Minakami Room

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生きにくい僕は信仰を探す

社会人1年目だったか2年目だったかの頃、会社に社外研修を受けさせられた。

社外研修と言うよりもはや自己啓発セミナーだったのだが、その講師が言った。
満面の笑みで。

「最近は子が親を殺すなんていう悲惨な事件がありますが、日頃からありがとうを伝えてたらそんなことは起こらなかったんですー!」

僕は怒りのあまり破壊神と化し、セミナー会場および講師、巻き添えを食らった参加者はとばっちりで灰燼と相成り、後には焼け野原だけが残った。
これは後に「新宿事変」として語られるが、刑法は自然人にのみ適用され、破壊神であった僕は人間ではなかったので適用されず、不可罰であった。


というのはもちろん嘘であるが、セミナー講師がそのような発言をしたのは事実だ。
満面の笑みだった、というのは僕の怒りが記憶を書き換えただけの気がするが。

そして、僕が気が狂れそうな程度に怒った、というのも偽りではない。

「ディテールを知らず、知ろうともせず」、
「分析もせず」、
「悲劇を自己の規範で身勝手に断じ」、
「しかもその規範には明確な基準がなく」、
「ただただ過度に一般化し」、
「悲劇を個別に知ろうとする想像力すら持ち得ない」、
「そんな人間が偉そうに講釈を垂れている」。
全てが、本当に全てが許せなかった。
あれほどまでに的確に僕の地雷を踏み抜いていった人間はそうそういない。

自己判断でセミナーを抜けるわけにもいかず、……今思えば体調不良とか言って途中退席すれば良かったのだが……、とにかくどこにも向けようのない怒りを抱いた僕は、せめてもの抵抗としてメモ用紙にペンをとんでもない勢いで叩きつけていた。
あくまで「つい筆圧が強くなった」だけ。
机がもし傷ついていたら、それは申し訳ないことをしたなと思わないでもない。

言峰綺礼について

話は変わるが、大人気ゲームFateシリーズに言峰綺礼というキャラが出てくる。

dic.nicovideo.jp


「人の不幸でしか生の実感を得られない*1」という、これだけ聞けば典型的悪役なのだが、この男の面白いところは「限界まで宗教家として生きようとしていた」ことにあり、同時に限界まで「真っ当な幸せを追い求めていた」ことにある。

普通の人間が美しいと感じる事柄を美しいと感じられず、多くの人間が醜いと感じる事柄に愛着を感じる生まれながらの破綻者。人の不幸がなければ幸福を感じることができない。神を信じて仕え、人並以上に道徳や倫理を理解し、それが正しいと思いながらも、自らの生まれついての悪への嗜好を満たす為に行動する。悪党ではないが悪人、非道ではないが外道。
だがそれでも霊体に対しての攻撃力は特化しており、歪ではあるものの彼の信仰心がどれほど揺ぎ無いものであるかを現している。

若い頃は人並みの幸福感を得られない外れた自分を許せず、多くの試みを持ってその歪みを矯正することで救われようとしていたが、妻の死や第四次聖杯戦争での出来事を通して達観し、現在は自分という生まれついての悪が存在する価値、外れた存在が在りのままに生き続けることの是非に対する答えを追い求めている。

言峰綺礼はFateシリーズの複数の作品に出ているキャラクターで、それぞれで設定が微妙に異なるのだが、Fate/Zeroでは主人公の一人*2である衛宮切嗣にこう言われている。


(Fate/Zero 第二話より)

 

僕が他人の数十倍の鍛錬をこなせてるかは別にして、これ本ッ当に他人事とは思えないんだよな……
言峰綺礼というキャラクターそのものをどうしても他人とは思えない。

そもそも「人の不幸でしか生の実感を得られない」ほど極端ではないにせよ、「不幸なゴシップ」に惹きつけられてしまうという気持ちは誰しもが持っているものではあると思う。
その気持ちを「生来の性質」「生き様」レベルで徹底的に煮詰めた先にあるのが、この言峰綺礼という男なのだ。

程度差はあれ、現実味・人間味のない性格のキャラクターではない。
むしろ逆だ。
そしてその実例がここにいた、という話だ。

僕は信仰を持たない

さて、この話がどう繋がってくるのか。

僕は先述したセミナー講師の行為を「暴力」であると定義する。
想像力を持たず、自分の「信仰」だけで、全ての個別事情を無視し、何かを断じ、語ったような態度を取る。
反証は許さない。
これを「不当な力による抑圧」、すなわち「暴力」と言わずして何と言おうか。

