Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

自己啓発本を読んで、みんなで幸せになろう

嫌なタイトル!!!!!(千鳥ノブ)

自己啓発本を読んでも幸せになれない、のか?

最近、「○○で幸せになれる」の○○の部分について色々考える。

タイトル通り、例えばこの○○に「自己啓発本を読むこと」を代入してみよう。

案外、「自己啓発本を読んで幸せになろう」と言ってる人ってあまりいない気がする。
一方で「高額なオンラインサロンにハマっている人」や「自己啓発本『的』コミュニティにハマっている人」を見て、なんだかなぁという目線を向ける人は少なくないだろう。

さて。
少し前YouTubeで「ひたすらビジネス書を読んで叩き斬っていく」人の動画を見た。
その動画とその動画に寄せられるコメントは概ねビジネス書の内容を馬鹿にしたものが多かったのだけれど、それはそれでひとつの「コミュニティ」であることに気付いた。

前者と後者。
すなわち、自己啓発的ビジネス書の世界を(形はどうあれ)信奉する人々と、それを批判するコミュニティ。
どちらが幸せなのだろうか?

……
嫌な考え方!!!!(千鳥ノブ)

けどまぁ、多分前者なんだろうなぁ、と薄々思う。
「信じるものは救われる」ではないけれど。

……否、これぞまさに「信じるものは救われる」なのかな。

『セックス依存症になりました』

話が変わるが、『セックス依存症になりました』という漫画がある。

セックス依存症治療歴のある作者の虚実混じえたドキュメンタリーなのだけれど、性依存をはじめとして様々な「依存症」のリアルが描かれていて、何度も読み返している本だ。
(当ブログの筆者はものごとに大変依存しやすいタイプの人間である)

心底感心したのはこのくだり。

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このくだりは、依存症治療の自助団体が「宗教的」であることの答え合わせとなっている。
余談だがこのあと主人公である作者が他の依存症患者に「神様信じるといいですよ!」と勧めてドン引きされるシーンがある。

このシーンからは色々考えさせられる。
「神を信じられない」=「メタに批判できる」精神を持った人は、精神的負担やストレスを全部自分で担うしかないんじゃないか?
宗教的に生きている人なら、「これは神が与え給うた試練なんだ」と納得できるようなシチュエーションで、世界か自分かを恨むしかないっていうのは、とんだハードモードなのではないか?

『セックス依存症になりました』にも書いてある通り、信じる対象は神でなくても、なんでもいいわけだ。

幸せそうな人たち

僕は結構料理や筋トレが好きということもあって、食事に関連する本を結構読む。
するとやっぱり相当な割合で「オカルト」な主張をしている本があることに気づく。
あまり例えを出したくないので内容は察して欲しい。

けれど共通していることがある。
そういった「オカルト」な主張をしている本は……

たいてい、めっちゃ幸せそうに書いているのである。
文体がダンスしているというか。

食に対するオカルトは、よほど過激なものでない限り別に良いんじゃないかと個人的には思っている。
実際ラーメンとポテチと酒が主食の人がどんな経路であれ菜食主義的な思想を生活に取り入れると、それまでよりも健康に近付くのは間違いないだろう。

結果的に良い方向に転がるのであれば、他人に迷惑をかけない限り、別にどういった世界観を自分の中に構築したとしても良いわけで。

まぁ、幸せになっちゃったらほとんどの人が他人にも押し付けたくなっちゃうんだけどね。
「なぜお前は神の恩寵を理解しないんだ!」的なやつ。

そうならないためには「信じつつ信じない」的なバランス感覚が必要になるわけだけど、それは途方もなく難しい。

神社で考える

僕の話になるが、神社が好きだ。

人類の歴史で、どうやらこの世界を形作っているのは科学だと人々が認識し始めたのはごく最近のことだ。
……本当に認識し始めてるか?

……まぁとにかく、医療や科学の声が大きくなるまでは、その役割は寺社が担っていたわけで。
たまに神社に行って缶コーヒー片手にボケーッとするようにしている。

神社には長い長い人の祈りと歴史が込められている。
医療も科学もTwitterも十分でない世界で、どれだけの人の心を救ってきたのか。
「もう2021年は科学的なことが全部なんで。神社とかお役御免っすわ」
……というのはちょっと違うだろーと思うのだ。

じゃあさっさと神道なりキリスト教なりに染まれば僕ももう少しは生きやすくなるのかもしれないが、どうもそれは厳しそうだ。

だったら、僕は今何を信じているのだろうか。
お金か?
否、それすらも……

あーダメだダメだ、考えすぎると何も信じられなくなる。

「ツッコミ」について

信じられるものは少ないけれど、信じられるものを探すことは相当やっている。
自己啓発本の王の一人であるホリエモンの本もそれなりに読んでいる。

ホリエモンは『ハッタリの流儀』で「ツッコミばかりしている人に熱は起こせない」という指摘をしていた。

これからの時代は「ボケ」の時代だ。「ボケ」られる人間が貴重だ。他人に「ツッコミ」ばかりしている人に熱は起こせない。周りはついてこない。

 

