留ということで。

ってことで、年末総決算的にコメントへのご返信をいたしました。

今後はコメントへご返信するかどうか、わかりません。
まぁテキトーにさせていただきますね。

今後はまたブログの「ノリ」も変わると思います。
順次色々と語りますが、「今の心境ならこれ絶対記事にしないなぁ」って記事が大半でした。
やっぱり色々心変わりがあって……

……まぁ、ややこしいですが今後もよろしくお願いしますね。

ではまた次の記事でお会いしましょう。
次の記事がいつになるかわかりませんが、とりあえず、良いお年を。

Twitterから離れたら精神が回復した

ども、Mistirです。

最近Twitterから離れ、ついでに言えばブログの更新もご無沙汰で……

これ、結構理由があるんですよ。
つらつらと語りますね。

 

実は、僕は以前もTwitterから離れたことがありました。

mistclast.hatenablog.com

この頃は、「物語が物語として楽しめなくなっちゃう」っていうそういう理由でした。
ややこしいので、もしよろしければ上の記事を読んでみてください。

っていうかそもそも、Twitterから離れたことが結構何度もあります。

でも、禁煙に失敗するかのごとく何度もTwitterに復帰しました。
なんだかんだで思考停止して情報を集めるツールとしては究極の中毒性誇ってると思うんですよ、Twitter

一番直近でやめようとしたのは、10月なんです。
ただ、離れようとした瞬間なんかとんでもないことになっちゃったんですよね。

mistclast.hatenablog.com

この記事がTwitterで凄くバズっちゃって、僕もその反応が気になっちゃうからTwitterに張り付いちゃう。
冷静に考えると、それは「悪手」でした。

精神の健康には、すこぶる悪い。
ついでに言えば、ブログの健全な運営にもすこぶる悪影響を及ぼしてます。

ふと気付きました。
僕は「Twitterの反応を『良いこと(正義)』だと認識している」と。

絵にせよブログにせよ、「見られたほうが良い」に決まってます。
でも、それを目的にした瞬間「ある歪み」が生じることに気が付きました。

まず、反応が気になりすぎて自分の軸が歪むこと。

もう一つは……
「反応」を求める精神があったら……

「反応があること」即ち「幸福なこと」と認識してしまったら……

そもそもTwitterには、「反応を貰える人」が山程いるんです。
エロ可愛い絵描いて1万RTとか。

つまり。
そういった人たちが。
みんなみんな。

みんな幸福に見えるんです。

周りがみんな幸福に見えるとどういった現象が生じるか。

Facebook不幸性症候群です。
さっき命名しました。

buzz-plus.com

僕、Facebookやったら絶対に不幸になるって解ってるから、絶対にやらないって決めてたんですよ。
でも……

まさか、Twitterで同様の現象が起こってるとは思わなかった。
いや、マジで。
Twitterってもう少し憎悪がうごうごしてるスラム街みたいなところって認識だったから、Facebook不幸性症候群とは無縁だと思ってた。
でも、結局は同じだった。

ヒトとヒトが繋がるトコロ、そこに疲れが生じないわけがない。

ってことで、しばらくTwitterから完全に離れてみました。
そうすると何が起こったか。

まず、物事が自分の中で完結し始めます。
上手く言えないですが、例えば凄い映画を見て、凄い膨大な感想を抱いたとしても、それをさらっと140字以内で呟く事によって「コトバに」収めるってことをしなくなります。
そうすると、どうも「自分の時間」が増えるような気がしてくるのです。
……まあ、Twitter見ない分物理的に時間増えてるってのも大きいのですが。

で、僕は色んな趣味を「Twitter基準に」考えていたことに気が付きました。
Twitterで話題になることが目標、みたいな感じにいつの間にかなっちゃってたんですよね。

そういった思考が、たとえ無意識にせよすっげー疲れるって気が付きました。

そしてさらに気が付きました。
いつの間にか、Twitterは僕の価値観の屋台骨にさえなっていた、と。

そして読書量も減っていたことに気が付きました。
……これは、やばい。

ってことで、Twitterから少しキョリを置くことにしました。
グダグダ語りましたが、理由はいたってシンプル。
「その方が幸せだから」です。

で、ブログももう少しだけシンプルに今後取り組もうかなと思ってます。
今までTwitterで話題になってたことについて語ることが多かったんですが、やめよっかなーって。

その分、作品分析とかそういった方向性をもうちょっと進められたらと思ってます。
いや、まぁぶっちゃけどうなるかなんて僕にもわかんないんですけどね。

なんかたくさんの人にお読みいただいてありがたい限りなんですが、色々方針を変えながらまったりとやってみようと思ってます。
少なくとも今は、前の記事書いた時より頭がスッキリしてます。

mistclast.hatenablog.com

まあ、今Twitterのアカウント消すのは流石にためらいが凄くて、直接ご感想いただけたらやっぱり直接お返ししたいし、なんだかんだで広報用(???)として便利なので、今後も「広報用」としては使っていくかなーと。

ただし、タイムラインはもう多分見ません。
リプライだけ見ます。

今後は上手くTwitterともキョリを置きつつ、ブログも「語りたいから語ってる」っていう、そういった次元のお話をもっともっとできればなぁと思ってます。
その結果、大分つまらなくなっちゃうかもしれませんが、まぁそれはそれで構わないかって。

ってことで、今後ともよろしくお願いしますね。

ではまた次の記事で。
今度は何を書こうかな。とりあえず、ご感想へのご返信かな……。

 

適当な生き方が、下手くそになった

こんにちは、Mistirです。
今回は最近思うことをつらつらと。

いつからか、テキトーに生きられなくなった。

中学の頃は毎日ゲームばっかりして、人より少しでも多くの時間ゲームするようにしてた。
ひたすら、ひたすら。
何故そうやってひたすらゲームやってたのか、今は分からない。
多分、小学校の頃親に言われてそんな長い時間ゲームできなかったことへの「反発」だったんじゃないか。

高校の頃は色々あったけど、高1辺りの頃は「図書館の司書になってテキトーに生きたい」って思ってたし、「いい大学行ってイージーモードな人生送りたい」とか思ってた。

本当にいつからかわからないのだが、「テキトーにしつこく」物事に執着するってことができなくなった気がするのだ。
なんで必死こいて昔の自分はゲームやってたんだろう?

……いや。
あの頃もまぁ、飽き飽きしながらそれでもしがみついてただけのような気がする。
今で言えばネットにしがみついてるようなものか。

今はまあ、それなりどころじゃないくらい自由も不自由も手に入れた。
ゲームしか無い自分よりは、まぁ世界は広がったんだろう。

でもなぁ。……広くなればなるほど、途方に暮れてる自分がいる。

どっちがマシなのだろう?
今と昔は。

最近は、どうも何かから逃げてるような気がしてならない。
何にだろう?
何から逃げてるんだ、僕は?
何からも逃げてないはずだけど、何もかもから逃げてる気がする。

なんつーかさ、20歳やそこらでも、趣味を仕事にしてガーッと有名になって稼いでる人、いるじゃん。
なんか負けてるなぁ、っていうか。
今の自分、緩いなぁって。
つまらないなぁって。
かといって、頑張ろうとも思わないし、頑張り方もわからない。せいぜい筋トレするくらいだろうか?
で、このヌルさは誰かに「断罪」されるだろうか?
一人で東京に来て一人で生きてるの、それなりに凄いと思うんだ、自分では。
でもみんなそうやって一人で生きてるんだよなぁ。
みんなすごい!素晴らしい!
頑張ってますね!
……そう、みんな頑張ってるんだ。

まあそれはそうとして、さ。
これは確実に言えるんだけど、昔なら……
「趣味で稼いでる」ような人たちや、若くして成功してる人たちは完全に僕と別人種の人間だって思ってたから、負けてるだとか緩いだとか、そういうこと絶対思わなかったんだよ。

ーーあ、そうですか。
ーーそちらはそちらで頑張ってね、と。
ーー私には関係ないことでございます。

いつから、そういった世界との「関係性」が生まれたんだろう。

……あー、多分ネットだ(確信)。


僕はFacebookを避けてるんだけど、Facebookはやればやるほど周りが幸せに見えて不幸になるっていう側面があるらしいね。
僕も、もしかするとネットに触れすぎてそういった思考が身についてきてるのかもしれない。
じゃあネットは一方的に僕を不幸にしてるのだろうか?
……いや、それは論理の飛躍だろう。

僕はどうやら、未だにどうにかなると思っているらしい。
……実際、「どうにかなる」のだろう。
「どうとでもなる」のだろう。

未来は無限だ。
残酷なほどに。

その無限の中を、どう生きるか。
自由になればなるほどしんどくなるよね。

生きれば生きるほど、昔にまた戻っていく気がする。
読書量が圧倒的だった高校時代に。勉強量が圧倒的だった高校時代に。ゲーム量が圧倒的だった中学時代に。
せめて、何者でもなくなった今の自分より……その頃のほうがまだごく僅かに「自分」だった気もするのだ。
錯覚かもしれないけどね。
……いや。多分錯覚だろう。

今、注意や関心があらゆる方向に向くことをどうやって防止するか徹底的に考えてる。
家にある本の選択肢が30冊くらいあるから、どこからでも読めちゃって、結局何も読まなかったりすることがザラ。
とりあえずこの問題を解決したいんだよね。
その中で何か見つかるのだろうか?

……昔は昔で、とんでもない閉塞感があったけど、中学の頃は高校に進むっていう救いが、高校の頃は大学に進むっていう救いがあったんだなぁと今しみじみ思う。
今の救いはなんだろうか。
救いが欲しい。
できれば酒以外で。
今はシラフですよ、年のため。

と、別に仕事が不調なわけでもない今日の呟きでした。

いつもお読みいただきありがとうございます。
コメント、凄い密度で頂いているのですが、「保留」という名の「逃げ」に走ってます。
年末年始にまたお返しできると思いますので、またよろしくお願いしますね。
リア充なので年末年始も半端ない予定の密度だけどな!人に会わない日がねえぞ!!
……リア充、か。……うーん?
深く考えるのやめとこう。

ではまた次の記事で。
そのときには、少しでも前に進んでいたい。

夫婦別姓問題で、名前を大事にしてる人の多さを知った

こんにちは、Mistirです。

最近世間を賑わせてる夫婦別姓の問題だけど……
この話は色々議論されてるから、僕はちょっと別方向から語りたい。
……いつものことやね!


