MistiRoom

自由であること、語ること。

「潜在的差別主義者」を「正しさ(あるいはポリコレ棒)」でぶん殴って一体どうなるの?

こんにちは、Mistirです。

話題になっている記事がある。

yuhka-uno.hatenablog.com


以前話題になった記事

withnews.jp

に対する(概ね批判的な)批評なのだけれど、この記事が結構絶賛されている。
筆者の宇野ゆうか氏のことを僕はよく知らないのだけれど、この記事に関しては確かに「正しい」と思う。

そう、とても「正しい」。

だけど、同時にとても「危険」だ。
もっと言えば「マイナスが大きすぎる」。

この記事が語っていることは「正しい」、故にそれを批判する僕も大いに批判されるかもしれない。
けれど、これは絶対に語らなければならないと思った。
「正しさ」を目的とすると、結果が良いものになるとは限らない。

……できれば上の2つの記事を先に読んでから、この記事をお読み頂けると嬉しいです。
※この記事には何度も「正しい」という言葉が出てきますが、意図的に多義性を含ませています。「(少なくとも一見して)筋が通っている、あるいはそれ以上のエビデンスが含まれている」という程度の緩い定義で読み替えてください。場合によっては「(自分にとっての)正しい」の意味で使っていることもありますが、ご了承ください。

 

 

ポリコレ棒で裁かれるのを恐れる人を、「正しさ」で裁くこと

結論を言えば宇野ゆうか氏の記事がやっていることはまさにこれなのだ。
「ポリコレ棒で裁かれるのを恐れる人を、『正しさ』で裁いている」。

「ポリコレ棒で裁かれるのを恐れる人をポリコレ棒で裁いている」とは言わない方が良いかもしれない。
「ポリコレ棒」という言葉は見る人の視点、主観によって意味が変容するからだ。
この言葉は割と危険なんだけれど、厳密な定義についての議論は割愛させて頂く。

単純化して、
差別に関しての議論がある程度論理的に議論できる人の「正しさ」は、それに何らかの理由で反感を抱く人にとって「ポリコレ棒」と呼称されることがある
というくらいの定義で僕は認識している。

「差別を指摘されると、『お前は罪人だ』と言われているようで、ムカつく」ということは、つまり、自分は実のところ、「相手の傷つきよりも、自分の『いい人でいたい』という願望のほうが大事だ」ということに他ならない。Bさんは「罪人」になることをとても恐れているようだが、自分のうちに偏見があることそのものより、そういう態度こそが一番罪深いのだと思う。

 

「ポリコレ棒で殴られる」というが、差別されている人は、頻繁に「差別棒」や「偏見棒」で殴られている。「社会的に葬られる」と言うが、LGBTの人たちは、それこそ、周囲にゲイだということが知られると、仕事を失い、家族にも理解されず、実際に社会的に葬られてきた。LGBTの自殺・自殺未遂率は、そうでない人に比べて高いことを示すデータは沢山ある。それに比べれば、この人の言っていることの、なんと甘ったるいことか。

(赤字強調はMistirによるもの)
 
「B氏は罪深く、甘ったるい」。
そうだ、その通りだろう。正しい。実に正しい。

僕の過去の話をすると、例えば散々話題に挙げられている「保毛尾田保毛男」なんかに関しても、はっきりと「時代遅れだ」と断言したことがある。

mistclast.hatenablog.com

できればお読み頂きたいのだが、僕の論旨は簡単で
「社会が堅苦しくなったから保毛尾田保毛男が容認されなくなったのではなくて、社会が容認する笑いの質が変わったから保毛尾田保毛男が容認されなくなったのだ。それに気付けないテレビ局は時代遅れなんだ」というそれだけの話だ。

「正しさ」を軸に語るならば、「保毛尾田保毛男」が「笑われていた」時代から「悲しい思いをしていた」人たちはたくさんいるのだろう。
その辛さ、悲しさと比べると、宇野ゆうか氏の指摘する通り、「かつて笑っていた思い出を批判されるのが辛い」というB氏の発言は確かに……とても甘ったるい。
その通りだ。
ましてや宇野ゆうか氏は「自殺率」という間接的エビデンスまで示している。
完璧だ。

だが、それでもあえて言いたい。

「『過去の自分が批判されるのが嫌だ』、そんな他人の甘ったるさを断罪して、残るものはいったいなんなんだ?」

宇野ゆうか氏の目線に立てば、簡単な話でこれは「ポリコレ云々以前に『正しいこと』」なのだから、断罪(という言葉が大げさなら「批判」)して当然だろう。

だがB氏の立場に立てばどうなる?

「ああ、やっぱりポリコレ棒で『断罪』された。こんな思いをするなら、俺は正しくなくていい」
となるだけだろう。

一体、それで誰が得をするんだ?
誰が幸せになるんだ?

