Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

僕らの表現は、創作は、報われない

こんにちは、Mistirです。

今回はエッセイのノリで書きます。
「分析」じゃありません。

だから内容としては、普段全く創作をされない方でもお楽しみ頂けると思います。
一方、普段僕のブログをお読みにならない方でも創作をしている方に広くお読みいただきたい記事なので、このようなタイトルにしました。

「何故僕らの創作は報われないのか」っていう「解答」への「近道」を求めてらっしゃる方がいらっしゃるなら、多分この記事はあまり役立ちません。
でも、何かヒントはあると思います。

僕が僕のことを思い出しながら、ついでにごく最近の「ある経験」も含めて、創作のことを語りたくなったんです。

さて、前置きはこれくらいにして本文に入りましょうか。
繰り返しますが、今回は「分析」じゃないので何か適当なエッセイでも読むつもりで、気楽に読んでね。
何よりも、雑に楽しくお読み頂けるのが一番嬉しいので。

 

【第一部:昔の話】

実はですね、僕、相当に趣味が多いのですが、そのうちの一つに「絵」ってのがあるんです。
Twitterのアイコンとかも描いてますし、今までで一番やる気があった時の絵でこんな感じです。

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某ゲームのキャラです。

絵を描いてない期間が大分続いたので、最近は全然描けないです。
話すと長くなるので、別の機会に。
(※余談ですがこの絵は絵を初めて約1年目に描いたもので、「ゼロベースから始めた割にはワイ大分描けるようになったやん!」と相当自信がつくものの、この後一向に上達ができなくなったというか何がしたいのかわからなくなり、モチベーションも下がり、今に至るまで伸び幅がほとんどないまま続いています)

……さて。
実は、絵を描き始めたのは大学の二年生が始まる頃、当時19歳の頃なんですが、その理由が結構複雑に絡まってるんですよね。

そのうちの「ひとつ」……
非常に印象的な、ひとつの「事件」あるいは「事実」についてお話したい。
多分、この「事件」は今までにブログなどで語ったことがないものだ。


僕は、大学在学時に漫画研究会に所属していた。
この漫画研究会、いわゆる「オタサー」だった。
漫画研究会には部誌があり、その部誌に寄稿することが主な活動となるのだが、漫画やイラストを描くことは必須ではなく、絵を描けない人もいる。
例えば小説(ライトノベル的なもの)を寄稿する人もいる、とそんな感じで。

僕は高校の頃からこういった「オタサー」に憧れを抱いていて、そういったところに入ることに入学以前から決めていたのである。
なお、この頃絵は「全く」描けなかった。
いわゆる「美術の授業」は大嫌いで、創造能力みたいなのに最低評価を食らい続けていた。
下手ではない。
「描けない」のである。
たまに絵が下手な芸能人の絵を見て笑う企画をテレビでやっているが、そんな感じの絵しか描けなかった。

で、そのサークルに入った後はなんだかよく分からない小説を書きながらお茶を濁していた。
色々なことがあったのだが、ここでは割愛する。

さて、その「事件」は秋ごろに起こった。

ウチの漫画研究会は、学祭で「展示会」をする。
これは描ける描けない問わず、一応「必須」となっている。
大型のパネルにアナログで描くのだ。

絵が描けない人間も、描かなければならない。
これはなかなか残酷なミッションである。

だが、僕には秘策があった。

まず、普通に描いても良いモノなんて出来上がるはずがない。

僕はただ一本の筆ペンを用意した。
そして、画面上部に巨大な魚を描いた。
その魚に筋肉質な男の胴体をくっつけた。
さらに地獄のような謎の生物を何匹も描いた。
背景には真っ黒な雨を降らせた。

……現物はもう存在しない(友人が持っていたと思うが、捨てちゃっただろうか?)
だからさっき即席で再現した。こんな感じの絵だ。


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なお、現物のサイズは確か高さ60センチ程度あるやや大きなもので、この「再現」よりもう少しは描き込んでいたこともあり、自分の作品ながら「謎の迫力」があった。

