Minakami Room

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「痛み」を「悼む」ー『すずめの戸締まり』を読む

※当記事は『すずめの戸締まり』のネタバレを多々含みます。必ず鑑賞後にお読みください。

新海誠『すずめの戸締まり』を観た。

賛否両論が当然の映画であると思う。
エンターテイメント作品でありながら、語るべきことが非常に多く、難解な映画でもある。
難解で繊細な作品でありながら、ラフとしか言いようのない描写もある。

どうせ誰かが語るだろうと思った。
それでも、「自分が」何かを書かねばと思った。

この記事では「あのキャラクターの正体は」などといった、いわゆる「考察」はしない。
けれど、この作品を読み解くことで……
途方も無く大きな「問い」に挑んだ制作陣に敬意を払い、少しでも何かを返せたらと思う。

「問い」とは何か?
エンターテイメントの役割とは何か、という「問い」だ。

「悼む」ということ

生きている彼の人生はそこで終わっている。そして死後の彼を造るのは私達です。ああ、私はあの世がないと申し上げている訳ではありません。死後の世界は生きている者にしかないと云っているのです

京極夏彦『狂骨の夢』より


筆者はこの映画について、

  • 「場所を悼む」物語であるということ
  • 新海誠最高傑作……らしいこと
  • 地震の描写があること

だけを事前情報として鑑賞に挑んだ。

www.famitsu.com


「場所を悼む」物語であるということは、かなり序盤に判明する。
廃墟に存在する災害の入口である扉を、廃墟に存在していた人々のことを思いながら、閉じていく。
これが「場所を悼む」という行為であるということは、なんとなく分かる。

ただそもそも、「悼む」とは何か?
直接的な意味合いとしては、亡くなった人を悲しむことだ。
だが、「悼む」に含まれるニュアンスはそれだけではない。

祈る。
感傷を抱く。
想像する。
偲ぶ。
失われたものへのそういった感情、行為、そういった総体が「悼む」ということだ。

悼みながら、「閉じて」いく。
「閉じる」ことは「悼む」ことなのか?
というか「閉じる」とは何なのだ?
そもそも、「閉じ」なければ「災害」が起こるとは、どういうことなのだろう?

……そういったことを抱えながらも、物語はゲーム的に、そして正しくロードムービーとして進行していく。
この作品は基本的にエンターテイメントであり、終着点は見えないものの、目的は比較的明確だ。

鈴芽は旅を続ける。
草太を元に戻すために、あるいは災害を止めるために。
あるいは猫(ダイジン)になって逃げてしまった要石を元に戻すために。

……もしかすると。
開始数分で気づいていた人も多いかもしれないが、筆者は全く気づかなかった。
鈴芽の行き先が東北になるまで。

この物語が、3.11を直接扱ったものであるということに。

東日本大震災のこと

筆者は関西人だ。
2011年3月11日当時、大学後期入試を控えた受験生だった。

正直に言って、とんでもないことが起こっていたことは重々理解していたが、実感があったとは言えない。
そもそも「実感」ってなんだ?という話だ。

「実感」が湧いたのは、そこから7年以上経った2018年のことになる。
バイクを趣味で乗り回していた僕は、そこまで深い思いもなく、福島第一原発の付近まで行ってみることにした。

正直、楽観していた。
なんやかんやそれなりに店くらいあるだろう。
土産に地酒でも買って帰ろう。

だが、現地を見るとその楽観は吹き飛んだ。

1件だけ流されず残った家。

ありえない形に分断されたセンターライン。

そして、経験したことの無いような静寂さ。

バイク乗りとして、誰もいない、自由に走れる道は大好きだ。
だがこんな場所を喜べるはずがなかった。
この静寂性と、だだっ広さは、あまりにも、あまりにも、ただただ、残酷だった。

映画内で東北へ向かいながら、芹澤の「綺麗な場所」という発言に対する鈴芽の反応。
それは現地で僕の心の中に浮かんだ感情であり、同時にそれを打ち消す僕の声そのものだった。

