Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

【縮小版】コメントへご返信します(2015/12/15)

こんにちは、Mistirです!
更新最近サボってました。書くこと色々あるような無いようなって感じで。
一応書くならがっつり書くので、今回は縮小版って形でごく軽くコメントに返信しますね。
ちょこちょこ返信しないと、溜まっちゃってて……

では参ります。 

mistclast.hatenablog.com

 id:nonkini

正に地獄絵図!同感です。
紹介されてたブログ読んで、みんなで寄ってたかって攻撃してるの見て、背筋がぞーっとしました。御老人確かに口は悪かったと思うが、それを批判する者たちは本当に「善人」なんだろうか?自分は何様だと思ってるんだろう…。

コメントありがとうございます!
そうなんですよ、引用してたブログのまとめでの「総攻撃」見てゾッとしたから上の記事を書いたっていう経緯もあります。
「『批判者』は『善人』か?」……これはなかなか難しいんですよね。
もちろん、僕も「善人」じゃないってことで。

 ラオパン

クダクダと全部は読んでいませんが、この話の前提である「老人に席を譲る」が善行であるのが間違っている。老人が自分の座っている場所の近くに立っていれば別に良い行いをしましょうなどではなく立つのが当たり前。別に老人が座ってくれなくとも、別に感謝をされなくとも普通の行いとして立つ。人助けなどという概念が入るのが間違っている。
もしかしてこの老人その辺りに感じ入りそんな言葉になたかも。

コメントありがとうございます!だが全部読んでくれよ!!!! 
……というのはさておき。
いわゆる「善意の悪臭」は感じたのかもしれませんね。やはり引用した記事の冒頭部分に結構濃厚な悪臭を感じますし。まあ実際のトコロは分かりませんけどね。

 chaosdex

そもそも当事者じゃない人に開示する意味がどこにあるって思ってしまったが顕示欲かねぇ、せめてもの自己満足か

結局自己満足しようとしてるから歪んでそうやな

コメントありがとうございます!
まあこの中学生のショックを受けてそれを共有したくなる気持ちは分かるんで、 今後良い方向に行って欲しいですね。

 id:kakoooooi214

考えられるべき本質が状況と一般的思想によって見えなくなってしまうから、このような話はおもしろいですよね

コメントありがとうございます!
そうですそうです、本質が一般論に隠れちゃう。もちろんそこで見つけ出した「本質」もズレてるかもしれませんが、それでも一般論に隠れたものを探る作業はしたいですよね。

 オハナ

善行を行うことの難しさ、本当に感じます。
我が家の祖母も電車内で席を譲られて傷ついてました。「私はまだ立ってられた。自分はまだ老人じゃない。」って。でも、席を譲ってくれた人の気持ちを汲んで礼を言って座ったといってました。帰ってから、上記のような愚痴を私にこぼしました。
今回の記事の老人には、祖母のような「相手の善意を汲む」という気持ちがまったく無かったのだと思いますが、実際傷ついた側の愚痴を聞いている者としてはう~ん…と思ってしまう内容でした。傷ついた側が善意を汲んで気持ちを抑えなくてはならない、善意の“圧力”みたいなものは、やっぱり不自然だと思います。(この老人が祖母のように傷ついたのではなく、ただ絡みたかっただけだとしたら別ですが。)

ボランティアにしろ席を譲る行為にしろ「社会一般で善行」とされているけれど、そのすべてが受け入れられるわけじゃない。ケースバイケースで受け取られ方も人によって多様、という認識は必要だと思います。同じ人間などいないのだから、「善行」に対する返答を「感謝・肯定」のみに限定してキャッチボールを進めることは相手に対しての思慮を欠いているのかな、と思いました。

コメントありがとうございます!
そして素晴らしいご意見、完全に同意いたしますので僕は何も言うことが無いですw
ある意味僕らは「無頼である」ことも求められるんですよね。「相手が傷ついても俺は俺のためにやるんだ!」くらいの勢い。まあ、その勢いが誰かを傷つけることもあるかもしれないけど、それも覚悟しとかないといけない。
案外善行って気楽じゃないんですよね。気楽にやるのがベストとはいえ……。

 はな

ものすごく関係ない話ですが
席を譲るとか受け手が目の前にいる善行なら双方向コミュニケーションだから、改善もしやすくていいけど
ものを移動させる、付けっぱなしの電気やPCを落とす、など受け手と時間がずれていて、遭遇できない時、受け手が何かの強迫性障害を持っていたり、実験中だった場合、(張り紙等注意しておく必要があるとはいえ)損害賠償などを請求されてもおかしくないわけで、緊急性がない場合、行動に移す前にしっかりと思考しておくことは重要なのだろうなと。

コメントありがとうございます!
そうですね。結局は双方向できっちり認識がすり合わせられるなら、それがベストなんですよね。現実にはそれがなかなか難しくて。
相手が遠慮してるならそれでスパっとこっちは身を引く、そういうくらいの距離感もまた必要になってくることもあるでしょう。それってなかなか大事だけど難しいことですよね。

 邪眼 (id:yokosimamanako)

あああああ!!!
遅ればせながらコメントさせていただきます!
すみません!!

ちょっとTwitter眺めてたらこの記事ピッタリ(?)なツイート発見してしまって居てもたっても居られず勢いのままコメントしてます。

https://twitter.com/puttin_puddin/status/236156540053229568

要するにこういうことですよねってのを滅茶苦茶端的に言い表していると思うんですけどどうでしょう。

人助けをして文句を言われたら不快になるのって要するにこういった喜んでもらいたい、感謝されたいとかいう欲求を満たせないがゆえに生まれる不満が元なんですよねって。


あと、唐突ですが、ほんとこればっかりは譲って欲しい人は譲って欲しいとはっきり言える社会なら、譲ってほしくない人は不快な思いをしなくて済みますし、譲ってほしい人は譲ってもらえて嬉しいし、譲った側は譲ったことで怒鳴られたりしなくてすむのではなかろうかとかいう事をふと考えてしまったのですが、日本の「察しろ!」って感じの文化だと中々難しいだろうな~と。

 

コメントありがとうございます!
確認しました。まさにそういうことです!僕ももしかしたら「モノをはっきり言う社会」を求めてるのかもしれません。欲しいなら欲しいと言う、言われた側も嫌なら嫌
と言う、それで後腐れ無いのがベストなんですけどね。
引用されてるツイートに関してですが、僕は何事をするときも「俺がやりたいから、理由があるからやるんだよ」って、こじつけでも自分に言い聞かせてます。関係あるかどうかよくわかりませんがw

 BadBoy 17

みすちーさん、返信ありがとうございます。確かに、いま冷静になって読み返してみれば、私の文章には押しつけがましい表現が随所に見られました。
難解な長文を何気なく投稿したことも含めて申し訳ないです。

コメントありがとうございます!
前回の記事でも言いましたが、僕がイラッと来るのは「今回はぱっとしない」とかそういった言葉の節々で、長文とかそういったものは大歓迎ですよ。
なのでできれば言葉の節々をもうちょい柔らかくして下さい。そうしたら僕も冷静に反応できるので。……そうなんすよ、僕結構感情的なんすよ、御存知の通りw

 hokushi

高校時代に読んだ、リチャード・バックの小説『イリュージョン』を久しぶりに思い出しました。

「(人を傷つけることも含め)俺たちはやりたいことは何でもできるんだ」というセリフに、当時はひどくショックを覚えましたが、今なら納得できます。
人の行動は、全て自分自身で選択したこと。

もし機会がありましたらご一読を。

コメントありがとうございます!
いいですね。本当に、僕らは自由なんですよね。色々と。……そこから目を背けることで潤滑に生きてるって側面もありますけどね。
積んでる本が50冊に達しつつあるので、読みたいリストに入れておきますね。

受け入れない自由もあるけど、だからといって罵倒や否定で答える必要はどこにあるんでしょうか。
「自分はそれを受け入れたくない」を表現するために子どもを罵倒できる人間というのはマイノリティというよりイレギュラーです。
善行を選ぶ以上は感謝されないことも想定しておかなければ、というのは同意見ですが
罵倒や否定で返すというイレギュラーを選ぶ以上、「なんだこいつ、害意ありすぎ」という反応になることも想定しなくてはなりませんし
他人に害意を向けた時、共同体の中で安全策や対策を練る一環てして情報共有されることはままあるということも、覚悟しておかなければね。

また人間には「あまりに的はずれなことや意図と全く違うことを決めつけられて腹がたつ」ということも起きます。
仮にこのおじいさんが、まだまだ元気なのに老人扱いされて不愉快だったのだとするならば
同じようにこの中学生は、自分なりにその場に必要だと判断したことをやったのに、思考を持たぬマニュアル人間めがと勝手に断罪されて不愉快だったのですよ。

それらの点をまるごと無視して善人のみを批判してしまっている部分に違和感を覚えます。

コメントありがとうございます!
多分、ご指摘の点は本文の最初に指摘してますよ。

僕の考えを最初に言っておくと「①=口が悪かったこと」は十分に批判されて良いと思ってる。それも、当事者たる中学生によって。

この部分です。少なくとも「それらの点をまるごと無視」はしてません。
「口が悪かったこと」には、「中学生の内心を決めつけて断罪する」ことも含んでますからね。例えばここで「いや、譲られたくない」ってこの老人が言ってたなら話が別ですからね。
よろしければ再読してみてください。

 
今回はここまで。
まだの方は待っててくださいね。

お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で。

『男根のメタファー』を分析して、メタファーの面白さを語る

こんにちは!Mistirです!
いやー、最近ブログ書きたいって気持ちがすっげー衰えてたんですよ。

 
でも、もうなんか語りたくて語りたくて語りたくて震えるようなテーマがTwitterでトレンドに入ってた。
「男根のメタファー」ってワードだ。
 
もうこれがトレンドに入る意味がホントわかんねぇけど、ことの発端から整理するとこんな感じ。
面倒であれば以下のツイートだけお読み下さい。

 
で、この人は実は直接言ってないけど「男根のメタファー」って言葉がTwitterで一人歩きしたって感じ。
「楽器は男根の代わり」って言ってるから、「メタファー」のほうが幾分柔らかい気もする。
男根のメタファー……。
ゴロがいいですね、本当。

さて。
実は、この話結構面白い。
作品分析の面白さもここから見えてくる。

この記事では、『男根のメタファー』について語る前にまず、「メタファーってそもそも何?」ってところから語ろう。
常識?いやいや、意外とコレが面白い。
で、この記事の結論は「この人はアニメの女の子をなんでもエロに結びつけちゃうんだね☆」っていう極めて凡庸なところに辿り着きます。
そこまでひたすら迂回しますが、まあゆっくり読んでね。
では本編入りまーす!

メタファーを考えると、作品は面白くなる

御存知の通り、メタファーの日本語訳は「暗喩」だ。
「暗に喩(たと)える」技法のこと。これは多分中学校の国語で習うんじゃないかな。

でも、この「メタファー」を駆使してアニメを観る、語る……
それは案外、楽しいのです。


ここで具体的に例を出してみよう。
みんな大好き、あの作品は実は良質なメタファーのオンパレードだ。

 

ドラえもん (1) (てんとう虫コミックス)

ドラえもん (1) (てんとう虫コミックス)

 

 

そう、ドラえもんです。

ドラえもん、そしてのび太くんがそれぞれ「あるもの」を暗に示しているというように考えると、非常に面白い分析ができる。

ここからはあくまでも「僕の好みの解釈」だ。
メタファーを考えるときは、人の数だけ解釈が生まれる。だから楽しい。
……このことは実は今回のメインテーマ、「男根のメタファー(声に出して読みたい日本語)」にも関わってくることだから覚えておいてくださいね。

さて、僕は以下のように解釈する。
ドラえもんは「文明」あるいは「時代」のメタファーであり、のび太くんは「人間」、あるいは「人類」のメタファーだと。
どう思うだろうか。
単純な解釈だ、浅いと思うだろうか。
色々あると思いますが、語りますね。

ドラえもんは未来からやってきて、のび太くんに便利な「ひみつ道具」を提供してくれる。
その場その場の問題に非常に適したソリューションを提供してくれる道具だ。
そしてのび太くんが欲をかいて失敗する、というのが『ドラえもん』という作品の一つのテンプレートになっている。
……で、ここまでの理由で「ドラえもんを文明のメタファーだ」って考えても、それほど面白くはない気がする。
焦らずゆっくり読んでね。


僕が非常に面白いな、と思うのは……
のび太くんがひみつ道具の使用によって「成長する」ことは絶対にないってことだ。

d.hatena.ne.jp

この記事にも書かれてるんだけど、のび太くんはその都度のソリューションによって成長することは絶対にない。まぁそれは連載の都合でもあるそうだけど。

文明の与える解決策は、人間を直接成長させることはない。

じゃあどんなときに人間は成長する?
前に進む?
そうです。

 

ドラえもんと離れたとき」です。
『帰ってきたドラえもん』のストーリーを知らない人は、調べるか観るか、もしくは次の見出しまで読み飛ばしてくださいね。

さて。
「帰ってきたドラえもん」って凄く泣けますよね。あれが何故泣けるかって、色々あるんですがやっぱり「便利なドラえもんという存在抜きにのび太が前に進むことを決める」ことにあると思うんです。
文明が失われるような大きな危機に貧して、のび太くんは成長します。
だけど、それだけでは終わらない。

ジャイアンスネ夫に欺かれたのび太くんは激昂し、ドラえもんの残した「最後のひみつ道具」でジャイアンスネ夫に復讐します。
だけど、その復讐が完遂した後ものび太くんは虚無感を抱えた顔をしている。

このシーンを
「時代がもたらしてくれた残り香にすがって力を手に入れるけれど、もう何をやっても時代は戻らないことを知って虚無を覚える」人間の普遍性が描かれてるって読み替えると、凄く感慨深い。
で、ドラえもんは「帰って」きます。
そう、「時代は繰り返す」のです。

どうです?
面白くないですか?