さて、展示会本番。
案の定と言うべきか言わないべきか、僕の作品はただただ異質だった。

可愛らしい絵、カッコいい絵が大半を占める中、僕の黒と白だけで構成された1時間もかけずに描かれた作品は「負の存在感」とでも言うべき謎の存在感を放っていた。

展示会では投票が行われる。
来てくれたお客さんが投票をしてくれるのだ。
そのとき、絵に対する意見も貰える。

……結論を言ってしまうと。
僕の絵は、わりと票を集めた。
それこそ「普段絵を描いてるような絵が好きな人たち」の絵よりも、票を集めた。
好意的な意見も貰えた。


……嬉しかった。


嬉しかった、が。
同時に2つの感情が僕を支配した。
「当然だろ」という小さな感情と、「違うだろそれは」という強烈な感情だ。

当然だろう。
僕の絵が票を集めるのは。

投票で上位だったのはいわゆる「凄く上手い」人の絵だった。
明らかに「美術的な」絵や、pixivでランクインするような可愛らしい絵。
それは、当然。

で、全員の絵を見るけれど、「横に並ぶ」のだ。どうしても。
誰が一番投票対象にならないかっていうと……そういった「横に並んでる」人の絵、言い換えれば「ある程度上手い」人の絵だ。

「ある程度上手い」人の絵は、「凄く上手い」人や「かなり上手い」人の絵の中に埋没する。
そのレベルの人たちが横にザーッと並ぶのだから(展示されている枚数は相当な量だった。100近くあったのではないか?)。


だったら、策略としては「異質なモノ」を生み出すのが、正しい。
そういった意味で僕の絵が票を集めたのは「当然」だ。

だが、それ以上に強烈な「それは違うだろ」という気持ち……。

僕は一切「反則」は行っていない。
自由な絵が許されるのだから、何を描いてもいいはずだ。
だけど、何かが違うと思った。

別の先輩の中には「どこにでもあるような萌え絵なんて描いても仕方ないだろ」と批判的に断言して、白いキャンバスを真っ黒に塗りつぶしただけのものを提出していた人もいる。『闇』とか、そういったタイトルをつけて。
……再び余談だが、この「塗りつぶす」ネタは思いついた人が多数いたらしく、数人で被っていた。個性を狙って逆に没個性化する良い例である。

余談はさておき。

僕は思っていた。
確かに。
確かに……「よくある絵」は印象に残らない。
綺麗ですねぇ、で忘れ去ってしまう。
果たしてTwitterやネットの中で見かけた「可愛い」「エロい」絵の何%を覚えている?
何%が僕らの中に残った?(「一瞬の消費物」であることが萌え絵の本質なのかもしれないが……)


僕はそういった点で、その先輩に同意する部分もあったが……
それ以上に強烈な反発を覚えた。

違うだろう。
頑張って絵を描いてる人が「報われない」なんて、ダメだろう。
違うだろう。
僕が1時間でノリで描いた絵よりも普段から絵を描いてる人の絵のほうが良いに決まってるだろう。
普段から絵を描いてる人の絵を「普通のどこにでもある萌え絵だ」って、全く絵を描けない僕らが批判するのは違うだろう。
理屈になってないかもしれないが……違うだろう、それは。

僕は「努力は報われるべきだ」なんていう体育会系の思考は持ち合わせていない。
だけど、強烈に、猛烈に……何かが違うと思ったのだ。

だからある意味、「凄く上手い」人たちに憧れた。
理屈抜きに全てをねじ伏せる、圧倒的な画力の人たちに。
その水準の絵を描いて、その上で……「評価の意見を貰いたい」と思った。

最初に述べたように、絵を始めた理由はコレが全てじゃないどころかごく一部に過ぎないのだが、それでもこの「出来事」は非常に強く覚えている。

僕の友人は僕が「普通の絵(???)」を描き始めてびっくりしたようだ。キャラじゃない、と。
だが、エネルギーの根源を探ると、負のエネルギーで絵を描くというある意味極めて僕らしいネガティブ感を発揮しているのである。