これは非常に重要な指摘であるように思う。
「ツッコミ」は言い換えると「メタに見る」ってことだ。
熱を入れるのではなく、熱を入れる人を俯瞰してみる行為のことだ。

「ツッコミ」は面白い。
現に「ビジネス書を叩き斬っていくYouTuber」はウケるし、「相席食堂」はクソ面白い。

けれど、人生単位でツッコミばっかやってると、どんどん自分で背負い込むことになるんじゃないか。
それは飛躍し過ぎだろうか。

何かを信じること

「信じるものは救われる」。
いろいろ考えてみて、やっぱりそう思う。
だが、一方で度を越して陰謀論に飛びついちゃったりしたら、それはバカでしかない。
「陰謀論に飛びつく」は「あっさり信じる」の極致だ。

「信じること」と「幸福」の繋がりを語ってきたから、今ならスッとこう書ける。
「あの人、悪い人じゃないんだけどねぇ(けれどカルト宗教にハマっている、陰謀論にハマっている、etc.)」のカラクリはこれだ。
彼らは幸せなのだろう。
幸せな人間が、なぜ悪い人間であろうか。
「悪い人」なんてあまりいない。いたとしても表には出てこない。
「頭が悪い人」はいるかもしれないけれど。

……とはいえ。
仮に汝の隣人が「陰謀論者」だったとして。
「それは悪い『信心』だ」などと、誰に言えようか。
「悪い信心と良い信心」なんて、どうやって判断するんだ?

「人に迷惑をかけるかどうか」で判別すると良い、というのは一つの方法かもしれないが、あまり賛成できない。
Twitterで「神社に行くと心が落ち着くよ。セラピー効果があるよ」と呟くのと、「水素水を飲むと心が落ち着くよ。セラピー効果があるよ」と呟くのは、いったいどう違うというのだ?
違うとして、誰がどう判断するのだ?
その判断は正しいのか?

間違いないのは、ここまでツッコミ気質が身についてしまっていると、幸せは遠いなぁ、ということだ。

……暗いなあ。暗い。
酒でも飲んで明るくなるか。酒は心底信じられる。うん。

【余談】

『セックス依存症になりました』には完全版が出ているのだけれど、これは自助団体のくだり等を完全にカットしていて、アニメ12話を1話にまとめた総集編並みのダイジェストだからおすすめしない。
買うならこちらの合本版がオススメです。

【朗報】iPad mini 6、エロい

林檎教界隈で大評判のiPad mini第6世代を手に入れた。

www.apple.com

結論、ヤバい。
これはヤバいしエロい。
語彙力が消失する。

厄介林檎信者、語る

僕の林檎歴は根深い。
過去に

・iPod (nanoだったかな?)
・iPod touch
・iPhone4
・iPhone6
・iPhone SE
・iPhone8 Plus
・iPhone12
・Macbook Air
・Macbook Pro
・iPad mini(確か第2世代)
・iPad Air(確か第2世代)
・iPad Pro(11インチ初代)
と所有している。

現役で使っていたモバイル端末がiPad ProとiPhone12なので、正直買うかどうか滅茶苦茶悩んだ。
だが実際に買って、確信を持って言える。

これは過去にApple関連で買ったものの中でも最高クラスの逸品だ、と。
一片の後悔なし。

我がiPad遍歴

最初に買ったのはiPad miniの第2世代だった。
電子書籍にハマっていた頃だった。
AmazonのFireタブレットという安い、けれどドチャクソに重い端末からの乗り換えだった。
感動したことは言うまでもない。

だが、大きなディスプレイで漫画が読みたくなった。
iPad Air(第2世代)に乗り換えた。
重さは確かに重くなったものの、許容範囲だった。

そして色々あり、見た目がどストライクだったホームボタン排除型のiPad proに乗り換えた。
そして思う。

「デカくね?」と。

11インチという存在

おそらく、10インチ付近のところに壁があるのだと思う。
「デカい」の壁である。
身体の横幅との比率で、気になる境界線がこの辺りな気がする。
第2世代iPad Airはなんとなく電車で使えたが、iPad Proは少々躊躇う。
そんな関係性だ。
特に絵柄が可愛い漫画読んでるときに顕著だ。
電車でそんなもん読むなって話だが。
ちなみに最近の推しは『翼くんはあかぬけたいのに』である。

絵柄に比してなかなかに汚い内容でとても良い。

閑話休題。

これは電子書籍のヘビーユーザーにしかわからないと思うが、iPad Proで小説を読むと、1ページあたりの字数が多すぎて圧が結構ある。
文字して少なくすりゃええやん、という問題ではないのだ。
一方のiPhoneでは少し小さすぎる。

やはり、読書は文庫本サイズが至高なのだ。

まぁただ、そんなiPad Proも日頃使うには問題なかったし、電子書籍や通信講座、YouTubeの試聴等大活躍していた。
読書量は減った気がするけど……

そんな日々の中。
ヨドバシカメラで出会ってしまったのだ。
iPad mini6に……

手に持った瞬間電流が走った。
いやマジで。
iPad pro使い慣れてる人ほど電流が走ると思う。
「かっる……」

それでいて洗練されたデザイン。十分な画面の大きさ。

突如脳裏に浮かぶ存在しない記憶……

メッセンジャーバッグに、iPad miniと、財布と、スマホだけ詰め込んで、電車で少し遠くに行く。
カフェでスッと取り出して読書に使う。
なんなら動画も観られる。