……で、実はここまでグダグダ書きましたけど、この解釈結構アラがあるんですよね。
例えば、のび太くんが前に進むときに叫んだこのセリフ。
「ぼく一人の力で君に勝たないと、ドラえもんが安心して未来に帰れないんだ!」
ジャイアンと喧嘩しながら叫んだ名言だけど、この発言に関しては「メタファー」では語れないよね。

で、多分ここまで読んで……
「普通に楽しんだほうがよくね?」って思った人も多いと思う。

メタファーで作品を分析するっていうのは、「作品をより楽しくするための隠し味」で、同時に「粗があって当然」のものだと思ってます。
で、この「メタファーによる分析」っていうのは、大学の文学部辺りの作品分析の世界だとごく普通にされてるテクニックだ。

あくまでも「作品をより楽しむための技術」として捉えると非常に楽しくなる。

……「男根のメタファー」と何も関係のないことを長々と語ったのは、以下の認識を共有したかったからだ。
「メタファーを考えると、作品をより深く分析したり楽しんだりできる」
「メタファーを使った分析は千差万別の結果が出る」
「メタファーは決して万能ではない」
これくらいかな。

さあ、前置き終わり!
じゃあ今からいよいよ本題、「男根のメタファー」について語りますね。

楽器は男根のメタファー?

まず、最初に「響け!ユーフォニアム」の楽器を「男根のメタファー」として想定するのが妥当か否かっていうことについて考えてみよう。
……多分頭痛くなった人もいると思うけど……
まあ一応、厳密に。

・可愛い女の子がくわえる
・固くて棒状

 
……
僕が頭痛くなったわふざけんな。
っつーか、これは吹奏楽やってる人たちに失礼だろう……。
いや、アホな人がTwitter「やべえよ女の子が楽器くわえてるの超エロい」って言ってるならまあ分かるけど……って男子中学生かよ!
妄想力が流石にたくましすぎる。

なお、「ドラえもんは文明(時代)のメタファー」って解釈する根拠は以下のような感じ。
・未来からやってくる(文明も未来から齎される)
・それ自体が意志を持っている
・それは完璧な存在ではなく、絶対者でもない
・人間に友好的でありながら、敵対者(ジャイアンとか?)を罰することもある
・短絡的な解決策をその都度適切な形でもたらしてくれる
・その解決策を過剰に利用した結果、報いを受けることがある
・それが手元から離れて初めて、利用者は内面の成長を得る
 
メタファーを使った解釈ってこれくらいやってもなおこじつけになるんです。
このときに僕らが取れるスタンスは2つで、「そのメタファーの有効性を徹底的に証明すること」と、「こじつけになってもいい、僕がオモシロイのだから」って開き直ることです。
どっちも楽しいですね。
それが良いメタファーの捉え方です。

ただ……件のツイートをした人は「メタファーだから」っていう理由で、あたかも非難するような口調で語ってるんですよね。
ここがかなり……いや、相当おかしい。

あ、いまさらだけど……多分ちょっと作品分析というか精神分析に触れたことがある人、いや、そんなことない人でさえは「男根」って聞いてフロイトを想像した人は多いと思う。
ここ(精神分析的領域)に踏み込むと事故るので、今回は保留させて下さい。
滅茶苦茶難しいんすよ、この領域。参考文献はこちらです。
生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

 

男根が精神分析でどう扱われてきたのかよーくわかるよ。
おすすめ。


さて、話を戻すと……
最初のツイートをした人は、なんていうかもう「アニメ系の女の子を見たら」即座にセックスを想像しちゃうんでしょうね。
さっき挙げた2つの要素だけで「性的なメタファー」に繋げちゃうのは、もうそういう思考回路だとしか思えない。

僕自身としては、そういう思考回路は全然悪くないどころかクリエイティブだとさえ思う。

ただ、どうやらこの人は「だからエロい!最高!」みたいな思考で語ってるわけではなく……要はアラ探し、批判の「道具」として「メタファー的作品分析手法」を用いてるわけですね。
実は僕にとってはここが一番気に食わない。
楽しみましょうよ、作品分析を。そんなことせずにさ。

……この部分でもうこの記事オチがついてる気がしますが、実はここからが最も語りたかったことです。

「真の『男根のメタファー』とは一体何なのか」
「メタファーが『アウト』になる瞬間とは」
この二点。
以下、じっくり語ります。

真の『男根のメタファー』とメタファーがアウトになる瞬間


実はですね、特定のアニメの中で「男根のメタファー」ってたまに出てくるんですよ。
それはもう露骨に「製作者サイドが」狙ってる、男根のメタファーが。

f:id:Mistclast:20151202203611j:plain

そう、チョコバナナである。

……いや、実は色々探したんですよ。
ニコ動とかで。
チョコバナナで検索して。

そうすると想像以上にドン引きの動画が出てきまして……w
ご紹介するの控えました。

で、既にこの「チョコバナナ」がアニメ界で「男根のメタファー」になってるっていうのはTwitterなんかで触れてる人がいるんですが、ここからは「男根のメタファーであるチョコバナナをアニメに出すことの有効性」について語ろうかなって思います。

結論から言っちゃうと、多分誰もエロいと思って見てないんですよ、このチョコバナナ。
なんていうか、もうそれは吉本新喜劇の中で「定番の」ギャグがあるようなもので。

で、実は上に貼った『生徒会役員共』って作品もそれを逆手に取ってるんです。
このアニメ、どぎつい下ネタとびっくりするほどの色気の無さが共存した良い作品なのでおすすめですよ。

……ん?何が言いたかったっけ?
そうそう、「男根のメタファーであるチョコバナナは何のためにアニメに出てくるか」ですね。

アニメに詳しくない人にも念の為に断っておくと、この「チョコバナナ」ネタは一種の「お約束」になってます。
僕が特別に意識してるわけじゃないんだからねっ!

なんていうか、次第にアニメファンは「チョコバナナが出ると笑っちゃう」ようになるんです。
もう、なんか「アホなシーンの典型例」なんですよ、
「ヒロインの入浴シーンで男と鉢合わせするのが事前に分かる」みたいな、そういう笑いのタイプ。

……多分、ここまで書いてピンと来ない人も結構いると思う。

大丈夫だ。
過剰なメタファーが笑いに転化する、非常に分かりやすい例がある。

www.youtube.com


僕はもうこれ何度見ても笑っちゃうんだけど、「気まずい」って感じた人も多いと思う。
実際僕も気まずかったなぁ……実家にいたとき。

で、何故これを引用したか。
もうお分かりですよね。
このCM、完全にセックスのメタファーなんですよ(ド直球)。
え?知ってた?
うん。
まああまりにもド直球で、お約束になるようなタイプでもないからそこはチョコバナナと違うけど、「露骨なメタファーが笑いに繋がる」って点では共通してる。

もう何かアクエリオンのCMについて語ってるだけで知能指数500くらい下がってる感覚になりますが……
後で大事なことに繋がってくるんで、もう少しガマンして読んでね。

そもそも「合体」っていうのが性交の隠語だからね。
釣りバカ日誌なんかそれを堂々と「笑い」のために利用してて、お約束になってる。
釣りバカ日誌 [DVD]

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で、正直アクエリオンのCMには不快になった人も多いと思う。
「これはダメだろ」って思った人も多いだろう。

それには納得ができる人も多いだろう。
……じゃあ、何故……そう思うのか。

ここから非常に大事なトコロです。

メタファーがアウトになる瞬間。
それは、メタファーがメタファーでなくなる瞬間です。
メタファーが「『暗』喩」にとどまらず、直接的に別の事柄を想起させてしまう瞬間です。

だからどう考えてもセックスをダイレクトに表現してるアクエリオンのCMは笑えるんだけど、同時に不快なものでもある。
チョコバナナもやや似てる。「仄めかす」以上のことをやってるものを見たとき、僕らは「アウトだろ」って思うのだ。

……もう貼っちゃってもいいか。

www.nicovideo.jp


流石の僕も結構引く。
だけどまあ、このアニメは「そういうなんかド直球な表現を内輪で楽しむネタのアニメだ」って分かってる人が観るものであって、それ以上のものじゃないんだよね。

 



……長々と語ったけど、ここで最初のツイートに戻ってみよう。

最初のツイートは、楽器を男根のメタファーとしている。
で、それを「児童ポルノ」の文脈で語っている。

なんというか、「楽器を男根のメタファーと解釈する」っていう発想を許容するとしても、「メタファーとして成立してるのなら別にいくらでもやりゃいいじゃん。それを(ダイレクトな性の発露である)ポルノと同列に語るのは無理でしょ」としかならないのはこの辺りにある。
メタファーとして有効に機能しているなら、それはもう「ポルノ」からは離れちゃってるわけで。
じゃあ非難する理由もないじゃん。
今更過ぎるツッコミだけど、そもそもメタファー以前に楽器は楽器だからね?

……いや、……そもそも……この人には「非難する」っていう発想も別にないのかもしれない。

もうただ、問答無用でアニメの女の子に性的なものを連想しちゃって、そこでポルノがどうこうってことを語る、そういったことに慣れちゃってるのかもしれない。
だとすると……真剣にこの人の発言を分析するのは最初から無駄なのだろう。

実は思い出すことがある。
大学である授業を受けた。
その授業は日本史の授業だったが、どうやら先生がある思想に「かぶれてらっしゃる」ようで……
ある日の授業中、その先生は皇族の方々の写真をスライドに映した。
皇族の方々が、赤ちゃんに笑顔を向けている写真だ。
その写真を指しながら、先生は「おっしゃった」。
「みなさん、これが皇族が新たな世代へと向ける期待の目線です」
ズッコケそうになった。
ギャグじゃない。
真剣にこう言ってるのだ。
真剣にわざわざスライドまでご用意して。

なんというか、彼らにはもう「そうとしか見えない」のだろう。
多分だけど、最初のツイートをした人も似たような感じで、可愛いアニメ絵の女の子がなにかやってたら全部性的に見えちゃうんだ。
ある意味その目持ってるのは得だな……って気もしなくもないけど。

さて、長々と語ったけど、世の中にはそういう人もいるってことだ。
それ以上でも以下でもない。
僕らは「メタファー」を「作品を楽しむための道具」として適切に使いましょうね。
メタファーは、作品を奥深くまで楽しむための「ツール」だ。先に存在するものじゃない。
ましてや「楽器は男根の代替物だ」なんて、批判のためにそこからわざと食いつくように使っちゃダメ。
何故ダメって、そこには作品に対する敬意がない。
メタファーを使った分析をするときは、作品に対する敬意を忘れずにね。
まぁこれは僕の考え方に過ぎないけどさ。
その上で「うわああ楽器くわえてる女の子エロい!!」と興奮するなら、まあ他人に迷惑をかけない範囲で自由にやりましょ。

最後にもう一つ。
最初のツイートの人が指摘してるけど、男根かどうかは別にして「楽器を男性のメタファーとして読む」っていう見方は結構オモシロイと思うんですよ。
けいおん!』に男性が登場しないのに、百合っぽくならなくて、一種の恋愛物語らしささえ漂ってるのは、恋愛対象のメタファーとしての楽器(音楽)があるからだ、って考え方は結構面白い気がする。
長くなりそうなので控えます。

グダグダ語りましたが、今回はこれくらいで。
みんなもメタファーを利用した作品分析にハマりましょう。

映画会社の友人N君に勧められた映画だけど、この映画とか最初から最後まで全部メタファーみたいなものなので凄くおすすめですよ。

 

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お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で!

映画『バクマン。』を観て、怒りながら泣いた話

こんにちは、Mistirです。

この記事では映画『バクマン。』をまだ観てない人向けに(ほんの僅かに)語って、その後でもう観た人向けに語ろうと思います。
ネタバレ対策改行もするから、安心して読めるよ!

結論から言えば、最高の映画でした。
最高に面白かった。
以下、映画を観た直後の僕のツイートです。

 僕、観終わった後半端ない怒りが湧いてきたんです。

面白かったのに。
すっげー面白かったのに。
まあ、そのことも含めてお話しますね。

さて、まずは観てない人向けに語りましょうか。

まだ観てない人よ、早く観よう!

さて。
色々語ろうと思ったけど……観てない人向けには、実はあまり言うことがない。

例えば、このブログで語られているように……

blog.goo.ne.jp

原作の「気持ち悪さ」が全くなく、徹底的にスタイリッシュだ。
スタイリッシュで、エンターテイメントとして非常にまとまっている。

サカナクションの音楽が、まず非常に素晴らしい。
映画のありとあらゆる場所に挿入され、僕らの気持ちを盛り上げてくれる。
スピード感あふれる演出も加わって、映画と一緒にハイになれること請け合いだ。

配役も実に良い。
原作は、「インテリ系の理屈っぽい眼鏡くん」「ジャンプによく出てくる感じのあまりぱっとしない外見のヤツ」の二人組主人公だ。

f:id:Mistclast:20151124205249j:plain

だが、映画版は……

f:id:Mistclast:20151124205440j:plain

童顔眼鏡の神木隆之介と、時折目つきに狂気を潜ませる佐藤健のコンビだ。

このコンビが、非常に良い。

原作のメガネ君の「インテリっぽさからくる嫌らしさ」みたいなのが一切ない。
神木隆之介の演技からは良い意味での「オタクっぽさ」がにじみ出ていて、そこに原作メガネ君の「人を見下す感じ」が全く無いのである。

一方、佐藤健「狂気一歩手前の熱い視線」が凄く良い。
「自分をトコトン追い込んででも野望を狙う上昇志向」に全く違和感がない。

この二人がどんどん上昇していくサクセス・ストーリーでもありながら、同時に「陰」もある。
「努力・友情・勝利」でありながら、それだけでは済まないエンタメとしての「深さ」も備えている。

ああ、もどかしい!
早く観よう!
終わり!