みんな、名前にこだわるんだなぁ……って話だ。

突然だけど。
みんな、名前ってそんなに大事?

ここで言う「名前」に深い意味は無い。
「有名」の「名」だとか「名誉」の「名」じゃない。

あなたが田中太郎さんだったら、その「田中太郎」のことだ。
山田花子さんだったら、その「山田花子」のこと。

結論、そして極論を言っちゃうと……
名前にそんなに執着する意味、あります?
いや、そりゃさぁ……「長いこと一緒に生きてる分愛着が湧く」っていうのは分かる。

でもさ、名前なんて自分が頑張って手に入れたものでもなければ、予め備わった才能のようなものでもない。
もちろんこの理屈で言ってしまえば、「じゃあ貴方が男であることも『頑張って手に入れたものじゃない』んだから、貴方は明日女として生きて行けるのですね?」と反論されてしまうかもしれない。
だけど「名前」と「性別」には同じ「生まれつき決められたもの」という点以上に明確に違う点がある。

性別は生物の問題だけど、名前はシステムの問題だってことだ。

性別は気楽には変えられない。
もちろん、身体は男性だけど心は女性って方はたくさんいるだろう。でも、今はそういった話をしてるわけじゃない。
「今まで男性として生きてきた精神も男性の人が、明日から急に女性になれるか?」って話だ。
多分、なれないだろう。

でも「名前」は?
「明日急に名前を変えるとして」。その際の面倒な部分って、システム的な部分だけじゃない?戸籍がどうのこうのとか。
あと、「友人に改名を通知する」っつーのももちろん人間の「システム」の問題だし。

前置きが長くなったけど。

僕が言いたいのは、『「名前」ってそう大事なもんなの?』って疑問の提示だ。
あくまでも、「疑問」。「反語」じゃない。
『「名前」ってそう大事なもんなの?全然大事じゃないじゃん!!』ではないということだ。
じっくり「本当に名前って大事なのかなァ?」って疑問を掘り下げてみたいと思ったのだ。

マイナンバーってあるじゃん?
アレ色々と批判されたけど、役割としてはぶっちゃけ「名前」も同じだよね。あまり言う人いないけど。
身も蓋もないことをいっちゃうと「名前」も「ナンバー」も、パソコンの世界にぶち込んでしまえば同じ1と0の羅列に変換できるよ。
「名前」に個人のアイデンティティが結びついてるとするなら、じゃあ同姓同名はどうなんの?って話だし。マイナンバーの方が重複しない分確実に「個人」を表してる。

じゃあ名前とマイナンバーには違いがなくて、マイナンバーの方が優れてるか?っつーと全然そういう問題じゃなくて。
名前は
・それ自体が意味を持ち
・親から付与される
っていう特徴がある。
多分、親も「滅茶苦茶可愛い子に育って欲しい!」と思ったときに「権兵衛」とか「平八郎」とか付けないだろう。
「革命家になってほしい」と思ったら「平八郎」って付けるかもしれないね。
まあそれはそれとして。

でも、この「意味」って……ホンットに身も蓋もないこと言っちゃうと……
「親のセンス次第」だよね。
身も蓋もなさすぎるけど、これって結構残酷なんだよ。
一時期DQNネームってよく聞いたけど、アレは要は親にセンスが無いってことなんだ。

……まぁ。

mistclast.hatenablog.com

この記事で語ってるように、「多少難読であるだけでDQNネーム呼ばわりされる」っていうとんでもない被害者もいるわけだけど。
それはまた別問題。

上の記事には「僕は僕の名前が好きだ」と書いてある。
ここまでの内容と矛盾してるように思われるかもしれない。

一応僕もそれなりのアイデンティティ感覚は持ってるらしく、「明日から名前を変えろ!」と言われたら、確かにショックは感じると思うのだ。
なんせそれで数十年生きてるわけだから。
だけど、案外ためらいなく改名できそうだ。
「もっとカッコよくてもっと画数が少ない名前」に。
画数少なけりゃ普段ラクじゃん。
なんやかんやで、僕にとって名前ってそういうものな気がする。
でも同時に、それはなんか親に申し訳ないなーって気もする。一応親も色々思いがあるわけだろうし。

じゃあ「名前」を大事にするとするならば、それは親のためなのか?
僕のためではなく?
じゃあその理屈で言えば、「この苗字を途絶えさせないでくれ」という親の思いがあれば、それを根拠に夫婦別姓に反対することもできるわけだよねぇ。
なんだこの違和感。
なんというか、それは時代に合ってないだろって気もする。

面倒くさいのでもういっそのこと名前なんて全部自分の意志で自由に変えられるようにすりゃいいんだよとも思うのだが、それはシステム的な問題でクッソ不便だろうな、とも思う。
あややこしい。

今回の記事はいつもに増してグダグダだが、言いたいことはここに帰結する。
「名前って、個人そのものと一致してるのか?」
ってこと。

友人の山崎くん(仮名)が諸事情で佐藤くん(仮名)に変わったことがある。
最初は違和感があったけど、山崎であれ佐藤であれそいつはそいつだった。
すぐに慣れた。

今後友人の女の子の苗字がどんどん変わっていくことは想定されるけど、そいつはそんなに変わらずにそいつだろう。確実に。

でもまぁ……
「名前が個人と一致する」っていうのを「錯覚だ」って切り捨てるのもまた違う気もしていて。
ここまでグダグダ語ったのはこの動画を見たからなんだけど。

www.youtube.com

この動画そのものに関する批判やらなんやらは保留。
「賛同も反対もできない」とだけ。

だけど最後に引用されてたこの発言。

www.sankei.com

「合憲判決を聞き、涙が止まらなかった。(戸籍上は別の姓のため)自分の名前で死ぬこともできなくなった。これから自分で生きる方向を見つけなければならず、つらい」

これはなんというか、「名前依存」っていう例だよね、と思ったのだ。
例えば……「圧倒的にピアノが上手く弾ける」人が、何らかの理由でピアノが弾けなくなって「これから自分で生きる方向を見つけなければならず、つらい」って言う。なんというか、こっちの方が納得がいく。
でも「名前」に関してもそのレベルでアイデンティティの基盤を作っちゃう人がいる。
それは「自然」なのか、「不自然」なのか。

わかんないよねぇ。
断ずることはできない。
ただ、やっぱり「納得」はしないかな。「そこまで名前にこだわる?」っていう感想が来ちゃう。

まぁ夫婦別姓は別の問題もあるんだろう。
田中っていう苗字に全くコダワリがなかったとしても、強引に夫の名字である山田に変えられるのは嫌だ!みたいな。


以下余談。
今思い出したんだけど、昔、アイヌの若者が「俺はアイヌの人間だ!」っていうことをデモで訴えるっていう映像を見た。
僕はどうもその映像が腑に落ちなかった。
「貴方はアイヌの人間、だからどうしたの?」って思ってしまったのだ。
おそらく、この感覚は文化人類学とかそういった領域に詳しい人なら「それは日本人が民族の問題に疎いからだ」って指摘するかもしれないね。
実際そうかもしれない。
でも、もし「明日からお前は韓国人だ!」って僕が言われたとしたら……多分、そんなに僕は反発しない気がするんだよなぁ。僕は韓国の政治に関しては明確にアホやなぁと思う部分が多々あるから、あえてそういった国を引き合いに出したけどさ。
……別に明日から韓国人でも構わない。ただ……
「だからお前も安重根伊藤博文を暗殺した人)を尊敬しろ!」って言われたら、それはちょっと嫌かも。
あ、もしかしてアイヌの人もそういった問題なのか?……いや、違う気がするぞ。
そのアイヌの人、「人生の途中で自分の出自を知った」って感じで、同調圧力に怒ったって感じじゃなかったし。
んー、難しい。

そういえば、こんなこともあった。
高校の何かの授業で「家制度に関してどう思いますか?」みたいなアンケートがあって、僕はただ二文字「不要」って書いた。
はいそこ、厨二病とか言わないの。その通りだけど。
……そうしたら先生が苦笑いしながら「アンタらしいわ」と言った。どうやら周りからもそう思われているらしい。

僕には僕特有のバイアスが、たぶんある。

やっぱり「名前」について考えるとき、そのバイアスを抜きに語ることは、多分僕には無理だ。
……まぁ、このブログはそういった方針で別に構わないのかな。

グダグダ語りましたが、今回はこれくらいで。
お読みいただきありがとうございました。

ではまた次の記事で。

【縮小版】コメントへご返信します(2015/12/15)

こんにちは、Mistirです!
更新最近サボってました。書くこと色々あるような無いようなって感じで。
一応書くならがっつり書くので、今回は縮小版って形でごく軽くコメントに返信しますね。
ちょこちょこ返信しないと、溜まっちゃってて……

では参ります。 

mistclast.hatenablog.com

 id:nonkini

正に地獄絵図!同感です。
紹介されてたブログ読んで、みんなで寄ってたかって攻撃してるの見て、背筋がぞーっとしました。御老人確かに口は悪かったと思うが、それを批判する者たちは本当に「善人」なんだろうか?自分は何様だと思ってるんだろう…。

コメントありがとうございます!
そうなんですよ、引用してたブログのまとめでの「総攻撃」見てゾッとしたから上の記事を書いたっていう経緯もあります。
「『批判者』は『善人』か?」……これはなかなか難しいんですよね。
もちろん、僕も「善人」じゃないってことで。

 ラオパン

クダクダと全部は読んでいませんが、この話の前提である「老人に席を譲る」が善行であるのが間違っている。老人が自分の座っている場所の近くに立っていれば別に良い行いをしましょうなどではなく立つのが当たり前。別に老人が座ってくれなくとも、別に感謝をされなくとも普通の行いとして立つ。人助けなどという概念が入るのが間違っている。
もしかしてこの老人その辺りに感じ入りそんな言葉になたかも。