そしてこの辺りで、映画の遂げようとしているミッションの大きさに気付き、なんだか分からない涙が溢れていた。

もしかすると。
この映画がやろうとしていることは……

最後まで観て、それは確信に変わった。
そして僕は涙と嗚咽が止まらなくなってしまった。
しばらく立ち上がれなかった。
多分他の観客は僕のことを3.11がフラッシュバックした観客だと思ったことだろうと思う。
それは上記経験を加味すると、ある意味では正しいのかもしれない。
だが、それよりも「この映画の挑み」に打ちひしがれてしまったことの方が大きかった。

この映画が挑んだことは。
「2時間のエンターテイメントに仮託した、『今を生きる人たち』への『悼み』」だ。
それは、冒頭で提示した「エンターテイメントの役割とは何か」という問いへの、一つの答えでもある。

「痛み」を「悼む」

「『今を生きる人たち』への『悼み』」という表現は矛盾を孕んでいる。
「悼む」対象は普通、もうこの世に無いものだからだ。
だが、そう表現するのがしっくりくるのだ。

失われた場所、時間。
亡くなった人々。
この物語で草太と鈴芽は「かつて栄えていた場所」を、想像しながら、そして閉じていく。

「思い」ながら「閉じる」。
それは「忘却す」ることでは決してない。
記憶に留めながら、決して忘れないと誓いながら、感謝しながら、それでいて「区切る」ということだ。

生者である僕たちには、生きている限り、いろんな重いものがのしかかり続ける。
それは「記憶」に、べったりと留まり続ける。
「記憶」は「痛み」として、僕らを苛み続ける。

忘れられたら楽かもしれない。
いっそ、せめて、僕の脳からだけでも……なかったことになれば。

だけど忘れたくない。
忘れるわけにはいかない。
だから忘れないでいる。

だが同時に、僕らは生きている以上、「あの日」に、「あの場所」に、留まり続けるわけにはいかない。
忘れてはならない、だけど進まなければならない。
その逆説もまた「痛み」となる。

「痛み」を無理に抑えつけてはならない。
それは反動となる。
残酷な悲劇を招く。
それは「ミミズ」の出現でも表現されているし、環さんが鈴芽に残酷な言葉を突き付けてしまうシーンでも表現されている。*1

だから「思い」ながらも、「区切る」必要がある。
それが「閉じる」ということだ。
「閉じる」ときに、草太は「お返し申す」と唱える。
あるべき場所への、記憶の返却。
それは「忘却」とは間違いなく異なるプロセスだ。
この映画について「忘却」を強制しているという批判がたまにあるが、それは的確なものではないと僕は考えている。

少なくとも僕は「戸締まり」の意味について、ここまでに書いたように解釈した。

「戸締まりする」からこそ、前に進める。
だから鈴芽は最後、「お返しする」のではなく、「行ってきます」と言った。
自分の記憶に対する「戸締まり」……ずっと自らを苛み続けてきた「痛み」への「悼み」を経て、前を向くことができるようになったのだ。

ところで、「被災地」とかつて栄えていた「廃墟」を同列に語ることについて批判する記事もあった。

人為的に人がいなくなった産業的な廃墟と、災害によって人びとの生活が切断されることを余儀なくされた被災地とを同値に並べて同じく悼もうとすることの不可解さと無神経さは言うまでもないが(……)

www.tokyoartbeat.com

確かに一理ある。
だが、僕はその点はあまり大きな問題ではないと考える。

「記憶」、あるいは「痛み」を「悼む」必要があることについては、その「痛み」の大きさの差異の問題はもちろんあるもののーー
本質的には変わらないからだ。

「悼む」必要。
それはまさに、この映画の表現を借りて言えば「戸締まりする」必要と読み替えられる。
生きて前に進まねばならないからこそ、どこかで人は「戸締まりする」必要があるのだ。