……無理っす。
ネタバレ無しで語ろうとすることがこんなにツライとは思わなかった。
引用したブログの人、すげぇよ。
僕には真似できねえよ。

だから……これくらいにしておきます。
さて、思いっきりここからはネタバレ込みで語りますよ。僕が怒った理由を。
改行した後語りますね。

































知ってたのに泣いた


僕、原作の『バクマン。』、嫌い……というかあまり好きになれなかったんですよね。
いや、熱いんですけどなんか……ね。

その感情については先程引用したブログで語られてるように「痛いから」っていうのがあるんだろう。

まあその感情はさておいて。

一応ある程度知ってて、同時に展開も知ってるわけです。
だから途中である程度先が分かるんです。

分かったんです。
分かったのに……分かったのに。
ボロッボロ泣きました。

シュージンが「邪道で勝つ、それが俺たちの博打だろ?」って言うシーンで。
自然に涙が出て、多分ここで泣いてる人映画館に他にいないから……ぶっちゃけすげー気を使った。

ここで僕が泣いちゃったのは……
そうだ、そういった熱さが自分にもあったんだ、って。
そう思い出したからなんですよ。

任天堂の岩田社長が言ってたらしいんですけど、
「苦労してる人は、苦労を苦労と思わない人に絶対に勝てない」って。
世の中には苦労を苦労と思わない人たちがいる。
何かに対して楽しんで取り組める人たち。
そういった人たちを、世間は「天才」と呼ぶ。
(実は昨日思いつきで以下の記事にも似たようなことを書いたのですが、実はこの『バクマン。』の記事のほうが先に書いてました)

mistclast.hatenablog.com

 天才と「真っ向から」戦っても、絶対に勝てない。
奴らは楽しんでるから。


だから僕は、邪道で勝つ。
苦労を苦労と思わないための苦労ならいくらでもやってやる。
……ああ、そういったことを高校の頃ずっと考えてたなぁって。いつからそういった「歪んだ熱さ」、失ったのかなって思って。

そういう熱さが蘇ってきて、なんか自分自身やら色々なものに怒りながら泣いちゃったんです。
いや、どう考えてもそういうシーンじゃねえだろって思いながら。
ハタから見るとアホですね。

とにかく、そういった色んな要因も含めて……あるいは自分の要因を含めなくても、このシーンがこの映画の中で最も好きなシーン。
王道に勝つために、王道を「諦める」。
僕の好きなこの本のテーマとも重なってますね。

 いい本ですよ。この本。


さて、映画の話に戻ります。
この『バクマン。』って、原作(実はそんなに深く読んでませんが)からしてものすっごく多重的な構造で、その構造をもちろん映画も引き継いでるんですね。

「努力型(まぁぶっちゃけ普通に色々と恵まれてるんですが)の主人公が天才のライバルに努力・友情・勝利で勝つ」っていう「王道」を、「普通にやっても勝てないから別ルートで勝つ」っていう「邪道」で描き、しかもその「舞台」は「漫画」っていう凄くメタなテーマ、言い換えれば「邪道」

この作品自体が存在すること(そしてウケること)が、「王道相手に邪道が王道的な内容で勝てる」ことを突き付けてくるわけです。
実際「最近の実写化作品の中じゃダントツで面白かった」っていう評判が後を絶ちませんよね。
純粋な「オモシロさ」という、映画で最も「王道」な土俵で勝負に勝っちゃってるんです、この映画は。

……ああ、ややこしい。

要するに、この作品自体がウケることが、この作品で語られてるテーマを間接的に肯定してるっていう、なんというか……完全無欠なことしてるんですよ。
なんと邪道って素晴らしい!

そうだ僕も邪道で生きよう!
そして王道の奴らに勝とう!

と、言いたいトコロですが……
主人公は最後結局、負けちゃいます。
でもそれは凄く正しくて。
あんな方法で無茶苦茶して、無茶苦茶の果てに手に入れたものが「純粋な強者」に「継続的に」勝てるわけがないんです。
いや、違うな……
「継続的に勝つ」というより、「継続的に負けない」って言ったほうがいいかも。

新妻エイジの立ち位置は凄く絶妙で、ずっと二位をキープしてる。
これが何を意味するかって、「最強」だってことなんです。
「勝つこと」は難しくないんです。
「勝ち続けること」は圧倒的に、難しい。

勝ち続ける意志力 (小学館101新書)

勝ち続ける意志力 (小学館101新書)

 

 物語の最後、一瞬の煌めきを放って負けた主人公たちのラストシーン。

今後の夢や希望を全部黒板に書いて終わりますよね。
これからは高校も卒業して、たっぷりある時間を利用しながら、いくらでもある「描きたいもの」を描いていく……
そこに「邪道」は存在しない。

だから、どんどん彼らは新妻エイジに近づくのだろう。
彼らは一度「打ち切り」という形で「負けた」。だけどまだ全然「負けてない」のだ。

……羨ましいなぁ、彼らが。

そういった余韻を秘めて映画は最高のエンディングを迎えます。

www.youtube.com


実は僕、サカナクションのファンなんだけど、この曲はなんというか……
サカナクションの新境地だなぁ、って心から思った。

最近……歌詞も曲も初期に比べてシュールになってないか?
みたいな不安が結構あったんだけど、この曲はサカナクションらしい歌詞の深さを保ったまま、とてもエモーショナルでキャッチーだ。
ああ、良い曲作りやがって!

……何度考えても、絶対に続編は作らないでほしい。
これから彼らがどうなるのか、それは頼むから語らないでほしい。

彼らが成功するのも、失敗するのも……どうでもいい。
こんな心底羨ましくなるような爽やかなエンディングを、「具体性」で潰さないでくれ!

……この記事によると。

bakuman-eiga.com


続編は考えてないけど、売れたら創っちゃう可能性もあるらしいですね。
じゃあ頼む、売れるな!!!!

なんて流石に無茶苦茶ですが。

……さて。

ここまではエモーショナルに語りましたが、一箇所「非常に分析の余地があるなこれ」と思った点があったので、その点をちょっとだけ冷静に分析しますね。

この映画の中で多分賛否両論なヒロイン、亜豆さんの扱いです。

小松菜奈 - Wikipedia


なんというか、影のある美人さんですね。
原作の「いかにも美少女」って感じじゃない。

で、この人ドライですげー良いですよね。

「待てない。先に行ってる」。
この言葉の多重性。
「先に行ってるけど、追いつくのを待ってる」なのか。
「先でどうなってるかは分からない」なのか。

比較的現実的な「人間」なんですよね。彼女は。

原作のヒロインは正直……うーん、って感じです。
少し「中学生男子の理想とする女の子過ぎる」っつーか。
そもそも「ミソジニー女性嫌悪)的だ」っていう批判がある作品ですし。

togetter.com


映画の亜豆さんは「中学生男子の理想」じゃないですよね、明らかに。
自分の夢と男だと、(とりあえずっていう前置き付きだけど)「夢」を取るわけで。
僕はこっちの方がよっぽど好感持てます。

で、一番面白いのはラストなんですよ。

打ち切られた『この世は金と知恵』の最後のコマに「ずっと待ってる」って言わせましたよね。
ああ、ここホント上手い!って思いました。

アレは本当に色々解釈できる。
主人公たちがもう「現実」じゃなくて、漫画の世界に行っちゃったっていう解釈がまずひとつ。
もう「亜豆」っていう現実の女の子から離れて、記憶に残る綺麗な言葉を自分の漫画のキャラに言わせて、「もう俺はこれから漫画の世界で生きるんだ」っていう決意をあのコマから読み取ることができる。

まったく反対に、「あの女の子=亜豆本人」っていう説も取れる。
亜豆の心情と女の子は映画内で、思考の流れが一致している。
主人公は亜豆の心をしっかりと解ってるから。
だから、多分現実の亜豆も「ずっと待ってる」んだ。先に行ってるだけで。……そういう解釈もできる。

あるいは、あの「ずっと待ってる」をもっともっと広いものに適用した考え方。
「ずっと待ってる」のは本当にヒロインだけ?実は新妻エイジにも「ずっと待ってますよ」と「天才の領域で」ニヤニヤしながら待ってるかもしれない。

色々と考えられますね。
これくらいにしときます。

エンタメ的な映画で、それほど深く「分析の余地のある」映画ではありません。
でも痛々しくない程度にサブカル的なスタイリッシュ感もあって、熱さも何もかもがあって。

あー贅沢な映画だったなー。
絶対に家でブルーレイでもう一度見よう。

さて、以下余談を。
どうでもいいですが、このブログも実は「邪道」の意識でやってます。
「ブログの王道ってなんやねん」っていう話ではありますが、色々と実験的なことをやってます。
別にブログ界の頂点に立つつもりはありませんが、改めて「邪道」を貫く覚悟ができてきました。
そう考えると、相当この映画に影響されちゃってますね。

影響をガッと与えてくる映画。
やっぱりそういう映画って名作なんだろなーって思います。

……だんだん締めどころがわからなくなってきたので、今回の記事はこれくらいで。
お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で!

絶対に本気に「ならない」という決断

こんにちは、Mistirです。

今回は思いついたまま更新します。
なので短めに、テキトーに書きます。

早く更新して今夜は酒飲みながら映画観るんや!!!

さて、実はさっきジムから帰ってきました。
ジムで腕鍛えながら、思いつきました。

「僕は、本気になったら失敗するタイプの人間だ」って。

mistclast.hatenablog.com


自分のこの記事でも言ってるんだけど、僕にとっての失敗の条件として、「義務にすれば失敗する」っていうのがある。
だったら義務にしなければいいんだけど、その考え方は実はマイナーな考え方で……世の中は「本気でやれば、本気で努力すれば成功する」っていう考え方がやっぱり多勢な気がする。

世の中には4パターンの人間がいると思っている。
いや、厳密に言えばこの4つの要素を各々のバランスで自分の中に抱えているのが人間だって思ってる。

まず、

1.天才タイプ


ここで嫌悪感を催した人もいるかもしれないけど、そういった人ほど最後まで読んで欲しい。

僕の定義する「天才」は、「苦痛なく一つの物事に取り組めること」、あるいは「物事を愛したまま仕事にできる人」だ。

典型的なのが、この人。

portal.nifty.com

この高校生は……確実に天才だろう。

「寝るよりも創るほうが好き」だそうだ。
「嫌いなことは絶対にできない」と言っているのもミソ。

多分、この高校生は「本気になったから」これだけ凄いジオラマが作れたわけじゃない。
この高校生の世界には「本気」なんて言葉はない。
好きだから、徹底してやってる「だけ」。

「だけ」とは言いながら……
その「だけ」ができる人は非常に少なく、世間は彼らを天才と呼ぶ。


一方。
「本気」に自分を追い込むことによって成功を得るタイプがいる。
このタイプは「秀才タイプ」と呼びたいところだが……もっと良い呼び方がある。
それが……

2.経営者タイプ

だ。
経営者にはこのタイプが非常に多いように思う。

典型的なのがこの人。

dic.nicovideo.jp

氏が今どうなってるかは放っておいて。
氏が最終的に何を失敗したかも置いといて。

氏は、夢を全て手帳に書き込み、それらを全て「達成」すること……言い換えれば意識的に「本気に」なることによって「経営者になって一大チェーン店を営む」という目標を達成した。
それは少なくとも、偽れない事実。

あとはこの人。

allabout.co.jp
リンク先を読んでみるとよく分かる。
「緻密に」夢を設計するのだ。

天才タイプとの違いはここ。
天才タイプの人たちは、緻密に夢なんて設計しなくても、勝手に夢に近づいていく。
だってそれが好きだから。
あるいはそれが嫌いになるときがたまにやってきたとしても、「好き」の気持ちでスルーしちゃう。

この二者には全くの違いがあるのだ。
カッコよく言えば、運命に従う天才タイプと、運命に抗う経営者タイプと言っても良い。
もちろん、どっちが良い、どっちが正しいって問題ではない。
タイプがあるだけ。

じゃあ、残りの2パターンは?