スタート地点がそこなのだ。
前向きな「こういった絵が描きたい!」っていう欲望じゃなく、「違うだろうがそれは!!!」という強烈な違和感なのだ。
……よく考えると。
この時点でひとつの「誤り」を抱いている。
……いや、ことによるとその「誤り」は「誤り」ではないのかもしれない。

なぜなら、その「誤り」は「創作を志す人間の大半が持っている」認識だからだ。

それは……
先程の展示会で言うトコロの、「票」を大切にするという認識……
言い換えれば「評価されること=報われること」という認識だ。

実は、この問題はずっとずっとずっとずっと考え続けている。
誰にも見られず、誰にも評価されず(あるいは極めて低い評価で)、僕はブログを書き続け、絵を描けるだろうか?

多分できない。
でも彼らーー「凄く上手い人たち」は?
本当に、評価を求めている?
評価されるからこそ、その領域まで辿りつけた?

疑問を残したまま、この記事は続きます。

【第二部:昨日の話】

2015年11月21日、僕はあるイベントに誘われて新宿の某所に向かった。
そのイベントを説明するのはやや難しいのだが、「アングラ演劇のアンソロジー」と考えて欲しい。
小休止を挟みつつ、一人(あるいは二人)が10〜20分程度でショーを行うのである。
※アングラ演劇呼ばわりすると怒られてしまうかもしれないが、そう表現するのが最も伝わりやすいと思うので、こう表現しています。

内容はエロあり笑いありエロありのカオスだ。
エロあり、とは言え18歳未満の人も見に来るものなので、一線は越えない範囲だった。

そのうちの一人の方が「ライブペインティング」を行ったのだが、この内容がなかなか衝撃的だったので、その話をしようと思う。
このショーを見たことが僕に昔の感情を思い出させ、この記事を書かせたと言っても過言じゃない。

最初から説明してみよう。
記憶を頼りにしているので、順序が左右したり記憶で補完している点も多いと思うがお許し頂きたい。

フロアには大量の画材と、2メートル程の大きなパネルが置かれている。
そのパネルに絵を描くのは……
全身に白いビニールテープを巻きつけた女性である。
あまりエロスは感じない。
もうこの時点でオチを察する。

以降、この女性を仮に「Tさん」としておこう(実は本人から記事にする許可を得ているので、活動している名前で言ってもいいと思うのだが、まぁなんとなく)。

BGMに合わせて、絵は始まった。
実は最初のBGMを全く覚えていない。後のBGMの印象が鮮烈すぎたせいだが、後述する。

最初は確か、背景を褪せた色で塗り始めたのだと記憶している。
巨大なパネルの背景を徐々に塗りつぶしていく。

ある程度塗り終わったトコロで、パネルの上の方に漫画的な「顔の輪郭」を描き始めた。
厳密に言えば、まだ本当に「顔の輪郭」かどうかはわからない。
顔の中身は描かれていなかったが、「あ、これは顔の輪郭だな多分」と察することはできた。

BGMが切り替わる。
すると……物悲しいBGMに合わせ、Tさんが……
突然歌い始めた。

「えぇぇ……」という感じだったが、その歌の歌詞が強烈なのである。
以下の歌詞は、僕が帰宅後すぐに記憶している範囲の歌詞でググり、youtubeにあった歌詞を引用したものである。

いまここにいるからもう手遅れ
私が特別じゃないことはわかる
いまここにいるからもう手遅れ
私は天使じゃないことはわかる

 
ドン引きした。

誤解してほしくないのだが、この「ドン引き」は悪口じゃない。

岡本太郎は、自分の作品を1時間ほど見て「嫌な感じ!」と叫んだ客がいたことを知って喜んだそうだ。
自分の全てをぶつけた作品、芸術に「あら、お綺麗ね」なんて言われたらそっちのほうが余程嫌だ、と。
そんなものが心地良いもののはずはないのだ、と。

だからなんというか、ここで「ドン引きする」ことは間違ってはいないのだと思う。

新宿のこんなアンダーグラウンドなトコロでワケの分からない格好でライブペイントしながら、身体を汚しながら、そんな歌を歌うのか……と。
そんな(少なくとも一見したトコロ)諦観を徹底的に孕んだような曲を、歌うのか。

なおこの曲、Tさんのオリジナルソングのようだ。
素直に「いまここにいるからもう手遅れ」という歌詞には感心を通り越して感動してしまった(ドン引きしながら)。
あ、この歌詞でググればTさんのことが出てくるから気になった人はググってみてください。

さて、ライブペイントは続く。

BGMが切り替わる。
Tさんは続けて歌う。












「恋人よ→〜僕は旅立つゥ↑〜東へと向う列車でェ→〜」







なんでだよ!!!!