鮮明に浮かんでしまった。
そして。
頭から離れなくなってしまった。

そして購入

しばらく経ってからなんとか入手することができた。
ネット上で在庫を見つけたのに悩んでいるうちに消えてしまったりと紆余曲折あったが……やっと手元に来た。

感想としては、あまりにも最高である。

使い方は当初の想定の通りだ。
何も言うことはない。
漫画を見開きで読むにも十分の大きさ。
正直、iPad Proはもうお役御免だ。
取り回しと軽さが異常なのだ。

だが。
……1番気に入っているのは、そこではない。
ここからが一番語りたかったことだ。

僕が購入したのは、紫の256GB。

……プロダクトとしての美しさと完成度が異常なのだ。

ジョブズがいなくなってからAppleのデザインはダメ?
僕はiPhone4のデザインが未だに大好きだから、言いたいことは分かる。

だが、iPhone12の時点で十分全盛期の美しさに近しいものが出てきていたように僕は認識している。
当初使っていたiPhone4の白とよく似ているという理由で白を買ったくらいだ。

だが。
今回のiPad mini6の美しさというか、練度は下手すると全盛期を超えているのではないか。
いやマジで。
溜め息出るレベルで美しいんすよ。
僕、割と買い換える傾向がある一方で、一度心から惚れ込んだら粘着して同じものを買う傾向があって、例えば財布なんかは一度壊れた後も同じ財布を買った。

それくらい気に入ったから。

今回のiPad miniは正直そのレベル。
現物の写真を一枚も載せていないのは、簡単な話「写真だと『プロダクトとしての洗練されっぷり』が絶対伝わらないから」だ。

いや、マジでヤバいんですよ。(語彙力)
例えばiPhone12のブルーとか、僕ちょっとがっかりだった。
公式画像の色と違うやんけ、という評判で、僕も実物を見てそう思った。

iphone-mania.jp

公式画像の青は好きな色味なだけに、残念だったことを覚えている。
公式通りの色だったら、白ではなく青を買っていた可能性も高い。

で、今回の紫なんだけど……

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(公式サイトより引用)

……ヤバい。
公式サイトから受けるイメージ通りの色、否、むしろ現物はさらにシックで、色気がヤバい。
ダークグレーと紫の中間のような色合い。
電化製品で見たことのない色だ。

今更だが僕が物を買うときに期待すると言うか、基準としているのは色気である。
色気だけは色気という以外に表現できないのだ。

それで、このiPad miniは……なんというか……色気カンストしてる。
こんなんもうエロだ。
わいせつ物陳列罪だ。
使ってたら即逮捕だ。

……いや、絶対手に入れた人同じこと思ってるんだよ!!!!絶対に!!!!お前らみんな共犯だからな!!!!知ってるんだぞ!!!!

しかし……残念なことに、公式のカバーを付けると背面まで覆われてしまう。

……愚かなり。
なので吾輩はカバーなどつけぬ。
エロスは裸で味わえ。
液晶保護ガラスで十分なり。

人類のエロスを一段階上げてくれるプロダクト、iPad miniを買おう。
いやマジで。

以上です。

穏やかに生きたい

『鬼滅の刃』が好きだった。
実はブームの前から推していた。

mistclast.hatenablog.com

ブームの圧が強すぎて、少しついていけなくなってるけれど。

『鬼滅の刃』を読むと、「人は穏やかに生きていくのが一番」という作者の思想が見えるのは、僕だけではないだろう。
ブーム絶頂で連載を切り上げ、メディアへの露出も一切好まない吾峠呼世晴先生がその思想を実践しているように見える……というのは穿ち過ぎだろうか。

読んでない人にも説明すると、主人公の炭治郎は鬼になってしまった妹を元に戻すために苛烈な鬼殺しの宿命を負うことになる。
作中の登場人物も各々の理由で戦うのだが、鬼のいない世界、あえて軽く言ってしまえば「平和」を求めて、鬼の親玉からも「異常者集団」扱いされるような苛烈な自己犠牲の精神で鬼と戦う。

「穏やかに生きたい」。
仕事でどん底に近い経験をしたこともあり、最近その思想が強くなっているのを感じる。
そんな中、ふと昔のことを思い出した。

自称進学校の合宿にて

僕が入学した高校は、自虐的に言えばいわゆる「自称進学校」というやつだった。
だからそれなりに勉強はハードだった。

入学後、3-4日程だがひたすら勉強する合宿があった。
これがもう、とても辛かったことを覚えている。

その高校では、入学時、自分は上から数えて10位付近だったように記憶している。
入学後のテスト結果がそんな感じだった。
だから少なくともその高校においては勉強はできる方だった。

だが、僕にとって高校数学Iの「因数分解のたすき掛け」の概念はとにかく難しく、ヒーヒー言ってたのだった。
隣りにいたちょっと賢いやつはさらっと理解していた。
ヒー。

そして思った。
「中学の頃、頑張って勉強して良い高校に行って、高校に行ったらまた頑張って勉強する必要がある。これもう一生終わらないんじゃね?なんのために頑張ってるんだ?頑張れば頑張るほど余計にしんどくなるだけじゃねえか」
と。

高校時代の僕に言いたい。

 


大正解☆

我ながらなかなかの洞察力。その通りなのだ。ぐうの音も出ない。
「穏やかに生きるために頑張る」は、ある意味では矛盾なのだ。

だが、一つ例外があった。
色々ブチ抜いてしまうことだ。

ブチ抜けると一種の平穏が得られる

さて。
ヒーヒー言いながら頑張ってたら、なぜか模試で1位を取りまくってしまい、京大を目指すようになった。
どうも自分は模試に強いタイプだったらしい。

そしてノイローゼ手前になるまで、否、一度本当にノイローゼになるまで勉強したのだが、結果として……
高校の勉強は全てショボくなった。
少なくとも普段の授業でヒーヒー言うことはほぼなくなった。