3.本気になることが前提としてあり得ないクズ である。
別に「本気になれないヤツはクズだ」、って言ってるわけじゃない。
じゃあどういう意味かっていうと……
「そもそも自分がクズであることになんの疑問もない」タイプのこと。
そんでもって、世の中に対する不満は半端無く抱えてる、みたいな。
で、このタイプって案外少ないんじゃないかって思ってる。
このタイプに関して語っても何も面白く無いから、スキップ。

残りの4のパターンが凄く多いと僕は思ってる。
僕も、4に近い。

4.本気になってしまうがゆえにクズ 
だ。
何かに本気になろうとするために、本気になれない自分をクズとみなしてしまう。
1や2の要素が強い人たちを見て、相対的に自分を貶めてしまう人たち。
完璧主義であるがゆえに、完璧でない自分を許せない。
理想が高い。
世の中に対して諦めたようなことを言っているのに、目はギラギラと熱い。
滅茶苦茶いっぱいいる気がする。
特にネットの世界には。

ここで、注意が必要だ。
2.経営者タイプは……
非常に、声が大きい。

彼らは「まさにこの道に誤りはない、これこそ絶対的な王道!」みたいな態度の人が、結構いる。

ちなみに。
この本を書いたこの人は……

本気になればすべてが変わる―生きる技術をみがく70のヒント (文春文庫)

本気になればすべてが変わる―生きる技術をみがく70のヒント (文春文庫)

 

 1.天才タイプと2.秀才タイプの極めて絶妙なハイブリッドだと思う。
……いや、それさえも違う気もする……この人の本読んでると、かなり合理的意見とやや怖くなるような意見が渾然一体となっててカオスなんですよ。にも関わらず、全体的に冷静な筆致。
あ、上に貼った本は全体的に合理的な考え方が多くて、基本的に唸りながら読んでました。タイトルの割に相当冷静な本です。
余談です。

さて。
僕が思うのは、「本気になれないので自分を卑下するくらいなら、最初から本気にならないと決めとけばいい」ってことです。

世の中は「本気」の方法論に溢れてます。
この資格を取るためにはこれくらいの勉強時間が必要でどーたらこーたら……
筋肉をつけるためには80%✕8〜12回がどーたらこーたら……

でも、案外「あーめんどくせー、とりあえず一日20分だけ確実に毎日やるわー」のほうが効果あったりすることが多いって最近思うようになりました。

どの人間も「1.天才タイプ」と「2.経営者タイプ」を自分の中に飼ってると思ってます。どの人間も、天才か経営者、あるいはどっちもなんです。

で、僕は多分「義務にすると失敗する」タイプなので、1に近いんじゃないかって思ってます。
このブログも好きでやってるわけだし。

……結局、今回書きたかったのは一つ。
経営者タイプは声がうるさいだけで、必ずしも「王道」じゃねーぞ、ってこと。
もう一つは、「自分はクズだって思ってても、熱い何かがあるってことは、そいつは『本気にならないこと』によって動き出すかもしれないよ?」ってことです。

本気の人間は、すぐに折れます。
全力疾走を長続きさせられる人なんていません。

だけど、毎日歩き続けられるのなら、北海道から沖縄までたどり着くことも不可能じゃないです。

だから本気にならないと、って思ったら……全力疾走したいと思ったら。

一度歩いてみることが、最大の「近道」なのかもしれないと。

緩やかに身体を鍛えながら、そう思った土曜日なのでした。

早く映画が観たい!
パシフィック・リム観るんや!

今日は駆け足な文章でしたが、この辺りで。
お読みいただき、ありがとうございました。

……もちろん、「本気にならない」っていう「決断」も「本気でやってない」ので、また気分が変わったらご報告いたします。
ではまた次の記事で。

僕らの表現は、創作は、報われない

こんにちは、Mistirです。

今回はエッセイのノリで書きます。
「分析」じゃありません。

だから内容としては、普段全く創作をされない方でもお楽しみ頂けると思います。
一方、普段僕のブログをお読みにならない方でも創作をしている方に広くお読みいただきたい記事なので、このようなタイトルにしました。

「何故僕らの創作は報われないのか」っていう「解答」への「近道」を求めてらっしゃる方がいらっしゃるなら、多分この記事はあまり役立ちません。
でも、何かヒントはあると思います。

僕が僕のことを思い出しながら、ついでにごく最近の「ある経験」も含めて、創作のことを語りたくなったんです。

さて、前置きはこれくらいにして本文に入りましょうか。
繰り返しますが、今回は「分析」じゃないので何か適当なエッセイでも読むつもりで、気楽に読んでね。
何よりも、雑に楽しくお読み頂けるのが一番嬉しいので。

 

【第一部:昔の話】

実はですね、僕、相当に趣味が多いのですが、そのうちの一つに「絵」ってのがあるんです。
Twitterのアイコンとかも描いてますし、今までで一番やる気があった時の絵でこんな感じです。

f:id:Mistclast:20151122164758j:plain

某ゲームのキャラです。

絵を描いてない期間が大分続いたので、最近は全然描けないです。
話すと長くなるので、別の機会に。
(※余談ですがこの絵は絵を初めて約1年目に描いたもので、「ゼロベースから始めた割にはワイ大分描けるようになったやん!」と相当自信がつくものの、この後一向に上達ができなくなったというか何がしたいのかわからなくなり、モチベーションも下がり、今に至るまで伸び幅がほとんどないまま続いています)

……さて。
実は、絵を描き始めたのは大学の二年生が始まる頃、当時19歳の頃なんですが、その理由が結構複雑に絡まってるんですよね。

そのうちの「ひとつ」……
非常に印象的な、ひとつの「事件」あるいは「事実」についてお話したい。
多分、この「事件」は今までにブログなどで語ったことがないものだ。


僕は、大学在学時に漫画研究会に所属していた。
この漫画研究会、いわゆる「オタサー」だった。
漫画研究会には部誌があり、その部誌に寄稿することが主な活動となるのだが、漫画やイラストを描くことは必須ではなく、絵を描けない人もいる。
例えば小説(ライトノベル的なもの)を寄稿する人もいる、とそんな感じで。

僕は高校の頃からこういった「オタサー」に憧れを抱いていて、そういったところに入ることに入学以前から決めていたのである。
なお、この頃絵は「全く」描けなかった。
いわゆる「美術の授業」は大嫌いで、創造能力みたいなのに最低評価を食らい続けていた。
下手ではない。
「描けない」のである。
たまに絵が下手な芸能人の絵を見て笑う企画をテレビでやっているが、そんな感じの絵しか描けなかった。

で、そのサークルに入った後はなんだかよく分からない小説を書きながらお茶を濁していた。
色々なことがあったのだが、ここでは割愛する。

さて、その「事件」は秋ごろに起こった。

ウチの漫画研究会は、学祭で「展示会」をする。
これは描ける描けない問わず、一応「必須」となっている。
大型のパネルにアナログで描くのだ。

絵が描けない人間も、描かなければならない。
これはなかなか残酷なミッションである。

だが、僕には秘策があった。

まず、普通に描いても良いモノなんて出来上がるはずがない。

僕はただ一本の筆ペンを用意した。
そして、画面上部に巨大な魚を描いた。
その魚に筋肉質な男の胴体をくっつけた。
さらに地獄のような謎の生物を何匹も描いた。
背景には真っ黒な雨を降らせた。

……現物はもう存在しない(友人が持っていたと思うが、捨てちゃっただろうか?)
だからさっき即席で再現した。こんな感じの絵だ。


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なお、現物のサイズは確か高さ60センチ程度あるやや大きなもので、この「再現」よりもう少しは描き込んでいたこともあり、自分の作品ながら「謎の迫力」があった。

さて、展示会本番。
案の定と言うべきか言わないべきか、僕の作品はただただ異質だった。

可愛らしい絵、カッコいい絵が大半を占める中、僕の黒と白だけで構成された1時間もかけずに描かれた作品は「負の存在感」とでも言うべき謎の存在感を放っていた。

展示会では投票が行われる。
来てくれたお客さんが投票をしてくれるのだ。
そのとき、絵に対する意見も貰える。

……結論を言ってしまうと。
僕の絵は、わりと票を集めた。
それこそ「普段絵を描いてるような絵が好きな人たち」の絵よりも、票を集めた。
好意的な意見も貰えた。


……嬉しかった。


嬉しかった、が。
同時に2つの感情が僕を支配した。
「当然だろ」という小さな感情と、「違うだろそれは」という強烈な感情だ。

当然だろう。
僕の絵が票を集めるのは。

投票で上位だったのはいわゆる「凄く上手い」人の絵だった。
明らかに「美術的な」絵や、pixivでランクインするような可愛らしい絵。
それは、当然。

で、全員の絵を見るけれど、「横に並ぶ」のだ。どうしても。
誰が一番投票対象にならないかっていうと……そういった「横に並んでる」人の絵、言い換えれば「ある程度上手い」人の絵だ。

「ある程度上手い」人の絵は、「凄く上手い」人や「かなり上手い」人の絵の中に埋没する。
そのレベルの人たちが横にザーッと並ぶのだから(展示されている枚数は相当な量だった。100近くあったのではないか?)。


だったら、策略としては「異質なモノ」を生み出すのが、正しい。
そういった意味で僕の絵が票を集めたのは「当然」だ。

だが、それ以上に強烈な「それは違うだろ」という気持ち……。

僕は一切「反則」は行っていない。
自由な絵が許されるのだから、何を描いてもいいはずだ。
だけど、何かが違うと思った。

別の先輩の中には「どこにでもあるような萌え絵なんて描いても仕方ないだろ」と批判的に断言して、白いキャンバスを真っ黒に塗りつぶしただけのものを提出していた人もいる。『闇』とか、そういったタイトルをつけて。
……再び余談だが、この「塗りつぶす」ネタは思いついた人が多数いたらしく、数人で被っていた。個性を狙って逆に没個性化する良い例である。

余談はさておき。

僕は思っていた。
確かに。
確かに……「よくある絵」は印象に残らない。
綺麗ですねぇ、で忘れ去ってしまう。
果たしてTwitterやネットの中で見かけた「可愛い」「エロい」絵の何%を覚えている?
何%が僕らの中に残った?(「一瞬の消費物」であることが萌え絵の本質なのかもしれないが……)


僕はそういった点で、その先輩に同意する部分もあったが……
それ以上に強烈な反発を覚えた。

違うだろう。
頑張って絵を描いてる人が「報われない」なんて、ダメだろう。
違うだろう。
僕が1時間でノリで描いた絵よりも普段から絵を描いてる人の絵のほうが良いに決まってるだろう。
普段から絵を描いてる人の絵を「普通のどこにでもある萌え絵だ」って、全く絵を描けない僕らが批判するのは違うだろう。
理屈になってないかもしれないが……違うだろう、それは。

僕は「努力は報われるべきだ」なんていう体育会系の思考は持ち合わせていない。
だけど、強烈に、猛烈に……何かが違うと思ったのだ。

だからある意味、「凄く上手い」人たちに憧れた。
理屈抜きに全てをねじ伏せる、圧倒的な画力の人たちに。
その水準の絵を描いて、その上で……「評価の意見を貰いたい」と思った。

最初に述べたように、絵を始めた理由はコレが全てじゃないどころかごく一部に過ぎないのだが、それでもこの「出来事」は非常に強く覚えている。

僕の友人は僕が「普通の絵(???)」を描き始めてびっくりしたようだ。キャラじゃない、と。
だが、エネルギーの根源を探ると、負のエネルギーで絵を描くというある意味極めて僕らしいネガティブ感を発揮しているのである。

スタート地点がそこなのだ。
前向きな「こういった絵が描きたい!」っていう欲望じゃなく、「違うだろうがそれは!!!」という強烈な違和感なのだ。
……よく考えると。
この時点でひとつの「誤り」を抱いている。
……いや、ことによるとその「誤り」は「誤り」ではないのかもしれない。

なぜなら、その「誤り」は「創作を志す人間の大半が持っている」認識だからだ。

それは……
先程の展示会で言うトコロの、「票」を大切にするという認識……
言い換えれば「評価されること=報われること」という認識だ。

実は、この問題はずっとずっとずっとずっと考え続けている。
誰にも見られず、誰にも評価されず(あるいは極めて低い評価で)、僕はブログを書き続け、絵を描けるだろうか?

多分できない。
でも彼らーー「凄く上手い人たち」は?
本当に、評価を求めている?
評価されるからこそ、その領域まで辿りつけた?

疑問を残したまま、この記事は続きます。

【第二部:昨日の話】

2015年11月21日、僕はあるイベントに誘われて新宿の某所に向かった。
そのイベントを説明するのはやや難しいのだが、「アングラ演劇のアンソロジー」と考えて欲しい。
小休止を挟みつつ、一人(あるいは二人)が10〜20分程度でショーを行うのである。
※アングラ演劇呼ばわりすると怒られてしまうかもしれないが、そう表現するのが最も伝わりやすいと思うので、こう表現しています。

内容はエロあり笑いありエロありのカオスだ。
エロあり、とは言え18歳未満の人も見に来るものなので、一線は越えない範囲だった。

そのうちの一人の方が「ライブペインティング」を行ったのだが、この内容がなかなか衝撃的だったので、その話をしようと思う。
このショーを見たことが僕に昔の感情を思い出させ、この記事を書かせたと言っても過言じゃない。

最初から説明してみよう。
記憶を頼りにしているので、順序が左右したり記憶で補完している点も多いと思うがお許し頂きたい。

フロアには大量の画材と、2メートル程の大きなパネルが置かれている。
そのパネルに絵を描くのは……
全身に白いビニールテープを巻きつけた女性である。
あまりエロスは感じない。
もうこの時点でオチを察する。

以降、この女性を仮に「Tさん」としておこう(実は本人から記事にする許可を得ているので、活動している名前で言ってもいいと思うのだが、まぁなんとなく)。

BGMに合わせて、絵は始まった。
実は最初のBGMを全く覚えていない。後のBGMの印象が鮮烈すぎたせいだが、後述する。

最初は確か、背景を褪せた色で塗り始めたのだと記憶している。
巨大なパネルの背景を徐々に塗りつぶしていく。

ある程度塗り終わったトコロで、パネルの上の方に漫画的な「顔の輪郭」を描き始めた。
厳密に言えば、まだ本当に「顔の輪郭」かどうかはわからない。
顔の中身は描かれていなかったが、「あ、これは顔の輪郭だな多分」と察することはできた。

BGMが切り替わる。
すると……物悲しいBGMに合わせ、Tさんが……
突然歌い始めた。

「えぇぇ……」という感じだったが、その歌の歌詞が強烈なのである。
以下の歌詞は、僕が帰宅後すぐに記憶している範囲の歌詞でググり、youtubeにあった歌詞を引用したものである。

いまここにいるからもう手遅れ
私が特別じゃないことはわかる
いまここにいるからもう手遅れ
私は天使じゃないことはわかる

 
ドン引きした。

誤解してほしくないのだが、この「ドン引き」は悪口じゃない。

岡本太郎は、自分の作品を1時間ほど見て「嫌な感じ!」と叫んだ客がいたことを知って喜んだそうだ。
自分の全てをぶつけた作品、芸術に「あら、お綺麗ね」なんて言われたらそっちのほうが余程嫌だ、と。
そんなものが心地良いもののはずはないのだ、と。

だからなんというか、ここで「ドン引きする」ことは間違ってはいないのだと思う。

新宿のこんなアンダーグラウンドなトコロでワケの分からない格好でライブペイントしながら、身体を汚しながら、そんな歌を歌うのか……と。
そんな(少なくとも一見したトコロ)諦観を徹底的に孕んだような曲を、歌うのか。

なおこの曲、Tさんのオリジナルソングのようだ。
素直に「いまここにいるからもう手遅れ」という歌詞には感心を通り越して感動してしまった(ドン引きしながら)。
あ、この歌詞でググればTさんのことが出てくるから気になった人はググってみてください。

さて、ライブペイントは続く。

BGMが切り替わる。
Tさんは続けて歌う。












「恋人よ→〜僕は旅立つゥ↑〜東へと向う列車でェ→〜」







なんでだよ!!!!

