Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

5年経ったからこそ語る、『あの花』という作品

ども、Mistirです。

Fire TV Stickを買い、プロジェクターに接続し、悠々と100インチのスクリーンに投影する。
そんな贅沢なライフを送ってます。

で。
最近ようやくNetFlixあの日見た花の名前を僕達はまだ知らないを観た。

 実は、僕が最も苦手なタイプの作品だ。
こういった「お涙ちょうだい」は非常に、なんというか、向いていない。

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成宮寛貴に対するグレート・サスケの発言が、ちょっと(相当)危険だ

こんにちは、Mistirです。

ウチにはテレビがないので、芸能ニュースには関心が薄いのですが……
「ちょっとこりゃマズイな」と思うニュースがあった。

グレート・サスケが「息子が過去に成宮寛貴に襲われた」と明かしたそうなのだ。

でも、これは明らかに変だ。

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炎上した「うな子」のCMを冷静に分析する気にならない

ども、Mistirです。

なんか……また、どこかのCMが話題になったようですね。

www.huffingtonpost.jp

通称、「うな子」
一応公式ページは削除されたらしいので……ここで別の方がアップロードされたものを貼るのはやめておきます。

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日本一残念なボールペン「ジェットストリーム・プライム」の中身を最大限に活かす方法

ども、Mistirです。

さて、以前三菱鉛筆の「ジェットストリーム・プライム」をボロボロに批判する記事を書きました。

 

mistclast.hatenablog.com

 



実は、この記事は当ブログの中では結構長いこと読まれています。
残念に思う人が多いんですかね。
それとも、「ジェットストリーム プライム」で検索するとかなり上の方に来るからか……

それはそうとして。

一向に三菱鉛筆さんが「カッコいい」外装を出すことが無さそうなので……

そろそろ、断言しましょう。

ジェットストリームの芯を最大限に活かす、最高のボールペンについて……

それは、このボールペンであると。

ヘルベチカ ヘルベチカ多機能ペン4in1 赤

ヘルベチカ ヘルベチカ多機能ペン4in1 赤

 

 

由緒正しき日本の文具メーカー、伊東屋のヘルベチカ、多機能ボールペンです。

私は白を使っています。

黒もあります。

ヘルベチカ ヘルベチカ多機能ペン4in1 黒

ヘルベチカ ヘルベチカ多機能ペン4in1 黒

 

 

最初はキレイな外装に入ってます。

 

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で。
モレスキンと組み合わせてみると……

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結構色気あるでしょ?
このミニマル感のあるモノトーンデザイン……(うっとり)
真鍮製の重々しさ……(うっとり)

書き心地は、そのまんま。
ジェットストリームです。
ジェットストリームに差し替えて使うのですから、当然ですが……。

最初に入ってた芯?
……まぁ、ごく普通の油性だったような……忘れました。
 
さて。
このボールペン、いわゆる振り子式で、使いたい色を上に向けてノックすると、その色が出てくるタイプです。
このシステムには好みがあるとおもいますが、やっぱカッコいいですよね。


……何より……
このシステムを採用しているおかげなのか……
超細い!!

この細さで三色+シャープペンは衝撃的です。
……まぁ、私はシャープペンをめったに使わないのですが……

そして、実売価格4000円強。
これはライバル製品であるLamy の4色ボールペンよりも安い価格です。

安さだけで言えば……
これ。

ステッドラー 多機能ペン アバンギャルド 927 AG-BB  ブラストブラック

ステッドラー 多機能ペン アバンギャルド 927 AG-BB ブラストブラック

 

ステッドラーのアバンギャルド。
これも良いボールペンなんですよ。

……クリップを、除けば。

なんですかこのクリップ。
クッソ硬い。
だからって強引に広げようとすると……
取れる。

くっついてるだけじゃねーか!飾りか!
……

手帳などにクリップで挟む人にとっては、致命的です。
なので、このボールペンを買うのであればヘルベチカでいいと思います。
細くてカッコいいし。


スタイリッシュでもあり、機能的であり、シンプルでもあり、ゴージャスでもある。
ってことで。
私にとってのジェットストリームの最強外装はこれだ!ってお話でした。

さあ、次は貴様だエナージェル。

最強のゲルインキボールペンはエナージェルだと思ってます。
君の見た目がゴージャスになる日を、僕は首を長くして待ちながら……同時に色々検討してみます……フフフ。
文具は改造するもの。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事で。

【追記】
ってことで、頑張ってゲルインキでこのボールペンを使いたいってことで探してみました。

ハイテックC04金属レフィル ブラック LHRF20C4B

ハイテックC04金属レフィル ブラック LHRF20C4B

 

 

はい、これで楽しくゲルインキでこのペンを使ってます。
めでたしめでたし☆
もちろん赤と青もあるよ。

 

ハイテックC04金属レフィル レッド LHRF20C4R

ハイテックC04金属レフィル レッド LHRF20C4R

 

 

ハイテックC04金属レフィル ブルー LHRF20C4L

ハイテックC04金属レフィル ブルー LHRF20C4L

 

やったぜ。
……速乾性の高いエナージェルの4c互換替芯も、できたら早く発売してくれないかな……


【追記】
かなり長いこと上記ボールペンを使っていたのですが、色々弱点も見えてきたのとそろそろ寿命ということもあり乗り換えました。こちらもよろしくです。

mistclast.hatenablog.com

 

映画『シン・ゴジラ』を観て号泣したから熱く分析する

ども、Mistirです。

映画『シン・ゴジラ』を観てきました。

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はい。

泣きました。
号泣です。
ボロッボロ泣きました。

「あー、この映画みて泣いてる人多分他にいないんだろうな……」
恥ずかしく思いながら周りを見ると……やっぱり、泣いてる人はあまりいませんでした。

何故泣いたのか?
それは、この映画があまりにも明確に、一つの結論に向かって……まっすぐに突き進んでいたためです。
極上のエンタメでもありながら、同時にあまりにも強い「思想」が示されていた。
全てのパーツが、全てのシーンが、一つの結論を描いていた。
映画のギミックも、事前の印象も、「利用できるものは全て利用し尽くして」
その「思想」がはっきりと理解できた時……僕は泣くしかなかったのです。

これは語らねばならない。
……ってことで、語ることにしました。
しばし、お付き合いください。

【注意!】以下、多数のネタバレが含まれます。
必ず観終わってからお読みください!

 


































 

 

 

 

 

【本編開始】

 

1.プロセスと「個」-The Process and Pieces-

※ここから語るのはあくまでも「分析」であり、考察ではありません。
「牧教授とは一体何者だったのか?」といったような本編ではグレーの要素に関して語るつもりはございませんので、ご了承ください。


さて。みなさん。
シン・ゴジラ、いかがでしたか?

事前情報だと某超B級映画バトルシップ辺りとよく比較されていて、「B級チックなんだろうな」と思っていました。

バトルシップ [Blu-ray]

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 事実それは遠くなくて、ラストバトルなんかは明らかに「超B級」要素が含まれていて、笑うしかないシーンなどもあります。


でもそれも含めて、やっぱり「計算づく」であって、映画そのもののパーツとしか思えないんですよ。
最終的に全てがつながってくる。
順に語っていきましょう。


僕は庵野的な描き方に詳しいわけではないのですが、映画冒頭からやっぱり何か露骨に癖のある現実の描写が繰り広げられていることがわかります。

ひとことで言って、ねちっこい。
ねちっこくて、矢継ぎ早。

「いや、そんなところテロップいらんでしょ!」ってところでもなんか妙にカッコいいテロップが表示され、説明される。
速すぎて読めねえよ!

矢継ぎ早にシーンも展開も切り替わりますが、同時に「人」も切り替わります。
たくさんの人物が登場しますが、……ぶっちゃけ、たくさん出過ぎて覚えられませんよね。
かろうじて主役(っぽい人)が誰か理解できるくらいです。
「あ、この人ヒーローっぽいこと言ってる!」

※以下、登場人物の画像はこのサイトより引用いたします

cinema.ne.jp


主人公、矢口。

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彼は理想に燃えるいわゆる「ヒーロー」の役割として描かれます。
そのおかげで、なんとなく政府上層部のグダグダ感、意思決定の遅さが……とっても悪い印象で僕らに伝わってくるんですよね。

矢口がいくら「正論」を言っても聞き入れない「上層部たち」。
これがこの国のやり方なわけです。

……が。

それって別に不自然なことじゃないんですよね。
っていうか、現実的に「巨大生物の可能性が」なんて、信じる役人がいたらその方がびっくりです。

この段階では「個々に行われる」会議の「グダグダ感」が妙に「リアルに」繰り返される。
ヒーローは異物です。
ここでは観客はニヤニヤしながらイライラするしかないわけですね。

ホンットに露骨でわかりやすいのが、初期形態のとてもキモいゴジラに発砲しようとするシーン。

「射撃許可」を求めるプロセスの、アホらしいほどの多重の面倒くささ。
こんなに射撃許可の多重性(テンポの悪さ)をしっかり、ねちっこく、めんどくさく、そして同時に……テンポよく描いた映画がかつてあったでしょうか?
もはや音楽的でさえあります。


このシーンは、ギャグでもあり、リアルでもある。
そりゃあ、実際に民間人がいて、市民がいたら……射撃許可は「あんな感じ」にはなっちゃうでしょうね……と。
なんとなく、そう納得させる「リアリティ」がある(実際に総理大臣がその許可を与えるのかはわかりませんが)。

もしかすると、あそこで射撃してたら……あの「キモい形態ゴジラ」には効いていた可能性がある。
……と。
この流れで考えてみても面白いのですが、あのシーンは
「意思決定一つにも恐ろしいほどの多数の『個別な』要素が絡んでいる」ということだけ覚えておけば良いと思います。

薄々気づかれていると思いますが、僕がこの映画で語りたいのは
「個」について
です。

ここで首をかしげられた方もいるかもしれません。
この映画は……どっちかというと、「集団の映画」というイメージが強い。
でも、その裏側にあるのは「個」なんです。

とりあえず、意志決定のグダグダから既に、物語の「最後のメッセージ」まで繋がっているんですよ。
後でじっくり語るので、覚えておいて下さい。

さて。
グダグダを繰り返しながら、「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」が発足されるところまで話は進みます。