「その集団でブチ抜けてしまえばいい」。
穏やかに生きるために穏やかさを捨てる。
脳筋戦法であり、鬼殺隊並に苛烈な発想だ。
マゾヒスティックですらある。

だがまぁ、なんか……さすがに……
そういう生き方、ちょっと疲れた。

平穏は心のなかにしかない

鬼殺隊の如き精神力で苛烈に自己研鑽を積み上げていけば、まあ食いっぱぐれることはなくなるだろう。
IT系の仕事についてから、一応資格は6つくらい取ってる。
でもそれって何かが間違ってる気がする。
(まぁそれは今ITに対する興味と自信を喪失気味だからっていうのもあるけれど)

結局、仕事ができなくなったり、食いっぱぐれるリスクなんて常にあるもので、「それが絶対にない状況を探し続ける」のは青い鳥を探すようなものだ。
「リスクのない平穏な暮らし」なんていうありえないものを追い求めるくらいなら、「リスクはあるけれど心は平穏」っていうところを追い求める方が良いだろう。

結局、心が全て、主観世界が全てっていうことになる。

そりゃあとても極端に悪い環境からはさっさと逃げるべきだけれど、ある程度まともな環境を見つけたら、あとは自分の心の方を変えていかないと、一生「青い鳥」を探すようになってしまうのではないか。
必要なのはどこでも生きていける力ではなく、どこでも生きていける心なのではないか。

……とは言っても、なぁ。
やっぱり、何かここではないどこかに、自分みたいな不器用で(あえてはっきり言ってしまえば)繊細に過ぎる人間が穏やかに生きていくための方法と空間があるんじゃないか、と期待してしまうのです。
それはまだ見つかってないだけなんじゃないか、と。

……さて、と。司法試験の勉強の現実逃避終わり。
勉強するか。
……俺、本当に弁護士になりたいのかな……穏やかな人生とは……

iPhoneからSafariを消した結果がヤバすぎるwwwwww

あらかじめ言っておくが、ネット上にある「ヤバすぎる」の99%はそこまでヤバくない。

ネット依存がヤバすぎる

とはいえ、僕のスマホ依存はちょっとヤバいなぁ、という領域まで来ていた。
僕は「調べたがり病」だ。

焼肉屋に行く。ナムルが出てくる。
「ナムル……ナムル?俺はナムルのことを何も知らない……ナムル?」
iPhoneを取り出す。ナムルについて調べる。
1時間後、ナムルのことなど何も覚えていない。

鍋を作る。白菜を買う。
「白菜……俺たちは白菜について何かを知っていただろうか……白菜?」
iPhoneを取り出す。白菜について調べる。
1時間後、白菜のことなど何も覚えていない。

これくらいならまだいい。
問題は、気付いたら「白菜 なんj」みたいなワードで調べ始め、気付いたら「○○がヤバすぎる件wwwwwww」みたいな記事に飛んじゃってることだ。
気付いたら休日が一日潰れたこともある。

ヤバすぎるのはどう考えても僕である。

Safariを消したらヤバ過ぎる

思い切ってSafariを消してみた。
とはいってもアンインストールはできないので、一時的に使えなくするだけだ。
方法は以下の記事参照。

netaemon.com

消してみて強く分かった。
「俺の病気……根深かったんだな……」と。

あまりにも一日に何度も「調べよう」が発生していることに気づき、ビビる。
何気なくスマートフォンをポケットから取り出してしまう。
そして存在しないSafariを開こうとしてしまう。
その動作があまりにも日常的になっていたのは、やっぱり何かしらヤバすぎる。

「そうか……Safari……君はもういないんだね……」
Safariは未来に帰ったのだ。あるいは星になったのだ。

そもそも、常に「調べなきゃ」という義務感のようなものを心のどこかに抱いていた気がする。
それは嘘なのだ。
別に調べんでも良いものは調べんでも良い。
ナムルのことなど知らなくてもナムルは美味しいのだ。
それでも調べたいなら家で腰を据えて調べれば良い。

そしてもう一つ、重要な事実に気付いた。

知と知への渇望がヤバすぎる

人を新たなフロンティアに駆り立てるものは何か?
色々あるだろうが、少なくともその一つに「飢え」と「渇き」があるのではないか。
知に飢えるからこそ、人は知に恋い焦がれる。

……カッコつけて書いたけど、「なんでもスマホで調べられる」って、冗談抜きに「ヤバ過ぎる」んじゃないかなぁ。
普通に生きるためってだけならマジで図書館なんて不要になっちゃってるもん。
それこそ白菜の栄養成分知りたくて図書館に図鑑借りに行く、なんて人、現代にほとんどいないでしょ。
ミリグラム単位の栄養成分までスマホで一発なんだから。

人を図書館に駆り立てるものは何か?
って考えると、やっぱり知識への飢えに他ならないと思う。

別に不便な時代への回帰を望むわけじゃない。
便利なものは便利なものとして使えば良い。
でも「やっぱそれってヤバいんじゃない?」っていう危機感のようなものは持っておきたい。
「便利さと引き換えに何かを失ってる」という僕の直感は、それほど大きくハズレてはないだろう。
飢えねば、何も得られないのだ。
……いつの間にか、ナムルについて忘れてしまうように。