コメントありがとうございます!だが全部読んでくれよ!!!! 
……というのはさておき。
いわゆる「善意の悪臭」は感じたのかもしれませんね。やはり引用した記事の冒頭部分に結構濃厚な悪臭を感じますし。まあ実際のトコロは分かりませんけどね。

 chaosdex

そもそも当事者じゃない人に開示する意味がどこにあるって思ってしまったが顕示欲かねぇ、せめてもの自己満足か

結局自己満足しようとしてるから歪んでそうやな

コメントありがとうございます!
まあこの中学生のショックを受けてそれを共有したくなる気持ちは分かるんで、 今後良い方向に行って欲しいですね。

 id:kakoooooi214

考えられるべき本質が状況と一般的思想によって見えなくなってしまうから、このような話はおもしろいですよね

コメントありがとうございます!
そうですそうです、本質が一般論に隠れちゃう。もちろんそこで見つけ出した「本質」もズレてるかもしれませんが、それでも一般論に隠れたものを探る作業はしたいですよね。

 オハナ

善行を行うことの難しさ、本当に感じます。
我が家の祖母も電車内で席を譲られて傷ついてました。「私はまだ立ってられた。自分はまだ老人じゃない。」って。でも、席を譲ってくれた人の気持ちを汲んで礼を言って座ったといってました。帰ってから、上記のような愚痴を私にこぼしました。
今回の記事の老人には、祖母のような「相手の善意を汲む」という気持ちがまったく無かったのだと思いますが、実際傷ついた側の愚痴を聞いている者としてはう~ん…と思ってしまう内容でした。傷ついた側が善意を汲んで気持ちを抑えなくてはならない、善意の“圧力”みたいなものは、やっぱり不自然だと思います。(この老人が祖母のように傷ついたのではなく、ただ絡みたかっただけだとしたら別ですが。)

ボランティアにしろ席を譲る行為にしろ「社会一般で善行」とされているけれど、そのすべてが受け入れられるわけじゃない。ケースバイケースで受け取られ方も人によって多様、という認識は必要だと思います。同じ人間などいないのだから、「善行」に対する返答を「感謝・肯定」のみに限定してキャッチボールを進めることは相手に対しての思慮を欠いているのかな、と思いました。

コメントありがとうございます!
そして素晴らしいご意見、完全に同意いたしますので僕は何も言うことが無いですw
ある意味僕らは「無頼である」ことも求められるんですよね。「相手が傷ついても俺は俺のためにやるんだ!」くらいの勢い。まあ、その勢いが誰かを傷つけることもあるかもしれないけど、それも覚悟しとかないといけない。
案外善行って気楽じゃないんですよね。気楽にやるのがベストとはいえ……。

 はな

ものすごく関係ない話ですが
席を譲るとか受け手が目の前にいる善行なら双方向コミュニケーションだから、改善もしやすくていいけど
ものを移動させる、付けっぱなしの電気やPCを落とす、など受け手と時間がずれていて、遭遇できない時、受け手が何かの強迫性障害を持っていたり、実験中だった場合、(張り紙等注意しておく必要があるとはいえ)損害賠償などを請求されてもおかしくないわけで、緊急性がない場合、行動に移す前にしっかりと思考しておくことは重要なのだろうなと。

コメントありがとうございます!
そうですね。結局は双方向できっちり認識がすり合わせられるなら、それがベストなんですよね。現実にはそれがなかなか難しくて。
相手が遠慮してるならそれでスパっとこっちは身を引く、そういうくらいの距離感もまた必要になってくることもあるでしょう。それってなかなか大事だけど難しいことですよね。

 邪眼 (id:yokosimamanako)

あああああ!!!
遅ればせながらコメントさせていただきます!
すみません!!

ちょっとTwitter眺めてたらこの記事ピッタリ(?)なツイート発見してしまって居てもたっても居られず勢いのままコメントしてます。

https://twitter.com/puttin_puddin/status/236156540053229568

要するにこういうことですよねってのを滅茶苦茶端的に言い表していると思うんですけどどうでしょう。

人助けをして文句を言われたら不快になるのって要するにこういった喜んでもらいたい、感謝されたいとかいう欲求を満たせないがゆえに生まれる不満が元なんですよねって。


あと、唐突ですが、ほんとこればっかりは譲って欲しい人は譲って欲しいとはっきり言える社会なら、譲ってほしくない人は不快な思いをしなくて済みますし、譲ってほしい人は譲ってもらえて嬉しいし、譲った側は譲ったことで怒鳴られたりしなくてすむのではなかろうかとかいう事をふと考えてしまったのですが、日本の「察しろ!」って感じの文化だと中々難しいだろうな~と。

 

コメントありがとうございます!
確認しました。まさにそういうことです!僕ももしかしたら「モノをはっきり言う社会」を求めてるのかもしれません。欲しいなら欲しいと言う、言われた側も嫌なら嫌
と言う、それで後腐れ無いのがベストなんですけどね。
引用されてるツイートに関してですが、僕は何事をするときも「俺がやりたいから、理由があるからやるんだよ」って、こじつけでも自分に言い聞かせてます。関係あるかどうかよくわかりませんがw

 BadBoy 17

みすちーさん、返信ありがとうございます。確かに、いま冷静になって読み返してみれば、私の文章には押しつけがましい表現が随所に見られました。
難解な長文を何気なく投稿したことも含めて申し訳ないです。

コメントありがとうございます!
前回の記事でも言いましたが、僕がイラッと来るのは「今回はぱっとしない」とかそういった言葉の節々で、長文とかそういったものは大歓迎ですよ。
なのでできれば言葉の節々をもうちょい柔らかくして下さい。そうしたら僕も冷静に反応できるので。……そうなんすよ、僕結構感情的なんすよ、御存知の通りw

 hokushi

高校時代に読んだ、リチャード・バックの小説『イリュージョン』を久しぶりに思い出しました。

「(人を傷つけることも含め)俺たちはやりたいことは何でもできるんだ」というセリフに、当時はひどくショックを覚えましたが、今なら納得できます。
人の行動は、全て自分自身で選択したこと。

もし機会がありましたらご一読を。

コメントありがとうございます!
いいですね。本当に、僕らは自由なんですよね。色々と。……そこから目を背けることで潤滑に生きてるって側面もありますけどね。
積んでる本が50冊に達しつつあるので、読みたいリストに入れておきますね。

受け入れない自由もあるけど、だからといって罵倒や否定で答える必要はどこにあるんでしょうか。
「自分はそれを受け入れたくない」を表現するために子どもを罵倒できる人間というのはマイノリティというよりイレギュラーです。
善行を選ぶ以上は感謝されないことも想定しておかなければ、というのは同意見ですが
罵倒や否定で返すというイレギュラーを選ぶ以上、「なんだこいつ、害意ありすぎ」という反応になることも想定しなくてはなりませんし
他人に害意を向けた時、共同体の中で安全策や対策を練る一環てして情報共有されることはままあるということも、覚悟しておかなければね。

また人間には「あまりに的はずれなことや意図と全く違うことを決めつけられて腹がたつ」ということも起きます。
仮にこのおじいさんが、まだまだ元気なのに老人扱いされて不愉快だったのだとするならば
同じようにこの中学生は、自分なりにその場に必要だと判断したことをやったのに、思考を持たぬマニュアル人間めがと勝手に断罪されて不愉快だったのですよ。

それらの点をまるごと無視して善人のみを批判してしまっている部分に違和感を覚えます。

コメントありがとうございます!
多分、ご指摘の点は本文の最初に指摘してますよ。

僕の考えを最初に言っておくと「①=口が悪かったこと」は十分に批判されて良いと思ってる。それも、当事者たる中学生によって。

この部分です。少なくとも「それらの点をまるごと無視」はしてません。
「口が悪かったこと」には、「中学生の内心を決めつけて断罪する」ことも含んでますからね。例えばここで「いや、譲られたくない」ってこの老人が言ってたなら話が別ですからね。
よろしければ再読してみてください。

 
今回はここまで。
まだの方は待っててくださいね。

お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で。

『男根のメタファー』を分析して、メタファーの面白さを語る

こんにちは!Mistirです!
いやー、最近ブログ書きたいって気持ちがすっげー衰えてたんですよ。

 
でも、もうなんか語りたくて語りたくて語りたくて震えるようなテーマがTwitterでトレンドに入ってた。
「男根のメタファー」ってワードだ。
 
もうこれがトレンドに入る意味がホントわかんねぇけど、ことの発端から整理するとこんな感じ。
面倒であれば以下のツイートだけお読み下さい。

 
で、この人は実は直接言ってないけど「男根のメタファー」って言葉がTwitterで一人歩きしたって感じ。
「楽器は男根の代わり」って言ってるから、「メタファー」のほうが幾分柔らかい気もする。
男根のメタファー……。
ゴロがいいですね、本当。

さて。
実は、この話結構面白い。
作品分析の面白さもここから見えてくる。

この記事では、『男根のメタファー』について語る前にまず、「メタファーってそもそも何?」ってところから語ろう。
常識?いやいや、意外とコレが面白い。
で、この記事の結論は「この人はアニメの女の子をなんでもエロに結びつけちゃうんだね☆」っていう極めて凡庸なところに辿り着きます。
そこまでひたすら迂回しますが、まあゆっくり読んでね。
では本編入りまーす!