ここで僕はグッときちゃった。
「うわあああああすっげえスムーズに切り替わった!」
……そう。巨災対が発足されると、映画は「政治劇主体」からごくごく違和感なく「ヒーローたちの活躍」へと切り替わります。

イライラの政治劇から、エンタメへ。


「テメーらどうせ出世無理だから自由にやれキモオタども!!!!(どんなセリフだったか正確に覚えてなくてすみません……)」的なセリフで一気に切り替わるわけですね。

まあ、ここで「エンタメ」へ流れてはいきますが、それでも政治劇が終わるわけではなく……むしろ悪化していくのですけれどね。
でも、この時点で僕は「ここからはヒーローたちの映画と政治劇がシームレスに繰り広げられていくんだ!」と解釈したので、その後の細かいアラが気にならなくなりました。

例えば……

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クオーターで超有能なカヨコさん。
……というかもう「石原さとみ」さん。

彼女の英語とか。
彼女が所属しているのがほぼほぼ100%「エンタメ」側の世界であると考えると、違和感はなくなります。

とまぁ、ここからはエンタメと政治劇が並行して進みます。
そして……

ふたつ目の戦いが、幕を開けるのです。

さて、この章では「積み重ねられていく『個』について」語りました。
矢継ぎ早なシーン、テロップによって、意思決定一つにも馬鹿みたいな数の『個』が積み重ねられている」ということがリアルに描かれている。
それだけ覚えていてくだされば問題ありません。

では次の章。
この映画が「何と戦っていたのか」という問題です。

2.第二の戦争 - The Second War -

……さて。
映画中盤から、戦いは「ゴジラとの戦い」だけではなくなることに気付いていましたでしょうか。

イムリミットとの戦い。
イムリミットを迎えると、どうなるか?

そう。
国連によって、核が落とされます。

全てを無に返す、圧倒的な「暴力」。
「一個の力」。
ゴジラとの戦いと並行して、この「力」との戦いが描かれているわけです。
ここからは、ゴジラとの戦いと並行した「第二の戦争」が始まっています……

……と、色々語ろうとしましたけど、やっぱりこの「第二の戦争」に関してはラストバトルに全ての文脈が含まれています。
その中で語ったほうが良い気がしました。

ってことでさっさと次章に進みましょう。

3.決戦 -The Last Battle-

最終決戦。
爆笑シーン、「無人在来線爆弾(流用)」も登場します。
インパクトが半端ない。

dic.pixiv.net

こんなん笑います。

B級映画ファンどもが僕に散々シン・ゴジラを勧めてきた理由の9割はこのシーンです。
……多分。

このシーンは初代ゴジラのオマージュとか色んな意味があるらしいですが……
僕は、少し違うものとして見ています。
っていうか、その解釈だとこの爆笑シーンが泣けてしまうのです。

後で語りましょう。

さて。
この「ラストバトル」。
気付きましたか?

全てが「個」によって形成されている……
まるで、アリの大群が牛を倒すかのように。
使えるものを、全て使って。
全て壊して。


このラストバトル、「ヤシオリ作戦」の流れは以下の通りです。

  1. 無人新幹線線爆弾で足止め
  2. 無人飛行機で消耗させる
  3. ビルで足止め
  4. 第一次注入
  5. 無人在来線爆弾(パワーワード)で足止め
  6. 第二次注入

最終的な目的、「凝固剤の注入」は、身も蓋もない言い方をすれば

・たくさんのストローをゴジラの口に突っ込んで薬を飲ませる

……それだけの、恐ろしいくらいに……「地味な」話です。
ちなみに、もしも核兵器が使われていたら?

  1. 核兵器爆発

……おしまい☆
一撃で終了でしょう。
東京ごと。

……さて。
何故わざわざ、この映画では決着方法がこんなに「地味」で無ければならなかったのでしょうか?
「経口投与」って聞いたら、ミサイルとかに薬を載せて口を狙う……とか、そういうのを想像しますよね?

でも、恐ろしく「地味」な絵面を選んだ。
プロセスはド派手ですが……結末は、ここまで「地味」。

考えてみてください。
核兵器は、国連という、世界という「集団」から生じる圧倒的な「個」の暴力です。
※ここでいう「核兵器」は劇中での「核兵器」です。

一方、ヤシオリ作戦では……徹底的までに「個」が反復されているんですよ。

新幹線が。
無人飛行機が。
ビルが。
山手線の電車が。
そして、自衛隊員たちが。

アリの群れのように、ゴジラに戦いを挑んでいる……。

ここまで映画を見ていた人たちならば、分かるようになっています。
この映画、序盤で「無能っぽい」と見せかけていた人たちも全て一人ひとりが「個」として、働いているんですよ。

例えば、総理代理。

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もう誰がどう見ても無能キャラで、何故か伸びたラーメン食べてますが(エヴァネタ?)、外交上大きな役割を担います。

途中で死んじゃう総理も、国民のことを本気で考えた結果、全ての行動が成り立っていたことが分かります。

一部の『シン・ゴジラ』批評で、この映画が「カリスマ(≒矢口)によって救われる、一人の指導者を求める映画だ」と批判されていましたが……

私の意見は、全くの真逆です。

その象徴が、このセリフ。

「次のリーダーがすぐに決まるのが強みだな」

このセリフは皮肉っぽく使われていますが、以下のセリフと組み合わせると、印象が変わる。

「礼は要りません。仕事ですから」

f:id:Mistclast:20160821171403j:plain

 一人ひとりの恐ろしく心強い「個」が、それでも……あくまでも……「集団」で、「仕事として」動く。

この考え方は極めて「日本的」であり、批判されやすい考え方でもあります。
でも、この映画ではそれを心底「理解した」上で、再構築したようにしか思えないのです。


国連軍が使いたくて仕方のない「核」は、
「集団(≒国際社会、国連)から生じた圧倒的な『一個の』暴力」です。

……「ヤシオリ作戦」で描かれているものは、真逆ではないでしょうか。
使える知力を、力を、全て使い果たして……アリのような「個」が、巨大な「力」に戦いを挑んでいる。

これは、個人主義でも集団の過剰な重視とも、また違う「第三の考え方」とも言えます。

一人ひとりが最強の「個」が、名前のついた「個」が、それでもあえて「集団として」……一人ひとりの「存在」を薄めながら……動いている。

さあ、ここからこの「分析」の結末です。

思い出してみてください。

パラパラと「流されていく」シーンが。
観客の頭からも忘れ去られる人の名前が。
地名が。
無用な会議が。
犠牲者が。
その全てが。

数本のストローへと、結実する。

知力・自衛隊員の命・人々の思い、あらゆる……「プロセス」を結実した、「ストロー」へと、思いを繋ぐ……。

本当に、「全てを」使いきっています。
高層ビルでさえ、新幹線でさえ利用する。
核という一個の「暴力」を拒絶し、使えるものは全て……全てを使い尽くす。

途中、ゴジラが活動を再開し、第一次注入隊が全滅する。

それでもなお、作戦は終わらない。

ここまでを踏まえて、伝説の爆笑名シーン、「無人在来線爆弾(流用)」を思い出してみてください。

ゴジラに比べると小さな……それでも数多の電車が、巨大なゴジラの身体をアリのように這い上がり、そして倒す。

そして……それだけ焼け野原じみた消耗を繰り返しても……それでも、人は「負けない」。
第一次注入隊の犠牲を払いながら、第二次注入隊の決死の作戦続行。

その結果が、誰一人喜ばない、勝利。
ハリウッド映画なら「FOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!」ってなっているシーン。

そんなシーンで聞こえるのは、全てを噛み締めるような、安堵の溜息……。

勝利のために、使い尽くした。
全ての資源を、使えるものを。
何もかも、使い尽くした。
これは勝利だったのか?何だったんだ?

誰もここに、ホントウの喜びはない。
なんかゴジラも立ってる。

でも。
喜びはないけれど。
それでも……!

ここで、物語を「理想の側面(≒矢口サイド、エンタメサイド)」と「現実の側面(政治サイド)」を「政治サイド」から接続する、独特な立ち位置で見つめていた「ある人物」が結論付けるのです。

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「この国はスクラップ&ビルドでのし上がってきた。今度もやり直せるさ」


これ聞いて、もう僕は涙が止まらなくなりました。

集団の偏重だとかなんだとか、色々批判される余地はあるでしょう。
それでも……この、ともすれば「無様で非効率な日本的やり方」が、ダメな部分を受け入れられながら……最後には新たなる形として結実されている。


地味でも。

使えるものを全て使って、無様に戦って、全てを使い尽くしても。
無様に負けたように見えても。
焼け野原になっても。


それでも、何度でもやり直せるさーー


なんという、地味でダサいメッセージだろう。
でも、それがあまりにも心に響いた。
何故なら、そのメッセージに、この映画が積み上げてきた全てが繋がっているのだから。

まとめます。

4.終わりに

僕は正直なところ、庵野にもゴジラにも思い入れはありません。
だからこそフラットに観た結果……「庵野的要素」や「ゴジラ的要素」を無視して分析していますので、一周回って深読みし過ぎの点もあるかもしれません。


まぁそれでも……やっぱり、無駄な程にねちっこく繰り返される「個々の『名付けられた(=テロップで示される)』」、シーン、人、場所、兵器、その全てが……

「無名」ではない、と。
そう語られているように思えてならないのです。

最強の集団は、最強の個で成立する。
集団に、名は必要ない。
それでも、名はある。

……といった、とにかく絶妙な集団と個の関係性が……個人主義」「集団主義」というような二元論に陥らず、描かれているように思えます。

この映画は日本を褒め称えるだけの映画?
いやいや、この映画は極めて丁寧にイデオロギーを排除していました。
原発問題なんかもほとんど絡めていない。
日本のやり方が必ずしも正しかったか?そういうことも言っていない。
改めて言えば、序盤の「発砲許可シーン」がなく、発砲していたならば犠牲者は半分以下になっていたかもしれません。

ただただ、主人公の理想が、「日本的なやり方」が、最後に至る場所……

何度でも、やり直せる。

この映画は、それを示しただけというのが僕の結論です。

僕はその結論に、何か熱いものが堪えきれず、涙した。

それだけで……十分なのです。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事で。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