だが一方、よくも悪くも羨ましい生き方だなぁと思う。
彼(彼女)*3には、「信仰」があるのだ。

僕は信仰を持たない。
にも関わらず、ずっと信仰を探してきた。
バイクに、筋肉に、あるいはミニマリズムに、あるいは法律に、あるいは金に、セックスに、酒に。

 

mistclast.hatenablog.com

 

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言峰綺礼は歪ながら信仰を持ち得て、それを自分に適合させられなかったっていう人間なんだけど、僕はそもそも、どうも……
本当の信仰というものを持ち得ないようだ。

家を何件も移り歩かざるを得なかった幼少期の経験のせいなのか、何が原因なのかは分からない。
何が原因でもないのかもしれない。
だが、基本的に世を深く信じていないし、まして人間のことを深く信じていない。

ちょっと前、僕はロマンばかり追い求めていると書いた。

mistclast.hatenablog.com

でもさらに「なぜロマンを追い求めているのか?」を掘り下げると、「信仰を探していた」と解釈したほうがしっくりくる。

自分が大学で専攻していたのはジョルジュ・バタイユ……代表作は『無神学大全』。
ちょっと出来すぎた話だ。

「自分は信仰を探している」と強く自覚していたわけではない。
だけどずっと信仰……もっと明瞭に言えば「確かなもの」を探してきたのだろう。

日本人は無宗教?

一般的に日本は無宗教国家だと言われる。
だがそんなことは無いと思う。
「仏教文化が〜」とか、「神道が〜」とか、「クリスマスが〜」とか、そんなことを言うつもりはない。
何が言いたいかと言うと、僕が件の講師の無神経な発言を「信仰」であり「暴力」であると定義づけたのと同様、うっすらとした「信仰」と言うようなものが日本を下支えしているように感じるからだ。
いや、日本に限った話ではない。
人間なら誰しも信仰を欲するのだ。
それは当然の話だと僕は思う。

ここで具体例を出すと炎上するだけなのであまり出したくないが、わかりやすいのはビジネス書だ。
ほぼ全てのビジネス書が当然ながら「ビジネスでの成功」「効率化」といった「信仰」*4を、当然の大前提として書かれている。
僕は前提を共有できないので、心から共感して読めることがあまりない。

以前触れた『暇と退屈の倫理学』は、その点まさに「前提とは」を議論しているような本だったので、ずっと夢中で読めたのだと思う。

 

mistclast.hatenablog.com

だから僕は生きにくいのだ、と端的に断言して良いのかは分からないけれど、少なくとも一因ではあると思う。

努力で得るもの

で、そんな僕や、僕みたいな読者の方々がどうやったら生きやすくなるか、だけど……

酒、セックス、美味いメシ。
悪くはないけれど、根本的に救ってはくれない。
溺れるとデメリットもある。

金。
救いでもあるけれど、苦しみでもある。

となると。やっぱり。

筋肉ですよ。

「お前最近『筋肉島』読んだだろ」って言われそうだけど、その通りです。

shonenjumpplus.com


……
いや、ふざけてるんじゃない。

結局、自分の努力で得たものしか、僕みたいなタイプの人間は信じられないんだと思う。
これが全てなんだよな。
でも人間の人生で「ほぼ純粋な努力だけで得られるもの」が一体どれほどあるんだ、って話で。
筋肉と資格*5くらいしかぶっちゃけ思いつかない。

「何がしたいんですか?」とよく言われる。

わかりません。あなたこそ何がしたいんですか。あなたこそ何を信じてるんですか。何故ですか。何を根拠にですか。

人の信仰を否定するとき、あるいは人と人の信仰がぶつかるとき、戦争が起こる。
なら、信仰を持ちえない者は、生きてるだけでずっと戦争だ。
人の信仰と相容れないのだから。
もちろん人の信仰は意識的に否定しないようにしているが、限度がある。

ただ……
そんな僕でも、これまでに積み重ねられてきた学問であるとか、人の営為に畏敬の念を抱くときがある。
それは多分、それらが「純粋な努力」の一種の集積であるからなのだろう。

僕は僕で、蜘蛛の糸を辿って、どこかで「信仰」に辿り着きたい。
いつか、辿り着けるだろうか。

久々に筋トレすっかなぁ。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた。

*1:「人の不幸が蜜の味」というより、本当に「それだけでしか生の実感を得られない」

*2:なお、言峰綺礼自身も主人公の一人と言える

*3:性別等は伏せる

*4:「それって信仰というより『共同幻想』では?」と思った方もいるかもしれないが、ここでは特に考慮せず語りたい

*5:これらですら「純粋な努力だけ」とは言えない。だから「ほぼ」をつけた。