Minakami Room

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『万引き家族』が描いたのは、究極の「グローバリゼーション」だった

こんにちは、Mistirです。

昨日話題の『万引き家族』を観てきた。

……結論を言えば。
「大傑作」でした。

監督がインタビューでやや政治的な発言をしたこともあって、毀誉褒貶の落差が激しい作品ではあったんだけど、この作品はどう考えても「政治的枠組み」に収まる作品じゃなく、もっと大きなものを描いている作品だと感じた。

Twitter上では例えば「こんなものは本当の貧乏ではない」とか「こんなことをするのは日本人ではない」とか……
一言で言って「うるせえ!馬鹿!黙って映画100回観ろ!!!」である。

僕はこの映画を「グローバリゼーションの究極形態、その象徴」として解釈した。
その理由を語ろう……
……と思ったのだけれど、想像以上にまとまらない。
だからつらつらと、この映画を観て思ったことを書こうと思う。

なるべく観ていない人に配慮して語るけれど、深く語ろうとするとどうしても少々ネタバレを含んでしまう。そもそもこの映画はネタバレによって評価が変わるような映画では無いのだけれど、その点をご注意の上楽しんで頂けると嬉しい。

 

 

全てが混ざり合う世界で

長々と語る意気込みだったものの……
実は僕が語りたかったことのかなり多くの部分がこのブログで先に語られている。

note.mu

だから、僕は上のブログに付け加える形でしか語れない。
というのも……

 こういう、ある意味で「中途半端」な描写がこの映画の特徴です。『万引き家族』はあらゆる意味で二元論的な線引きを拒否している作品なのだ、といういい方もできるでしょう。

 白か、黒か、善か、悪か、被害者か、加害者か、許されるべきか、許されるべきではないのか、そういうシンプルな線引きそのものを否定して、「灰色の現実」を描いている。

 したがって、この映画に「わかりやすい悪役」は出て来ませんし、「わかりやすい救済」もありません。「社会が悪い」、「政治が悪い」といったテーマもまたない。

 「彼ら」を二元論で裁いたり許したりすることができないのと同様、社会もまた灰色の混沌であるということなのだと思います。

この解説がこの映画の全てであり、本質だからだ。
全ての境界が溶け合うこと。
極論、この映画で描かれているのは「それだけ」であるとさえ言える。

それはまさしく「グローバリゼーション」だ。
「グローバリゼーション」……この言葉は例えば国家や民族、っていう概念に紐付くことが多いけれど、より拡張した解釈として「全ての境界が消え失せること」としてこの記事では語りたい。
その点でこの映画は究極の「グローバル」映画だというのが僕がこの映画に見出したモノだ。

「すべての境界が溶け合うこと、それだけ」。
だが同時に、「それ」の描き方はあまりにも徹底している。

例えば「グローバリゼーション」という言葉一つで嫌悪感を抱く人もいるだろうし、はっきり言って僕もそうだ。なんとなく「良いもの」「綺麗なもの」として扱われているけど、現代ではその歪みも噴出している。
……とまぁ。
そんな「当たり前」のことなんて、この映画は二重にも三重にも織り込み済みなんですね。

だから最初に戻るんだけど、例えばTwitterなんかで散見された「万引きする家族を『肯定的に』描いてる」とか、そういった発想って「肯定する」と「否定する」っていう、二元論的「境界」が発想としてそこに存在しないと起こり得ないものなんですよ。

だから映画をしっかり観終わったら「そんな発想」は、映画のスケールの前に圧倒的に縮んでしまうことになる。

名作と呼ばれる文学は、映画は、時代に取り残されてしまうものではない。
時代を問わず普遍的に通用する作品、そんな作品が「名作」と呼ばれる。
そして同時に……「名作」は「時代を切り取る」ものなのだ。

今の時代、映画、ドラマに問わず、ポップソングに対してさえも……例えば「この作品は◯◯を『肯定』しているのか?」「『善』か?」「『間違って』いる」……そういった二元論的な発想での評価が広がってしまう。

「素晴らしい作品」。
「駄作」。
作品がそのように評価されることは当然のことだろう。
だけど、そういった作品自体の評価というよりもさらによく分からない領域に踏み込んで、
「この作品は『悪』だ」
といったような謎の倫理基準によって、作品が「判断」されてしまうことがよく見られるようになってきた。

それは時として「暴力」になるのだ。

「何が正しい」?