 

 

 

Kindle Unlimitedは読書を変えるか

ども、こんにちは。
Mistirです。

実は私、重度の電子書籍ユーザーなのですが……

ch.nicovideo.jp

最近は紙の本に回帰していました。

上の記事で「電子書籍を使わない癖に『自分は紙派閥だ』という人が多い!けしからん!」と言っていますが……
比較した上で、紙派に傾いていました。

というのも、どんどん一冊の価値が低くなっていく感じがしていたのです。

物理的スペースが増えず、手軽なため、つい気楽に本を買ってしまいます。
そうこうしていると、「安いからとりあえず買っておこう」といったような発想が生まれてきます。
そうすると……変な話ですが、何を買ったかさえ忘れ、「ああ、そんな本も買ってたな!」という現象が多発するのです……

紙の本であれば目移りせず、一冊の手元にある本に集中できます。
結局のところどちらにもメリットがある。だけど、とりあえず今は紙が好きかも……

と、思っていた矢先に。

始まってしまいました。

Kindle Unlimitedが。

電子書籍界の大御所、Amazonが始めた、電子書籍読み放題サービス。
月々たったの1000円、初月無料。

この記事では所感と、「読書は変わるのか」という、少しだけ大きな枠組の話をしてみようと思います。

1.Kindle Unlimitedは契約の価値があるか

今のところ、「物凄くある」が僕の結論です。

例えば、一部でカルト的人気を誇る漫画、『ゆゆ式』……
なんと、7巻まで無料です。

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ゆゆ式 1巻

ゆゆ式 1巻

 

 もうちょいメジャーなトコロで言えば、デトロイト・メタル・シティ

全巻無料ですね……
あと、手塚治虫作品なんかも一部無料でした。

火の鳥 1

火の鳥 1

 

 
漫画はまあそれなりって印象です。
でも、マニアックなものが多くニヤニヤできます。

ビジネス書はそれよりも充実している印象。 
稀代の名著、『仕事は楽しいかね ?』が無料です。

仕事は楽しいかね?

仕事は楽しいかね?

 

また、雑誌がかなり充実していて、特に僕にとってはバイク雑誌が充実しまくってるのがとても嬉しい。

 

公開期限がないような印象を受けるけれど、詳細は分からない。
もしかしたら、急に消えてしまうかもしれないけれど……

Tarzan (ターザン) 2016年 8月11日号 No.700 [雑誌]

Tarzan (ターザン) 2016年 8月11日号 No.700 [雑誌]

 

ワンピースの映画とコラボしてて、描き下ろしイラストが多数載ってます。
ごく軽い筋トレをするゾロを見るだけで笑えるのでぜひお読み下さい。お前もっとハードトレーニングしてたやろ……


月980円なら余裕で元は取れそうです。

2.Kindle Unlimitedは読書スタイルを変えるか

断言しますが、一部の人に関してはめっちゃ「変わる」と思われます。

先程「電子書籍は一冊の価値を軽くする」と言いましたが……
その最も先鋭化した形を味わうことができます。

Kindle Unlimitedには一応10冊の縛りがあります。
これは「月に10冊しか無料で読めない」という意味ではなく、タブレット端末等に「キープ」できる本が10冊のみであるという意味です。
この仕様は必ずしもデメリットとは言いがたく、無駄に端末の中に本が増えストレージを圧迫することを防いでくれます。読みたくなったら一冊消してもう一冊ダウンロードすればいいわけです。
10冊平行して読まねばならない状況はあまりありそうにないですからね。

……と。
この仕様も相まって。

以下の様なスタイルが生まれます。

一冊読む!
はい消す!
次の本!
読む!
数十ページ読む!
面白くない!
削除!
はい次の本!!

……。
そう。一冊一冊の本の価値を極限まで低める代わりに、圧倒的な多読を重視する、これまでにはお金または時間が有り余っていなければ出来なかった超多読スタイル……

この「多読」スタイルには賛否両論あるでしょう。
ですが、作品を「味わう」ことよりも「摂取する」ことを重視したいビジネス書やビジネス雑誌の場合、このスタイルがもたらす恩恵は計り知れません。

あまりこの本の主張には賛同できないところもあるのですが……
それでも、タブレット一枚あれば好きなだけこのスタイルが実現できる世の中が来ちゃったんだな、と何か感慨深いものがあります。

このスタイル、紙の書籍でやろうとすると先程も述べましたけど、お金も時間もかかり過ぎるんですよ。
本屋で立ち読みして探すのはアリですし、図書館で探すのもアリですけど、どこから探せばいいかわからない。
本屋や図書館に「行って探す」だけでも十分物理的障壁です。
※もちろん、それこそが紙の本の「愉しみ」を形成しているものでもあるのですが、それはまた別の話で


でも、これからは

  1. ネットなどで(今後増えていくであろうKindle Unlimitedを扱った記事から)「どの本を読めばいいか」を調べ、
  2. その本のリンクをクリックして、即座にダウンロード

という流れが、自宅で、ものの数分、数秒でできちゃうわけです。


さらに、そこには「お金がかかる」という心理的・経済的障壁がない……
これは確実に、よくも悪くも読書生活を変えてくれます。

3.懸念点

どう控えめに考えても、これが主流になると「紙の本」はコレクターズ・アイテム的な要素を強めていきますよね。
今で言うトコロのCDです。
一枚のアルバムに3000円を払う人は少なくなった。
これは言い換えると、音楽にそれだけの(資本主義的)価値を見出す人が減った、とも言えます。

それって作者にとって本当にいいことなのか?
とは思いますが……
この辺りは長期的に経過を見守るしかなさそうですね……


ってことでとりあえず。
私は既にぐるぐると色んな本をループしています。

幕張 1 (highstone comic)

幕張 1 (highstone comic)

 

喧嘩商売で有名な木多康昭氏の『幕張』は全巻無料です。
よくもまあこんなモン、ジャンプに連載してたな……って思うくらいひどいです。 

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法

 

 「なんか超影響力がある人世界ランキング(正式名称は忘れました)」で選ばれたらしい近藤麻理恵さんの本です。
ある意味ありそうでなかった「感情論的片付け理論」を理路整然と語っています。

読んで部屋を片付けてミニマリストになろう(宣誓)。

ってことで初月無料ですし、試してみてはいかがでしょうか。

www.amazon.co.jp

 

お読みいただき、ありがとうございました。
ではまた次の記事で。

僕がTwitterを辞める理由

ども、こんにちは、Mistirです。

突然ですが、大変長らく続けてきたTwitterをやめることにしました。

今回、色々なことがあり

mistclast.hatenablog.com

非常に疲れた、と言うのは実際にあります。
自分の発言の大きさや、そこから生まれる義務感……それは、あまり僕の望んでいるものではなかった。

とはいえ、それは理由の一部に過ぎなくて、実は前から何度もTwitterは中断してたんですよ。

mistclast.hatenablog.com

mistclast.hatenablog.com

 ↑の記事に至ってはタイトルまで同じです。

でも、このときはアカウントを消していませんでした。
結局のところ、たくさん増えたフォロワーさんだとか繋がりを断ち切ることが怖かったんですね。
だから時折ふらーっと戻ってきてしまっていた。禁煙してる人が一本のタバコに手を伸ばして、そのまま続けてしまうように。

私はどうも距離のとり方が上手くないようで、適度な距離を保つのことができないのです。

さて。
今回の件で疲れたのもありますが、実は決定打になったのは一つの「ツイート」だった。

昔、僕はとても沢山の本を読んでいた。
もちろん本を読むことが面倒になったら読まないことも多かったけど、結局また本を読む生活に戻っていた。

でも、Twitterにハマりこんでるときは露骨に本を読んでいない気がしていた。
その理由が、このツイートで腑に落ちた。

皮肉なもんです。
Twitterを辞める最後のきっかけを、ツイートに教えられるとは。

有名な経営コンサルタント大前研一さんがこう言っています。

人間が変わる方法は3つしかない。
1つ目は時間配分を変えること。
2つ目は住む場所を変えること。
3つ目は付き合う人を変えること。
どれかひとつだけ選ぶとしたら、時間配分を変えることが最も効果的。

systemincome.com

この言葉には心底同意している。
……そういえば、ついでに言っていたような。
「心構えを変えることに、何の意味もない」と。

僕には、もっときっちり本を読んだり勉強する時間が必要だ。
そのために、やっぱりTwitterはちょっと「魅力的すぎる」気がする。

ブログ広報用としてアカウントを残すことも考えていたけど、やっぱり消すことにした。
岡本太郎も言っている。「人生は積み重ねるべきじゃない。すり減らすべきだ」と。

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)

 

一旦、大胆にすり減らそう。
多分そうしないと変われない。

ってことで、今後は言いたいことはブログで語ろうかな―と。
こちらまで辞める気はないので、今後感想などございましたら気楽にお願いしますね。
コメントが非常に多い場合返信が困難なことがありますが、基本的にはお返ししたいと考えておりますので。

ブログ広報用アカウント(誰もフォローしないやつ)はまた作るかもしれないので、そのときは改めてよろしくお願いします。

今後とも、どうぞ宜しくお願いします。
そしてTwitterの皆さん、一度さようなら。今までありがとう。 

ではまた次の記事で。
お読み頂き、ありがとうございました。

【追記】
初稿の内容から一部削っておりますが、考えなおして不要と判断したためです。
ご了承下さい。

 

金魚の放流は、何故あってはならなかったのか

こんにちは、Mistirです。

いつもはブログで語りたいことを語っているのですが、今回はちょっと事情が異なりまして……
結果的にですが、今回私が少なからず原因となり、大阪府泉佐野市が伝統的に続けている「あるイベント」が中止されることとなりました。