ただ無駄を愛す生き方が(いい意味で)ヤバすぎる

「ただ無駄を愛すのだ」


www.youtube.com

『映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』のテーマソング、マカロニえんぴつ『はしりがき』の歌詞だ。
色々映画を見てきたが、『オトナ帝国』と並んで、人生最高の映画だった。長らくオールタイム・マイベストだった『百円の恋』を超えられた。
アマプラで配信される頃合いに語ろうと思う。

話が逸れたが、「良い無駄」と「悪い無駄」があるんじゃないか、というように思う。
これはもちろん『はしりがき』で歌われ、『天カス学園』で描かれた思想とはそぐわないものなので、分けて考えて欲しいのだけれど……

例えばこれだけ何でも調べられる便利な世の中で、わざわざ図書館にものを調べに行くのは「無駄」ではあると思うのだ。確実に。
だけどその「無駄」は、実に愛すべき無駄なのだ。少なくとも僕にとっては。

一方で「〇〇がヤバすぎるwwww」みたいな記事を読む時間って、同じく「無駄」だとは思うんだけど、その無駄も愛すべきものなのだろうか?
「なんやかんやグダグダする時間も必要だったよねぇ」とは後で思うかもしれない。
けれど、能動的にそんな時間を過ごす自分や、そういった記事を愛せるかというと……

結局のところ、今、自分を、自分の生き方を、愛せるかどうかなのだ。
滅茶苦茶飛躍している気がするけれど、「すぐ調べられる」って世界は、「自分を愛せない」世界に直結してるんじゃないか、とすら思う。
世界はただでさえ速すぎるのだ。
もう少し、ゆっくりしたって良いじゃないか。
誰もあなたを急かしなどしない。
誰にも急かされなどしていないのだから。

少しでも僕に似ていると感じた人は、まずは試してみてほしい。
世界の時間の流れ方が、少しだけ変わる実感を得られると思う。

ではまた。

楽に生きられない

「京大入ったら後の人生楽だろうなぁ」
そう思っていた。実際あのコスプレ卒業式写真を見たら、そう思うのも当然だろう。

mainichi.jp


高校生の頃、そんな思いから京都大学を目指すことにした。
今、当時の自分にこう言いたい。

「勉強ってやつはな、すればするほど楽になるんじゃない。すればするほど余計に勉強の必要性に追われるんだ」と。

「楽に生きるためには、不安も、恐怖も、不幸も麻痺させて、愚鈍で怠惰で無能な自分を受け入れるだけの鈍感な精神を手に入れるしかないんだよ」とも。

「そして、多分それはお前には無理だ。お前にそんな勇気はない」。
「自分を愚鈍で無能だと受け入れるだけの勇気は、お前にはないよ」。

……この言葉は、本当に今の僕が高校生の僕に語りかけているのだろうか?

それとも、今の僕が今の僕に語りかけているのだろうか。

楽に生きたい

楽に生きたい。心からそう思う。
誰かに命令されて必死こいて生きたくない。
その思いは、ここ数ヶ月でまた再発している。
まあ今、色々あって極めて自分に合わない仕事に巡り会ってしまったからなのだけれど。
幸いその仕事は10月で(ほぼ)終わりだが、結果的に自分の職業感に対して大いなるトラウマを抱くようになってしまった。

はっきり言ってしまえば、僕はITエンジニアでそれなりにゴリゴリやってきたのだが、ITが割と嫌いになってしまったのだ。

はっきりとした気持ちの沈み込みを感じていた。
「どう楽に生きるか」ばかり考えていた。

セミリタイア動画を見たり。


www.youtube.com


pha氏の本を読んだり。

大原扁理氏の本を読んだり。

移住について調べたり。

そして、そんな日々を繰り返した僕は。

司法試験の勉強を始めた。
今、2ヶ月で100時間ほど勉強し、1ヶ月50時間だと短すぎるなぁ、と勉強時間の増やし方を悩んでいるところである。

……どうしてこうなった。

楽しくない

楽に生きたい。その言葉に嘘はない。嘘はないはずなのだ。
だが、楽してると楽しくないのである。

……いや、これは違うなぁ。いかにも意識高い系ビジネスマンが言いそうで反吐が出る。

早めに仕事を切り上げて、仕事を忘れてストイックにゲームする。YouTubeを観る。映画を見る。酒を飲む。
これでいいのだ、と思う。

思うのだが……
……思い、きれないのである。
ぼんやりとした不安が自分を覆う。

それは僕がITエンジニアという基本的に勉強必須の世界に身を置いているからかもしれない。
だが、ITエンジニアは全員が勉強しないと生きていけないかと言えば、そうでもない。
高望みしないのであればそれなりにやっていける。
少なくとも、「5年勉強してないからクビ!」みたいなことにはそうそうならない。
まぁめっちゃしんどいことにはなるだろうけど。

……めっちゃしんどいことにはなるだろう。
……めっちゃしんどいことに。
なるだろう。

……僕は。
この、「予期不安」に、めっぽう弱い。

いや、予期不安に強い人なんてこの世にはいないのかもしれない。
それが生物の摂理だからだ。
現在の人類は、予測し、不安になることで外敵から食われなかった生き物たちの子孫であるという話を聞いたことがある。