さて。
印象的な『万引き家族』のこのメインビジュアル。

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多分、僕もそうなんだけど「絆」って言葉に嫌悪感を抱いてる人は多くて、例えば「万引きして誰かを傷つけているのに何綺麗事みたいにニコニコしてんだよ!」といったような、そんな腹立たしさを感じた人は多いと思う。

結論を言えば、「そういった人ほど見るべき映画」なのだ、この映画は。
この映画は「絆ってそもそも綺麗なモノ?」っていう「問いかけ」も十分に描かれているのだから。
その問いかけは同時に「そもそもグローバリゼーションってそんな綺麗なモノ?」っていう問いかけにも繋がっている。

まず、このビジュアルに写った「家族」が「いわゆる血の繋がった家族」ではないことは、序盤で気づけるようになっている。ラストまで観ても多少分かりにくいくらい、結構複雑な関係性で、完璧に理解するためには何度か観る必要がありそうだが、最低限「いわゆる血の繋がった家族ではない」ことが理解できていればそれで十分なようにも思う。
ちなみにこちらの記事にそれぞれの登場人物の解説はネタバレ付きでまとまっているので、興味のある方は参照いただきたい。

www.club-typhoon.com


この物語、「あらすじ」としてまとめるのが滅茶苦茶難しいから、「最大のターニング・ポイント」から逆算して考えていきたい。

僕はこの映画で最大のターニング・ポイントは、「一家」の外側のある登場人物が「一家」のある人物に対して……

「それは本物の家族ではない」「血の繋がった家族にいることが一番の幸せだ」と説教するシーンにあると考えている。

このシーン、この映画では珍しいくらいの「わかりやすい」シーンだ。


何故ってこの映画では「わかりやすい感動」、「わかりやすい人の感情の動き」、そういったものは過剰なまでに避けられている。
人の死でさえも、悲しいBGMがかかったりしつこい涙の演出があるわけではない。あくまでも一つのイベントとしてスルッと流されてしまう。

そんな映画の中、非常に「露骨」なシーンだ。
徹底的にドライに描いてきたこの映画の中、急に「ドラマ」が混ざり込んできてクラっとなるシーンでもある。
で、多分このシーンを観た大半の人はおそらく「イラッとする」か「複雑な気分になる」。
少なくともここまで観た段階で「本物の家族なんてものが単なる虚構であること」に誰もが気付いているからだ。
……否。仮に「本物の家族なんてものがあるとしても」、それが「素晴らしい」とか「幸せだ」とか、そういった価値判断は「拒絶される」。

そのことを踏まえて序盤のシーンに戻ってみよう。

この映画は鮮やかで手慣れた「父役」と「息子役」の「万引きシーン」から、お腹をすかせた子を見かねて連れ去ってしまう「善意の誘拐シーン」まで、さらりと描かれる。
実際それが(善意であったにせよ)「善行か悪行か」判断することに意味はないだろう。
だけど一方で、先述した「説教シーン」まで観てしまうと「善行だった」と遡って判断してしまいそうになる。

……のだけれど。
その「判断」さえ疑わしくなるような大量の「仕組み」が散りばめられているのがこの映画だ。

端的に言ってしまうと、あの「一家」はそもそもクズの集合体である。
そんなクズの集合体の中にあり続けて、良い結末を迎えられるわけがない。

……のだけれど。
そのクズの集合体が、誰かを救う。誰かを傷つけながら、同時に誰かにとってかけがえのない「共同体」になる。

その「クズの集合体」の中にあった絆は「偽物か?」と考えると、これが難しい。
「本物」として機能しているように見えながら、クズの集合体である「一家」はいざとなるとあっさりと「実利」を取り、それを捨て去ろうとする。
「だから」遡って「偽物」扱いできるのか……というと。これまた難しい。

……と。歯切れの悪い語り方をしているのは。
そもそもこの映画自体猛烈に歯切れが悪いからだ。
「こうとも言えるし、ああとも言える」。そればかり。

さらにその構造を「メタ」で囲っている。

僕らは例えば「本当に貧乏ならこうある『べき』」といった「本当の家族ならこうあるべき」だとか、そういった謎の「『べき』論」を押し付けてしまう。
ときには、作品に対してさえも。
この作品が世間を賑わした際に与えられた批判はそのようなタイプのものばかりだった。

でも実際のところ、そんな「本当の家族」や、「本当の絆」、「本当の貧乏」、……そういった「純粋な概念」はどこにあるのだろうか?

どこにも、ないのである。

僕らはどこにもない「虚構」を、どこかにあるものとして、勝手に何故か「扱って」いる。

その「虚構」を、……ついに僕らは「虚構に対して」押し付け始める。
この「虚構作品」は、「本物」ではない、と。

そんな矛盾に塗れた感想を、平然と抱いてしまう。

そんな思いを平然と撥ね付ける『万引き家族』という作品は、「現実(リアル)」なのだろうか?否。「虚構」だ。
あるいは……

「現実」と「虚構」の境界線まで溶け合った、……その境界線まで侵食する、何か。
現実に対する挑戦状

僕は「説教のシーン」が「ターニング・ポイント」であると語ったが、映画で一番胸が熱くなったシーンは「母役」が「息子役」に対して、本当の親のことを語るシーンだった

結局、そのシーンで語られていることも一つだけ。
「あとは自由だ、自分で判断しろ」なのだ。

……なんて厳しくて残酷で、美しいシーンなんだ。
そして僕らには、どれだけ厳しい問いが叩きつけられているのだろう。

「この時代に」

今更ではあるが。
この世は、綺麗なモノもどこかしらきったねえのである。
そしてきったねぇモノも何かしら綺麗なのだ。

「本物の絆」なんてものは、あっさりと崩壊する。
だけど同時に誰かを救うし、その「本物の絆」が「何かしらの血縁」に勝る。

誰かが救われながら、誰かが泣いている。同時に誰かが死んでいく。けどそれは別に悲しいことじゃない。「どうせ地に帰るから悲しいことじゃない」とか、そんなキレイなものじゃなく、単純に悲しいことじゃない。
ただスルーされる一事象に過ぎない。
後には金が残り、死体が残る。