以下のような流れです。

  1. 私が7/15(金)に以下のようなツイート

    f:id:Mistclast:20160718135618p:plain

  2. 猛烈な勢いでTwitter上で拡散

    f:id:Mistclast:20160718135714p:plain

  3. 『ねとらぼ』等のニュースサイトやハム速などのまとめサイトでまとめられる

    nlab.itmedia.co.jp

    ※ハム速に関しては後でリンク貼ります。
    正直呆れました。

  4. 泉佐野市に問い合わせが殺到
  5. 泉佐野市が金魚放流イベントを中止し、金魚の配布に変更することをFacebookで報告

……という流れです。
このようなまとめもされており、

togetter.com

様々なトコロで問題にされていたようですが、一連の騒動に私のツイートが大きな影響を与えていたことは間違いないと思われます。

混乱を避けるために泉佐野市が中止を発表した時点で、私は関連する拡散されていたツイートを削除いたしました。
最初のツイートと合わせて、私は以下の様な指摘をしていました。

ごく単純化すると、
1.そもそも金魚は自然界で生きることを想定していないため、自然界に放しても餌にしかならず、虐待でしかない
2.人の手で育てたものがネズミであれ犬であれ金魚であれバッタであれ、自然に放った際の影響は計り知れない
主にこの二点が大問題。

今思うと、問題点の1と問題点の2には非常に大きな差があり、 問題点2の方が問題としては圧倒的に大きいため、このツイートは非常に混乱を招いてしまった気がします。

たくさんの批判がございました。
某大手掲示板では、Twitter民が正義感から暴走して伝統を終焉に追い込んだ」という旨でスレが建てられ、私のツイートも晒されていました。


この記事の目的は、
泉佐野市の金魚放流イベントは、なぜ問題なのか」を、極めて詳細に、誰にでも伝わるようにまとめることです。
また、私自身のツイート自体にもあった問題点や、たくさん寄せられた「疑問」や「批判」にも可能な限り答えることを目的としています。

泉佐野市の非常に賢明なご判断には感謝の極みですが、一方……
「ネットで声の大きな人が騒いだから行政が一つの伝統行事を中止した」
という構図のまま、この問題が収束してしまうことに非常に大きな危惧を抱いております。

私がネットクレーマーと呼ばれるならば、それはそれで構いません。
でも、この問題の「本質」は決してそんなところにはないのです。

結果的にとはいえ、一つの「伝統」を終わらせる引き金を引いたものとして、ここで可能な限り私の認識をお伝えすることが一つの責務であると考えています。
お付き合いいただければ幸いです。

……と。堅苦しく書きましたが……

ある程度気楽に読めるように書きたいと考えています。

ここからはやや砕けた形で書きますが、ご容赦下さい。

……と、その前に。
こちらの記事、

asay.hatenadiary.jp

非常に素晴らしくまとめられておりまして、私が語ることは何もないくらいです。

ここからの内容は上の記事と被る点も非常に多くあります。
ご容赦いただければ。

では、長くなりますがお付き合い下さい。

 

1.金魚の話

さっそく本題……!
とは行かず、まず「金魚って何なの?」っていう話をします。
……知っとるわい!
って言われてしまうかもしれませんが、案外実はコレが難しい。

金魚についてある程度知っていれば、この先の話は大幅に分かりやすくなります。
お約束します。
そのため、できることなら……読み飛ばさず、お願いしますね。

まず、そもそも……
金魚は、フナを改良して「創られた」、自然界に存在しないお魚です。

皆さんが金魚掬いでよく見かける「金魚」は、その中で最も改良元のフナに似ている「和金(ワキン)」と呼ばれる金魚です。

f:id:Mistclast:20160719191208j:plain

※画像は基本的にwikipediaより引用しています

で、フナがこちら。

f:id:Mistclast:20160719191258j:plain

そっくりですよね?

で、金魚掬いですくった金魚を持って帰って、
「俺、和金飼ってるんだ〜」って金魚好きの友達に言ったらダメです。
金魚好きの友達、混乱します。

……というのも、金魚掬いでよくみかける先程の写真の金魚は、「小赤」と呼ばれてホームセンターやペットショップで一匹20円ほどで大安売りされています。

ぶっちゃけ、ペット用というよりも、アロワナみたいな大型魚観賞魚のエサなんです。

「和金」と明確に呼ばれるのは、このようなキレイな柄、特徴的な三尾の尻尾を持ったものに限られることが多いです。

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※引用元

petomo.net


この「小赤」と呼ばれる金魚は、金魚の中では比較的「強い」金魚です。
一方、皆さんがよくご存知、色々なトコロでイラストとして見たことがあるこんな金魚……

f:id:Mistclast:20160719192135j:plain

琉金(リュウキン)」と呼ばれる金魚ですが、こいつらと比べると小赤は強いです。
一緒に泳がせると、「小赤」の運動能力が高くて、エサを取れなくて弱ったりしちゃいます。

とはいえ、金魚は全体的に「強い魚」ではありません。
こんな真っ赤な生物が自然界にいたら……それこそ、良いエサですよね。
ましてリュウキンのようなずんぐりむっくりの金魚ならなおさらで、逃げることもままならず大きな魚のエサになってしまったり、流れに流されていってしまったり……

要するに、金魚は「ペット専用(エサ専用)」のお魚なんですね。

動物で言えば、ブルドッグなんかに近い。

ブルドッグ - Wikipedia

この時点で「放流」という言葉とは非常に縁遠いお魚であることがお分かり頂けたでしょうか。
……さて、ここまでお付き合い下さりありがとうございました。ここまでの知識があれば、この先のお話が少々しやすくなります。

では、本題に入りましょう。

2.私のツイートと、金魚の放流が「何故いけなかったのか」という話

 さて、私のツイートに戻りましょう。

ごく単純化すると、
1.そもそも金魚は自然界で生きることを想定していないため、自然界に放しても餌にしかならず、虐待でしかない
2.人の手で育てたものがネズミであれ犬であれ金魚であれバッタであれ、自然に放った際の影響は計り知れない
主にこの二点が大問題。

このツイートも非常に多くの方に共有され、問題の中心点となってしまったように思います。

さて、まずは1から。
有名なニュースサイト、ねとらぼのタイトルにもなってしまいました。
nlab.itmedia.co.jpコレを見たとき、私は正直「しまった!!」と思いました。
ツイートをした後既に「問い合わせるならば『問題1はまあ良いとしても、2はどうなんですか?』という論旨で問い合わせよう」と決めていましたが、時既に遅し……


先程言いましたとおり、「順番が逆」でした。
問題の2と1は天と地ほどの隔たりがあります。
1はあくまでも感情的な問題、2はもっと大きな枠組みでの問題です。
ゆっくりと考えていきましょう。

問題1は、問題2とは比較にならないほど小さな問題とはいえ、気持ちの良いものではありません。
説明したとおり、金魚は野生に存在する魚ではありません。
つまり、川なんかに流したら……あとはエサになるのを待つか、流され死を待つだけです。

発端となっていた画像

f:id:Mistclast:20160719193638j:plain

を見る限り、おそらく人の手に捕まえられずに残留するor流される金魚も多々発生していたことと思われます。

私がこの問題を1番に上げてしまったのは、なまじっか私が「金魚好き」であって「金魚を野に放すなんてとんでもない!」という考え方が身に沁みついてしまっていたからでもありました。
その理由に関しては、先程ご説明したとおりです。

そのため、以下の様な疑問(批判)を多く投げかけられました。

Q.じゃあ金魚掬いはどうなんですか?虐待じゃないんですか?

この疑問は非常にまっとうな疑問だと思います。
昔、私も「金魚掬いは虐待じゃないのか?」と思ったことはありました。
ただ、上にあるように……金魚掬いの中心となる金魚、「小赤」は……
そもそも、エサ用なんですね。
ということで、「エサ用になっている金魚が、夏になると変わった経路で家庭に運ばれる」っていうイメージがありまして……
要は個人的に「虐待じゃない」って結論になっちゃってたんです。ナチュラルに。

「じゃあエサ用ならば野に放したら救済になるんじゃないか?」と言われたら、私には反論ができません。
※いや虐待だろう、と思うことは思うのですが、それはペットとして水槽で飼うことが虐待ではないのかという問題に繋がり、滅茶苦茶難解な問題です。
結局のところ、1はある程度感覚的な問題でしかないんですね。

例えば、ペットショップで買った犬を殺す。
これは問答無用の「犯罪行為」ですが、金魚を買って殺そうが「犯罪行為」にはなりません。
結局のところ、人間の感覚として「そんな残酷なことは問題だ!」という形でしか問題にしかならないのです。

「金魚掬いは伝統だからOK、金魚放流はNG」というのは、「金魚の虐待」という観点で切り込むには少々分が悪い気はしています。
まぁこの件は「自然界で育つ前提にないものを自然界に放つのは虐待か?」に対して、その人がどういった印象を持っているかでイメージが大きく異なるものなのかもしれません。

この件に関しては「1番目の問題に持ってきた私に落ち度がある」という事実で終わりにさせてください。
歯切れが悪く、申し訳ございません。


私が「もっと大きな枠組の問題」と考えている2番の問題に入りましょう。
こちらがこの記事のメインになります。

2.人の手で育てたものがネズミであれ犬であれ金魚であれバッタであれ、自然に放った際の影響は計り知れない

どうやら、この「計り知れない」という言葉の認識レベルに、大きな隔たりがあるようでした。

言葉通り、本当に「計り知れない」んです。

有名なところだと、
ブラックバスが日本固有種の魚を食い潰して、生態系が大きく変化した」という辺りが有名な話ですよね。

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この問題が非常にイメージしやすいのは
「日本に元々いた魚が食べられて、絶滅する!」
という、非常にわかりやすい構図があるからです。

多分、誰でも「日本固有の魚がアメリカの強い魚に食べられて絶滅する!」ってなると、それが「マズい」ってのは薄々感じられると思います。

他にもわかりやすいのは「ハブとマングースの件でしょうか。

マングース、ハブ退治裏目に

↑のページが詳しいですが、ハブを退治するために連れてこられたマングース……
それが、沖縄の固有種を食べまくってるわけですね。
ハブ食べずに。
そりゃそうですよね……怖い蛇となんか派手な鳥の肉だったら鳥の肉食べたいですよね。
こんなこともわからなかったのか!昔の人!
……と言いたいトコロですが、後の祭りです。

さて、ここまでは「固有種を食い潰す」の話をしましたが、他にもわかりやすいのが
「農作物への食害」です。

非常にわかりやすいのが、アライグマですね。

アライグマ - Wikipedia

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ラス◯ル!!!
可愛い!!