メタファーを考えると、作品は面白くなる

御存知の通り、メタファーの日本語訳は「暗喩」だ。
「暗に喩(たと)える」技法のこと。これは多分中学校の国語で習うんじゃないかな。

でも、この「メタファー」を駆使してアニメを観る、語る……
それは案外、楽しいのです。


ここで具体的に例を出してみよう。
みんな大好き、あの作品は実は良質なメタファーのオンパレードだ。

 

ドラえもん (1) (てんとう虫コミックス)

ドラえもん (1) (てんとう虫コミックス)

 

 

そう、ドラえもんです。

ドラえもん、そしてのび太くんがそれぞれ「あるもの」を暗に示しているというように考えると、非常に面白い分析ができる。

ここからはあくまでも「僕の好みの解釈」だ。
メタファーを考えるときは、人の数だけ解釈が生まれる。だから楽しい。
……このことは実は今回のメインテーマ、「男根のメタファー(声に出して読みたい日本語)」にも関わってくることだから覚えておいてくださいね。

さて、僕は以下のように解釈する。
ドラえもんは「文明」あるいは「時代」のメタファーであり、のび太くんは「人間」、あるいは「人類」のメタファーだと。
どう思うだろうか。
単純な解釈だ、浅いと思うだろうか。
色々あると思いますが、語りますね。

ドラえもんは未来からやってきて、のび太くんに便利な「ひみつ道具」を提供してくれる。
その場その場の問題に非常に適したソリューションを提供してくれる道具だ。
そしてのび太くんが欲をかいて失敗する、というのが『ドラえもん』という作品の一つのテンプレートになっている。
……で、ここまでの理由で「ドラえもんを文明のメタファーだ」って考えても、それほど面白くはない気がする。
焦らずゆっくり読んでね。


僕が非常に面白いな、と思うのは……
のび太くんがひみつ道具の使用によって「成長する」ことは絶対にないってことだ。

d.hatena.ne.jp

この記事にも書かれてるんだけど、のび太くんはその都度のソリューションによって成長することは絶対にない。まぁそれは連載の都合でもあるそうだけど。

文明の与える解決策は、人間を直接成長させることはない。

じゃあどんなときに人間は成長する?
前に進む?
そうです。

 

ドラえもんと離れたとき」です。
『帰ってきたドラえもん』のストーリーを知らない人は、調べるか観るか、もしくは次の見出しまで読み飛ばしてくださいね。

さて。
「帰ってきたドラえもん」って凄く泣けますよね。あれが何故泣けるかって、色々あるんですがやっぱり「便利なドラえもんという存在抜きにのび太が前に進むことを決める」ことにあると思うんです。
文明が失われるような大きな危機に貧して、のび太くんは成長します。
だけど、それだけでは終わらない。

ジャイアンスネ夫に欺かれたのび太くんは激昂し、ドラえもんの残した「最後のひみつ道具」でジャイアンスネ夫に復讐します。
だけど、その復讐が完遂した後ものび太くんは虚無感を抱えた顔をしている。

このシーンを
「時代がもたらしてくれた残り香にすがって力を手に入れるけれど、もう何をやっても時代は戻らないことを知って虚無を覚える」人間の普遍性が描かれてるって読み替えると、凄く感慨深い。
で、ドラえもんは「帰って」きます。
そう、「時代は繰り返す」のです。

どうです?
面白くないですか?

……で、実はここまでグダグダ書きましたけど、この解釈結構アラがあるんですよね。
例えば、のび太くんが前に進むときに叫んだこのセリフ。
「ぼく一人の力で君に勝たないと、ドラえもんが安心して未来に帰れないんだ!」
ジャイアンと喧嘩しながら叫んだ名言だけど、この発言に関しては「メタファー」では語れないよね。

で、多分ここまで読んで……
「普通に楽しんだほうがよくね?」って思った人も多いと思う。

メタファーで作品を分析するっていうのは、「作品をより楽しくするための隠し味」で、同時に「粗があって当然」のものだと思ってます。
で、この「メタファーによる分析」っていうのは、大学の文学部辺りの作品分析の世界だとごく普通にされてるテクニックだ。

あくまでも「作品をより楽しむための技術」として捉えると非常に楽しくなる。

……「男根のメタファー」と何も関係のないことを長々と語ったのは、以下の認識を共有したかったからだ。
「メタファーを考えると、作品をより深く分析したり楽しんだりできる」
「メタファーを使った分析は千差万別の結果が出る」
「メタファーは決して万能ではない」
これくらいかな。

さあ、前置き終わり!
じゃあ今からいよいよ本題、「男根のメタファー」について語りますね。

楽器は男根のメタファー?

まず、最初に「響け!ユーフォニアム」の楽器を「男根のメタファー」として想定するのが妥当か否かっていうことについて考えてみよう。
……多分頭痛くなった人もいると思うけど……
まあ一応、厳密に。

・可愛い女の子がくわえる
・固くて棒状

 
……
僕が頭痛くなったわふざけんな。
っつーか、これは吹奏楽やってる人たちに失礼だろう……。
いや、アホな人がTwitter「やべえよ女の子が楽器くわえてるの超エロい」って言ってるならまあ分かるけど……って男子中学生かよ!
妄想力が流石にたくましすぎる。

なお、「ドラえもんは文明(時代)のメタファー」って解釈する根拠は以下のような感じ。
・未来からやってくる(文明も未来から齎される)
・それ自体が意志を持っている
・それは完璧な存在ではなく、絶対者でもない
・人間に友好的でありながら、敵対者(ジャイアンとか?)を罰することもある
・短絡的な解決策をその都度適切な形でもたらしてくれる
・その解決策を過剰に利用した結果、報いを受けることがある
・それが手元から離れて初めて、利用者は内面の成長を得る
 
メタファーを使った解釈ってこれくらいやってもなおこじつけになるんです。
このときに僕らが取れるスタンスは2つで、「そのメタファーの有効性を徹底的に証明すること」と、「こじつけになってもいい、僕がオモシロイのだから」って開き直ることです。
どっちも楽しいですね。
それが良いメタファーの捉え方です。

ただ……件のツイートをした人は「メタファーだから」っていう理由で、あたかも非難するような口調で語ってるんですよね。
ここがかなり……いや、相当おかしい。

あ、いまさらだけど……多分ちょっと作品分析というか精神分析に触れたことがある人、いや、そんなことない人でさえは「男根」って聞いてフロイトを想像した人は多いと思う。
ここ(精神分析的領域)に踏み込むと事故るので、今回は保留させて下さい。
滅茶苦茶難しいんすよ、この領域。参考文献はこちらです。
生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

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男根が精神分析でどう扱われてきたのかよーくわかるよ。
おすすめ。


さて、話を戻すと……
最初のツイートをした人は、なんていうかもう「アニメ系の女の子を見たら」即座にセックスを想像しちゃうんでしょうね。
さっき挙げた2つの要素だけで「性的なメタファー」に繋げちゃうのは、もうそういう思考回路だとしか思えない。

僕自身としては、そういう思考回路は全然悪くないどころかクリエイティブだとさえ思う。

ただ、どうやらこの人は「だからエロい!最高!」みたいな思考で語ってるわけではなく……要はアラ探し、批判の「道具」として「メタファー的作品分析手法」を用いてるわけですね。
実は僕にとってはここが一番気に食わない。
楽しみましょうよ、作品分析を。そんなことせずにさ。

……この部分でもうこの記事オチがついてる気がしますが、実はここからが最も語りたかったことです。

「真の『男根のメタファー』とは一体何なのか」
「メタファーが『アウト』になる瞬間とは」
この二点。
以下、じっくり語ります。

真の『男根のメタファー』とメタファーがアウトになる瞬間


実はですね、特定のアニメの中で「男根のメタファー」ってたまに出てくるんですよ。
それはもう露骨に「製作者サイドが」狙ってる、男根のメタファーが。

f:id:Mistclast:20151202203611j:plain

そう、チョコバナナである。

……いや、実は色々探したんですよ。
ニコ動とかで。
チョコバナナで検索して。

そうすると想像以上にドン引きの動画が出てきまして……w
ご紹介するの控えました。

で、既にこの「チョコバナナ」がアニメ界で「男根のメタファー」になってるっていうのはTwitterなんかで触れてる人がいるんですが、ここからは「男根のメタファーであるチョコバナナをアニメに出すことの有効性」について語ろうかなって思います。

結論から言っちゃうと、多分誰もエロいと思って見てないんですよ、このチョコバナナ。
なんていうか、もうそれは吉本新喜劇の中で「定番の」ギャグがあるようなもので。

で、実は上に貼った『生徒会役員共』って作品もそれを逆手に取ってるんです。
このアニメ、どぎつい下ネタとびっくりするほどの色気の無さが共存した良い作品なのでおすすめですよ。

……ん?何が言いたかったっけ?
そうそう、「男根のメタファーであるチョコバナナは何のためにアニメに出てくるか」ですね。

アニメに詳しくない人にも念の為に断っておくと、この「チョコバナナ」ネタは一種の「お約束」になってます。
僕が特別に意識してるわけじゃないんだからねっ!

なんていうか、次第にアニメファンは「チョコバナナが出ると笑っちゃう」ようになるんです。
もう、なんか「アホなシーンの典型例」なんですよ、
「ヒロインの入浴シーンで男と鉢合わせするのが事前に分かる」みたいな、そういう笑いのタイプ。

……多分、ここまで書いてピンと来ない人も結構いると思う。

大丈夫だ。
過剰なメタファーが笑いに転化する、非常に分かりやすい例がある。

www.youtube.com


僕はもうこれ何度見ても笑っちゃうんだけど、「気まずい」って感じた人も多いと思う。
実際僕も気まずかったなぁ……実家にいたとき。

で、何故これを引用したか。
もうお分かりですよね。
このCM、完全にセックスのメタファーなんですよ(ド直球)。
え?知ってた?
うん。
まああまりにもド直球で、お約束になるようなタイプでもないからそこはチョコバナナと違うけど、「露骨なメタファーが笑いに繋がる」って点では共通してる。

もう何かアクエリオンのCMについて語ってるだけで知能指数500くらい下がってる感覚になりますが……
後で大事なことに繋がってくるんで、もう少しガマンして読んでね。

そもそも「合体」っていうのが性交の隠語だからね。
釣りバカ日誌なんかそれを堂々と「笑い」のために利用してて、お約束になってる。
釣りバカ日誌 [DVD]

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で、正直アクエリオンのCMには不快になった人も多いと思う。
「これはダメだろ」って思った人も多いだろう。

それには納得ができる人も多いだろう。
……じゃあ、何故……そう思うのか。

ここから非常に大事なトコロです。

メタファーがアウトになる瞬間。
それは、メタファーがメタファーでなくなる瞬間です。
メタファーが「『暗』喩」にとどまらず、直接的に別の事柄を想起させてしまう瞬間です。

だからどう考えてもセックスをダイレクトに表現してるアクエリオンのCMは笑えるんだけど、同時に不快なものでもある。
チョコバナナもやや似てる。「仄めかす」以上のことをやってるものを見たとき、僕らは「アウトだろ」って思うのだ。

……もう貼っちゃってもいいか。

www.nicovideo.jp


流石の僕も結構引く。
だけどまあ、このアニメは「そういうなんかド直球な表現を内輪で楽しむネタのアニメだ」って分かってる人が観るものであって、それ以上のものじゃないんだよね。

 



……長々と語ったけど、ここで最初のツイートに戻ってみよう。

最初のツイートは、楽器を男根のメタファーとしている。
で、それを「児童ポルノ」の文脈で語っている。

なんというか、「楽器を男根のメタファーと解釈する」っていう発想を許容するとしても、「メタファーとして成立してるのなら別にいくらでもやりゃいいじゃん。それを(ダイレクトな性の発露である)ポルノと同列に語るのは無理でしょ」としかならないのはこの辺りにある。
メタファーとして有効に機能しているなら、それはもう「ポルノ」からは離れちゃってるわけで。
じゃあ非難する理由もないじゃん。
今更過ぎるツッコミだけど、そもそもメタファー以前に楽器は楽器だからね?