B氏のような人が「ああ、俺は間違っていたんだな、(宇野ゆうか氏の)記事を深く読んで改めよう」ってなるかもしれない。
でもそれは……はっきり言って稀だろう。

あまり引き合いに出したくないんだけれど、トランプ政権のことを考えてみると簡単だ。
「ああ、やっぱり俺たちは断罪されるんだ。奴らは俺の『敵』だ」
と、そう認識する人たちの声こそがトランプ政権を生んだ。
トランプの政治の是非は置いといても、僕はそう考えている。

強調しておきたい。
宇野ゆうか氏の言っていることを容認出来ないんじゃない。
宇野ゆうか氏の「戦い方」を容認出来ないんですよ。

世界は「正しさ」で疲れている

僕は最近Twitterから離れている。

mistclast.hatenablog.com

僕はもう、叩きつけられる正論に少々疲れてしまったようだ。

Twitterってよくも悪くも「弱者の巣窟」だって思ってる。
「弱者」って言葉はあまりにも曖昧だから、「社会で生きづらい人」と言い換えてもいい。
社会で隠されている「社会の悪」が、理性で、論理で、コトバの力で顕在化させれれるのがTwitterの良いところだ。
そう。
良いところ……なんだけど。
僕は少し疲れてしまった。

だからこそ、B氏のことに関しては「無邪気すぎる」とは思いつつ、正直なところ……気持ちに関してはよく分かる。
ブログのタイトルでは「潜在的差別主義者」っていう言葉を使ってしまったけれど、他に良い言葉が浮かばなかっただけで、あまりこのような批判的な言葉を使いたくない。

もっと言うなら、みんな「潜在的差別主義者」なのだ。
20年後と言わず、3年後には今笑っていることが禁忌の扱いを受けているかもしれない。
そのことがよく分かるのだ。

このことに関して、
「僕は正しさに疲れてしまった」
というと少し伝わりにくいかもしれない。

だからもう少し範囲を絞って言えば、だんだん「考えが古い」人の気持ちも分かるようになってきたのだ。

例えばだけど、今Twitterで
「日本人は残業が足りない!もっと頑張って残業して睡眠時間も削れ!」
なんて言ったら大炎上だろう。

実際、僕もそういう人が大嫌いだ。許せない。
……だから、会社でもそれに少しでも近いことを言った会社のエラい人に対して「いや、その考え方は良くないですよ!」とか普通に言ったりしていた。
そしたら「ウチの会社の鉄砲玉」とか「超サイヤ人(戦闘民族)」とか言われるようになった。

つまり、今の時代の(一種SNSを中心とした側面から見た)「正しさ」の目線に徹底的に立っていた。
というより今もそうだ。

だけど。
「常識」とされていたことが変わること、これまで信じていたことが無意味な、無知の象徴だとされること……
その辛さ。
そういったものが、なんとなく分かるようになってきたのだ。
実際、そのエラい人も残業して頑張る人を評価しつつも、僕のような過激派定時帰宅社員の気持ちも汲むために凄く気を使ってるってことが分かるようになった。

もちろん、過去の価値観に固執し、現在の価値観を否定し、現在の価値(あるいは「正しさ」)の中にある人の邪魔をする人は批判されて当然だ。
だけどB氏は仮に間違っていたにせよ……
「今後死ぬまでLGBT(あるいはマイノリティ)の敵であり続ける人」かというと、決してそうではないはずなのだ。
むしろ、そういった人たちに「正しさっていうのは、ただただ波や風のように移ろうもので、怖いものでもない」ってそっと伝えることこそが本当の「正しさ」なんじゃないか。

宇野ゆうか氏の「正しさ」は、「正しくないことに開き直る人たち」を増やすだけの気がする。
それは誰にとっても幸せなことじゃない。

「正しくない人」と歩むこと

「キモくて金のないオッサン」という概念が話題になることがある。

togetter.comつまるところこの概念は、
「弱者として救済されず、それゆえに最も立場の弱く、救いのない弱者」
の象徴だ。

グローバリゼーションや平等な社会の実現で「キモくて金のないオッサン」をはじめとした「顕在化されにくい弱者」にもどうやって目を向けるかっていうのは、よく指摘される課題だ。

ここにもう一つ課題を加えるとすると、
「正しくない人」と「正しい人」がどうすれば共存できるか。
どうやって最適解を得ていくか、といったことも指摘できる。

「俺は正しい」は、正しくないんですよ。たとえ正しくても。

「正しさ」は、必ずしも「最適」「最善」ではないのだ。
……と、ここまで書いて……辛くなってきた。

この記事は一体なんなのだ?

書く前から薄々気付いていたけれど、僕のこの記事は結構、卑怯だ。

「正しい」っていう言葉を何度も使っているけれど、それが非常に「曖昧だ」と分かった上で使っている。
何より。
「この記事そのものが、『正しさ』の袋小路に陥っている」。
はっきり言って、以下の言葉を突き付けられたら僕は一度黙るしかないのだ。

「で、Mistirさんよ。アンタは正しいのかい?」

しばらく黙った後、僕はこう応えるだろう。

「正しいこともあるだろう。正しくないこともあるだろう。それは視点次第だ」と。

これは、B氏の立場と何が違うのだろう?
書いていて苦しくなってきた。

袋小路だ。
正しさの、……あるいは「語ること」の、袋小路。
なんやかんやで、僕自身もB氏を批判するような論調……というか、言葉の問題とはいえ「潜在的差別主義者」とまで言っちゃってるわけで。
どうしたらいいんだ?僕は。

正解は「沈黙」なのだろうか?
いや、それは違う、確実に違う……。

ここまで来てこんなことを書くと卑怯に卑怯を重ねるようだけど。
僕の今回の記事は、ただ叫ばなければならないと思ったから叫んだ、それだけの話なのかもしれません。
……ここにあるのはなんなんだろう。「正しさ」?それとも……

お読み頂きありがとうございした。
また次の記事でお会いしましょう。