誰かは確かに救われる。だけど誰かが誰かを救うのは、カネのため。だけど誰かは誰かに救われた。その事実はあった。

犯罪の果てに誰かが救われるけれど、そもそも犯罪は誰かを傷つけるから犯罪なのだ。

……これ、全部この映画で描かれてますからね。恐ろしいわ。

そういった実際のところファジーで無神論的で冷笑的極まりないこの時代に、誰もが「確かなもの」を求める。
それは昔の欧米諸国だと「キリスト」で良かったのだろうし、数十年前の日本だと「出世」で良かったのだろう。
だけど今は、どっちもそれほど有効なものじゃない。

そして「確かなもの」「本当の正解」を突き詰めた結果、世界は「ポリティカル・コレクトネス」と筋トレで埋め尽くされる。

mistclast.hatenablog.com

真面目な話、最近にわかに筋トレブームが起こってるのは「正しいもの」が信じられない、見つからない世の中がここに来ているからだと思う。

筋トレは別に良いとしても、ポリコレが世界に窮屈さをもたらしつつあることは否定出来ないだろう。
僕はその理由が、ポリコレはまだ十分に成熟していないせいで、「弱い人間の弱いが故のきったねぇ感じ」を許容できないからだと思っている。

この作品で描かれた「一家」は「貧乏なのに」、酒も飲むしタバコも吸うし、わりと滅茶苦茶だ。繰り返すようだが、クズの集合体だ。
実は一番近い概念は「キモくて金のないおっさん」だと思っている。

togetter.com

弱者も貧乏も綺麗なものじゃないし、むしろきったねぇモノ、気持ち悪いモノをポコポコ生み出すものなのだ。
だけどその「事実」を許容する程に「ポリコレ」も「世論」も成熟していない。
そしてどうなるかというと、「恐怖」やら「嫌悪感」と言ったような形にネジ曲がって噴出する。
「こんなものは本物の貧乏じゃない」だとか「こいつらは本当に困っているわけじゃない」といったようなこと言う人、いるでしょう。
「それじゃまだまだ『困っている』とは言えない」、と。
「それじゃまだまだ『貧乏』とは言えない」、と。

それは時として「暴力」として機能する。
そこにクズさを、きったねぇ状態を許容する「寛容」はないから。
だから一定数以上の人が「寛容」な空間を求める。
たとえその空間が「万引きを繰り返すようなクズの集合体」だったとしても。
そしてその空間は、新たな枠組みを作り始める。

だが、そんな枠組みに対して、「世界」は厳しい。
かといってそんな枠組みに「属さなくても」生きるのは辛い。

こんな時代で僕らはどう生きていく?どう戦う?

……問い続けるしかないのだ。考え続けるしかないのだ。
どこにもない、どこにも存在しない「純粋で美しいもの」「純粋でキレイなもの」「純粋な清貧」、そんな幻想に甘えるな。
……厳しいけれど、仮にこの映画が僕らに突きつけてくるものがあるとしたら、そういったことなのだと僕は思う。

余談

僕が一番好きな映画は『百円の恋』という映画で、これまた安藤サクラが主演の映画なのだけれど……

百円の恋

百円の恋

 

この人の「ここにいそう」感、ホントに凄いと思う。この人がいるだけで空間が急にリアルになるんだもん。
そう言えばリリー・フランキーと安藤サクラといえばこれまた僕が大好きな映画のこちらにも出演していた。

リリー・フランキーはクソライター、安藤サクラは変人天才エッセイストって役だったんだけど、これがまた「リアル」なんですわ。「こんな人いそう」っていうリアリティが凄い。
そう言えばロバート秋山がそういった芸風に目覚めて開花しているけれど……

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安藤サクラとロバート秋山ってなんかオーラが近いような……
「安藤サクラ」で画像検索すると、たまにロバート秋山に似てる写真が出てくる。
……安藤サクラファンに怒られそうだ。僕もファンだけど。

creatorsfile.com

話は変わるけど、是枝監督が文科省の祝意を「辞退」したの、最初はぶっちゃけ「かっこ悪いなぁ」と思ってたんだけど、映画観た今なら少し分かる気がする。
フランスってもともとそういった「清濁も何もかも混ざり合う」っていう世界観に結構馴染んでるし、かつ日本の監督として距離をおいて付き合えるからカンヌの受賞事態は受け容れられるけれど、文科省からは祝意を受け取りたくない。
……そんな流れで「国家からの『承認』を受けること」をカジュアルに拒否した理由は、まぁなんとなくだけど分かる。なんとなく、だけどね。

余談終わり。

お読み頂き、ありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。