……でも、やっぱり畑の農作物を食べることにより農家の方々に影響を与えているわけです。

……。

……さて。
ここまで。
「わかりやすい例」をご紹介いたしました。

あくまでも、「わかりやすい例」です。

ここで、以下の様な疑問を持たれた方もいるかもしれません。

Q1.金魚みたいな魚は別に問題ないでしょ

Q2.超温和な生き物ならいくら逃がしても大丈夫だね!

 ……これが、全然良くないんですね。

ここまでに例として挙げたものは、あくまでも比較的「短期的な」デメリットが目立つものです。
「固有の種類を食べちゃう、ヤバイ!」
それは非常にわかりやすい一方、「その地域にもともといない生物をその地に放つ」ことの本当の恐ろしさを覆い隠すものでもあります。

この点はいわゆる「生物好き」と「そうではない人たち」の温度差が非常に大きく出るものなんですね。

これを見て目を疑うかどうか。
そこには大きな差が存在する。
でも、知らなければ、知ればいいだけです。
それだけの話なので、この件もゆっくり考えていきましょう。


例えば、以下の様な事例があります。
論文です。

日本の港周辺における遺伝子組換えナタネの野生化と環境への影響 Masaharu Kawata(河田昌東) http://www.ensser.org/uploads/media/2.2-Kawata-JP.pdf

当たり前ですが、遺伝子組み換えナタネは「強い」ですよね。
【追記】
遺伝子組み換えの農薬耐性のあるナタネでも「強い」とは限らないそうです。ただたまたま「混在してしまった」ことが問題の根源であると。訂正いたします。
【追記ここまで】
このナタネが、もともと存在していた日本固有のナタネの居場所を奪ってしまう。

他にも

京都市:第1回 外来種中国産オオサンショウウオ対策検討会の概要

京都を中心として、外来産オオサンショウウオと在来種のオオサンショウウオの交雑について問題にされ、調査されています。

ここで以下のような疑問を抱かれた方がいらっしゃるかもしれません。

Q.別にオオサンショウウオって絶滅危惧種が交尾して増えるなら、良いことなのでは?

例えば、「国産」オオサンショウウオが何代にも渡って「中国産」オオサンショウウオと交わり続けたとします。
さて、「国産」オオサンショウウオはどうなるでしょう。

はっきり言います。
絶滅です。
消え去るんです。
この世から、永遠に失われます。

その点においては「外来種から食べられることにより」消滅することと、何ら変わりがないんですね。

※以下、ほんのちょっとだけ高度な話

Q.でも、トキって中国産のトキと交雑したよね?

はい、その通りです。
……が、これはいわば「抜き差しならない状況で、人間が意図的に生態系に介入した」一例なんですよ。
いい機会なのでこのまま語ってしまうと、たまにあった

Q.金魚の放流に文句は言うのに蛍の放流や鮎の放流には文句は言わないのか!

という問いには、同じ解答が出来ます。
抜き差しならないかどうかは別として、蛍の放流は「減った蛍を(観光資源としてorその他の目的として)補充する」という、いわば「積極的な生態系への介入」なんですね。
また、鮎の放流も同じ。「経済活動を目的とした積極的な生態系への介入」です。
この話は難しいので、後で丁寧に触れますね。

……さて、話を戻しましょう。

「この世から永遠に失われる」。
この時点で「ヤバイ!」って思われる方がほとんどなのですが、たまにこういうことを言う人もいます。

Q.それの何が問題なの?弱肉強食だし、そもそも人間が外来種(大陸から渡ってきた)だし、どうせ滅びるんだから守ったトコロでメリットないんじゃない?

白状しましょう。
僕も、一時期コレに似た考え方を持っていたことがあります。
でも、この理屈に関しては2つの観点から反論できるんですよ。

1.リアルな「人間の問題として」の観点
多分上のような疑問を抱かれる方は「理屈派」な方が多いと思います。
なので、「理屈として」「実際的に」何がマズイかのお話をしましょう。

さて、「生態系」というものは本当に不思議なもので、絶妙なバランスの上に成り立っています。
その中には「お前何か間違ってるだろ!!!」という生物がたくさんいるんですね。
例えば、初めて聞いた時笑っちゃったこのウミヘビ。

クロッカーウミヘビ - Wikipedia

食性は動物食で、ハゼのみを食べる。
分布が極めて限定的でハゼ1種のみを食べることから、環境の変化による絶滅が懸念されている。

……お前、バカなのか!?
そう言いたくなっちゃいますね。

そう、世の中には「ハゼしか食べない」ような生き物がいて、そのような「人間の想像もつかないような食生活を基盤とした」生物が、絶妙なバランスを取って生きているわけです。

少しだけ、想像してみましょう。
このクロッカーウミヘビが絶滅したら……海はハゼまみれになってしまうかもしれませんよね。
そして、ハゼという奴らはなんでも食べるお魚です。
ここである事実が判明します。
クロッカーウミヘビの生息するソロモン諸島は……なんと、ウナギの稚魚の産地だったのです!

こうしてウナギもクロッカーウミヘビの絶滅後まもなく絶滅し、我々の食卓に登ることは永遠になくなり、我々はアナゴを食べるしかなくなりました。
そしてアナゴもまた、日本人のアホな漁獲によって絶滅したのです……

と。
このように妄想トーク(全てフィクションです)をしてみましたが……何が言いたいって、「ホントに何が起こるか分からない」んですよ。生態系へ介入することで、めぐりめぐってどんな影響があるか本当にわからない。

私の妄想に現実味がなければ、以下の記事を読んでみてください。
サンゴが「絶滅」することでどれだけの損失が生まれるか計算されています。

www.from-ishigaki.jp

誰も「生活排水が海に流れ込む」→「サンゴをエサにするオニヒトデが大量発生」なんて、想像つかなかったハズです。

以下の様な疑問(批判)が非常に多かったのですが、

Q.批判するならデータを出せ。統計を取れ。

この批判に関しては、最初に引用させていただいた素晴らしい記事で、ズバリ解答があります。

asay.hatenadiary.jp

→検証の主体が逆です。本来は、放流する側が、調査結果や有識者への相談などの根拠を揃えて「影響がないと思われる」と検証しなければなりません。また「金魚の放流」という点で既に悪影響は容易に予測されるため、なお放流しようと思うのであれば、これら指摘に対して答えるべきでしょう。

素晴らしく明確な解答です。
……が、別方向から少々語らせて下さい。

この批判……つまり、「データを出せ」という類の批判に関しては、「生態系」に関しては的外れと考えています。
ここで言うデータとは「ある地域である種が帰化して、在来種に影響している」といった、生物学者の方々が様々な調査で残した大きな「データ」ではなく、「このイベントがどれだけその生態系に影響を与えたのか」という狭い枠組みでの「データ」です。
で、そのような狭い意味合いでの「データ」は……
「出てから動くのでは、遅い」んです。
もう忘れている方もいらっしゃるかもしれませんが(私も忘れかけていました)、そもそもこの記事は「金魚を放流すると何が起こるか」という話でした。

Q.データとしては育てられた金魚に病原菌も無いことは明らか、それに食われてすぐ死んじゃうんでしょ?

生態系とは、カオス(渾沌)です。
そのカオスの中に新たなる生物を投げ込むことは、どのような形であれ、「リスク」です。

とりわけ金魚の場合ですと、
1.もともと存在していたフナと交雑する恐れがある
2.「たまたま」生き延びちゃって、そこで繁殖しちゃう可能性がある
この二点が大きい。

1の場合、地域固有のフナの遺伝子が汚される恐れが。
2の場合は既存の生物がエサにしていたものを食いつぶしてしまったり、それこそダイナミックに巨大金魚が在来の小魚を食べてしまう可能性があります(金魚は雑食です)。

Q.お前、金魚は野に放してもすぐ死ぬ言うてたやん!!!

ごもっとも。
でも、「いろいろな要素が重なり」、生き延びてしまう可能性は十分にありえます。
とりわけ……
そう、こいつ。

f:id:Mistclast:20160719204907j:plain


「小赤」。大きくなると「姉金」と呼ばれるこいつは……金魚の中でも「最強」のこいつは。
実際、オーストラリアの公園で繁殖しています!

karapaia.livedoor.biz

巨大化した金魚や鯉は、オーストラリアの固有種マーレーコッドやピグミーパーチなどを襲うようになった。 

コレ以上の「データ」は必要ないでしょう。
固有種を襲い始めてからでは、遅いのです。
それからは対策の取りようがないんです。

生態系は、壊すのは一瞬、修復には本当に手間がかかります。

Q.え?でも40年間続いて大丈夫だったわけでしょ?それが大丈夫っていう証拠でしょ

生態系は、ホメオスタシス(恒常性)という性質があり、一定に自分自身を保とうとしています。高校の知識ですね。
……でも、「保とうとしている」ということは……?

そう、ゆっくりと変化しているものなんですね。

当然の話です。
20世紀の河川と21世紀の河川は、全くの別物です。

10年間影響のなかった行為が、11年目に影響が出てしまうかもしれない。

 Q.なんだ、このブログ書いてる人も20世紀と21世紀で『生態系は変わってる』て認めてるじゃん。じゃあ金魚が繁殖しようがいいよね?

私の立場の問題ですが、このグローバル化時代、「変わってしまうものは、仕方ない」と考えています。
現実的に、人間が「生態系破壊」という「毒」を撒き散らすことは避けられないことかもしれません。
でも、「だから幾らでも毒を撒き散らしていいよね!」という話になるでしょうか?
今回の問題の核心はここにあると考えています。

さて、一点目の解答、
1.リアルな「人間の問題として」の観点
に関しては語り尽くした感がありますが、最後に一点だけ。

Q.40年間続いたイベントなら、生態系は再構築されてるんじゃない?ここで金魚放流をやめることで「生態系に逆に影響」するんじゃないの?