心の中で盛大に突っ込んだ。
突然の『木綿のハンカチーフ』である。

雰囲気が変わるなんてもんじゃない。
歌いながら毒々しい筆致でキャンバスを塗り続けるのだから、もうなんというか……シュール極まりなかった。

……え、どういうことっすか。
自分が特別じゃないって気付いたら、直後に恋人に別れを告げて旅立つんですか、こんな爽やかに……
ちなみにTさんは綺麗な声でした。

全体が青やら赤やら身体に悪そうな色で塗られた後、顔の中身が描かれた。
なんというか、それはもう「漫画っぽい」絵である。

その顔を描いた後、周囲を塗っていく。
顔の部分を塗りつぶすように、塗っていく。

そうすると、「漫画的な顔」は潰れたような顔に変質する。
目からはハイライトが消え、ただの穴のようになり……

ああ、見事なものだと思ってしまった。

ここに意味を見出すことはできるだろう。
それこそ昔先輩が言っていた「萌え系の絵」に対する批判があったのは明らかなように思う。
でも、なんかそういった「解釈」で捉えるよりも、もっと感覚的にとらえてもいいのかもしれない、とも思った。
ただただシュールでグロテスクで、そこから生まれる謎の美しさがあった。「醜悪美」とでも言うような美しさと言えるだろうか。

最初に察したとおり、ラストはTさんご本人が絵の具まみれになって絵に飛び込んで終了した。
正直、この部分が全体の文脈をぶった切ってるような気がしないでもないので飛び込まなくても良いんじゃない?とも思うのだが……
それともアレだろうか、もしかすると「周囲に埋没していくグロテスクに汚れていく『漫画の顔』」は、Tさんそのものだったのだろうか。
まあ文脈や意味なんてどうでもいいと言ったのは僕自身なのだが。

なんにせよ、ライブペインティングは終わった。
この一件でもイベント料金を払った価値はあった。

完成した絵はこんな感じだ。
※ご本人曰く「写真写りのいい物ならアップしてもいいよ」とのこと。多分それは「ご本人の」写真写りのことだと思う。完成後の絵の隣にご本人も映っていたのだが、それはもうぐっちゃぐっちゃだったのでカットしている。

f:id:Mistclast:20151122182211j:plain


いかがでしょうか。
僕の気持ちが少し伝わったのではないかな……。

さて、そろそろまとめに入ります。


【第三部:僕らの表現は、創作は、報われない】


第一部、第二部と長々と語ったのだが……
僕はこのふたつ、つまり僕の過去と、昨日見たショーが無関係の事象であるとはとても思えなかった。

自分が特別でないと認めながら、シュールで醜悪で美しい絵を描き上げたTさん。
真っ黒な絵を提出した先輩。
策略として絵を描いて、想定通りの結果を出しながら不満が残った僕。

Tさんは「ウケ狙い」でこのライブペインティングをしたのだろうか。
もっとも、創作は全て「ウケ狙い」だと言ってしまってもいいのかもしれない。

だけど何か……
そんな「ウケ狙い」云々の次元を超えて、ここには創作の原点みたいなモノが凝縮されているように見えた。
それは多分、「評価される」=「報われる」っていう価値観をもとにしていれば「ずっと報われない」ものだと思う。
Tさんは妙に楽しそうに絵を描いていた。
全力で「表現」をしていた。

一方の僕は例の「筋肉マッチョな魚」を描いたとき、なんだかんだで自由に絵を描ける楽しさを味わっていたのではないか?
絵なんて、それで十分じゃないか?
それだけで、もう……。

なんとなく察してはいたものの、Tさんの普段の絵も見てみた。
それはもう「素晴らしく上手な」ものだった。
「上手ですね」というのも躊躇われるような絵。
現在美大に在籍中だそうである。

だからまぁ、Tさんは普段描いてる絵じゃないこういった絵を描きながら、普段とは違う何かを味わっていたのかもしれない。
その本心は、僕には察し得ない。
実力のない、僕には察し得ない。

表現したいもの、描きたいもの。
少なくとも今、僕はそれを失っている。
ただ、ぼんやりと上手くなれたらいいなぁみたいな感情はある。
凄く上手い人の上手い絵を見て、それがTwitterで凄くウケてるのを見て、その絵を描いた人が物凄くたくさんのフォロワーさんを獲得してるのを見て、いいなぁと思う。

いいなぁ、とは思いながら。
僕はじゃあ何が表現したいんだ?って言われると、イマイチ思いつかない。
思いつかないせいで、あまり絵にはノれない。

ブログはどうだろう。
僕は多分、なんだかんだいってこうやって「語ること」が好きなのだ。
書きながら「表現の楽しさ」を味わっているのだ。

でも同時に「評価されたり」、「感想を頂ける」ことが嬉しい。
例えば以下の記事の評判は、それはもう凄かった。

 

mistclast.hatenablog.com

 
大分自信もついたし、多分一生分くらい褒められた。

だけど……だけど、だ。
そのために、「褒められるために」書くのだとするならば、それが目的となるならば……それは違うと思う。
「褒められる」「評価される」ことが僕らの目的であるとするならば、それこそが「報われること」だとするならば……

僕らの創作は、僕らの表現は、報われない。


もちろん「文学賞を受賞して凄く稼いだ!」とか、それこそ「絵が評判になってイラストレーターになった!」とか、「評価される」=「カネになる」という形で報われてる人はたくさんいるのだろう。

だけど、それを目的にしてしまうと、無限にそういった「評価」という亡霊に付きまとわれてしまうのではないか。

これはさっきの記事の評価だ。

f:id:Mistclast:20151122184019p:plain

今は見えなくなっているけど、ツイートは2万3千件くらいされていた。
それはもう凄かった。Twitterで自分の記事を検索すると、秒単位に自分を評価してくれるコメントが見えるのである。
すっごい状況だ。

……だけど。
それを目的にするのは、本当に「違う」と思うんだ。
そこで悟ったってのもある。

……ああ、この欲望にはキリがない、と。
タガが外れた動物のように、延々と自分の評価を求めるだけの人間になってしまうという危機感を本気で覚えた。

それでも僕は俗物なので、評価は欲しい。
評価は欲しい。……でも。
語りたいことは語りたいこととして存在しているから、語りたい通りに語りたい。

語りたいことを、語りたいがために、語る。
それができるなら、語った時点で……僕の「語り」は報われる。
それが評価されなくても構わないし、たった一人でも誰かに伝われば十分以上に幸福だ。
(さすがに誰か一人には伝わって欲しい。「誰一人にも読まれない語り」は語りじゃなくて独白だからね。)

……じゃあ、僕にとって絵という趣味はなんなんだろう?
絵の目的は?
ブログで語りたいという気持ち以上に描きたいものなんてあったっけ?

……はー、難しいなぁ。
こんなことばっかり考えているから、フォロワーさんにも「多分絵向いてない」って言われるのです。

評価されたいという欲望、評価されることが創作において報われることだと認識するこの気持ち……切り捨てることはできないでしょう。
切り捨てるべきだとも思わない。でも、目的にしちゃダメだとは思う。


だから、もう少しじっくりと向き合ってみます。
もし評価の意味で報われることが絵の目的だとするなら、絵に時間取れる人と比べると一生報われないんだよなー。
書きたいものは自然に見つかるけど、描きたいものは自然に見つからないからツライしさ。

ブログは嫌でも書くでしょうね。
たまにこうやって語らないと頭が詰まってくるんで。

ってことで、これからもよろしくお願いしますね。

お読みいただきありがとうございます。
ではまた次の記事で。

 

これまでの記事へのコメントにご返信します(2015/11/19)

どうも、Mistirです。
このブログは対話型ブログなので、これまでのコメントに返信しますね。

……遅い、ですって?
実はですね……コメントへの返信って、結構頭使うんです。
ってことでゆっくりマイペースで行きますね。

ただ……ブレンディの記事に、まだ返信してないコメントが結構ありますが……諦めさせてください。
なんというか、時間が空きすぎました。他のコメントも結構溜まっていますので。
ただ、全部お読みしておりますのでそこはご安心ください。
また、「これだけは!」というご意見あれば、この記事またはTwitterでお願いします。随時ご質問等は受け付けておりますので。

あと、この記事は返信どころじゃないので……本文に書いてあるとおり、ご質問ある方は直接Twitterでお願いしますね。逃げてるって言われたりしましたが僕は逃げも隠れもしませんから

さて、ひとつひとついきましょー!

mistclast.hatenablog.com

この記事へのコメントです。

 ぺしみ

いかなる物語にも「ステロタイプ」というものが存在しますが、それを支えるのはお決まりの道を辿るストーリーそのものよりむしろ、そのお話が展開される舞台(場所)であることが多いような気がします。自分がいつか何らかの物語の主人公になるんじゃないか、というよりなりたいと希っている人々は特に舞台に執心するのかもしれませんね。
 いつの間にか主人公になる資格を剥奪されていたことに気付き、茫然としているのかなぁ……と。そうしていつか"大切なものを手放すことになって半ば虚脱状態になりながら夜の繁華街で飲み明かすキャラクターになる”夢を見ているのではないでしょうか。

ぺしみさん!
伊藤計劃を伊藤ライフって勝手に呼んで、伊東ライフを故人にしたぺしみさんじゃないですか!

その結果伊東ライフ本人に補足されたぺしみさんじゃないですか!

 というかしょっちゅう酒に酔ってスカイプで絡んでるぺしみさんじゃないですか!

僕が!


……身内ネタですみません。
さて、マジメに返信します。

いやー、さすが鋭いっすね。
無駄に(煽り)

実際その通りで、多分キャラクター的な自分自身を僕は凄い意識してて。そこから逃れる方向に行くのか、それとも……っていう瀬戸際ですね、今。
色々希望も絶望も見えてきたんですけどねぇ……そろそろ新しい段階に進まなきゃかもしれません。
今後ともよろしくね。

では次の記事です。

mistclast.hatenablog.com

 服部豆蔵 

各人によって”正義”の価値基準が違うから、この手の話題は難しいですよね;;

コメントありがとうございます。
そうなんすよね。 初期地点が違うから難しいんすよね。一応、この記事ではそこーー初期地点をリセットすることも意識してました。

 jagabee

こんにちは、はじめまして。
ブログのアカウント作って半年未だ放置のjagabeeと申します。
ブログをちょくちょく拝読し、
共感度が高い記事が多くていつも震えています…( +・`ー・´)

今回は記事を読んでボクの色んな思考や煩悩や納得がリンクしたので、ついに初コメントをば、です。

いやー、街中で募金を見かける度に
「偽善てなんぞや」
「要するに何が問題ぞや」って悶々としてました。

それで
募金をした場合の違和感と
しなかった場合の違和感とで色々想定してみたら、概ねMirtirさんと同じ感じの結論に至ったわけなんです。
(内的偽善と外的偽善の表現はドンピシャでした!)

それを踏まえ、
気づいたことがありました。

募金活動にたいして

a.偽善を嫌う精神

"あっこいつ、いい子ぶりやがって、面白くもないくせに….腹立つわぁ"

っていうことなら

そこに

b.優越感、自己陶酔を見せられることへの嫌悪、怒り…

"俺を差し置いて前にでるんじゃねえ"的な

いわゆる

寄り根源的な不快感

みたいなものも含まれているんじゃないでしょうか?

そこで、ひとつの疑問が浮かびます。

a.偽善を嫌う精神に
b.の根源的な感情が含まれている状態
(a+bの状態)

なら
お互い同系統の"感情"として個別に分けることができる
(つまりは口論になっても、炎上しても沈静化しやすいといいますか…)

けれども

a.偽善を嫌う精神が
b.の根源的な感情から派生した精神の場合(b>aの場合)

どうでしょう?
結構厄介なパターンではありませんか?

派生しても時間が経てば独自の感情として成り立つこともあるとは思いますが

派生後まもなく、自覚もなかったら、個別に分けようがない。

あくまでこの2パターンの場合と仮定しても、一見して"同じ感覚を持つ人"として一括りにされてしまいそうな印象をうけるのです。

判断されるとそれに引っ張られる群衆の傾向を何度も経験してきたボクにとっては、

前者の
"こいつムカつくな…「ムカつく」カタカタ…よし、風呂入ろう"

なタイプの人が

後者の
"こいつムカつくな…「○○○(放送禁止用語)」…まだ言い足りへん…カタカタカタ"

なタイプのバージョンに取り込まれてしまう事が残念で…

何が言いたいのかというと、「募金活動」というテーマひとつ取っても"人って流されるんだなぁ"と思った次第で…
今度そこらへんの意見も是非お願いします!