結局、安心を得るためには不安を消すほど将来に備えるしかない。
だがそうすることで「今」は削られていく。
特に「ITエンジニアとして生存するためにITの勉強をする」のループには疲れた。
勉強しても勉強しても、楽にはならないのだ。
「キャリアアップ」は楽になることを意味しない。
今の位置に留まる辛さを取るか、キャリアを重ねる辛さを取るか、それだけの話だ。
どちらかを取れるだけマシだ。
自分のように、第三の選択肢に縋る人間もいるだろう。

今の自分に半隠居する勇気は無い。大型バイクのローンも残ってるし、バイクから降りる気はない。
あるいは仮に半隠居と言わずとも移住したとして、「どんな辛い仕事でも、どれだけ年収が下がっても、この場所で仕事ができるだけ十分なんです!」と言って辛酸を舐めるような生き方はしたくない。

地方で生きるのが楽ならばそうしている。
でも、本当は東京が一番僕みたいな人間にとっては楽なんじゃないか?という気もしているのだ。

そうして真剣に死ぬほど自己分析を繰り返した結果、なぜか司法試験の勉強を始めていた。
本当になんでだよ。

そんな自分に酔っている

結局のところ、そうやって苦しんでいる自分を愛してしまっているのかもしれない。
ネガティブでいることで誰かに優しくされることを望んでしまっているように。
いわゆる「疾病利得」というやつだ。

ごくシンプルに「リスクを恐れている」というのも否定できない。
楽しく生きるためには、リスクを気にしない精神が必要だ。
それを意識しているかどうかは別だが。

大原扁理氏のように「年収90万円でハッピーライフ」って、独立起業のリスクより大きなリスクを取る勇気が必要な気がする。
そんな恐ろしい選択肢はなかなか取れるもんじゃない。

……まぁ、心のどこかではそういったリスクを取って、(大原扁理氏を悪く言ってるわけではないが)途方もなくぶっ飛んだ選択を取りたいという気持ちも心にある。

それと比べると、司法試験の勉強を始めるなんてものは、いたって常識の範疇で、なんら不思議はない。
世に医者と弁護士のダブルライセンサーは100名程度いるらしい。医療の勉強と司法の勉強を並立させるのと、ITエンジニアとしての勉強と司法の勉強を並立させる難易度は、おそらく後者が圧倒的に低いだろう。

本当に嫌いなこと、本当に嫌なことは、人間できないようになっている。
それでもなんとなくやっているということは、何かそこに、それなりの理由があるものなのだろう。
……まぁその枠組みすら超えてしまって、仕事で精神を病んでしまう人も多々いるわけだけれど……

とは言いつつ

やっぱ移住してえなぁ。落ち着いたところで楽に生きたい。
だってダルいじゃん、生きるの。
忙しない流れに自分を置きたくない。
東京がやっぱり嫌いじゃないけど、嫌いだ。
仕事のストレスを取らなきゃ、という強迫観念じみた気持ちって、そもそも仕事のストレスが適度なら抱かなくていいわけでさ。

そういった悪いストレスから解放される、幻想みたいな仕事無いかなぁ。
それとも幻想と思い込んでるこの気持ちこそが幻想で、みんなそこまで追い込まれてないのか。
「幻想の中の田舎移住生活」みたいなのに憧れて、思い込みの中の田舎に移住するくらいなら、法律の勉強を選びたい。
結局どこまで幻想で、どこまで現実なのかなんて、リスク取らないと分からないんよね。

あー、なんていうか。
心底、本当に。
生きにくいなぁ。

……さ、勉強しよう。

ついでに

せっかくなので移住やお仕事のご紹介、募集してます。
諸事情ですぐには動けないですが。

Noteから帰ってきました

Noteから帰ります。
NoteのSNS感が、SNSを基本苦手としている自分にはちょっと相性が良くなかったのです。
多分あそこにいたらTwitterでフォロワーを多く集めたがってたあの頃の価値観に戻りすぎてしまう……
それ自体は悪いことじゃないんですけどね。

はてなブログでまたテキトーに何か書きます。

「息根とめる」という黒い太陽について語ろう

Ahoy, Mistirです。

閃光のようにインターネット世界に現れた「バーチャルYouTuber」、すなわち「VTuber」という存在は、よくも悪くもその光を安定して放つようになった。

良く言えばアイドル化、タレント化。
悪く言えば……ニコ生への回帰だ。

かつてVTuberが現れた頃、僕は心を踊らせた。
革命の気配を感じる青年そのものだった。

「ここから何が、どうなっていくんだ!?」

そんな期待に心を踊らせた。

あるVTuberの異常なハイテンションには元気づけられ…… 

www.youtube.com

mistclast.hatenablog.com

あるVTuberの生々しいあいりん地区ルポには大いに衝撃を受け、「聖地巡礼」までしたものだった。


www.youtube.com


そして現在。2021年。
VTuberは当時と比べてつまらない、などと言う気は全くない。
未だにVTuberは輝いている。
ホロライブもにじさんじも好きだし、先述した輝夜月は休止状態だけど、日雇礼子さんは細々と活動を続けてくれている。
フレン好きアンジュ好き