ところで、この映画の試みが「『今を生きる人たち』への『悼み』」と表現した筆者の意図が伝わっただろうか。

厳密に書けば、「『今を生きる人たち』が、『失ったもの』を、それでもなお『忘れるわけにはいかないもの』『痛み続けるもの』を『悼む』こと」をこの映画は表現している。映画のそういったプロセス自体がまさに、僕には挑みであり、切実な祈りに見えた。
それは、それ自体が「悼むこと」に他ならない。*2

その意義の大きさに、その大きな意義に対し現代日本で最も売れている映画監督が真っ向から向き合ってくれたことに、その心意気に、僕は息が苦しくなるくらいに泣かされてしまったのだと思う。

エンターテイメント

……と、堅苦しく書いたけれど、この映画は終始「エンターテイメント」でもある。

エンターテイメントの役割とは何か?
それは「今を生きる人たちが、今日と明日を生きるための活力となること」だと思う。
だからあらゆる意味でこの映画は「エンターテイメント」に徹しているし、僕はその態度を清潔だと思う。だから「よくわからなかったけど面白かった」も、この映画を十分に表している。
また、筆者が語ってきた定義に当てはめるのであれば、エンターテイメントと「悼むこと」の役割は通底している。
そう考えると「エンターテイメント」で「悼むこと」について語ることは、「エンターテイメント」で「エンターテイメント」について語ることとそう変わらず、ある種自己言及的でもある。
この記事で「エンターテイメントの役割」と「『悼むこと』の意義」をあまり分けずに語っていたのはその辺りが理由だ。

ところで、「震災をエンターテイメントとして扱って良いのか」という疑問は至極真っ当だが、その疑問については監督のこの言葉が少なくとも1つの答えではあるだろう。

「エンターテイメントとして語ってはいけない現実のできごとはあるんだろうか?」とも思っています。“この件にはエンターテイメント作品で触れてはならない”という決まりごとがあったとしたら、それこそ、悲劇だと思うんです。

www.famitsu.com

批判について

さて、ここまで大絶賛してきたが、相当な挑戦をしている映画ということもあり、全肯定できない点ももちろんある。
最大の問題点は「震災が人為的に引き起こされた」と読み取れてしまうことだろう。

素直に読み取れば事態は鈴芽が要石を抜き取ってしまったことだし、扉を閉じたり要石を差し込むことで災害が封じられるなら……
なぜ2011年の地震を封じてくれなかったんだ、という被災者の叫びは極めて真っ当だ。

先程引用した、この映画を極めて批判的な観点から読んでいる茂木謙之介氏*3の記事ではまさにこの考え方を「天譴論」と断じている。

巨大地震という現象が人為によって左右されるという思考が物語の前提にあり、カミ(≒〈怪異〉)もそれを容認するという枠組みが見てとれる。

つまり、ここで実質的に展開しているのは一種の「天譴論(てんけんろん)」的思考といえる。関東大震災の折の内村鑑三や東日本大震災の際の石原慎太郎の言説などで知られている、自然災害を天から人びとに与えられた罰として考え、災害を画期として人心の刷新を図ろうとする天譴論は、いうまでもなくその被災した土地、被災した人びとを貶める言説であり、容認することは極めて困難なものである。

www.tokyoartbeat.com

確かに映画の上記描写は問題なのだが、一方で、僕はこれが「天譴論」かと言うと決してそうではないように思うのだ。

どう考えても製作者が「3.11は人災だった」というメッセージを映画に込めているとは読み解けない。

僕はこの件に関しては、「問題を混同させてしまった」ことが原因だと思っている。

どういうことか。
この映画では一貫して、「記憶」や「思い」を「抑圧」あるいは「忘却」することを是としていない。
だからこそ「閉じる」ときに「想像」するよう、草太は鈴芽に求めるのだ。
環さんに関しても「抑圧」が限界に達したからこそ、あまりにも残酷な「言葉」が噴出してしまったと読み取れる。
たまたま何も起こらなかったが、あの言葉は重大な悲劇の引き金に十分なり得るものだ。*4

