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MistiRoom

それでも僕は何かを語るんだ。自分が納得するために。

俺なんかもう死んでいる

ども、Mistirです。
今回は自分の考えを整理する、それだけの非論理的な記事。
非論理的、支離滅裂、いわばポエムです。

ということで、今回の記事はいつもの記事と大幅に毛色が違います。
念のため、それを前提で。
「マジかよ今後読むのやめるわ」ってならないで頂けるとありがたいっすw

何度書き終わってから読み返しても意味不明だ。
でも、そのまま発表しようと思う。
その方が良い気がした。
理由は特にない。

では、改行して本文入ります。




今日一日インラインスケートでザーッと河川敷を走りながら考えてました。
この無意味な行為と、この無意味な行為の楽しさはなんなんだ、と。
僕は上手に滑れるようになりたい、上手に走れるようになりたい、あるいは色々トリッキーなことやってみたい、それは何故だ。

無意味な行為の楽しさ。
無償の楽しさ。

この記事にも書いたけど

mistclast.hatenablog.com

音ゲー、一日数時間やっても上達しなかったのが、ある日突如できるようになる。
この現象はなんなんだ。
「楽しくやれば、惰性でやるよりも数倍の効果を発揮する」?
……そんな単純な話?違うと思う。
いや、それでも楽しむことに効果はあるけれど。そりゃもう、確実に。
それだけか?

何故、どこからそういった「上達の瞬間」はやってくる?
「楽しさ」はやってくる?

そういうことを考えていると……
僕はとことん、損している気分になってきた。

努力も行為も、必ず報われるとは限らない。
だが成功した人は必ず努力をしている……

そういったコトバは、まあ、とても正しいのだろう。とても。

だが、僕はそのコトバで非常に大きな損をしているのではないかと思ってきた。
理想的な日々の水準に達していない現実、誰かが言った「努力」の基準値を満たせない現実、その現実を認識したその瞬間、自分のこの「瞬間」「刹那」は……

不十分でみっともないゴミになる。

この「今」に満足できない苦しみを、以前の記事で書いた。

mistclast.hatenablog.com

「真面目系クズ」って言うコトバが蔓延っている。
僕はずっとずっと、違和感を覚えてきた。

ヒトがネット黎明以降ここ数年数十年ごときでクソ真面目になったり、ガチクズになったりするわけがないじゃないか。
それに、真面目系クズに当てはまる人間を見て常に思っていた。
……それに当てはまらない人間は、なんというか僕らの脳内にいる「超人」だけじゃねえか?
この「超人」はニーチェ的意味じゃありません、念のため。

違うんじゃないか?
クズが増えたんじゃない。
要求が、増えたんじゃないか?

要求が上がったんじゃない。
要求が増えたんだ。

どういう意味か。

人間の「機能」に対する要求がそれほど上がるわけがない。
大学入試の難度が滅茶苦茶下がったとか、そういう話はあまり聞かない。東大の難しさは東大の難しさだ。
「簡単に入れる」大学は増えただろう。だけど、それを理由に「人間が人間に求める性能が下がった」とは言えないと思っている。

じゃあ「増えた」とは?

全方位から聞こえるようになった、ってことだ。

就活がわかりやすい。
就活生が誰によって「こうすればいい」と言われるか考えてみよう。
入社したい企業の人たち、セミナーやってる企業の人たち、就職課、ネットの情報、面接マニュアル等などの書籍、これから大変だぞと叫ぶ大人たち……

あらゆるものがあらゆる「水準」を求め、あらゆる「利益」を求め……
手を変え品を変え、「コレじゃダメだ」と僕らの耳元で囁いてくる。

何故真面目な人たちがそこで「ドロップアウト」したくなるのか?

そこに自由が、遊びがないからだ。

「こうしなきゃこれからの人生つらいよ」という呪文に呪われ、僕らは今を失った。

……誤解しないで欲しい。
これは、僕らの耳元で囁くどんな人々をも非難してはいない。

真に受ける僕らが悪い。
真に受け方が下手くそな僕らが悪い。

なまじっか自分の人生をダメにしたくないから。
ヒトよりダメな自分を認めたくないから。
だからせめて、人の言ってることを聞いていたくなる。
人の求める水準を満たしたくなる。
その先に、人から認められる素晴らしい自分が待っている。
今の自分を、殺して、殺して……。

違うだろう、と僕の中の何かが叫んでいる。
僕が大事にしたいものは何だ?何なんだ?