……いや、……そもそも……この人には「非難する」っていう発想も別にないのかもしれない。

もうただ、問答無用でアニメの女の子に性的なものを連想しちゃって、そこでポルノがどうこうってことを語る、そういったことに慣れちゃってるのかもしれない。
だとすると……真剣にこの人の発言を分析するのは最初から無駄なのだろう。

実は思い出すことがある。
大学である授業を受けた。
その授業は日本史の授業だったが、どうやら先生がある思想に「かぶれてらっしゃる」ようで……
ある日の授業中、その先生は皇族の方々の写真をスライドに映した。
皇族の方々が、赤ちゃんに笑顔を向けている写真だ。
その写真を指しながら、先生は「おっしゃった」。
「みなさん、これが皇族が新たな世代へと向ける期待の目線です」
ズッコケそうになった。
ギャグじゃない。
真剣にこう言ってるのだ。
真剣にわざわざスライドまでご用意して。

なんというか、彼らにはもう「そうとしか見えない」のだろう。
多分だけど、最初のツイートをした人も似たような感じで、可愛いアニメ絵の女の子がなにかやってたら全部性的に見えちゃうんだ。
ある意味その目持ってるのは得だな……って気もしなくもないけど。

さて、長々と語ったけど、世の中にはそういう人もいるってことだ。
それ以上でも以下でもない。
僕らは「メタファー」を「作品を楽しむための道具」として適切に使いましょうね。
メタファーは、作品を奥深くまで楽しむための「ツール」だ。先に存在するものじゃない。
ましてや「楽器は男根の代替物だ」なんて、批判のためにそこからわざと食いつくように使っちゃダメ。
何故ダメって、そこには作品に対する敬意がない。
メタファーを使った分析をするときは、作品に対する敬意を忘れずにね。
まぁこれは僕の考え方に過ぎないけどさ。
その上で「うわああ楽器くわえてる女の子エロい!!」と興奮するなら、まあ他人に迷惑をかけない範囲で自由にやりましょ。

最後にもう一つ。
最初のツイートの人が指摘してるけど、男根かどうかは別にして「楽器を男性のメタファーとして読む」っていう見方は結構オモシロイと思うんですよ。
けいおん!』に男性が登場しないのに、百合っぽくならなくて、一種の恋愛物語らしささえ漂ってるのは、恋愛対象のメタファーとしての楽器(音楽)があるからだ、って考え方は結構面白い気がする。
長くなりそうなので控えます。

グダグダ語りましたが、今回はこれくらいで。
みんなもメタファーを利用した作品分析にハマりましょう。

映画会社の友人N君に勧められた映画だけど、この映画とか最初から最後まで全部メタファーみたいなものなので凄くおすすめですよ。

 

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お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で!

映画『バクマン。』を観て、怒りながら泣いた話

こんにちは、Mistirです。

この記事では映画『バクマン。』をまだ観てない人向けに(ほんの僅かに)語って、その後でもう観た人向けに語ろうと思います。
ネタバレ対策改行もするから、安心して読めるよ!

結論から言えば、最高の映画でした。
最高に面白かった。
以下、映画を観た直後の僕のツイートです。

 僕、観終わった後半端ない怒りが湧いてきたんです。

面白かったのに。
すっげー面白かったのに。
まあ、そのことも含めてお話しますね。

さて、まずは観てない人向けに語りましょうか。

まだ観てない人よ、早く観よう!

さて。
色々語ろうと思ったけど……観てない人向けには、実はあまり言うことがない。

例えば、このブログで語られているように……

blog.goo.ne.jp

原作の「気持ち悪さ」が全くなく、徹底的にスタイリッシュだ。
スタイリッシュで、エンターテイメントとして非常にまとまっている。

サカナクションの音楽が、まず非常に素晴らしい。
映画のありとあらゆる場所に挿入され、僕らの気持ちを盛り上げてくれる。
スピード感あふれる演出も加わって、映画と一緒にハイになれること請け合いだ。

配役も実に良い。
原作は、「インテリ系の理屈っぽい眼鏡くん」「ジャンプによく出てくる感じのあまりぱっとしない外見のヤツ」の二人組主人公だ。

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だが、映画版は……

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童顔眼鏡の神木隆之介と、時折目つきに狂気を潜ませる佐藤健のコンビだ。

このコンビが、非常に良い。

原作のメガネ君の「インテリっぽさからくる嫌らしさ」みたいなのが一切ない。
神木隆之介の演技からは良い意味での「オタクっぽさ」がにじみ出ていて、そこに原作メガネ君の「人を見下す感じ」が全く無いのである。

一方、佐藤健「狂気一歩手前の熱い視線」が凄く良い。
「自分をトコトン追い込んででも野望を狙う上昇志向」に全く違和感がない。

この二人がどんどん上昇していくサクセス・ストーリーでもありながら、同時に「陰」もある。
「努力・友情・勝利」でありながら、それだけでは済まないエンタメとしての「深さ」も備えている。

ああ、もどかしい!
早く観よう!
終わり!

……無理っす。
ネタバレ無しで語ろうとすることがこんなにツライとは思わなかった。
引用したブログの人、すげぇよ。
僕には真似できねえよ。

だから……これくらいにしておきます。
さて、思いっきりここからはネタバレ込みで語りますよ。僕が怒った理由を。
改行した後語りますね。

































知ってたのに泣いた


僕、原作の『バクマン。』、嫌い……というかあまり好きになれなかったんですよね。
いや、熱いんですけどなんか……ね。

その感情については先程引用したブログで語られてるように「痛いから」っていうのがあるんだろう。

まあその感情はさておいて。

一応ある程度知ってて、同時に展開も知ってるわけです。
だから途中である程度先が分かるんです。

分かったんです。
分かったのに……分かったのに。
ボロッボロ泣きました。

シュージンが「邪道で勝つ、それが俺たちの博打だろ?」って言うシーンで。
自然に涙が出て、多分ここで泣いてる人映画館に他にいないから……ぶっちゃけすげー気を使った。

ここで僕が泣いちゃったのは……
そうだ、そういった熱さが自分にもあったんだ、って。
そう思い出したからなんですよ。

任天堂の岩田社長が言ってたらしいんですけど、
「苦労してる人は、苦労を苦労と思わない人に絶対に勝てない」って。
世の中には苦労を苦労と思わない人たちがいる。
何かに対して楽しんで取り組める人たち。
そういった人たちを、世間は「天才」と呼ぶ。
(実は昨日思いつきで以下の記事にも似たようなことを書いたのですが、実はこの『バクマン。』の記事のほうが先に書いてました)

mistclast.hatenablog.com

 天才と「真っ向から」戦っても、絶対に勝てない。
奴らは楽しんでるから。


だから僕は、邪道で勝つ。
苦労を苦労と思わないための苦労ならいくらでもやってやる。
……ああ、そういったことを高校の頃ずっと考えてたなぁって。いつからそういった「歪んだ熱さ」、失ったのかなって思って。

そういう熱さが蘇ってきて、なんか自分自身やら色々なものに怒りながら泣いちゃったんです。
いや、どう考えてもそういうシーンじゃねえだろって思いながら。
ハタから見るとアホですね。

とにかく、そういった色んな要因も含めて……あるいは自分の要因を含めなくても、このシーンがこの映画の中で最も好きなシーン。
王道に勝つために、王道を「諦める」。
僕の好きなこの本のテーマとも重なってますね。

 いい本ですよ。この本。


さて、映画の話に戻ります。
この『バクマン。』って、原作(実はそんなに深く読んでませんが)からしてものすっごく多重的な構造で、その構造をもちろん映画も引き継いでるんですね。

「努力型(まぁぶっちゃけ普通に色々と恵まれてるんですが)の主人公が天才のライバルに努力・友情・勝利で勝つ」っていう「王道」を、「普通にやっても勝てないから別ルートで勝つ」っていう「邪道」で描き、しかもその「舞台」は「漫画」っていう凄くメタなテーマ、言い換えれば「邪道」

この作品自体が存在すること(そしてウケること)が、「王道相手に邪道が王道的な内容で勝てる」ことを突き付けてくるわけです。
実際「最近の実写化作品の中じゃダントツで面白かった」っていう評判が後を絶ちませんよね。
純粋な「オモシロさ」という、映画で最も「王道」な土俵で勝負に勝っちゃってるんです、この映画は。

……ああ、ややこしい。

要するに、この作品自体がウケることが、この作品で語られてるテーマを間接的に肯定してるっていう、なんというか……完全無欠なことしてるんですよ。
なんと邪道って素晴らしい!

そうだ僕も邪道で生きよう!
そして王道の奴らに勝とう!

と、言いたいトコロですが……
主人公は最後結局、負けちゃいます。
でもそれは凄く正しくて。
あんな方法で無茶苦茶して、無茶苦茶の果てに手に入れたものが「純粋な強者」に「継続的に」勝てるわけがないんです。
いや、違うな……
「継続的に勝つ」というより、「継続的に負けない」って言ったほうがいいかも。

新妻エイジの立ち位置は凄く絶妙で、ずっと二位をキープしてる。
これが何を意味するかって、「最強」だってことなんです。
「勝つこと」は難しくないんです。
「勝ち続けること」は圧倒的に、難しい。

勝ち続ける意志力 (小学館101新書)

勝ち続ける意志力 (小学館101新書)

 

 物語の最後、一瞬の煌めきを放って負けた主人公たちのラストシーン。

今後の夢や希望を全部黒板に書いて終わりますよね。
これからは高校も卒業して、たっぷりある時間を利用しながら、いくらでもある「描きたいもの」を描いていく……
そこに「邪道」は存在しない。

だから、どんどん彼らは新妻エイジに近づくのだろう。
彼らは一度「打ち切り」という形で「負けた」。だけどまだ全然「負けてない」のだ。

……羨ましいなぁ、彼らが。

そういった余韻を秘めて映画は最高のエンディングを迎えます。

www.youtube.com


実は僕、サカナクションのファンなんだけど、この曲はなんというか……
サカナクションの新境地だなぁ、って心から思った。

最近……歌詞も曲も初期に比べてシュールになってないか?
みたいな不安が結構あったんだけど、この曲はサカナクションらしい歌詞の深さを保ったまま、とてもエモーショナルでキャッチーだ。
ああ、良い曲作りやがって!