けれど「これからインターネットはどうなっていくんだ!?」というような、革命を目の当たりにしたような、そんな興奮を抱かなくなったことは……否定できない。

だが。
そんな僕の目の前に、現れた。
あの頃の革命の高揚を、かつての輝きを思い出させる……
凄まじいエネルギーの存在。

その存在は。
黒く、輝いていた。

その輝きは僕にとって、あまりに眩しく、そして暗かった。
彼女は僕の……
黒い太陽となった。

VTuber 「息根とめる」

多くの人に衝撃を与えたのはこの動画だろう。
VTuberの伝説はいつも切り抜きから始まる。
それは黎明期からずっと変わっていない。


www.youtube.com

ありったけの夢をかき集めることもできない、探しものもない、世はまさに大コンプラ時代、2021年。
そんなコンプラ遵守大原則の時代に、「アウトなのか!?セーフなのか!?」のギリギリラインをまさに攻めている。
しかも、……おそらくこれは「ガチ」なんだろうな、と思わせる「リアリティ」。

……本物、だ。
本物が、出た。

否、厳密に言えば「本物」かどうかなんて、どうでもいい。
だって "Virtual" なんだから。

そもそもVTuberに対して「本当にそうなの?」なんて訊くほど無粋なことはない。美少女錬金術師は美少女錬金術師だし、女騎士は女騎士だし、海賊船船長は海賊船船長なのだ。

……強い。

故に、「家賃滞納系VTuber」は「家賃滞納系『VTuber』」以上でも以下でもないのだ。……本人がそこまで絶対考えてなさそう、というのも強い。

ただ。
僕に衝撃を与えたのは、黎明期を想像させるような強烈な個性だけじゃない。

……正直に言おう。
僕は心底、彼女こそが「ある人々」を導く黒い光……黒い太陽なのではないかと思っているのだ。

ある人々、とは?

ーー自分を認められない人々だ。

黒い太陽

仕事が上手く行こうがどうなろうが、自分を芯の部分で認められない。
自分を理屈で肯定したい、でもいくら理屈を並べても不安が拭えない、そもそもそんな理屈に頼ろうとしている自分が嫌いだ。
嫌いで済めばいい、下手すると「許せない」。

そんな人間は……端的に言おう。
まず、上を見て生きられないのだ。
上を見てもそれはモチベーションにはならない。
黒々とした気持ちを生み出すだけだ。

だが、誤解しないでほしい。
とめる氏を「見下して安心する」という単純な話ではない。
もっともっと下劣な人間は山程いるし、それを見たところで腹立たしく思うことこそあれ、安心などしない。

彼女は、魅力的なのだ。純粋に。

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堂々とするしかないじゃんwww
(中略)謙虚になれるやつはこんなことしねーからwww

(32:35-)

常人には耐えられないような状況下で、それでも卑下しない、自己肯定の権化。
そして哲学性すら感じさせるような、明後日の方向に磨き抜かれた思想、思考。

弱いところを見せるとさらに攻撃されるんよwww

(35:05-)

そんな黒い輝きを見ていると、圧倒されながら……こう、思えるのだ。

「俺は、生きていて良いんだ。それなりには正しく生きてるんだ、俺は」と。
「俺は俺を許して良いんだ」と。
そして同時に、「人の強さ」を信じることができるようになる。

彼女を太陽と呼ばず何と言おうか。
彼女は可愛い、そしてだんだん……潔く、カッコよく見えてくるのだ。

そして純粋に、自分にはたどり着けないところに在る彼女に対し、畏敬の念を覚え始める。
まるで僕は太陽に憧れるイカロスだ。
太陽は天上ではなく、地下にある。それでも太陽は、熱く鈍く、輝いている。

近づきすぎると翼が溶けることを忘れないようにしよう……

要約

推せるッ!!!!!!!!

余談

「え?君は家賃滞納して大家さんガン無視してる人とか肯定するの?」って言われたらこう返そう。
「海賊船船長推してるファンは略奪行為肯定してることになるの?」と。

お読みいただきありがとうございました。
ではまた。

 

大人になるってこと

大人に憧れてるうちは子供なのか。
大人に憧れた瞬間、実は大人になってるのか。

大人のコンテンツを好きになった自分に気づいたとき、大人になってるのか。
大人のコンテンツを好きになった自分に気づいたとき、それはまだ子供の証拠なのか。


大人のコンテンツを好きになったことが子供を脱した証明で、それは大人になったことと同義なのか。
大人のコンテンツを好きになりながら、まだまだ自分はガキだと自嘲しているとき、それは大人の特権を享受しているのと同義なのか。
あるいは、大人なんてものはどこにもいないのか。
俺はガキだ、とそう思うことが大人の条件なのか。

まだ俺はガキだよ、と思うとき、それはもう十分老けちまってる証拠なのか。
そう思うがゆえに、俺はもう老いているのか。

自分が歳をとったことに絶望すること、まだガキであることに絶望することは矛盾しないのか。
結局俺は今、なんなんだ。どこにいるんだ。

そうやって悩みながら、今、28歳、色々あって、色々ありながら、生きてます。

と。
イエモンの『聖なる海とサンシャイン』を聞きながら考えてました。


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何かをエラソーに語るためには、もう少しだけ時間がかかりそうです。
でも、語りたい気持ちは消えちゃいません。

またどこかでお会いしましょう。
ではまた。

 

真に受けるな!向き合うな!

