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"僕の足に絡んだ蔦は あの日蒔いた種だった" 吉井和哉『Island』より

「幸せザッピング」をやめる、という提案

ツーリング先で散策しすぎて帰れなくなり、ビジネスホテルに泊まることにした。
郊外だ。

太い国道。でっかいラーメンショップ。マクドナルド。ラウンドワン。
そして、……大きなリサイクルショップ

ラーメンを食べたあと、なんとなく懐かしさを感じ、リサイクルショップに立ち寄る。
入店したら走馬灯の用に思い出が蘇る。
地元そのままの光景だった。
東京にはない光景だ。地価の問題だろう。

この手のリサイクルショップは地方都市、ド田舎というには都会、都会というにはあまりにも田舎、国道がインフラの大動脈であるような場所に多々存在している。
イメージしにくい人は「中古の品を中心としたヴィレッジ・ヴァンガード」と例えるとわかりやすいかもしれない。

酒という手段を手に入れる前、僕はこの手のリサイクルショップに幾度となく救われてきた。もはや宗教施設だったと言っても過言ではない。
煮詰まったとき、悩んだとき、特に意味はなく。
幾度となく脚を運んだ。

「なにか面白いものはないかな」と。
そう明確に認識していたかどうかは別にして、「何か」を探していたのだ。
ヴィレッジ・ヴァンガードも同じ理由でよく通っていたが、この手のリサイクルショップに世話になった回数はその比ではなかった。

そして面白い漫画やら、1-2世代前のゲーム機やら、そういったものを何度も買った。
実際に「面白いもの」は、「何か」はあったわけだ。
そして今……ビジホに帰る前の僕は、ゲームの列を見ながら、思う。

ここから始まった自分の癖は、今も治ってなかったんだな、と。

幸せザッピング

幸せザッピング、という言葉を聞いたことがない人は多いだろう。
当然だ。
今僕が作った言葉なのだから。

類義語は「青い鳥症候群」だ。
だが、「青い鳥症候群」はもっとなんというか、慢性的に「より良いもの、幸福を探し続けてしまう」状態のイメージだ。
僕が定義する「幸せザッピング」は、「何か面白いものはないかなと、ときには死んだ目で、あるいは『面白いものなんて別にないんだけどな』と予想しながら、それでも探すことをやめられない」状態のことをイメージしている。
「ザッピング」はテレビのチャンネルを変えまくることを呼ぶが、別にテレビに限る必要はない。

……自分が幾度となく救われてきたリサイクルショップを悪く言いたくはないから弁明すると、リサイクルショップでの「幸せザッピング」は店内にいる間だけだし、当時の自分にはまだ「ゲームか何かを買って楽しもう」という気持ちが残っていた。
多くの客も目的が仮にないにせよ、「面白いゲームあるかな」くらいの気持ちを持っている人がほとんどだろう。

だから大きな問題は引き起こさない。
パチンコやら酒やらと比べると健全過ぎるくらいだと思っている。

今僕が問題だなぁと思ってるのが、いわばスマホやらネットやらが媒体となっている「幸せザッピング」だ。

少し前、鬱に近い状態でYouTubeを「幸せザッピング」していた自分が、リサイクルショップに逃げ込んでいた当時の自分を、何倍も酷くした状態だと気づいてしまったのだ。

「スマホ依存やらネット依存の話?もう聞き飽きたよ」という方もいると思う。
もう少しだけ話を聞いてほしい。

「幸せザッピング」と資本主義

テレビにとって「ザッピングされること」はマイナスだろう。
特別な理由がない限り、自チャンネルに留めたいという意図で番組は作られているはずだ。

だが、今流行のサービスを思い出してほしい。
Twitter, YouTube, TikTok...

「自サイト内で」という条件はあるものの、「次から次へと新しいコンテンツを、極めて短いテンポでサジェストされ続ける」ものばかりだ。

これらについて詳しく語るつもりはないけれど、資本主義的な理由からそういった仕組みになっていることは、語るまでもない。
詳しくは「デジタル・ミニマリスト」でも読んでほしい。

要は、現代の資本主義を前提にすると、コンテンツ・プロバイダー側からすると「幸せザッピング」してもらう方が都合がいいわけだ。

さて、その結果何が引き起こされるか。
はっきり書いてしまうが、「不幸」だと僕は思っている。

なぜ不幸になるのか

科学的に説明しようとすると色々可能だ。
「人間は選択肢が多ければ多いほど不幸になる」とか、「得られるものの質に対して失う時間が釣り合っていない」とか。
でも、この一文を考えてみるだけで十分だと思う。

「スマホで『幸せザッピング』していたとき、幸せだったか?それとも、死んだ目をしていたか?」

「いや俺は幸せなんだが!?」という人は結構いるかもしれないし、そういった人は引き続きライフスタイルを変えてもらう必要はないと思う。
だが、僕と似ている人には心当たりがあるのではないだろうか。

真の幸福

こんな大それたことを書いてしまうのは憚られるけれど、こちらもはっきりと書いてしまうと、真の幸福は「没頭と忘我」なのだと思う。

松岡修造は趣味の映画を観るときとんでもなく集中していて、家族にも話しかけないよう頼むらしい。

news.livedoor.com

 

昔この話を聞いたとき「また極端な……」と思ったものだが、確かに2時間集中するというのは(現代的なものに慣れてしまった、ということを考慮するしないに関わらず) 本当に難しい。
これくらいやらないと、真の楽しみには至れないんじゃないか、と最近良く思う。

「幸せザッピングに『没頭』するのはどうなの?」と思われるかもしれない。
これは僕の考え方に過ぎないが、「幸せザッピング」をしている状態というのは、「没頭や忘我」ではなく「心ここにあらず」だと思う。


マインドフルネスが最近流行っているが、アレは「心を『今ここ』に取り戻すための技術」だ。

マインドフルな状態を最高の幸せと定義するならば、逆説的に言えば、「心ここにあらず」は最大の不幸と言えるだろう。
目の前の映画や、あるいはゲームでも漫画でも良い、全力で集中していることは一般的にも「心ここにあらず」とは表現しない。
だが、「幸せザッピング」は往々にして「心ここにあらず」を引き起こしているように思う。

結論

何度も言うが、「幸せザッピング」をしている自分を別に不幸だと思わない人、そもそもピンと来ない人は、こんな記事今すぐ忘れてもらって構わない。
だが少しでも心当たりがある人は、「幸せザッピング」をやめる、という提案に乗ってみてはいかがだろうか。

最後に。

全開の胸
全開の声
全開の素手で
感じることだけが全て
感じたことが全て


www.youtube.com

大事なことは全部『深夜高速』で歌われている。

というか僕が書きたいことも僕の人生も全部「深夜高速」に入ってると気付いたのが最近である。
今後僕のブログ、深夜高速投げっぱなしオチ増えると思う。

ではまた。