正直、考えたことのない発想だったので戸惑いました。
本来自然にいないものを放流し続けた結果生まれたものが、固定した健全な「生態系」となると、そう解釈する発想がありませんでした。
なので、ツイッター上で力をお借りしました。

 すると、非常に納得の行く解答を頂けましたので、そのまま引用いたします。

まず「生態系が安定している」という根拠はあるのか疑問です。生態系の安定の定義も曖昧だと感じます。放流後に安定しているように見えたとしても、金魚が元の生態系に入り込んでいるとしたら、その時点で生態系は改変されたと言えますし、金魚は何かしらの生物のニッチに介入したはずです。安定しているように見えるなら、金魚は侵略的な外来種とは言えないにしても、生態系を改変したわけですから、対策は必要なのではないでしょうか。

最も納得の行く解答でした。
私が語ることは無いくらいなので、次の話題に進みたいと思います。


2.そもそも、「人間の実利」として問題を捉えるだけで良いのか?という観点

とんでもなく長くなりましたが、私が話題にしているのは、以下の疑問に対する解答です。

Q.それ(生き物の絶滅)の何が問題なの?弱肉強食だし、そもそも人間が外来種(大陸から渡ってきた)だし、どうせ滅びるんだから守ったトコロでメリットないんじゃない? 

ここまでは「人間にとって」どれだけヤバイか、という観点から語りました。
でも、そこまで「人間のメリット」だけを考えることそのものに私としては「メリット」が見いだせないのです。
文化を守ること。
伝統を守ること。
自然を守ること。
これは、もちろん「メリット」として捉えることもできます。
言語化することも出来ます。
「この伝統が潰えることによって、職を失う人が……」
でも、本質はそこにあるのでしょうか。

私は、そこに本質は無いと考えています。

結局のところ、そういった「大きなモノ」を守ることには、言葉では表せない何かがあるのです。

Q.でもお前のツイートで伝統が消えたよな?

そうかもしれません。
でも、「伝統を守る」ということは、「何があっても変えない」ことではないはずです。
生態系への関心が増し、環境問題に関して僕らが繊細であることを求められる21世紀に、「金魚の放流」というイベントはたくさんの問題を抱えていました。
あたかも前向きな印象をあたえる「放流」という言葉ですが、決して前向きな印象を持ってはならない行為です。「金魚を野に放つ」ことに大義名分は、何一つありません。
「子供たちに自然と金魚に触れる機会を与えられる」伝統の骨子は、必ず守り抜けると考えています。
※ここまでのことをした私が偉そうに何を言えるのか、という問題は保留させて下さい

一方、生態系にも全く同じことが言えます。
「生態系を守る」ということは「生態系を一切変えない」と同義ではありません。
だからこそホントウの意味合いでの「放流」がある。先程も述べましたように「鮎の放流」は、人間にとって都合の良い生態系に近づかせるための積極的な生態系への介入です。
鮎の放流と言うと良い印象がありますが、実はコレも「手放しで褒められる」ことではありません。
あくまでも「自然の一部を『間借りして』介入『させていただいてる』」わけです。
僕らに必要なのは、その意識です。

変えさせて、頂いている。

そこを忘れた時に……忘れた頃に、しっぺ返しを食らうのが、僕ら自身ってことです。

ガラパゴス諸島の悲劇が分かりやすいですね。

gucchoi.com

もっと分かりやすいのが、まさに日本のトキでしょうか。

kids.gakken.co.jp

しっぺ返しとして、僕たちはもうホントウの、日本だけの「朱鷺色」を見られなくなってしまったわけです。

でも、今の僕らにはこんなこともわからなかったのか!昔の人!」と言われないために身に付けた、知識がある。知恵がある。
そういった知識も知恵も、フル活用することは難しい。
僕らにできるのは「いつか痛い目に会うかもしれないのだ」という認識だけかもしれない。
それは本当に……大事なことなのです。
そんな、ほんのわずかなことが。

3.まとめにかえて

hamusoku.com

コレを読んだとき、正直、ショックでした。
ああ、このような認識の人も多いのか、と。

多くは語る必要はないでしょう。

同時に、怖かった。
自分のツイートにしても、この『ハム速』というサイトにしても……ここまでの影響を及ぼしてしまうものなのか、と。

この件もふまえて、私のツイートの反省点を。

最初に述べましたとおり、「金魚の虐待」を1番目の問題に挙げた私のツイートはたくさんの方に誤解を与えてしまったと思います。
そして同時に、最初に写真を見た時に「コレは問題だ!」と思ってツイートしたわけですが、もしかすると「非常に区切られた区画で限定的に、かつ生態系へ影響が無いように極めて細かい配慮で行っていた」可能性もあったわけです。

一方、最初のツイートが完全に「間違っていた」と思ってしまうことは、大きな決断をしてくださった泉佐野市に対して失礼だと考えています。
なので、私なりの「釈明」としてこの非常に長い記事を書きました。
釈明になっていないかもしれません。
が、今の私には私の行為が正しかったのかどうか判断がつかないのです。
このブログは、そのような自分の態度への「けじめ」です。

長くなりましたが、改めまして、泉佐野市の皆さんに大いなる感謝をいたします。
ありがとうございました。
また、ここまで長い記事をお読みいただいた皆さん、たくさんの情報をくださったフォロワーの皆さんにも感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。

また、この記事はあくまでも専門家ではない、一人の魚好きが書いた記事です。
誤りが多数あるかもしれません。その場合は修正いたしますので、ご一報を。

重ね重ね、お読み頂きありがとうございました。

【追記】
再開されましたね。
問題点は上手くメディアでは報道されていなかったように感じます。今は非常に多く思うことがありますが……もう語りきったはずなので私は黙します。

 

僕らの自由は理解されないけれどーー何度でも、これからの「自由」の話をしよう

こんにちは、Mistirです。

久々にがっつり語ります。
今回のテーマは「自由」の話。

時折思っていた。
「会社の上の世代の人たちと、会話が噛み合わない」
同じことについて話してるのに、同じような仕事のことについて話してるのに、何かがすれ違う。上の世代の人たちのアドバイスが、正しいことを言っているのは非常によく分かるんだけど、何かが噛み合っていない……。
わかるのに、わからない。そういった不思議な感覚。
将来の展望だとかそういうことに関して、他人のどんな言葉も腑に落ちない。


そういった現象に関して、自分の中で「急に」整理がつきました。そのことについてお話したいと思います。

実は、過去に「自由」をテーマにがっつり語ったことがある。そしてニコ動の上の黒い部分に流れて読者さんの数が凄く増えたことがある。
でも今回はその記事とは全くの別方向からアプローチしてみようと思う。
気になる人は読んでみてね。要は「どこにもユートピアは存在しないと気付いて途方にくれた瞬間、自由が始まる」っていう話です。長いので暇な時にでも。

「ネトウヨ」の消失――これからの「自由」の話をしよう:MistiRoom - ブロマガ

……さて。
今回語りたい自由についての「仮説」を、先に言ってしまおう。

「ある時期から(あるいはある世代から/ ある時代から)、自由とは『◯◯をする自由』として語られるものじゃなく、『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになってしまったのではないか?」

この記事は、この仮説が全てです。
この仮説に対する僕の態度は述べますが、現実的な「解答」は述べません(述べられません)。

ここからはこの仮説について、ひたすらに長く語ります。
本当に、長く。
で、長く語って、長く語って、大事なことは全て後で話します
多分全部話してからじゃないと、その「大事なこと」が伝わらないと思いますので。

最後までお読みいただければ幸いです。
気楽に読めるような記事にしますので、カフェオレでも用意してゆっくり読んでくださいね。
じゃ、語ります。

1.この仮説に至った理由

この仮説について根拠を語る前に、この仮説に至るまでの経緯をお話します。

最近、私バイクに乗りまくってるんですよ。
「自由の象徴」ですね。
……とはいうものの。別に自由を謳歌しようと思ったわけではなく、なんとなく目に留まったバイク雑誌を見て、思い立って免許を取ってしまった、という程度の話です。
※「自由」という言葉の厳密な意味については、後でお話します。

バイクの免許に関してはこちらの記事をお読み下さい。

mistclast.hatenablog.com

さて。
バイクに乗って山梨に行ったり栃木にいったり伊豆半島一周したり、納車2ヶ月にして5000キロも走ったわけですが……

バイクに乗って旅をしていると、物凄くいろんなことを考えます。

例えば伊豆半島の中心付近とか、群馬の西側とか、もう物凄く「ド田舎」なんですよね。
家はあるんだけど、人はたまにしか見かけない。
夕方に走ってると割と本気で「俺異世界に紛れ込んだ!?」と怖くなったりします。

普段僕は埼玉を拠点に首都圏で働いているのですが、伊豆半島なんかに行くと「やべえ本気でこの静かな場所に移住したい」と思ったり、同時に……
「ちょっと待って、このレベルに人が少ない地方でも……家を建てられる程度のお金が動いてるのか?」
「それとも、この家々は過去の遺産?」
「実際にここに住んだ場合、浮上する問題ってなんなんだろう?」
とか、あらゆることを考えます。

一度山道を走ってるとき
「この山道はこんな静かなのに、僕は何故都会の喧騒の中で働いてるんだろ」と何やらよく分からないことを思って泣きそうになったこともありますが……まぁそれは別として。

そうやって走っては考え、走っては考えしているのですが、途中で気付きました。


全然自由じゃないな、と。

たまたま遠くに行く力を手に入れたわけですが、別に「自由」を謳歌している気はしない。
むしろ「休日を待ちわびて、休日になったらいそいそと限られた時間を必死で使って遠くに向かう」自分のことを考えると、働いてることの不自由さが浮き彫りになってくる。
予め言っておくと、仕事が嫌なわけじゃないし、今は残業もしてなくて、気楽にやらせてもらってるから仕事場の人たちには感謝している。
そういう話をすると「何が不満なんだ?」と色んな人に言われます。確かに、不満はない……けれど。
おっと話がそれました。

さて、バイクの話。
バイクは昔から自由の象徴だったわけだけど、同時に(逆説的に)「不自由」の象徴でもあった。

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非常に有名なこの映画。
自由を追うライダーの主人公は、自由であるがゆえに迫害される。