……何度考えても、絶対に続編は作らないでほしい。
これから彼らがどうなるのか、それは頼むから語らないでほしい。

彼らが成功するのも、失敗するのも……どうでもいい。
こんな心底羨ましくなるような爽やかなエンディングを、「具体性」で潰さないでくれ!

……この記事によると。

bakuman-eiga.com


続編は考えてないけど、売れたら創っちゃう可能性もあるらしいですね。
じゃあ頼む、売れるな!!!!

なんて流石に無茶苦茶ですが。

……さて。

ここまではエモーショナルに語りましたが、一箇所「非常に分析の余地があるなこれ」と思った点があったので、その点をちょっとだけ冷静に分析しますね。

この映画の中で多分賛否両論なヒロイン、亜豆さんの扱いです。

小松菜奈 - Wikipedia


なんというか、影のある美人さんですね。
原作の「いかにも美少女」って感じじゃない。

で、この人ドライですげー良いですよね。

「待てない。先に行ってる」。
この言葉の多重性。
「先に行ってるけど、追いつくのを待ってる」なのか。
「先でどうなってるかは分からない」なのか。

比較的現実的な「人間」なんですよね。彼女は。

原作のヒロインは正直……うーん、って感じです。
少し「中学生男子の理想とする女の子過ぎる」っつーか。
そもそも「ミソジニー女性嫌悪)的だ」っていう批判がある作品ですし。

togetter.com


映画の亜豆さんは「中学生男子の理想」じゃないですよね、明らかに。
自分の夢と男だと、(とりあえずっていう前置き付きだけど)「夢」を取るわけで。
僕はこっちの方がよっぽど好感持てます。

で、一番面白いのはラストなんですよ。

打ち切られた『この世は金と知恵』の最後のコマに「ずっと待ってる」って言わせましたよね。
ああ、ここホント上手い!って思いました。

アレは本当に色々解釈できる。
主人公たちがもう「現実」じゃなくて、漫画の世界に行っちゃったっていう解釈がまずひとつ。
もう「亜豆」っていう現実の女の子から離れて、記憶に残る綺麗な言葉を自分の漫画のキャラに言わせて、「もう俺はこれから漫画の世界で生きるんだ」っていう決意をあのコマから読み取ることができる。

まったく反対に、「あの女の子=亜豆本人」っていう説も取れる。
亜豆の心情と女の子は映画内で、思考の流れが一致している。
主人公は亜豆の心をしっかりと解ってるから。
だから、多分現実の亜豆も「ずっと待ってる」んだ。先に行ってるだけで。……そういう解釈もできる。

あるいは、あの「ずっと待ってる」をもっともっと広いものに適用した考え方。
「ずっと待ってる」のは本当にヒロインだけ?実は新妻エイジにも「ずっと待ってますよ」と「天才の領域で」ニヤニヤしながら待ってるかもしれない。

色々と考えられますね。
これくらいにしときます。

エンタメ的な映画で、それほど深く「分析の余地のある」映画ではありません。
でも痛々しくない程度にサブカル的なスタイリッシュ感もあって、熱さも何もかもがあって。

あー贅沢な映画だったなー。
絶対に家でブルーレイでもう一度見よう。

さて、以下余談を。
どうでもいいですが、このブログも実は「邪道」の意識でやってます。
「ブログの王道ってなんやねん」っていう話ではありますが、色々と実験的なことをやってます。
別にブログ界の頂点に立つつもりはありませんが、改めて「邪道」を貫く覚悟ができてきました。
そう考えると、相当この映画に影響されちゃってますね。

影響をガッと与えてくる映画。
やっぱりそういう映画って名作なんだろなーって思います。

……だんだん締めどころがわからなくなってきたので、今回の記事はこれくらいで。
お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で!

絶対に本気に「ならない」という決断

こんにちは、Mistirです。

今回は思いついたまま更新します。
なので短めに、テキトーに書きます。

早く更新して今夜は酒飲みながら映画観るんや!!!

さて、実はさっきジムから帰ってきました。
ジムで腕鍛えながら、思いつきました。

「僕は、本気になったら失敗するタイプの人間だ」って。

mistclast.hatenablog.com


自分のこの記事でも言ってるんだけど、僕にとっての失敗の条件として、「義務にすれば失敗する」っていうのがある。
だったら義務にしなければいいんだけど、その考え方は実はマイナーな考え方で……世の中は「本気でやれば、本気で努力すれば成功する」っていう考え方がやっぱり多勢な気がする。

世の中には4パターンの人間がいると思っている。
いや、厳密に言えばこの4つの要素を各々のバランスで自分の中に抱えているのが人間だって思ってる。

まず、

1.天才タイプ


ここで嫌悪感を催した人もいるかもしれないけど、そういった人ほど最後まで読んで欲しい。

僕の定義する「天才」は、「苦痛なく一つの物事に取り組めること」、あるいは「物事を愛したまま仕事にできる人」だ。

典型的なのが、この人。

portal.nifty.com

この高校生は……確実に天才だろう。

「寝るよりも創るほうが好き」だそうだ。
「嫌いなことは絶対にできない」と言っているのもミソ。

多分、この高校生は「本気になったから」これだけ凄いジオラマが作れたわけじゃない。
この高校生の世界には「本気」なんて言葉はない。
好きだから、徹底してやってる「だけ」。

「だけ」とは言いながら……
その「だけ」ができる人は非常に少なく、世間は彼らを天才と呼ぶ。


一方。
「本気」に自分を追い込むことによって成功を得るタイプがいる。
このタイプは「秀才タイプ」と呼びたいところだが……もっと良い呼び方がある。
それが……

2.経営者タイプ

だ。
経営者にはこのタイプが非常に多いように思う。

典型的なのがこの人。

dic.nicovideo.jp

氏が今どうなってるかは放っておいて。
氏が最終的に何を失敗したかも置いといて。

氏は、夢を全て手帳に書き込み、それらを全て「達成」すること……言い換えれば意識的に「本気に」なることによって「経営者になって一大チェーン店を営む」という目標を達成した。
それは少なくとも、偽れない事実。

あとはこの人。

allabout.co.jp
リンク先を読んでみるとよく分かる。
「緻密に」夢を設計するのだ。

天才タイプとの違いはここ。
天才タイプの人たちは、緻密に夢なんて設計しなくても、勝手に夢に近づいていく。
だってそれが好きだから。
あるいはそれが嫌いになるときがたまにやってきたとしても、「好き」の気持ちでスルーしちゃう。

この二者には全くの違いがあるのだ。
カッコよく言えば、運命に従う天才タイプと、運命に抗う経営者タイプと言っても良い。
もちろん、どっちが良い、どっちが正しいって問題ではない。
タイプがあるだけ。

じゃあ、残りの2パターンは?

3.本気になることが前提としてあり得ないクズ である。
別に「本気になれないヤツはクズだ」、って言ってるわけじゃない。
じゃあどういう意味かっていうと……
「そもそも自分がクズであることになんの疑問もない」タイプのこと。
そんでもって、世の中に対する不満は半端無く抱えてる、みたいな。
で、このタイプって案外少ないんじゃないかって思ってる。
このタイプに関して語っても何も面白く無いから、スキップ。

残りの4のパターンが凄く多いと僕は思ってる。
僕も、4に近い。

4.本気になってしまうがゆえにクズ 
だ。
何かに本気になろうとするために、本気になれない自分をクズとみなしてしまう。
1や2の要素が強い人たちを見て、相対的に自分を貶めてしまう人たち。
完璧主義であるがゆえに、完璧でない自分を許せない。
理想が高い。
世の中に対して諦めたようなことを言っているのに、目はギラギラと熱い。
滅茶苦茶いっぱいいる気がする。
特にネットの世界には。

ここで、注意が必要だ。
2.経営者タイプは……
非常に、声が大きい。

彼らは「まさにこの道に誤りはない、これこそ絶対的な王道!」みたいな態度の人が、結構いる。

ちなみに。
この本を書いたこの人は……

本気になればすべてが変わる―生きる技術をみがく70のヒント (文春文庫)

本気になればすべてが変わる―生きる技術をみがく70のヒント (文春文庫)

 

 1.天才タイプと2.秀才タイプの極めて絶妙なハイブリッドだと思う。
……いや、それさえも違う気もする……この人の本読んでると、かなり合理的意見とやや怖くなるような意見が渾然一体となっててカオスなんですよ。にも関わらず、全体的に冷静な筆致。
あ、上に貼った本は全体的に合理的な考え方が多くて、基本的に唸りながら読んでました。タイトルの割に相当冷静な本です。
余談です。

さて。
僕が思うのは、「本気になれないので自分を卑下するくらいなら、最初から本気にならないと決めとけばいい」ってことです。

世の中は「本気」の方法論に溢れてます。
この資格を取るためにはこれくらいの勉強時間が必要でどーたらこーたら……
筋肉をつけるためには80%✕8〜12回がどーたらこーたら……

でも、案外「あーめんどくせー、とりあえず一日20分だけ確実に毎日やるわー」のほうが効果あったりすることが多いって最近思うようになりました。

どの人間も「1.天才タイプ」と「2.経営者タイプ」を自分の中に飼ってると思ってます。どの人間も、天才か経営者、あるいはどっちもなんです。

で、僕は多分「義務にすると失敗する」タイプなので、1に近いんじゃないかって思ってます。
このブログも好きでやってるわけだし。

……結局、今回書きたかったのは一つ。
経営者タイプは声がうるさいだけで、必ずしも「王道」じゃねーぞ、ってこと。
もう一つは、「自分はクズだって思ってても、熱い何かがあるってことは、そいつは『本気にならないこと』によって動き出すかもしれないよ?」ってことです。

本気の人間は、すぐに折れます。
全力疾走を長続きさせられる人なんていません。

だけど、毎日歩き続けられるのなら、北海道から沖縄までたどり着くことも不可能じゃないです。

だから本気にならないと、って思ったら……全力疾走したいと思ったら。

一度歩いてみることが、最大の「近道」なのかもしれないと。

緩やかに身体を鍛えながら、そう思った土曜日なのでした。

早く映画が観たい!
パシフィック・リム観るんや!