心の中で盛大に突っ込んだ。
突然の『木綿のハンカチーフ』である。

雰囲気が変わるなんてもんじゃない。
歌いながら毒々しい筆致でキャンバスを塗り続けるのだから、もうなんというか……シュール極まりなかった。

……え、どういうことっすか。
自分が特別じゃないって気付いたら、直後に恋人に別れを告げて旅立つんですか、こんな爽やかに……
ちなみにTさんは綺麗な声でした。

全体が青やら赤やら身体に悪そうな色で塗られた後、顔の中身が描かれた。
なんというか、それはもう「漫画っぽい」絵である。

その顔を描いた後、周囲を塗っていく。
顔の部分を塗りつぶすように、塗っていく。

そうすると、「漫画的な顔」は潰れたような顔に変質する。
目からはハイライトが消え、ただの穴のようになり……

ああ、見事なものだと思ってしまった。

ここに意味を見出すことはできるだろう。
それこそ昔先輩が言っていた「萌え系の絵」に対する批判があったのは明らかなように思う。
でも、なんかそういった「解釈」で捉えるよりも、もっと感覚的にとらえてもいいのかもしれない、とも思った。
ただただシュールでグロテスクで、そこから生まれる謎の美しさがあった。「醜悪美」とでも言うような美しさと言えるだろうか。

最初に察したとおり、ラストはTさんご本人が絵の具まみれになって絵に飛び込んで終了した。
正直、この部分が全体の文脈をぶった切ってるような気がしないでもないので飛び込まなくても良いんじゃない?とも思うのだが……
それともアレだろうか、もしかすると「周囲に埋没していくグロテスクに汚れていく『漫画の顔』」は、Tさんそのものだったのだろうか。
まあ文脈や意味なんてどうでもいいと言ったのは僕自身なのだが。

なんにせよ、ライブペインティングは終わった。
この一件でもイベント料金を払った価値はあった。

完成した絵はこんな感じだ。
※ご本人曰く「写真写りのいい物ならアップしてもいいよ」とのこと。多分それは「ご本人の」写真写りのことだと思う。完成後の絵の隣にご本人も映っていたのだが、それはもうぐっちゃぐっちゃだったのでカットしている。

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いかがでしょうか。
僕の気持ちが少し伝わったのではないかな……。

さて、そろそろまとめに入ります。


【第三部:僕らの表現は、創作は、報われない】


第一部、第二部と長々と語ったのだが……
僕はこのふたつ、つまり僕の過去と、昨日見たショーが無関係の事象であるとはとても思えなかった。

自分が特別でないと認めながら、シュールで醜悪で美しい絵を描き上げたTさん。
真っ黒な絵を提出した先輩。
策略として絵を描いて、想定通りの結果を出しながら不満が残った僕。

Tさんは「ウケ狙い」でこのライブペインティングをしたのだろうか。
もっとも、創作は全て「ウケ狙い」だと言ってしまってもいいのかもしれない。

だけど何か……
そんな「ウケ狙い」云々の次元を超えて、ここには創作の原点みたいなモノが凝縮されているように見えた。
それは多分、「評価される」=「報われる」っていう価値観をもとにしていれば「ずっと報われない」ものだと思う。
Tさんは妙に楽しそうに絵を描いていた。
全力で「表現」をしていた。

一方の僕は例の「筋肉マッチョな魚」を描いたとき、なんだかんだで自由に絵を描ける楽しさを味わっていたのではないか?
絵なんて、それで十分じゃないか?
それだけで、もう……。