ご感想ありがとうございます!
と、結構……難しいですね。

気になったのですが

a.偽善を嫌う精神

"あっこいつ、いい子ぶりやがって、面白くもないくせに….腹立つわぁ"

っていうことなら

そこに

b.優越感、自己陶酔を見せられることへの嫌悪、怒り…

"俺を差し置いて前にでるんじゃねえ"的な

いわゆる

寄り根源的な不快感

みたいなものも含まれているんじゃないでしょうか?

ここ……分けられるんですかね、この2つ。
不可分だと思うんですよ、この2つ。

というのも、多分……偽善に対する嫌悪感があるとするならば、まず嫌悪感があって、そこにみんな理屈をあとからくっつけてると思うんです。 
僕の中での前提がそこにあるから、迂闊に同意できないんですよね。
というか、僕は偽善を嫌う精神が即ちbだと思うんですよ。「いい子ぶってる」ことに腹立つのは、前に出てることに腹が立つのと同じ。
厳密に分けることは出来るかもですが……僕の直感には反してて。
だから、もしかすると懸念されてらっしゃる

あくまでこの2パターンの場合と仮定しても、一見して"同じ感覚を持つ人"として一括りにされてしまいそうな印象をうけるのです。 

ここ。まさに僕が「ひとくくりに」しているのかもしれませんね。
また、

前者の
"こいつムカつくな…「ムカつく」カタカタ…よし、風呂入ろう"

なタイプの人が

後者の
"こいつムカつくな…「○○○(放送禁止用語)」…まだ言い足りへん…カタカタカタ"

なタイプのバージョンに取り込まれてしまう事が残念で…

僕はこの2つの違いがいまいちピンと来ません。
ということで、またこの件で僕が取り違いをしているということであればまた教えていただければ幸いです。ツイッターでも何でも。ブログを教えていただければ読みますよ。

では、次のご感想です。

 w__dw__d

初めまして。少し前から、考えや意見のあまりの近さに驚きつつ、ROMしていました。
普段から特筆したいほどに同意できるのですが、今回特に飛びつきたくなった部分(この記事の本筋からは若干逸れてしまいますが...お許し下さい。)があったので、ついコメントしてみたくなりました。

"ついでに言えば、「風が吹けば桶屋が儲かるメソッド」を適用すればもっともっと語れてしまう。どういうことか。
「やらない善よりやる偽善だ!」と言ったこの人が
救った人たちが超覚醒を遂げて、1億人規模の大虐殺をしてしまうかもしれない。
もちろんこれは極論だけど、極論を考えることは非常に思考の整理に役立つ。"

私が思想や哲学に関する文章をあまり読まないこともあり、これまでこうした考えをきちんと外に見つけたことがほとんどなく、驚きました。
(一人でひねくれて考えることはあっても、思想や哲学の分野について専門的なことは殆ど知らないため、以下浅薄な部分があるかと思われます。)
私もつくづく、私達はは因果関係が近いほどよく認識し、因果関係が遠いほどだんだん認識できなくなること、故に因果関係が遠いほど善悪の追求も及ばなくなっていくこと、それによって善悪の考察が非常に困難となることを感じています。
非情なまでに理性の上澄みだけを用いて考えると、どう思考(実験("極論を考えること"でもありますね))してもすぐに純粋なニヒリズム(否定しようがない)に辿り着きます。ただ無意味の土台に立たされている、そんな感じです。そこには意味や答えがお膳立てされている訳ではないのだから、いくら考えてもキリがなくて(というか追及する意味すらなくて)当然だ、と少し(本能的に見て)ズルい解決(?)ができてしまいます。
しかし私も当然ながら全体としては本能的な人間で、日常的には本能からの圧を受けて、ニヒリズム程の根本的な階層が頭の中を支配することはありません。(あくまで頭の片隅(理性の上澄み)にあるだけ)
そもそも普段のMistirさんの記事に同意できることだって、本能からの圧により、頭の中が全体的に少なくともニヒリズムの階層よりは下りて(あるいは上って?)きているからこそのことです。
どれだけニヒリズムの階層から本能的な方に下りて(上って)きているか、それが人によっても場合によっても異なることは、時に相互理解(ここでは共感というよりは相手の存在をを認め最低限理性的に尊重することとでも言ったら良いでしょうか)ができないことや時に自分の意見の整合性がとれないことの一因になっている、そう感じています。(もちろん同程度の階層での相互不理解や不整合性も多く占めているでしょう。これは直観でしかないのですが、本能的な階層からニヒリズム的な階層に近づくほど同程度の階層での相互不理解や不整合性は起きにくいと思っています。(とはいえ頭の中をニヒリズムだけが完全に占める(本能的な人間がそうなれるのかは分かりませんが)ほど上り(下り)詰めてしまえば当然ながらそもそも尊重なんて概念自体消し飛んでしまいますね))
どうしたらより相互理解が広くなされるだろうか、でもそれがなされたところで人の世がより良くなるのだろうか(私は本能的にはそのほうが良くなると感じますし、それを望みます)、人格や考えの(残酷と言っていい程の)多様性がある以上どこかであるいは満遍なく歪みが出るのだろうな、そもそも正解が用意されているわけでもないんだからより良い方にすり寄せるしかないんだろうな、ところで生まれてくる人間の人格を完全に操作できるようになったとしたら(これも極論です)相互不理解による配慮の無さや争いがなるべく生じない範囲の人格だけの人間が生まれるようにすることは良いことなのだろうか(人格の多様性は守るべきなのだろうか)、ああそういえばそもそもニヒリズムの階層では何もかも無意味だな、良いもクソもないじゃないか、
と言った具合でぐちゃぐちゃになってしまいます。
結局その辺りはぐちゃぐちゃとしたまま、無意味の土台に立たされているだけなんだし、本能(大分広義?な使い方をしているかもしれません、言ってしまえば純粋なニヒリズムを経ない考えや衝動全般です)のやりたいようにやればいいか、みんなに本能があるからそれなりの秩序(数の弱肉強食とも言える(極論、人を殺したい耐え難い衝動を持つ個体として生まれてきてしまった人間は多くの社会においていずれ(大多数の人間のために)排除されることがいい例でしょうか(それはそうと私たちは私達のために殺生した食材にはいただきますしますが私達のために排除した人間にはいただきますしませんね(完全に寄り道です))))が存在しているし、うまい具合になんとか適当にそこに乗って自分の本能を満たしていくとするか、そんな感じの仮の結論(?)で過ごしています。例えばなるべく人を傷つけたくない、(本能的に)善いことをしたい、というのは、生命維持や単純な快楽といった原始的な部分の本能だけを優先する前提であれば非合理に見えますが、より高次のものも含めて(ニヒリズムを経ない考えや衝動全てを(ここまでくると私の人格というものも大きく影響してきます))本能とみてそれに従って過ごしているという自覚です。(本能的に、自分が)善いと思った善いことを(本能を満たすために、言ってしまうと結局は自己満足的に)するという自覚なので、今回の記事の本筋にも大変同意できました。(書いていて思いがけず本筋の方にも着地しました、良かった!?)

ごめんなさい、衝動的で拙いわ括弧が多いわ勝手にふわふわと曖昧な言葉を作るわで非情に読みづらい上、何が言いたいのかはっきりしない文章になってしまいました。多分共感できたMistirさんに見てもらいたかっただけです。身勝手ですみません。
もし万が一ご意見やご教示が頂けたらとても嬉しいです。

 

ご感想ありがとうございます!
僕の記事は色々感想いただけてすごい!(自画自賛)
そしてありがたい。いや、長文でご感想いただけるのホント嬉しいんすよ。

 
なるほど。おそらく、「本能」という言葉を「直感」と近い意味で用いられてますね。実は「これ以上理性的に追求するのはやめておこう」も十分、理性の働きなんですよ。
そうならず、それこそ中島義道的に「死ぬとはなんだ」を徹底的に考え過ぎるとニヒリズムの泥沼に堕ちちゃったりしますからね。だから「理性」で抑圧する。
その動きは本能じゃないんですよ。実は。ニヒリズムと本能を対比させているのは少し違うんじゃないか、とは思いました。正直。
というのも、本能だけで生きてるって究極にニヒリズム的なんですよね。そこには「意味」も「我」も無いんですから。
まあ、なんというか「善いと思ったから善いことをする」も本能じゃないんですよ。後天的に学習したものです、それは。

身を粉にして同種を助けるなんて、他の生物とは違いますもんね。ただ、それを「理性で行ってるわけじゃない」って言う意味合いで「本能」という言葉をお使いになっているのはよくわかりました。理性の極限状況をニヒリズムと位置づけると、その対極は「本能」になる。こういう意図であるのは理解りました。ただ、善意もルールもは本能からは生じないってだけの話ですね。

「意味」を追求すると無に至るだったか、神に至るだったか……そう言ってたのは誰でしたかね。忘れました。
実際、自覚があるご様子ですが「ニヒリズムを経ない思考」という考え方がある時点で、十分ニヒリズムの沼からは脱せているんですよね。僕はなんというか、「意味を追求するとニヒリズムに陥ることが分かっているから、強烈な『意味への執着』を一旦保留して、一見表層的な行為をする」っていうのと「そもそも意味に執着しない」は全く別物だと思ってるんですよ。「死について考えて考えて考えたけど考えてると生活に支障が出るから考えない」って人と「死について考えるのは無駄」って思ってる人が全く別物であるのと同じです。
だから、哲学的な泥沼に足を踏み込みながら、そこを「保留」する視点もあるってすごく大事だと思うんですよ。僕はそれをある程度意識してまして。
まあもちろん上手くは行かないんですけど、やっぱり「意味に執着する」のはそれはそれで大事だと思います。
ご感想お読みして、色々と哲学的な文章と相性良さそうだなーと思いました。というか結構哲学的な思考のご様子なので、「あまり読まない」とおっしゃらず是非ともお勧めいたします。僕の好きなバタイユなど。
『内的体験』から引用しますね。

誰か他人の前でみずからに問うてみる。いったいこの男は、どんな手だてをつくして、全一者でありたいという欲望を鎮めているのだろう?犠牲的精神か、順応主義か、ぺてんか、詩趣か、倫理か、粋人気取りか、ヒロイズムか、宗教か、犯行、虚栄、または金銭? 以上いくつかの組み合わせか、それとも全部いっしょくたにか? 悪意が、愁いに陰った微笑が、疲労の渋面が、束の間に輝き過ぎる人間のまばたきーー自分が全一者でないということの驚き、それどころか、狭苦しい限界を持つということの驚きから私たちの味わうひそかな苦痛が、そのまばたきのなかに露呈する。かくも公言をはばかる苦痛というものは、やがては内心の偽善へ、遠大にして仰々しい諸要求へと私たちを引きたててゆくのである(カントの倫理学がその例だ)。

いかがでしょうか。実は僕、まだ内的体験読破してないんですけどねw
あとは、僕がしょっちゅう引用してる中島義道も読んでみるといいかもしれません。


……さて。
数人分しか返信してませんが……まあボリューム満点だったからね。仕方ないね。

まだご返信してない分は後日に。
いつでもお気楽にご感想くださいね(必ず返すとは約束しません!約束すると義務感になるのでしんどくなるのです……)

ではまた次の記事で。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。

俺なんかもう死んでいる

ども、Mistirです。
今回は自分の考えを整理する、それだけの非論理的な記事。
非論理的、支離滅裂、いわばポエムです。

ということで、今回の記事はいつもの記事と大幅に毛色が違います。
念のため、それを前提で。
「マジかよ今後読むのやめるわ」ってならないで頂けるとありがたいっすw

何度書き終わってから読み返しても意味不明だ。
でも、そのまま発表しようと思う。
その方が良い気がした。
理由は特にない。

では、改行して本文入ります。




今日一日インラインスケートでザーッと河川敷を走りながら考えてました。
この無意味な行為と、この無意味な行為の楽しさはなんなんだ、と。
僕は上手に滑れるようになりたい、上手に走れるようになりたい、あるいは色々トリッキーなことやってみたい、それは何故だ。

無意味な行為の楽しさ。
無償の楽しさ。

この記事にも書いたけど

mistclast.hatenablog.com

音ゲー、一日数時間やっても上達しなかったのが、ある日突如できるようになる。
この現象はなんなんだ。
「楽しくやれば、惰性でやるよりも数倍の効果を発揮する」?
……そんな単純な話?違うと思う。
いや、それでも楽しむことに効果はあるけれど。そりゃもう、確実に。
それだけか?

何故、どこからそういった「上達の瞬間」はやってくる?
「楽しさ」はやってくる?

そういうことを考えていると……
僕はとことん、損している気分になってきた。

努力も行為も、必ず報われるとは限らない。
だが成功した人は必ず努力をしている……

そういったコトバは、まあ、とても正しいのだろう。とても。

だが、僕はそのコトバで非常に大きな損をしているのではないかと思ってきた。
理想的な日々の水準に達していない現実、誰かが言った「努力」の基準値を満たせない現実、その現実を認識したその瞬間、自分のこの「瞬間」「刹那」は……

不十分でみっともないゴミになる。

この「今」に満足できない苦しみを、以前の記事で書いた。

mistclast.hatenablog.com

「真面目系クズ」って言うコトバが蔓延っている。
僕はずっとずっと、違和感を覚えてきた。

ヒトがネット黎明以降ここ数年数十年ごときでクソ真面目になったり、ガチクズになったりするわけがないじゃないか。
それに、真面目系クズに当てはまる人間を見て常に思っていた。
……それに当てはまらない人間は、なんというか僕らの脳内にいる「超人」だけじゃねえか?
この「超人」はニーチェ的意味じゃありません、念のため。

違うんじゃないか?
クズが増えたんじゃない。
要求が、増えたんじゃないか?