今日は駆け足な文章でしたが、この辺りで。
お読みいただき、ありがとうございました。

……もちろん、「本気にならない」っていう「決断」も「本気でやってない」ので、また気分が変わったらご報告いたします。
ではまた次の記事で。

僕らの表現は、創作は、報われない

こんにちは、Mistirです。

今回はエッセイのノリで書きます。
「分析」じゃありません。

だから内容としては、普段全く創作をされない方でもお楽しみ頂けると思います。
一方、普段僕のブログをお読みにならない方でも創作をしている方に広くお読みいただきたい記事なので、このようなタイトルにしました。

「何故僕らの創作は報われないのか」っていう「解答」への「近道」を求めてらっしゃる方がいらっしゃるなら、多分この記事はあまり役立ちません。
でも、何かヒントはあると思います。

僕が僕のことを思い出しながら、ついでにごく最近の「ある経験」も含めて、創作のことを語りたくなったんです。

さて、前置きはこれくらいにして本文に入りましょうか。
繰り返しますが、今回は「分析」じゃないので何か適当なエッセイでも読むつもりで、気楽に読んでね。
何よりも、雑に楽しくお読み頂けるのが一番嬉しいので。

 

【第一部:昔の話】

実はですね、僕、相当に趣味が多いのですが、そのうちの一つに「絵」ってのがあるんです。
Twitterのアイコンとかも描いてますし、今までで一番やる気があった時の絵でこんな感じです。

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某ゲームのキャラです。

絵を描いてない期間が大分続いたので、最近は全然描けないです。
話すと長くなるので、別の機会に。
(※余談ですがこの絵は絵を初めて約1年目に描いたもので、「ゼロベースから始めた割にはワイ大分描けるようになったやん!」と相当自信がつくものの、この後一向に上達ができなくなったというか何がしたいのかわからなくなり、モチベーションも下がり、今に至るまで伸び幅がほとんどないまま続いています)

……さて。
実は、絵を描き始めたのは大学の二年生が始まる頃、当時19歳の頃なんですが、その理由が結構複雑に絡まってるんですよね。

そのうちの「ひとつ」……
非常に印象的な、ひとつの「事件」あるいは「事実」についてお話したい。
多分、この「事件」は今までにブログなどで語ったことがないものだ。


僕は、大学在学時に漫画研究会に所属していた。
この漫画研究会、いわゆる「オタサー」だった。
漫画研究会には部誌があり、その部誌に寄稿することが主な活動となるのだが、漫画やイラストを描くことは必須ではなく、絵を描けない人もいる。
例えば小説(ライトノベル的なもの)を寄稿する人もいる、とそんな感じで。

僕は高校の頃からこういった「オタサー」に憧れを抱いていて、そういったところに入ることに入学以前から決めていたのである。
なお、この頃絵は「全く」描けなかった。
いわゆる「美術の授業」は大嫌いで、創造能力みたいなのに最低評価を食らい続けていた。
下手ではない。
「描けない」のである。
たまに絵が下手な芸能人の絵を見て笑う企画をテレビでやっているが、そんな感じの絵しか描けなかった。

で、そのサークルに入った後はなんだかよく分からない小説を書きながらお茶を濁していた。
色々なことがあったのだが、ここでは割愛する。

さて、その「事件」は秋ごろに起こった。

ウチの漫画研究会は、学祭で「展示会」をする。
これは描ける描けない問わず、一応「必須」となっている。
大型のパネルにアナログで描くのだ。

絵が描けない人間も、描かなければならない。
これはなかなか残酷なミッションである。

だが、僕には秘策があった。

まず、普通に描いても良いモノなんて出来上がるはずがない。

僕はただ一本の筆ペンを用意した。
そして、画面上部に巨大な魚を描いた。
その魚に筋肉質な男の胴体をくっつけた。
さらに地獄のような謎の生物を何匹も描いた。
背景には真っ黒な雨を降らせた。

……現物はもう存在しない(友人が持っていたと思うが、捨てちゃっただろうか?)
だからさっき即席で再現した。こんな感じの絵だ。


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なお、現物のサイズは確か高さ60センチ程度あるやや大きなもので、この「再現」よりもう少しは描き込んでいたこともあり、自分の作品ながら「謎の迫力」があった。

さて、展示会本番。
案の定と言うべきか言わないべきか、僕の作品はただただ異質だった。

可愛らしい絵、カッコいい絵が大半を占める中、僕の黒と白だけで構成された1時間もかけずに描かれた作品は「負の存在感」とでも言うべき謎の存在感を放っていた。

展示会では投票が行われる。
来てくれたお客さんが投票をしてくれるのだ。
そのとき、絵に対する意見も貰える。

……結論を言ってしまうと。
僕の絵は、わりと票を集めた。
それこそ「普段絵を描いてるような絵が好きな人たち」の絵よりも、票を集めた。
好意的な意見も貰えた。


……嬉しかった。


嬉しかった、が。
同時に2つの感情が僕を支配した。
「当然だろ」という小さな感情と、「違うだろそれは」という強烈な感情だ。

当然だろう。
僕の絵が票を集めるのは。

投票で上位だったのはいわゆる「凄く上手い」人の絵だった。
明らかに「美術的な」絵や、pixivでランクインするような可愛らしい絵。
それは、当然。

で、全員の絵を見るけれど、「横に並ぶ」のだ。どうしても。
誰が一番投票対象にならないかっていうと……そういった「横に並んでる」人の絵、言い換えれば「ある程度上手い」人の絵だ。

「ある程度上手い」人の絵は、「凄く上手い」人や「かなり上手い」人の絵の中に埋没する。
そのレベルの人たちが横にザーッと並ぶのだから(展示されている枚数は相当な量だった。100近くあったのではないか?)。


だったら、策略としては「異質なモノ」を生み出すのが、正しい。
そういった意味で僕の絵が票を集めたのは「当然」だ。

だが、それ以上に強烈な「それは違うだろ」という気持ち……。

僕は一切「反則」は行っていない。
自由な絵が許されるのだから、何を描いてもいいはずだ。
だけど、何かが違うと思った。

別の先輩の中には「どこにでもあるような萌え絵なんて描いても仕方ないだろ」と批判的に断言して、白いキャンバスを真っ黒に塗りつぶしただけのものを提出していた人もいる。『闇』とか、そういったタイトルをつけて。
……再び余談だが、この「塗りつぶす」ネタは思いついた人が多数いたらしく、数人で被っていた。個性を狙って逆に没個性化する良い例である。

余談はさておき。

僕は思っていた。
確かに。
確かに……「よくある絵」は印象に残らない。
綺麗ですねぇ、で忘れ去ってしまう。
果たしてTwitterやネットの中で見かけた「可愛い」「エロい」絵の何%を覚えている?
何%が僕らの中に残った?(「一瞬の消費物」であることが萌え絵の本質なのかもしれないが……)


僕はそういった点で、その先輩に同意する部分もあったが……
それ以上に強烈な反発を覚えた。

違うだろう。
頑張って絵を描いてる人が「報われない」なんて、ダメだろう。
違うだろう。
僕が1時間でノリで描いた絵よりも普段から絵を描いてる人の絵のほうが良いに決まってるだろう。
普段から絵を描いてる人の絵を「普通のどこにでもある萌え絵だ」って、全く絵を描けない僕らが批判するのは違うだろう。
理屈になってないかもしれないが……違うだろう、それは。

僕は「努力は報われるべきだ」なんていう体育会系の思考は持ち合わせていない。
だけど、強烈に、猛烈に……何かが違うと思ったのだ。

だからある意味、「凄く上手い」人たちに憧れた。
理屈抜きに全てをねじ伏せる、圧倒的な画力の人たちに。
その水準の絵を描いて、その上で……「評価の意見を貰いたい」と思った。

最初に述べたように、絵を始めた理由はコレが全てじゃないどころかごく一部に過ぎないのだが、それでもこの「出来事」は非常に強く覚えている。

僕の友人は僕が「普通の絵(???)」を描き始めてびっくりしたようだ。キャラじゃない、と。
だが、エネルギーの根源を探ると、負のエネルギーで絵を描くというある意味極めて僕らしいネガティブ感を発揮しているのである。

スタート地点がそこなのだ。
前向きな「こういった絵が描きたい!」っていう欲望じゃなく、「違うだろうがそれは!!!」という強烈な違和感なのだ。
……よく考えると。
この時点でひとつの「誤り」を抱いている。
……いや、ことによるとその「誤り」は「誤り」ではないのかもしれない。

なぜなら、その「誤り」は「創作を志す人間の大半が持っている」認識だからだ。

それは……
先程の展示会で言うトコロの、「票」を大切にするという認識……
言い換えれば「評価されること=報われること」という認識だ。

実は、この問題はずっとずっとずっとずっと考え続けている。
誰にも見られず、誰にも評価されず(あるいは極めて低い評価で)、僕はブログを書き続け、絵を描けるだろうか?

多分できない。
でも彼らーー「凄く上手い人たち」は?
本当に、評価を求めている?
評価されるからこそ、その領域まで辿りつけた?