この映画に関する詳しい説明は避けるけれど、この映画でテーマにされているのは「アメリカで当時歌われていた『自由』は本当の『自由』だったのか?」というテーマだ。
共同体が掲げる「自由」と、個人が追いかけた「自由」の差異。
奥田民生の『イージュー☆ライダー』は名曲だけど、『イージー☆ライダー』とはある意味対極の作品かもしれない。

www.youtube.com

 『イージー☆ライダー』の解説については他のブログに任せるとして、僕にとっての「自由」の話に戻ろう。

本当の「自由」ってなんだろう?
そんなことを考えても無駄かもしれない。
でも、僕はどうも他人より「自由」に対して粘着質にこだわっているようだ。
それは家庭環境のせいなのか、他の何のせいなのか分からない。
だけど、とにかく「自由」になりたい……と。

そこまで考えて、色々なことが急に繋がった。

「何故僕(あるいは「僕ら」)の言ってることは上の世代の人たちに伝わらないのか?」
「何故上の人たちと、僕がやりたいと思っていることに乖離があるのか?」
「そもそも、僕がやりたいことってなんだ?」
「自分のやりたいことが分からない……」

全てを横断して説明してくれる仮説が、上の仮説だ。

「ある時期から(あるいはある世代から/ ある時代から)、自由とは『◯◯をする自由』として語られるものじゃなく、『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになってしまったのではないか?」

上にスクロールするの面倒だと思いますので、何度も繰り返します。

さて、この記事の論旨に薄々予想がついて来た方もいらっしゃるかもしれません。
このまま最後まで突っ切りますが、ご容赦下さい。

2.仮説の地盤

この仮説について語るために、この仮説を「立証」しなければならない。
だけど、あらかじめ言ってしまうと「立証」するつもりはない……というか、できません。
ここで言う「立証」は「あらゆる文献を探して、統計を取って、客観的に確かだと言える領域まで持っていくこと」です。

この仮説は僕の主観的な印象を基盤にしたものだから、徹底的に印象を基盤に話してもいいと思ってます。ブログだし。
……でも、それじゃあ流石に誰も納得出来ないでしょうし、ある程度の「地盤」程度は語りたい。あまり確固としたものは書けませんが、この仮説について基礎の部分を固めていきたいと思います。
※とはいえ、最後は感覚的な話になるのですがそこはご容赦いただければ。

まずは前提として、
「世代に関わらず、ヒトは自由を求めている」
と考えて下さい。その共通認識が無ければ、ここから読み進めるのキツイと思います。
例えば、「結婚して幸せな家庭を築きたい」という人がいたとします。
それには「結婚するだけの自由なお金と、自由に相手を選べる環境」が必要です。
前提として「あらゆるものに自由は関わっている」という認識で読み進めていただきたいです。

さて、何度も繰り返してますこの仮説
「ある時期から(あるいはある世代から/ ある時代から)、自由とは『◯◯をする自由』として語られるものじゃなく、『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになってしまったのではないか?」
は、前半と後半に分かれています。

1.ある時代の人にとって、自由とは『◯◯をする自由』として語ることができていた。
2.ある時代から(あるいは少なくとも「僕ら」の時代は)自由とは『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになった

この2つです。
まずは前半から

1.ある時代の人にとって、自由とは『◯◯をする自由』として語ることができていた。

……と言いたいことだけど、実はこっちは滅茶苦茶語りにくい。
というのも後半の

2.ある時代から(あるいは少なくとも「僕ら」の時代は)自由とは『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになった
が圧倒的に語りやすくて、それを前提に「その対極」として前半を語ったほうが楽なのです。
ということで後半から語ります。

 
さて、何度か
僕ら」 
というワードを強調していますが、このワードには明確な意図があります。

ここでいう「僕ら」は 
「ゆとり(さとり)世代、あるいはその前後の世代」
と考えてください。 

読者の方にその世代と大幅にズレてる方がいらっしゃったら……申し訳ないですが、そう変換してお読み下さい。

「この世代に該当する人は例外なくみんな同じ思想を持っている」って言いたいわけじゃないので、そこらへんも認識いただければ幸いです。
極論、同意できる人に同意していただければそれで十分と考えています(反対意見ももちろんお待ちしています)。

本題に入ります。

思うに「僕ら」の世代は、
「お金によって自由を得ること」
を、根本的に「信じていない」。というか、想像することができないしもっと言えばバカバカしい錯覚だと思っているんじゃないか。
そして、この感覚こそが上の世代との決定的な隔たりなのではないか。

多分、20代の誰も「30代で家族を持って、家を買って……」みたいなかつての「普通」を「普通」だと「思うことすらできない」し、ついでに言えば「憧れすらしない」のではないか。

blog.livedoor.jp

さて、その根拠……というか、地盤になるものを少しずつ並べていこう。

近年、「ミニマリスト」という言葉をよく見かけるようになった。
「持たないこと」を是とする生き方のことだ。
最小限の持ち物で「自由」を追い求めていくという生き方。

で、そういった人たちの出版する本が次々に話題になっている。

20代で隠居 週休5日の快適生活

20代で隠居 週休5日の快適生活

 

 

持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない

持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない

 

こういった本が話題になり始めたのはそう昔のことではない気がする。
僕は後者の本は読んだんだけど、妙に共感できる内容だった。

この「ミニマリスト」の中高年版というか、「お金のある人版」が「田舎への移住」だったり「スローライフ」だったりするわけだけど、そういった風潮に対して精神科医の斎藤環は『生き延びるためのラカン』で、「全ての欲望は他者に起因する創りだされた欲望である」という文脈の中で、こう指摘する。

たとえば、いま中高年を中心に盛り上がってる「ロハス」や「スローライフ」って言葉があるね。あれ、どう思う?あれは要するに、引き算文化だ。あれもこれもと貪欲に頑張る人生をちょっと降りて、環境に配慮しつつ地域に根ざした、身の丈にあった生活を楽しみましょう、ということだよね。僕なんかすぐ「じゃ、これからはニート・いきこもりLOHAS組ってことで!!」とか提案したくなるけど(実は本気です)、まあ世間は許さないわな。なぜなら引き算部文化は、さんざん足し算をしてくたびれきった勝ち組のみなさんだけが、最後に辿り着く憩いの地なんだから。でもああいう、あえて欲望を抑制する文化も、僕員は「満たされない欲望を持ちたい欲望」の産物に見えるんだけどなぁ。

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

 

見事な分析だけど、この本の初出は2006年。
当時は「ミニマリスト」という言葉は流行っていなかった……と思う。


それが今はどうだ。
ピンと来ませんか?
この引用の中で「まあ世間は許さないわな」と言われてる引き算文化……
僕らの世代にとって、全く違和感なく受け入れられるものになっているのではないか」!?

この風潮を先取りし、若いまま実践した人が、一人思いつく。 

 

年収150万円で僕らは自由に生きていく (星海社新書)

年収150万円で僕らは自由に生きていく (星海社新書)

 

そう、言わずと知れたカリスマブロガー、イケダハヤト氏だ。


さて、ここまで精神科医の斎藤環氏を除いて3人の著者を引き合いに出した。

「20代で働く必要性から」自由になった、大原篇理氏。
「持つことのプレッシャーから」自由になったpha氏。
「東京での消耗から」自由になったイケダハヤト氏。(煽ってるみたいだな)
お気付きだろうか、三人の方向性が全て同じであることに。

抑圧からの、自由。
それはテーマとしては古くからある。一々語る必要もないほどに。

だけど、僕らの世代はその思想にあまりにも親和性がありすぎているのではないか。
ここで、先程も少しだけ触れた「さとり世代」に関する記事を読んでみよう。

【追記】
ここで引用してた記事は削除されてました……
別途参考になる記事はこの辺りだろうか。ちょっと表層的に過ぎる感はあるけど……

mayonez.jp


【追記ここまで】

……

まんまじゃないか。

……

さとり世代の元ネタ、ゆとりに関しても色々なことが語られている。

biz-journal.jp

「プライベートを優先する」というのは、ゆとり世代を分析する際によく言われる言葉だ。
でも、変じゃないか?
プライベートが優先されているなら、さぞ現代の若者は趣味が充実してるんですよね?

f:id:Mistclast:20160703191852j:plain


現実は、少なくとも僕の印象では真逆だ。
「プライベートを優先する」ということが「趣味がかつてよりも充実している」を意味しているとは、とても思えない。
むしろ……

結婚だってそうだ。
「結婚とコスパ」論なんて、典型的な「結婚を抑圧」と捉えた考え方だ。

toianna.hatenablog.com

大人世代は1人でも幸せに生きられる選択肢が増えたいま「結婚や子育てはリスクを負っても幸せになれる投資ですよ」と売り込む言葉を持たない。

この言葉は非常に的確で、僕の記事もここに帰結するレベルだ。
そう、大人たちは言葉を持っていない……
結婚について、だけじゃない。
「自分で自由を掴み取ること(あるいはその素晴らしさ)」を売り込むことが、最早誰にもできないのだ!!

ここで仮説に戻ろう。
「ある時期から(あるいはある世代から/ ある時代から)、自由とは『◯◯をする自由』として語られるものじゃなく、『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになってしまったのではないか?」

前半部分、
1.ある時代の人にとって、自由とは『◯◯をする自由』として語ることができていた。

ここ。
先程の引用と重ねてみよう。

大人世代は1人でも幸せに生きられる選択肢が増えたいま「結婚や子育てはリスクを負っても幸せになれる投資ですよ」と売り込む言葉を持たない。

大人世代は、
「僕らは働くことで、頑張ることで、自由を掴めるんですよ」と売り込む言葉を持っているのか?
持っていないだろう。

……念のため。あらかじめ言っておくと、この記事はバブリーな時期に生きた世代を非難するものではありません。同時に「良い時代だった日本」の良さを持ち上げて、現状を「どうしようもない」と嘆くだけで止まろうとする記事ではありません。目的は、もっと奥にありますので最後まで付き合っていただきたいです。

さて。
僕らより上の世代の中で、究極の「自由人」として、思いつく人がいる。

www.barks.jp

matome.naver.jp

そう、このブログでたまに引用してる所ジョージ氏。
凄い人だと思う。だけど……同時に思う。

この人は、僕らの世代にとって、自由人のモデルケースにはなり得ない

何故か?

金だ。

そりゃ、キレイ事を言えば、所さんの自由人としての本質は「お金じゃない」のだろう。
キレイ事を言えば。

だが、現実は……?