夢を持て?うるさい、聞き飽きた。
目標を持て?うるさい、聞き飽きた。

何千万の「正論」を聞き飽きた。

僕はずっと、いつ終わるか、いつ終わるか、先はどうするか、この苦痛が一週間続くのか、一ヶ月続くのか、ああ終わった、休みだ、でも一瞬で終わるんだろうな、ああ一瞬で終わった、退屈な日常がまた始まる、絶望だ……と、そういうツラさの中でずっとずっと生きてきた。
始まった瞬間には終わる瞬間のことを考えている。
あと何分で……あと、何分で終わってくれる?

日曜の朝には日曜が終わることを考えている。

こんなの、変だ。
歪だ。

ところで最近、「人生に生きる価値は無い」だとか「どうせ死ぬんだ」とか、「何やっても無意味だ」とか、そういったコトバに癒やされる自分に気付いた。

希望を持て、夢を持て。
こうすれば成功する。
そういうコトバに常に吐きそうになってる自分に気付いた。

……ここまでのことを考えて、さらに気付いた。
僕は……何か、自分に期待している、未来に期待しているのではないか、と。
未来に期待して、期待の叶わない未来を恐れ、何もできなくなって……ダメになってるんじゃないか、と。

その根底には、死への恐怖が流れてる気がする。
あるいはタイム・リミットへの恐怖と言うべきか。

人は死ぬ。
死んで無になる。
永遠の無だ。

実は「死んだらどうなるかわからない」「誰にも死んだ経験はない」って言うけど、それはウソだって思ってる。
150年前から100年前の記憶を思い出してみればいい。
その状態が、死んだ後のあなたの状態だ。
ただ、最大の違いはおそらく2歳か3歳あたりの「最初の記憶」にたどり着かないこと。

……変なことを書いてしまった。
本題に戻ろう。

……で、結局「いつ終わるんだ?」と全ての物事の終わりを待ち望んでいる僕は、同時に自分の生命が終わることを物凄く恐れている。
にも関わらず、「人生に価値はない」というコトバに癒やされる。

……意味が分からない。

そして徹底的に「人生に価値はない」というコトバに癒やされながら……
「噛み合った人生を送っている人々」を羨む。
自分の中のこの矛盾は、なんなんだ一体。


わからない、わからないが……

もうそろそろ、うんざりしてきた。
論理展開もへったくれもないが、結論に入ろう。

この記事のタイトルは「俺なんかもう死んでいる」だけど、なんというか、このコトバが究極に大事なコトバに思えるんですよ。
今後なんて、ない。
もう十分、自分の人生は全否定されていい。

僕なんかもう死んじゃってる。
お前の人生に価値はない。無価値だ。

……そう言われることが、一番今の自分に「効く」気がして。
俺はもう死んでるんだから、何やっても自由だよな?と。
どうなっても、いいんだよな、と。
むしろどうとでもなってやるぞ、と。

そういった「俺なんかもう死んでいる」というコトバが、僕がここまでつらつらと2500文字以上書いてきた内容と合致してるかさっぱり分からない。
分からないが……

僕はそろそろ自分に言いたいのだ。
未来を大事にして、今のお前を大事にしないの、やめろよ、と。

僕には今しかない。
そのはずなのだ。
もう死んでる僕には、大事にしなければならない「これから」なんてもう無いはずだ。

……つらつらと書いたけど。
この記事の真意は、まだ分かっていない。自分自身で分かってない。
「自分自身を殺す」っていうテーマがあらゆる創作で書かれ続けてきたことと関わってるのかも。あ、自殺願望は微塵もないのでご安心を。

分かっていないものを発表するなと言われるかもしれないので、この記事は消すかもしれない。
だがまぁ……たまにはいいじゃないか。たまには。


……と!
そういったことをインラインスケートで走りながら考えていたんですよ!

……それだけです。

お読みいただきありがとうございました。
こういった記事をずっと続ける気は毛頭ないので、次の記事はマトモです、多分。
ではまた次の記事で。