要求が上がったんじゃない。
要求が増えたんだ。

どういう意味か。

人間の「機能」に対する要求がそれほど上がるわけがない。
大学入試の難度が滅茶苦茶下がったとか、そういう話はあまり聞かない。東大の難しさは東大の難しさだ。
「簡単に入れる」大学は増えただろう。だけど、それを理由に「人間が人間に求める性能が下がった」とは言えないと思っている。

じゃあ「増えた」とは?

全方位から聞こえるようになった、ってことだ。

就活がわかりやすい。
就活生が誰によって「こうすればいい」と言われるか考えてみよう。
入社したい企業の人たち、セミナーやってる企業の人たち、就職課、ネットの情報、面接マニュアル等などの書籍、これから大変だぞと叫ぶ大人たち……

あらゆるものがあらゆる「水準」を求め、あらゆる「利益」を求め……
手を変え品を変え、「コレじゃダメだ」と僕らの耳元で囁いてくる。

何故真面目な人たちがそこで「ドロップアウト」したくなるのか?

そこに自由が、遊びがないからだ。

「こうしなきゃこれからの人生つらいよ」という呪文に呪われ、僕らは今を失った。

……誤解しないで欲しい。
これは、僕らの耳元で囁くどんな人々をも非難してはいない。

真に受ける僕らが悪い。
真に受け方が下手くそな僕らが悪い。

なまじっか自分の人生をダメにしたくないから。
ヒトよりダメな自分を認めたくないから。
だからせめて、人の言ってることを聞いていたくなる。
人の求める水準を満たしたくなる。
その先に、人から認められる素晴らしい自分が待っている。
今の自分を、殺して、殺して……。

違うだろう、と僕の中の何かが叫んでいる。
僕が大事にしたいものは何だ?何なんだ?

夢を持て?うるさい、聞き飽きた。
目標を持て?うるさい、聞き飽きた。

何千万の「正論」を聞き飽きた。

僕はずっと、いつ終わるか、いつ終わるか、先はどうするか、この苦痛が一週間続くのか、一ヶ月続くのか、ああ終わった、休みだ、でも一瞬で終わるんだろうな、ああ一瞬で終わった、退屈な日常がまた始まる、絶望だ……と、そういうツラさの中でずっとずっと生きてきた。
始まった瞬間には終わる瞬間のことを考えている。
あと何分で……あと、何分で終わってくれる?

日曜の朝には日曜が終わることを考えている。

こんなの、変だ。
歪だ。

ところで最近、「人生に生きる価値は無い」だとか「どうせ死ぬんだ」とか、「何やっても無意味だ」とか、そういったコトバに癒やされる自分に気付いた。

希望を持て、夢を持て。
こうすれば成功する。
そういうコトバに常に吐きそうになってる自分に気付いた。

……ここまでのことを考えて、さらに気付いた。
僕は……何か、自分に期待している、未来に期待しているのではないか、と。
未来に期待して、期待の叶わない未来を恐れ、何もできなくなって……ダメになってるんじゃないか、と。

その根底には、死への恐怖が流れてる気がする。
あるいはタイム・リミットへの恐怖と言うべきか。

人は死ぬ。
死んで無になる。
永遠の無だ。

実は「死んだらどうなるかわからない」「誰にも死んだ経験はない」って言うけど、それはウソだって思ってる。
150年前から100年前の記憶を思い出してみればいい。
その状態が、死んだ後のあなたの状態だ。
ただ、最大の違いはおそらく2歳か3歳あたりの「最初の記憶」にたどり着かないこと。

……変なことを書いてしまった。
本題に戻ろう。

……で、結局「いつ終わるんだ?」と全ての物事の終わりを待ち望んでいる僕は、同時に自分の生命が終わることを物凄く恐れている。
にも関わらず、「人生に価値はない」というコトバに癒やされる。

……意味が分からない。

そして徹底的に「人生に価値はない」というコトバに癒やされながら……
「噛み合った人生を送っている人々」を羨む。
自分の中のこの矛盾は、なんなんだ一体。


わからない、わからないが……

もうそろそろ、うんざりしてきた。
論理展開もへったくれもないが、結論に入ろう。

この記事のタイトルは「俺なんかもう死んでいる」だけど、なんというか、このコトバが究極に大事なコトバに思えるんですよ。
今後なんて、ない。
もう十分、自分の人生は全否定されていい。

僕なんかもう死んじゃってる。
お前の人生に価値はない。無価値だ。

……そう言われることが、一番今の自分に「効く」気がして。
俺はもう死んでるんだから、何やっても自由だよな?と。
どうなっても、いいんだよな、と。
むしろどうとでもなってやるぞ、と。

そういった「俺なんかもう死んでいる」というコトバが、僕がここまでつらつらと2500文字以上書いてきた内容と合致してるかさっぱり分からない。
分からないが……

僕はそろそろ自分に言いたいのだ。
未来を大事にして、今のお前を大事にしないの、やめろよ、と。

僕には今しかない。
そのはずなのだ。
もう死んでる僕には、大事にしなければならない「これから」なんてもう無いはずだ。

……つらつらと書いたけど。
この記事の真意は、まだ分かっていない。自分自身で分かってない。
「自分自身を殺す」っていうテーマがあらゆる創作で書かれ続けてきたことと関わってるのかも。あ、自殺願望は微塵もないのでご安心を。

分かっていないものを発表するなと言われるかもしれないので、この記事は消すかもしれない。
だがまぁ……たまにはいいじゃないか。たまには。


……と!
そういったことをインラインスケートで走りながら考えていたんですよ!

……それだけです。

お読みいただきありがとうございました。
こういった記事をずっと続ける気は毛頭ないので、次の記事はマトモです、多分。
ではまた次の記事で。

朝日新聞の投書から学ぶ「善人」の「気持ち悪さ」

こんにちは、ひねくれ者のMistirです。

 

さて、今回は前回の記事の続き。

mistclast.hatenablog.com

前回は「結局善行だって思うなら誰がどー思ってもやりゃいいじゃん」っていう非常につまらない結論に至りました。
つまらない結論なのはまあ、なんというか仕方ない。別に「変な結論だから真理」ってわけでもないしね。

 

さてさて。
今回は結構変わった話を。
「善人って嫌だねぇ」って話です。
とはいえ、「善行をする奴は嫌なやつ」みたいな話じゃない。結論から言っちまうと、「善の受け入れを強制する奴はダメだね」って話です。

 

この記事をぜひ読んでほしい。

girlschannel.net

僕、コレ読んで「地獄じゃねえか」って思ったんですよ。

このコメントが象徴的かなって思ってさ。

21. 匿名 2015/10/29(木) 21:21:22 [通報]
ひねくれたじじい 
人の好意はありがたく受けるもんだ

この掲示板に書き込んでる大半の人は「善人」だと思うんです。
ただし、おそらく皆さんの想像してる「善人」とは意味が違います。
後で詳しく語ります。


さて、議論に入る前に、前提条件として「老人」のしたことを分離しよう。

老人は善意を受け、

①「罵声を浴びせた上で」

②「それを批判した」

 

僕の考えを最初に言っておくと「①=口が悪かったこと」は十分に批判されて良いと思ってる。それも、当事者たる中学生によって。
どういうことかっつーと、中学生は老人に以下のように言い返せば良かったのだ。

「なるほど、確かにあなたは僕の欺瞞を感じ取ったかもしれない。だがそこまで憶測で語られる言われはない!僕はあなたの罵声に傷つけられた、その一点において撤回を要求する!!」と。

……どこのロボットアニメだ。さすがに無理だね。


まあこれは無茶苦茶だとしても、やっぱり……

f:id:Mistclast:20151108131818j:plain


この対応、つまり「新聞に投げて皆に同意を求める」のは「おかしい」。
別に「同意は求めてないのかもしれない」が、「自分は人助けはするタイプ」と主張しているあたりに大いなる「腐臭」を感じる。
極論、こういった考え方の中学生は「危うい」から、今のうちに「老人」から学べて良かったじゃないのとさえ思う。

でも、どうもそれを「学べない」方々は世の中に多いらしい。

学ぶべきことはたったの一つ。いや、二つかな。
「善は相手に見返りを求めてはならない、少なくともこの事実を認識するこれだけ。
そこからさらに追加するなら「それでも貴方が善を遂行するならやればよい」だけだ。

 

何故相手に見返りを求める「善」はもはや「善」ではないどころか「悪」になるのか?
簡単に言えば、相手に見返りを求める「善」は契約書の無いビジネスと同じで、「押し売り」と同じだから。

この「中学生」は見返りを求めてない?
いやいや、十分に求めてると思うよ。「感謝」という見返りを。
いや、違うかな。「そういうことをした」という自己満足。

誤解してほしくないんだけど、僕はそれ自体を「ダメ」とは言わない。だからこそ「少なくともこの事実を認識する」って言ってるわけだ。
ぶっちゃけ、よほどの聖人君子じゃない限り「感謝される程度の見返りも求めず善を行う」なんて無理だと思う。だから、別に求めたっていい。
大事なのはその後。結果として「受け入れられないかもしれない」こと、受け入れられないどころか「石を投げられるかもしれない」ことを認識すること。
そういうこともあるよなって。

そのとき「石を投げられた」ことに対して
「どうして石を投げた!」と批判するのは間違いじゃない。
だけど……
「どうして『こんなに善いことをしたのに』石を投げた!」となってしまうと、腐臭が漂うのです。


社会的な了解として……僕の嫌いな言い方をすると、「常識的に考えて」。
「席を譲られると嫌がる人なんていない」って思う人が多いのは、まあ分かる。
だけど現実的にそれを嫌がる人もいるのだろう。

 

そのときに「俺の善を受け入れなかった」ことを非難するとすれば、それは最早「善」でもなんでもなく、「契約書の無い押し売り」と同じ。

犯罪レベルなんですよ。

ぶっちゃけ。

ただし、「良かれと思ってやったのに逆に殴られた!これも批判しちゃダメなの?」というのは違いますよね。殴られたことは批判していい。
そういう話なんです。

もしさっきの画像。

f:id:Mistclast:20151108133616j:plain

これが本当に「中学生」だと仮定すると、今なら間に合う。
どうせこんなブログ読んでないだろうけど、考え方を改めたほうが良い。
僕は良き大人じゃないけど、この「中学生」には以下のように言いたい。
「それは災難だったね、酷く口の悪い大人もいるものだ。だけど、君が良いと思ってやったことは必ず相手を喜ばせるとは限らない。こういうこともあるんだって解った上でやることだね。きっと多くの人はそれを喜んでくれる。それを喜んでくれる人のためにやればいい。あと、君は『理解を超えた言葉』と言ったね? それは『理解しよう』と努めなければダメだよ。老人は『俺らに気を使うな!』っていう言葉を非常に強く言っただけなのかもしれないだろう?『老人扱いするな!』と言いたかったのかもしれないだろう?じっくり考えないといけないよ。その上で、『学校で教えることは良いことだから』なんていう『薄い』理由じゃなく、自分だけの『強い信念』として『良いこと』を行えばいいんだ」

ってね。

こんな風にグダグダ語ったのは何故かっつーと。

『「良かれと思って」の行為なら必ず受け入れなければならない』……

こんな世の中が心底「地獄」だと思ってて、かつそう言ったことに一切疑いを挟まない「善人」たちが反吐が出るほど嫌いだからです。
この記事で最初に語った「善人」のニュアンスはそう考えてください。ただの「善行をする人」じゃない。

 

girlschannel.net


もうざっと見て吐き気がして全部は読んでないですが、もうアレだね、地獄絵図。
感謝しない人間を集団で全力で非難する、善人たちの地獄絵図。


ましてや「団塊世代が」なんていう論法を持ち出してる人間には吐き気を通り越した感情さえ覚える。
そうやって、「本質」は見逃されていく。
「席を譲られたら感謝するべきだ」という極めて「善良で健全な」考え方によって。
そうして、「俺は席を譲られて不快になった」というマイノリティ的な発想は封殺されていく。

非常に参考になるというか、僕のこういった考え方の骨格になってるのが哲学者・中島義道の考え方。
直球ドストレートにこんな本さえ出してる。 

善人ほど悪い奴はいない  ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

 

まあ、ちょっと僕は影響されすぎてる気がして、それはあまり良くないなーとも思ってるんですけどね。

 

はっきり言って「健康で善良な」思想の人のほうが多分多いんだと思う。
僕みたいな考え方をしてると、疲れちゃう。
でもその上で言おう。
善人共が気持ち悪い、と。
地獄を作り出している、と。

 

その上でさらに言えば、「マイノリティに配慮する世の中」の真の姿は「老人」的な思想……ひねくれた思想が大いに認められる、跋扈する世の中なんじゃないかと思ってる。

パッと見ると綺麗な「みんながみんなに感謝する世界」はね、「マイノリティに配慮しない地獄」に地続きだ。
このことを強く認識して、どうも上手く噛み合わない世の中を楽しみましょう。

 

お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で。

「募金する俺かっけええええええ!」はダメなの?

こんにちは、大学では哲学しようと思ってたらフランス文学勉強してたMistirです。
今日はリクエストに答えるよ!

 屯田兵

いつも楽しく見ています。この度はこの問題とも関係して、かねてより気になっていることがあってコメントしました。
mistirさんは「募金をすること」もっと言うと「募金をしたと公言すること」が時折偽善であると非難の対象になることについてどう思われますか?