疑問を残したまま、この記事は続きます。

【第二部:昨日の話】

2015年11月21日、僕はあるイベントに誘われて新宿の某所に向かった。
そのイベントを説明するのはやや難しいのだが、「アングラ演劇のアンソロジー」と考えて欲しい。
小休止を挟みつつ、一人(あるいは二人)が10〜20分程度でショーを行うのである。
※アングラ演劇呼ばわりすると怒られてしまうかもしれないが、そう表現するのが最も伝わりやすいと思うので、こう表現しています。

内容はエロあり笑いありエロありのカオスだ。
エロあり、とは言え18歳未満の人も見に来るものなので、一線は越えない範囲だった。

そのうちの一人の方が「ライブペインティング」を行ったのだが、この内容がなかなか衝撃的だったので、その話をしようと思う。
このショーを見たことが僕に昔の感情を思い出させ、この記事を書かせたと言っても過言じゃない。

最初から説明してみよう。
記憶を頼りにしているので、順序が左右したり記憶で補完している点も多いと思うがお許し頂きたい。

フロアには大量の画材と、2メートル程の大きなパネルが置かれている。
そのパネルに絵を描くのは……
全身に白いビニールテープを巻きつけた女性である。
あまりエロスは感じない。
もうこの時点でオチを察する。

以降、この女性を仮に「Tさん」としておこう(実は本人から記事にする許可を得ているので、活動している名前で言ってもいいと思うのだが、まぁなんとなく)。

BGMに合わせて、絵は始まった。
実は最初のBGMを全く覚えていない。後のBGMの印象が鮮烈すぎたせいだが、後述する。

最初は確か、背景を褪せた色で塗り始めたのだと記憶している。
巨大なパネルの背景を徐々に塗りつぶしていく。

ある程度塗り終わったトコロで、パネルの上の方に漫画的な「顔の輪郭」を描き始めた。
厳密に言えば、まだ本当に「顔の輪郭」かどうかはわからない。
顔の中身は描かれていなかったが、「あ、これは顔の輪郭だな多分」と察することはできた。

BGMが切り替わる。
すると……物悲しいBGMに合わせ、Tさんが……
突然歌い始めた。

「えぇぇ……」という感じだったが、その歌の歌詞が強烈なのである。
以下の歌詞は、僕が帰宅後すぐに記憶している範囲の歌詞でググり、youtubeにあった歌詞を引用したものである。

いまここにいるからもう手遅れ
私が特別じゃないことはわかる
いまここにいるからもう手遅れ
私は天使じゃないことはわかる

 
ドン引きした。

誤解してほしくないのだが、この「ドン引き」は悪口じゃない。

岡本太郎は、自分の作品を1時間ほど見て「嫌な感じ!」と叫んだ客がいたことを知って喜んだそうだ。
自分の全てをぶつけた作品、芸術に「あら、お綺麗ね」なんて言われたらそっちのほうが余程嫌だ、と。
そんなものが心地良いもののはずはないのだ、と。

だからなんというか、ここで「ドン引きする」ことは間違ってはいないのだと思う。

新宿のこんなアンダーグラウンドなトコロでワケの分からない格好でライブペイントしながら、身体を汚しながら、そんな歌を歌うのか……と。
そんな(少なくとも一見したトコロ)諦観を徹底的に孕んだような曲を、歌うのか。

なおこの曲、Tさんのオリジナルソングのようだ。
素直に「いまここにいるからもう手遅れ」という歌詞には感心を通り越して感動してしまった(ドン引きしながら)。
あ、この歌詞でググればTさんのことが出てくるから気になった人はググってみてください。

さて、ライブペイントは続く。

BGMが切り替わる。
Tさんは続けて歌う。












「恋人よ→〜僕は旅立つゥ↑〜東へと向う列車でェ→〜」







なんでだよ!!!!

心の中で盛大に突っ込んだ。
突然の『木綿のハンカチーフ』である。

雰囲気が変わるなんてもんじゃない。
歌いながら毒々しい筆致でキャンバスを塗り続けるのだから、もうなんというか……シュール極まりなかった。

……え、どういうことっすか。
自分が特別じゃないって気付いたら、直後に恋人に別れを告げて旅立つんですか、こんな爽やかに……
ちなみにTさんは綺麗な声でした。

全体が青やら赤やら身体に悪そうな色で塗られた後、顔の中身が描かれた。
なんというか、それはもう「漫画っぽい」絵である。

その顔を描いた後、周囲を塗っていく。
顔の部分を塗りつぶすように、塗っていく。

そうすると、「漫画的な顔」は潰れたような顔に変質する。
目からはハイライトが消え、ただの穴のようになり……

ああ、見事なものだと思ってしまった。

ここに意味を見出すことはできるだろう。
それこそ昔先輩が言っていた「萌え系の絵」に対する批判があったのは明らかなように思う。
でも、なんかそういった「解釈」で捉えるよりも、もっと感覚的にとらえてもいいのかもしれない、とも思った。
ただただシュールでグロテスクで、そこから生まれる謎の美しさがあった。「醜悪美」とでも言うような美しさと言えるだろうか。

最初に察したとおり、ラストはTさんご本人が絵の具まみれになって絵に飛び込んで終了した。
正直、この部分が全体の文脈をぶった切ってるような気がしないでもないので飛び込まなくても良いんじゃない?とも思うのだが……
それともアレだろうか、もしかすると「周囲に埋没していくグロテスクに汚れていく『漫画の顔』」は、Tさんそのものだったのだろうか。
まあ文脈や意味なんてどうでもいいと言ったのは僕自身なのだが。

なんにせよ、ライブペインティングは終わった。
この一件でもイベント料金を払った価値はあった。

完成した絵はこんな感じだ。
※ご本人曰く「写真写りのいい物ならアップしてもいいよ」とのこと。多分それは「ご本人の」写真写りのことだと思う。完成後の絵の隣にご本人も映っていたのだが、それはもうぐっちゃぐっちゃだったのでカットしている。

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いかがでしょうか。
僕の気持ちが少し伝わったのではないかな……。

さて、そろそろまとめに入ります。


【第三部:僕らの表現は、創作は、報われない】


第一部、第二部と長々と語ったのだが……
僕はこのふたつ、つまり僕の過去と、昨日見たショーが無関係の事象であるとはとても思えなかった。

自分が特別でないと認めながら、シュールで醜悪で美しい絵を描き上げたTさん。
真っ黒な絵を提出した先輩。
策略として絵を描いて、想定通りの結果を出しながら不満が残った僕。

Tさんは「ウケ狙い」でこのライブペインティングをしたのだろうか。
もっとも、創作は全て「ウケ狙い」だと言ってしまってもいいのかもしれない。

だけど何か……
そんな「ウケ狙い」云々の次元を超えて、ここには創作の原点みたいなモノが凝縮されているように見えた。
それは多分、「評価される」=「報われる」っていう価値観をもとにしていれば「ずっと報われない」ものだと思う。
Tさんは妙に楽しそうに絵を描いていた。
全力で「表現」をしていた。

一方の僕は例の「筋肉マッチョな魚」を描いたとき、なんだかんだで自由に絵を描ける楽しさを味わっていたのではないか?
絵なんて、それで十分じゃないか?
それだけで、もう……。

なんとなく察してはいたものの、Tさんの普段の絵も見てみた。
それはもう「素晴らしく上手な」ものだった。
「上手ですね」というのも躊躇われるような絵。
現在美大に在籍中だそうである。

だからまぁ、Tさんは普段描いてる絵じゃないこういった絵を描きながら、普段とは違う何かを味わっていたのかもしれない。
その本心は、僕には察し得ない。
実力のない、僕には察し得ない。

表現したいもの、描きたいもの。
少なくとも今、僕はそれを失っている。
ただ、ぼんやりと上手くなれたらいいなぁみたいな感情はある。
凄く上手い人の上手い絵を見て、それがTwitterで凄くウケてるのを見て、その絵を描いた人が物凄くたくさんのフォロワーさんを獲得してるのを見て、いいなぁと思う。

いいなぁ、とは思いながら。
僕はじゃあ何が表現したいんだ?って言われると、イマイチ思いつかない。
思いつかないせいで、あまり絵にはノれない。

ブログはどうだろう。
僕は多分、なんだかんだいってこうやって「語ること」が好きなのだ。
書きながら「表現の楽しさ」を味わっているのだ。

でも同時に「評価されたり」、「感想を頂ける」ことが嬉しい。
例えば以下の記事の評判は、それはもう凄かった。

 

mistclast.hatenablog.com

 
大分自信もついたし、多分一生分くらい褒められた。

だけど……だけど、だ。
そのために、「褒められるために」書くのだとするならば、それが目的となるならば……それは違うと思う。
「褒められる」「評価される」ことが僕らの目的であるとするならば、それこそが「報われること」だとするならば……

僕らの創作は、僕らの表現は、報われない。


もちろん「文学賞を受賞して凄く稼いだ!」とか、それこそ「絵が評判になってイラストレーターになった!」とか、「評価される」=「カネになる」という形で報われてる人はたくさんいるのだろう。

だけど、それを目的にしてしまうと、無限にそういった「評価」という亡霊に付きまとわれてしまうのではないか。

これはさっきの記事の評価だ。

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今は見えなくなっているけど、ツイートは2万3千件くらいされていた。
それはもう凄かった。Twitterで自分の記事を検索すると、秒単位に自分を評価してくれるコメントが見えるのである。
すっごい状況だ。

……だけど。
それを目的にするのは、本当に「違う」と思うんだ。
そこで悟ったってのもある。

……ああ、この欲望にはキリがない、と。
タガが外れた動物のように、延々と自分の評価を求めるだけの人間になってしまうという危機感を本気で覚えた。

それでも僕は俗物なので、評価は欲しい。
評価は欲しい。……でも。
語りたいことは語りたいこととして存在しているから、語りたい通りに語りたい。

語りたいことを、語りたいがために、語る。
それができるなら、語った時点で……僕の「語り」は報われる。
それが評価されなくても構わないし、たった一人でも誰かに伝われば十分以上に幸福だ。
(さすがに誰か一人には伝わって欲しい。「誰一人にも読まれない語り」は語りじゃなくて独白だからね。)

……じゃあ、僕にとって絵という趣味はなんなんだろう?
絵の目的は?
ブログで語りたいという気持ち以上に描きたいものなんてあったっけ?

……はー、難しいなぁ。
こんなことばっかり考えているから、フォロワーさんにも「多分絵向いてない」って言われるのです。

評価されたいという欲望、評価されることが創作において報われることだと認識するこの気持ち……切り捨てることはできないでしょう。
切り捨てるべきだとも思わない。でも、目的にしちゃダメだとは思う。


だから、もう少しじっくりと向き合ってみます。
もし評価の意味で報われることが絵の目的だとするなら、絵に時間取れる人と比べると一生報われないんだよなー。
書きたいものは自然に見つかるけど、描きたいものは自然に見つからないからツライしさ。

ブログは嫌でも書くでしょうね。
たまにこうやって語らないと頭が詰まってくるんで。

ってことで、これからもよろしくお願いしますね。

お読みいただきありがとうございます。
ではまた次の記事で。