なんとなく察してはいたものの、Tさんの普段の絵も見てみた。
それはもう「素晴らしく上手な」ものだった。
「上手ですね」というのも躊躇われるような絵。
現在美大に在籍中だそうである。

だからまぁ、Tさんは普段描いてる絵じゃないこういった絵を描きながら、普段とは違う何かを味わっていたのかもしれない。
その本心は、僕には察し得ない。
実力のない、僕には察し得ない。

表現したいもの、描きたいもの。
少なくとも今、僕はそれを失っている。
ただ、ぼんやりと上手くなれたらいいなぁみたいな感情はある。
凄く上手い人の上手い絵を見て、それがTwitterで凄くウケてるのを見て、その絵を描いた人が物凄くたくさんのフォロワーさんを獲得してるのを見て、いいなぁと思う。

いいなぁ、とは思いながら。
僕はじゃあ何が表現したいんだ?って言われると、イマイチ思いつかない。
思いつかないせいで、あまり絵にはノれない。

ブログはどうだろう。
僕は多分、なんだかんだいってこうやって「語ること」が好きなのだ。
書きながら「表現の楽しさ」を味わっているのだ。

でも同時に「評価されたり」、「感想を頂ける」ことが嬉しい。
例えば以下の記事の評判は、それはもう凄かった。

 

mistclast.hatenablog.com

 
大分自信もついたし、多分一生分くらい褒められた。

だけど……だけど、だ。
そのために、「褒められるために」書くのだとするならば、それが目的となるならば……それは違うと思う。
「褒められる」「評価される」ことが僕らの目的であるとするならば、それこそが「報われること」だとするならば……

僕らの創作は、僕らの表現は、報われない。


もちろん「文学賞を受賞して凄く稼いだ!」とか、それこそ「絵が評判になってイラストレーターになった!」とか、「評価される」=「カネになる」という形で報われてる人はたくさんいるのだろう。

だけど、それを目的にしてしまうと、無限にそういった「評価」という亡霊に付きまとわれてしまうのではないか。

これはさっきの記事の評価だ。

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今は見えなくなっているけど、ツイートは2万3千件くらいされていた。
それはもう凄かった。Twitterで自分の記事を検索すると、秒単位に自分を評価してくれるコメントが見えるのである。
すっごい状況だ。

……だけど。
それを目的にするのは、本当に「違う」と思うんだ。
そこで悟ったってのもある。

……ああ、この欲望にはキリがない、と。
タガが外れた動物のように、延々と自分の評価を求めるだけの人間になってしまうという危機感を本気で覚えた。

それでも僕は俗物なので、評価は欲しい。
評価は欲しい。……でも。
語りたいことは語りたいこととして存在しているから、語りたい通りに語りたい。

語りたいことを、語りたいがために、語る。
それができるなら、語った時点で……僕の「語り」は報われる。
それが評価されなくても構わないし、たった一人でも誰かに伝われば十分以上に幸福だ。
(さすがに誰か一人には伝わって欲しい。「誰一人にも読まれない語り」は語りじゃなくて独白だからね。)

……じゃあ、僕にとって絵という趣味はなんなんだろう?
絵の目的は?
ブログで語りたいという気持ち以上に描きたいものなんてあったっけ?

……はー、難しいなぁ。
こんなことばっかり考えているから、フォロワーさんにも「多分絵向いてない」って言われるのです。

評価されたいという欲望、評価されることが創作において報われることだと認識するこの気持ち……切り捨てることはできないでしょう。
切り捨てるべきだとも思わない。でも、目的にしちゃダメだとは思う。


だから、もう少しじっくりと向き合ってみます。
もし評価の意味で報われることが絵の目的だとするなら、絵に時間取れる人と比べると一生報われないんだよなー。
書きたいものは自然に見つかるけど、描きたいものは自然に見つからないからツライしさ。

ブログは嫌でも書くでしょうね。
たまにこうやって語らないと頭が詰まってくるんで。

ってことで、これからもよろしくお願いしますね。

お読みいただきありがとうございます。
ではまた次の記事で。