こんにちは、Mistirです。

お察しの通り、かなり長い間ブログを書くモチベーションが消えていた。
書いてもあまり読まれなくなったから……というのはあるっちゃあるのだけれど、そもそもTwitterでの更新報告もやめちゃったし、もっと言えば書かなくなったから読まれなくなったわけで、これは卵が先か鶏が先かみたいな話だ。

実際のところ、仕事が忙しなかったというのが大きな理由の一つだ。
「忙しい」という表現はあまりしないようにしているが、とにかく「忙しなかった」。
どう違うのか、というとこれは僕の定義なのだが、「忙しい」と言うとどうも物理的に時間が取れないイメージになる。
「忙しない」というのは、なんというか、「ありとあらゆる種類の雑多な出来事が舞い込んできて、思考のリソースを割けない」というようなイメージだ。
ブログを書いていなかった理由は、まさに後者だ。
昔からこのブログを読んでくれていた人は、僕がフリーランスのエンジニアであることを知っている人もいるかもしれないのだけれど、最近ベンチャー企業に就職してしまい、しかもそれなりの立場になってしまったのであった。

それで、しばらく真っ当に仕事を頑張ってきたけれど……
ふと気付いた。

あまり人生やら仕事やら、あるいはブログであるような趣味でさえ……
「真に受け」ちゃダメだな、と。
「向き合う」のは、ダメだな、と。

奇をてらったことを言いたいわけじゃない。
今の世の中、もし「この世の全ての情報と真剣に向き合った」場合、どんな存在が「真っ当な大人」の基準なのか?と考えると自ずと分かる。

多分……
「日々日経新聞から情報を収集し、今後のグローバル社会のために英語など使えて当然、もちろん恋愛も経験しており、プログラミングスキルも習得済み。老後のために2000万円くらい貯金する目処があり、余暇の時間はスキルアップに費やし、コミュニケーション能力も高く、筋骨隆々体脂肪率は12%、でもオンラインサロンとかには入ってないしその代わり日本の歴史問題は熟知している(ただし思想的に偏っているのはダメ)、経済はマルクスからピケティまで完璧。その上で絵が描けたり音楽が作れたりクリエイティブ活動もできてて、承認欲求は自分で満たせて、副収入も日々得ている」みたいな……
「この世のどこにも存在していない化け物」だけが「基準」になっちまうんじゃないか。

有名なニート(今は何してんだろ?)のphaさんも、もうずっと前から言ってたことだけどさ。

しないことリスト

しないことリスト

  • 作者:pha
  • 発売日: 2016/03/04
  • メディア: Kindle版
 

「普通」とか、「こうあるべき」みたいな基準がとんでもねえことになってる。
 
話は変わるけど、少し前、バイクに乗り出したばかりの頃。
その頃、普通の企業の普通の社員だった僕は、閉塞感に耐えかねて色々なところを走っていた。

バイクで走る理由の一つは、「こんなところにも人生がある」ということを認識することだった。東京に住んでいると、ここだけが唯一の人生だと錯覚してしまう。
それが錯覚だときっちり認識するために、バイクに乗っていた。
実際は、「こんなところにも家があるのか!」っていうくらいの山奥にも家はあるし、驚くような場所に人の生活がある。

けれど、気付くとバイクで遠くに行くことも惰性になり、それを忘れてしまっていた。
……否、フリーランスで生きていた頃はそれを別に思い出さなくても良いほどに僕は閉塞感や周囲の押し付ける義務感から逃れられていたのだ。
一方で、また最近「僕が僕に求める基準がとんでもねえことになってるな」と、明確に自認する必要を感じ始めている。
それは周りから求められているのか、それとも自分が自分に求めているだけなのか、どちらかはよく分からないけど。

でも本当に大事なこと以外のあらゆる情報に対し、「右から左へ受け流す」くらいの「強い意志」が必要なのは間違いない気がしている。
「強い意志」っていう強い表現を使ったのは、今の世の中、「情報を集めること」よりも「情報を避けること」の方が圧倒的に難しいからだ。それには強い意志が必要だ。
受け入れることよりも、受け流すことの方が難しい。

さて、「受け流す」とはどういうことか。

例えば、僕が長野の山奥に移住して農業を始めた人間だったとする。
農業人口は減っている。若年層で農業を始めるという行為だけで尊い。そのはずだ。少なくとも僕はそう信じる。
そんな僕に、「これからは英語が必要」とか、「プログラミングスキルが重要」だとか、そういうことを言ってくるやつがいたら、「うるせーバカ」で終わりだ。
「受け流す」っていうのはそういうことだ。

「必要な情報」っていうのは、立ち位置や目標から逆算されるものだ。
「誰にとっても必要な情報」なんてものはこの世にそうそう存在していない。
仮に存在していたら、それはどこかで大体の人は身につけているはずだ。例えば「歯が傷むなら歯医者に行くべきだ」とか。
症状でググってはいけない。

finders.me

けれど、腐るほど毎日湧き上がっている情報に身を委ねすぎると、「誰にとっても必要な情報」が腐るほどあるように感じてしまう。

結論、それは嘘なのである。
いや、本当かもしれないけど、多分だいたいの人にとっては嘘なのである。

誰しもが小学生の頃とか中学生の頃に「こいつ、今後生きていけるのか?」みたいな奴に出会ったと思う。だけどそういうやつほど地元で結婚して適当に真っ当な人生を送っていたりする。
そいつらに英語教材を送りつけてあげる必要は、誰にもないのだ。

情報だけじゃない。
出会う人、出会う物事、出会う仕事、出会う世界。それら全てに真正面から向き合いすぎると、どん詰まりだぜ。最近そう思うのだ。

今日は考えていることを適当に書いただけだ。誰かのためじゃない。
この記事自体、自己矛盾だ。だから読んだらその後、捨ててほしい。


NakamuraEmi「大人の言うことを聞け」Music Video


お読みいただきありがとうございました。
ではまた。