先日国連児童ポルノ問題が取りざたされてから、表現規制反対派として、また一方で実際の児童への救済を是非強めてほしいと考えている立場から、自分でできることは何か考えた結果、児童保育施設や支援団体に寄付を行うことにしました

しかしそれを公に発言するべきか考えあぐねているのは、日本では寄付を行うこと、行ったと発言することを偽善と見做し非難の対象になりうることを知っていたからです。
私としては「ネット上で議論を紛糾させることも必要だが、現実の児童を保護する視点が抜けているのでは」と一種問題提起したい気持ちもあって公表したいと考えていたのですが、そういった懸念から結局発言できていません
どうしてこの社会では募金をすることやしたと発言することがしばしば非難の対象になるのか、一度考察を伺いたいです。
よろしくお願いします。

なるほどなるほど。お答えいたしましょう。
カントの倫理学によると理性の命ずるトコロに従わぬ善は善にならなかったと思いますし、ニーチェは同情を根本的にダメって言いますから募金がそもそもダメで……

……って、多分こんな話誰も求めてないし僕も無理っすw

ってことで、哲学的観点っつーより普段僕が考えてることを素直に語ります

こういう話をすると、あまりにも有名なこのセリフがチラつく。

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 ハガレン鋼の錬金術師)が元ネタなんですよね、このセリフ。

さて、このセリフをめぐって以下のような記事が。

blog.livedoor.jp

ザーッと見て、「ずれてるなぁ……」って感じで見てました。
その中で……しかもコメント欄で「お、ようやく僕の思ってることを語ってる人がいる!」と思ったものを引用します。

偽善って日本語が、二種類の行動について指してると思う
俺らが嫌う類の偽善は「純粋な善意かも知れないけど結果的に善行になってない行動」で、
「やらない善よりやる偽善」が指すほうの偽善は「純粋な善意じゃなくても結果的に善行になってる行動」っていう

そう、そうなんですよ。
「偽善」って言葉がブレてる。

僕の記憶が正しければ、ハガレンのこのセリフは
医者が敵を治療しようとする

敵「お前ら自分のポイント上げるためにそうしてるだけだろ!」

医者「うるせえ!やらない善よりやる偽善だ!」

って文脈なんですね。
このパターンを内的偽善と名付けましょう。
つまり、批判者は「内面の打算」を批判している。
ついでにほんのちょっと知ったかぶりすると、カント倫理学の場合「実際に自分が心からそうしなければと思ってやった行為じゃない限り『善』と認められない」ってルールがあるので、このおじさんが実際に「ポイント上げるため」に治療行為してた場合それは完全にアウトです。ま、そういうカントのノリをフランスのシラーは思いっきりバカにしててこれが笑えるのですが……余談ですね。

内的偽善と名付けられる偽善があるってことは、外的偽善もあるわけですね。
僕が思い出すのは、これだ。

これが実話なのかどうかはここでは保留して、事例として分かりやすいためにこのツイートを参照して語ることにしよう。 

アーティストの内面のバカらしさ、あるいは「内的偽善」と同様に功名心かもしれないけど、それと加えると「結果」も批判されていることにお気付きだろう。
偽善について語るとき、まずこの2つは分離しなければならない。

……さて。
おそらくだけど……。

この論理展開、おそらくだけど厳密な「学問」の領域で語ろうとすると、多分ボコボコにされる。

何故かっつーと、今回分かりやすく二分したけど、本当はここまで明確に二分できないから。
特に「外的偽善」の方がごちゃごちゃしてて、「じゃあ結果的に誰も不幸になってないなら批判されないの?」とか「いや、コレ結局批判されてるのアーティストの功名心じゃね?」って話になってきて、実にややこしい。
ついでに言えば、「風が吹けば桶屋が儲かるメソッド」を適用すればもっともっと語れてしまう。どういうことか。
「やらない善よりやる偽善だ!」と言ったこの人が

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救った人たちが超覚醒を遂げて、1億人規模の大虐殺をしてしまうかもしれない。

もちろんこれは極論だけど、極論を考えることは非常に思考の整理に役立つ。

またまた余談だけど、高校生諸君で学校の勉強に悩んでる人は「極端に考える」ことをオススメする。
例えば円安と円高の仕組みって教わるじゃん?それ考えるとき、僕は暗記せずに「1ドル1円の世界Aと1ドル100000000000億円の世界Bでは何が起こるのか」を試験本番に考えるっつーことをしてた。
例えば世界Aの場合。
アメリカ人「車10000ドルで売りマース!いつも通りデース!」
日本人「マジか1万円でええんか……」
つまり買う側、輸入側が超得をする。
逆ならどうか。
アメリカ人「車10000ドルで売りマース!やっぱりいつも通りデース!」
日本人「国家予算でも足りねえ」


そういうことです。
余談終わり。

……何の話だっけ?そうそう、「内的偽善」でも十分に「結果」としての害悪を導き出せるよ、って話だ。
さらに言えば、「え?僕が助けた人が1万人殺したところでそれ僕の責任?」って話まで持ち込むと、もう話終わりません。

多分そういった厳密な議論は趣味としてやる分には良いだろうけど、僕にリクエストされた方はそれを求めてないと思うし、僕もここまで考えてると普段募金さえできなくなっちゃうから……

だから、思考のサポートツールとして程度に捉えてくださいね。この「内的偽善」と「外的偽善」の考え方。
その前提の上で考えてみましょう。

僕が募金します。
募金された人は助かります。
僕は(仮に名誉を求めていたとして)名誉と自己満足が得られます。
Win-Win!
それを見たAさんが僕を批判しました、「お前は見栄張ってるだけやろ」と。
僕は多分こう言います。
お前誰だよ!僕がいつお前に迷惑かけた!黙れ人間のゴミめが!!!!

まあ、多分この流れはそんなに不自然じゃないでしょう。

一方。
僕はアーティストです。
割り箸運動に反対してエコを歌いました。
結果、零細企業が潰れ、たくさんの人が路頭に迷いました。
それを見たAさんが僕を批判しました。「お前は見栄張ってるだけやろ」と。
そのとき……
多分、僕は言い返せねえなぁ。
後者の「お前は見栄張ってるだけやろ」には、やっぱり「その結果としてどれだけの人間が不幸になったんだ」が含意されてると思うんだ。

そろそろ結論に入ろうか。

僕は「内的偽善」はやっていいと思ってる。批判するAさんなんて放っておけば良い。多分Aさんも僕ほど深くは考えてない。
「外的偽善」は、まあなるべくやめといたほうが良いが、どうしてもやるべきだと思ったときはやったほうが良い。
「え?外的偽善は問答無用でやめたほうが良いんじゃないのか」
と思った?
例えば、「愛する人を守るために1000人を傷つける」。これも外的偽善に入れるならどうでしょう。
もしかしたらこれは別のレイヤーでとらえたほうが良いかもしれないけど、あえて一緒にしよう。解決法が同じだから。

じゃ、どうやって「内的偽善」と「外的偽善」を見分けるのか?あるいはどうやって「これは外的偽善に位置するかもしれないけど、それでもやったほうが良いのだ」って判断するのか?

さー、本当にややこしくややこしく語ったこの記事の極めてシンプルな結論。
「自分がやれば良いと思ったらやりゃいい」。
「その上で批判されたなら、それは受け入れりゃいい」。
「その批判が間違ってるなら、無視するか間違ってるって主張すりゃいい」。

そういうことです。
どういうことだよ!
……いつものアドラー先生に頼ります。

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yuk2.net

いやー、いつ読んでもキレイにまとまってますねぇ。

……アレ?
俺、語った意味あったか……?
ま、いっか!!

さて、ここからは別の話を。
非常に興味深い話だ。
非常に興味深い話なんだが……
これはまた別の日に語ったほうが良いかもなぁ。
みんな、そろそろ疲れたでしょう?
つまるところ、この記事は「続きます」。

次のテーマは
「人に好かれるために行う行為の気持ち悪さ」と
「善を受け入れることを強制する世の中の気持ち悪さ」
の二本でお送りします!

僕の記事がこんなに「キレイに」終わるわけがないじゃないですか……
次は多分、口悪くなるな……
ま、なるべく丁寧に語るので読んでね!

ここまでお読みいただきありがとうございました。
ではまた。次の更新は明日か明後日かな。

【追記】

続きです。

mistclast.hatenablog.com

極限の退屈と建物への執着

こんにちは、Mistirです。
今日はちょっと……というか、相当ふんわりとしたお話を。

最近、退屈だ。
社会人だもの、仕方がない。いや、「高校生の頃は〜」なんて言い出したらただの老害だし、高校生の頃は今より退屈じゃなかったかっつーとむしろ今より退屈だった気もするんだけど、それでも……
3年で状況が変わる。
そういう「認識」の中で生きる。
それはとても大きなことだったように思う。

なんとなくだけど、小学の頃は、まあ中学生になることが嬉しかったような。
中学が終わる頃、僕は高校生になると思えなかった。不思議な言い方だけど。
多分死んでるだろうなって思ってたのだ。
だが不思議なことに生きてた。不思議なものである。
生きて、高校に入学できてしまった。
未だによーく覚えている。
入学式の日。廊下の窓から中庭を見下ろしながら、ああ漫画みたいだと思ったものだ。出来ることなら恋愛ドラマを望む。
だが残念ながら、中庭は恋愛ドラマの場にはならなかった。当然だ。中庭に行く暇があれば食堂に行くし、図書館に行く。
中庭なんて、高校の象徴でさえ無い。なんであるんだ。
あるから、あるのだ。

ど田舎の高校だったので、駅まで10分近く田舎道を歩く必要があり、さらに言えば電車は30分に一本。よく全力疾走したものである。
次の電車が30分後だったため、とりあえず近所のコンビニに行ってカップラーメンを買って駅で食ってたら、同級生に「変な人やなぁ」の一文とともにブログに載せられたことは良い思い出である。

学校の食堂を思い出す。
図書館を思い出す。
見下ろした中庭を思い出す。が、コレは少し記憶が薄い。
駅を思い出す。はっきりと思い出す。


……さて、前置きはこれくらいで、今回は「建物」の話。
建物には象徴的な「魔力」が宿るという話だ。

吉本隆明の言葉なんだけど、「会社の建物は上司より大切だ」という言葉がある。 

悪人正機 (新潮文庫)

悪人正機 (新潮文庫)

 

 

理想的な建物が理想的な場所にあって、ある程度以上の規模の会社だったら、毎日来てもいいやって気持ちになりますね。
これは、経験的に言えるんですけれど、規模の小さな会社で、町工場みたいな十五人くらいのところで、しかも狭かったりすると、どうしてもこう、貧乏長屋に住んでるのと同じような感じ、つまり、なんかいつも世間の風に吹きさらされているような気がするんです。

そういう気分から守ってくれるのが建物なんですね。何でみんな大会社に入ろうとするかっていったら、僕は建物だと思う。

慧眼だ。
僕は非常に、大いに参考にしたものだ。

そういった「みじめさ」から守ってくれる、そういった建物の呪力。
だがそれ以上にもう一つ、僕は「建物という概念」にある幻想、呪力を認めている。

それは……

 

www.nicovideo.jp

ニコ動で見てるんですが。二話以降有料らしいですね。
……わりと真剣な話の中でこれ引用すると気が抜けるなぁ……

まあいいや。

もちろん、スクールが愛のプリズンだった、とかそういう話じゃない。
ある意味もっともっとシンプルな話だ。

この食堂の風景。

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この食堂の「感じ」見て、「あっ……ああああ」ってなったんです。
分かります?
きっと、分かる人は僕と良い酒を飲めます。

ああ、この光景は。
昔、夢見た光景だ。
高校に入る前?いや、入った後……大学に期待していた光景だったか。
いや、違う……これはもしかすると部活動の大会で他の高校に行ったときに「漫画みたいな食堂じゃないか!」と衝撃を受けた、あの記憶か?

……女の子がいっぱいいるから、とかそういう話じゃない。
なんというか……この、さ。
「学校っぽさ」を一身に請け負ったような光景っていうの?


ライトノベル・ゲーム・アニメで描かれる「学校」という建物。

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アマガミです。懐かしい……。

もうなんというか、今はさ。
この「想像上の」「学校という風景の中に」あるいはその要素を含有していた現実の「学校という空間に」「存在していた自分自身を」思い出して……
大分なんというか、がっくりくる。

別に僕の学校はこんな綺麗な食堂じゃなかった。
だけど、学校の食堂というその場所、その建物、その物語性、その呪力を……
今、何か神秘的なものとして思い返している自分がいる。

あ、もう終わったんだ、って。

これから……こういった「風景がある世界」に自分は行けるんだ(あるいはそういった世界に自分は存在している)という「幻想」の消失。

その先には、退屈な世界が広がっている。


大学の頃も、そういえばそういった極限の退屈の中にいたような気がする。

でも……ここからが大事でさ。
「大学」もまた今思い返してみると十分な「物語の」世界なんだよ。

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たとえこういった質素な教室でも、さ。
僕が学んでいたあの頃……僕はなんというか、十分に物語じみた世界の住人だったような気がする。
(画像引用元のT大のみなさん、質素な教室とか言ってごめんなさい、でも調度良かったので)

さて。
今、僕は「これからこういった建物がある世界に通う」といった幻想を持てず、というかもっと言ってしまえば……
建物にワクワクせず、生きてる。
建物に期待せず、生きてる。
それは世界にあまりワクワクしていないのと同義だ。


そういったことを、究極に自分向けにカスタムした僕の部屋で考えながら、ブログを書いている。
きっとこの瞬間はいつかの……
未来の自分にとっての物語になるのだろう。

この部屋に別れを告げるとき、僕は多分泣くだろう。
泣きながら、怪物じみた建物が立ち並ぶ夜の有楽町や新橋の飲み屋に行って、誰かにこの話をするだろう。

その建物の……未来の僕が「そこにいる」建物の、怪物じみた存在を脳裏に焼き付けながら。

……今日の話は大分ふわっとしてて、もしかすると同じような考え方をしたこと無い人にはさっぱりだったかもしれない。ごめんね。
僕はこれくらいのテンションで書くのが一番好きなんだ、実は。

お読みいただきありがとうございます。
ではまた次の記事で。