ここで見えてくるものは2つある。
①本来、ミミズはそういったものの……つまり、「忘却」や「抑圧」の果てに起こるまさに「人災」としての悲劇であるべきであり、自然災害であるべきではなかったのではないか。
②だが映画の都合上、それを「地震」としてまとめて扱ってしまったのではないか。

②に関しては推測だから、もしかすると筆者が設定を読み取れていないだけかもしれない。
だが①はただの問題提起なので正しいも間違っているもない。
強いて言うなら「地震を人災として扱っている」という批判が多々出ている以上、それなりに正しい問題提起ではあると思っている。

あと細かい*5ところを言えば、ダイジンは幼い頃の鈴芽と同じく「無垢」な存在として描かれているが、最終的に要石に戻らされるところに特に倫理的解決があるわけでもなく、作中の都合の良さだけを感じる辺りも気になるところではある。

また、「『忘却』をこそ望んでいる被災者に、事前に何も告げないまま、『戸締まり』を突き付けるのは残酷過ぎる」という批判もある。
これに関しては、あまりにも難しすぎる問題だ。
『すずめの戸締まり』は3.11を直接的に扱った映画でありながら、その本質はここまで述べた通り「3.11だけ」「3.11そのもの」とは言い難いからだ。
おそらく「被災者に」といったような言葉で広告をすると先入観を持たれてしまう。それを避けたかったのだろう。
また、あくまで「エンターテイメント」に徹するという矜持も合ったのだろう。
だが、その批判に対する「答え」は出ないでいるし、出ないだろうと思っている。

……ただ。
傲慢の極みかもしれないが、「忘却」をこそ望んでいた人が、『すずめの戸締まり』が許せなかった人が、当記事を読んで、少しだけでもこの作品を赦せる気持ちになってくれたならば……
筆者にとってそれほど嬉しいことはない。

終わりに

今、生きている僕らがすべきことは何だろうか?
できることは何だろうか?
前に進むことだとすると、過去は忘れるべきなのだろうか?

確かにこの映画は荒削りだ。
そして批判されるべき点も多々ある。
それでも、これほどに難しい問いを直視し、全く逃げずに、一つの解答を提示しようとした映画であるということは間違いない。
その点をもって、僕はこの映画が偉大な映画だと思っている。

賛否両論が仕方ない点もある。
だが明らかに誤解されている、と思われる意見も多々見かけた。
散々書いているように映画側にも悪いところはあるのだが、このままで勿体ないと思ったのだ。

この記事が提示した「読み方」については賛否あるだろうし、もしかすると誤読もあるかもしれない。
それでも例えば「裏設定が判明したら意味が180度変わってしまうような解釈」などは慎重に避けたつもりである。
鑑賞した方々の理解の支えになれたのであれば、これほど嬉しいことはない。

お読み頂きありがとうございました。
はてなブックマークやコメント等での皆さんのご感想、お待ちしてます。
ではまた。

*1:「心と記憶を強引に抑えつける」象徴である「要石」のサダイジンがすぐそばに来ていたことを思い出してほしい

*2:「記憶に区切りをつけること」を「悼む」と定義するならば、映画が「悼む」というのは多少厳密な表現ではないようにも思われる。ただ、表現に内包された祈りを表す適切な表現を考えるとどうしても「悼む」にたどり着いてしまう。

*3:なお筆者は、この記事について注目に値する点も多いように見ているものの、天皇制の議論に飛ぶ辺りなどは少々飛躍が過ぎるように思っている

*4:言うまでもないが、これは環さんの言葉を「悪」と断じているわけではない。むしろ「ああ言ってしまうのもやむを得ない」と思ってしまうということに、問題の重さはあるように見える。

*5:本当は全然細かくないし細かいと流していいか非常に悩ましいのだが、少なくとも現状、個人的には、この映画が扱っているテーマと比べると小さく見える……