先程も言ったように、僕はバイクに乗ることが好きだ。
でも、バイクに少し乗るだけでも……とてもお金がかかる。

4年ローンで買ってるので、月々のお金は案外かかっていない。
それでも、お金がかかる趣味であることに違いはないだろう。
で、バイクの平均年齢は51歳らしい。

平均年齢51歳-深刻な若者のバイク離れ-

お金がかかって安全でもない、バイクは僕らの世代にはそぐわない趣味らしい。
が、僕がそういった趣味に身を投じている理由は、後で説明します。

とりあえず所さんに戻ろう。

ああ、男の趣味の世界!──究極の趣味人 所ジョージの超ホビー生活|メンズライフスタイルニュース(インテリア・旅行・レストラン)|GQ JAPAN

こういった趣味の世界観には本当に憧れる。
でも……本当に、「本当に憧れてる?」

「所ジョージ氏のような趣味人になりたいから=そういった趣味の自由を掴み取るために頑張って働こう」と考える人が、今の世代で本当にいる?

いたとしても、絶滅危惧種だと思う。

結局「カネがない問題」に帰結させるのは物凄く嫌なんだけど、ある時代を期に「カネがあれば自由や素晴らしきライフスタイルが買える」、「そしてそれは必死で汗を流した対価として相応しい魅力を有しているし、必死で汗を流せばそれは確実に手に入る
という価値観が消滅したのだと考えている。
この価値観はある時代まではまだ「生きていた」としか思えない。
「上の世代の人たち」と話していると、この価値観のもとに生きているとしか思えないのだ!

ここに来て思いっきり主観であること、ここから主観が増えることを許していただきたい。
だけど、こればっかりは当事者の世代ではないので推測で語るしか無いのだ(当事者の世代の方が読者にいらっしゃればいいのだが……)

僕らの世代は、「頑張って手に入る何か」に期待していない。
強いて言うなら、頑張って手に入る「技術」にはかなり期待しているが、「頑張って収入を増やしてその収入で自由に生きる」的なことには、全く期待していない。
こりゃもう、びっくりするくらい期待していない。

何故なら、そんな理想的な行き方を実現した人が身の回りにいないから。
所ジョージさんレベルの現実離れしたところにはいるけど、身近にはなかなかいないし、強いて言えばお金をがっぽり稼いで夜の街で散財している人がいたとしても……かっこ良くて憧れるなんてことはないのではないだろうか。
スマートにお金を使ってる人の中には「もう日本はダメ!海外に移住!」みたいな人もたくさんいて、結局身近なところから離れちゃってるし……

そろそろこの章のまとめに入ろう。
僕らにとって、イケダハヤト氏や大原篇理氏の語る「幸せ」は、はっきり言ってかなりリアルだ。
一方、頑張った果てに自由を掴むっていう考え方には、全くもってリアリティがない。

実現性を考えれば考える程、僕らにとっての自由は「◯◯しない自由」としてしか現れなくなってくる。

仮説に戻ろう。
「ある時期から(あるいはある世代から/ ある時代から)、自由とは『◯◯をする自由』として語られるものじゃなく、『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになってしまったのではないか?」

ある程度、繋がっただろうか?
結局僕が言いたかったのは、僕らの「リアル」は、どうやって「抑圧するものを遠ざけるか」、そこに重点が置かれていて……もっと言ってしまえば。
「抑圧してくるものを一つずつ数え上げて、その要素を一つずつ潰していく生き方」
がメインストリームになっているのではないか。
もっともっと言えば、そういった抑圧してくるものが「消えた」状態こそが幸せだと信じている人が本当にたくさんいるのではないか。

ああ、そういえば。
僕がブログの中で幾度と無く引用している中島義道の理論は、僕の趣旨とは異なるけれど、まさしく僕らの「自由観」を語っている(少々毒があるけれど)。
「結局死んでしまう」という事実に絶望した若者は、こう考えるようになると。

不健康な夢幻空間を膨らますうちに、一条の光が差してくる。それは、哲学や文学あるいは宗教や芸術という名の仕事である。デカルトがすべてを疑いぬいた後疑っていることそれ自体は疑いえないことに気づいたように、仕事に関する悩み自体を仕事にするという道である。
こうした青年たちの多くは、誰にでもできる簡単な仕事によって単にカネを得れば満足するわけではないだろう。むしろ、仕事に多大なほどの期待をしている。負け犬にはなりたくない。あくまでも勝ちたいが、魑魅魍魎のうごめく社会のまっただ中に飛び込んで傷つきたくはない。身を挺して戦いたくはない。あくまでもその外側の安全地帯に留まり、しかも社会から抹殺されたくない。とすると、彼らは人生それ自体を対象とする仕事を模索することになる。哲学者とか作家とか芸術家とか……。
つまり、傲慢至極にも、社会を拒否しつづけながらその社会において承認され尊敬される道を選ぶんだ。社会を拒否する態度そのものによって社会から尊敬をかち得ようとするんだよ。

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫)

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫)

 

ちょっと穿ち過ぎな気もするけど、これはまさに僕の話だったので凄く同意できる。共感できる人は多いのではないか。


そういった「窮屈な世界から脱出したい」思想を、僕らの世代は、ーー必ずしもそう生きていなかったとしてもーーなんとなく、理解できる。
だけど、この思想は上の世代にはどう映るか。

多分、「若さ故の」「甘え」に見えるんじゃないか

違うんだ。あなた達のスタイルはもう……理想ですらなく……
……。

……伝わらないだろうなぁ。

次の章でもう少し考えてみよう。

※余談だけど、行儀よく真面目なんて出来やしなくて夜の校舎の窓ガラスを壊して回る歌(1985年)は、僕がこの記事で述べている「上の世代」の自由観が傾きつつある時代に歌われた歌だと思っている。
少なくとも……尾崎豊的な生き方をしたところで自由になれるわけじゃないと、今の世代はみんな醒めてるんじゃないかなぁとは思う。色々思うことはあるけれど、深く語るのはやめておこう。

3.僕らの自由

この記事で僕は「大事なことを言いたい」と最初に語った。
そろそろ、語っていいと思う。

これだけ長く語って何が言いたかったのか?
上の世代の人たちに、僕らのことを理解して欲しい?違う。
僕らの世代の自由に対する考え方は「間違ってる」?違う。
上の世代の人たちは間違っていた?違う。
上の世代の人たちが悪い?全然違う。
もっともっとお金を使って経済活動に貢献すべき?全然、違う。


僕が言いたいのは、ただひとつ。
僕らが……
「抑圧してくるもの、あらゆる不安から解放された状態」を自由として定義して……
そういった「自由」を求めて生きるとしたら……

 


寂しいよなぁ、ってことだ。
それは、とても寂しい。

世の中は色んな不安に溢れている。
そんな時代に自由もへったくれもないのかもしれない。
自由とか語っているヒマがあったら、現実的に明日メシを食えるように生きるべきなのだろう。
その一つの解として、『20代で隠居』のような「お金がなくても、必死にならなくてもスローに充実した人生は送れるんだぜ」っていう思想は、よく理解できるし納得できる。
でも、ちょっとだけ寂しい。

一方、もういつかの時代のように、必死で働いてその先にある幸せを掴むことはリアリティが全く無い。
……上の世代にもそこにリアリティが無いことを心の底から気付いた人たちがいるのだろう、そういった人たちこそが斎藤環の指摘した「スローライフに目覚める中高年」だ。
悲しいかな、僕たちにとってはそれがリアルになってしまった。

じゃあどうしろと。
どこにも進みようがないじゃないか。

それでも、僕はそこに止まっていたくない。


静かに生きたい。
働きたくない。
頑張りたくない。
疲れた。
東京の満員電車なんて大嫌いだ。
不安まみれだ。
お金もギリギリ。
伊豆半島に移住して、「隠居」してやりたい。

……でも。
本当に、それは僕が求める「自由」か?
そうなのか?

ここで止まりたくない。
僕が求めうる自由は、何かあるはずだ。
どこかに、何かが。

悪あがきをするようにバイクに乗っているのは、そのためかもしれない。
絵を描いたり、ブログを書いたり、何かを伝えたりしているのも、そこに帰結するのかもしれない。
結局、優等生じみたそういったみみっちい抵抗の結果が僕にとって「趣味」として表出しているのかもしれない。
言い換えれば、警察の世話になるのが流石に怖いから、「夜の校舎の窓ガラスを壊す」ことの代替行為としてそうしているだけな気もする。

さっき実はサラッと触れているのだけれど、僕らの世代は「頑張って手に入る『技術』」には結構期待している……気がする。
それは僕らを裏切らないから。

クリエイターに憧れる若者が多いのは、多分
「金で手に入る自由」でもなく「窮屈な世界から逃れる自由」でもない、第三の自由ーー「自らの内面世界を自在に表現する自由」が得られるからじゃないか。
でも、それだけじゃなくやっぱり「社会からの自由を得たい」っていう側面もあるよなぁ。中島義道が指摘したように。

結局、何が正しいのかわからないし、どんな欲求なら寂しい物じゃなくて、どんな欲求なら寂しいものなのか、言ってる僕自身にも答えがあるわけじゃない。

でも、とにかく……寂しいと思うのだ。

バイクで色んな所を旅しては、日本ってキレイだよなぁ、と思う。

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同時に、自分は不自由だとも思う。
自由って何なんだろう?走り回ってたら手に入るのだろうか?
そんなことはないよなぁ、イージー☆ライダー的に言えば不幸にしかならねえぞ。

……わからない。
本当に分からない。

わからないからこそ、探し続ける。
もっともっと楽しく生きるために。

読者さんに言いたい。
「何度でも、僕らの『自由』の話をしよう」
この記事は一万字に渡って「寂しい話だよなぁ」っていうことをお話しただけです。
それじゃダメだよなぁ、って。
「こうしたら寂しくなくなるぜ!」って話は何もしてないです。
がっかりされてしまったかもしれない。

だから、何度でも話をするしかないですよね。
何度でも、話すことはできる。
それが……僕が今見つけた「自由」のカタチです。

長い記事になりました。
お読み頂き、ありがとうございました。
コメント、お待ちしております。

ではまた次の記事で。