Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

低すぎる自己肯定感、分断、退屈、依存

ある病的な懐疑論者の話

魚が好きだった。
今も好きだ。

きっかけは小学3年生だったか4年生の頃、水槽と金魚を買ってもらったことだった。
僕は金魚のことをひたすら勉強した。
金魚のことで知らないことはなかった。
派生して魚のこともひたすら勉強した。
水族館にもひたすら行った。
さかなクンさんをライバルだと思っていた。

ある日、水族館で母が僕に言った。
「本当に魚好きね」と。

僕は思った。
「……本当に好きだっけ?」と。

小学生の頃のことなんかほとんど覚えていない。
だけどこれだけは明確に覚えている。
自分のその感情に驚いたからだろうか。

その後、いつ、どのように、その金魚たちが死んでいったか。
それは全く、覚えていない。

話が変わって、とある女性社長の話

さらに話が変わって、ある本の話

最近読んだこの本に、あまりにも大きな衝撃を受けた。

この本には、僕の人生が全部書いてあったのだ。
まさに窃視されたような感覚に陥った。

特に恐ろしかったのがこの部分。

 たとえば、将来を思い悩む大学生にとって、自分に何ができるか、どんな仕事があるか、そういったことを考えるのは苦しい。しかも何をしていいのか分からない。おそらくそんなとき、「なんとなく退屈だ」という声が響いてくる。それにはとても耐えられない。だから、それよりも大きく鳴り響いている別の声を探す。たとえば、「資格がなければ社会では認めてもらえない」「資格をとっておけば安心だ」という世間の声。この大きく鳴り響いている声に耳を傾けていれば、苦しさから逃れられる。そうして、資格取得の決断を下す。決断してしまえば本当に快適である。資格試験の奴隷であることはこの上なく楽だ。しかも、世間からは「一生懸命頑張っているね」と褒めてもらえる。というか、周囲は褒める以外にない。
 ハイデッガーはそうしたあり方を指して「狂気」と言ったのだった。それは、好きで物事に打ち込むのとは訳が違う。自分の奥底から響いてくる声から逃れるために奴隷になったのだから。

第7章より引用

この引用部分は、序盤で引用されている哲学者: アレンカ・ジュパンチッチのこの指摘と併せて読むと、より明確になる。

例えば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。人々は彼らを、恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。

序章より引用


あまりにも分かってしまった。

思うに、僕は生まれてからずっと「狂気」の世界で生きてきた。
自分の声に従ったのではない。
自分の声をかき消すために、行動してきたのだ。
「退屈だ」
「このままではいけない」
という声を、かき消すために。

そしてもう一つ、分かってきた。
どうもこれは……全く……

万人に理解できる行動原理ではない、らしい。

今までやってきたこと

このブログを読んでくれている人には耳にタコだと思うが、筆者は京都大学を目指し始めた辺りから何やらおかしくなった。

高校に入ったばかりの頃は「漠然とした不安」を抱えながらも、適当な大学に行くと思っていた。将来は生物に関わる仕事に就くんだろうな、と思っていた。

ヒーヒー言いながら宿題をこなしてたら、気付いたら全国模試でも旧帝大を余裕で狙えるレベルになってしまっていた。
そしてコスパ良く成績を稼げる文系に進んだ。
生物に関わる仕事の道は事実上途絶えた。
まぁ、もともとそんな強く思っていたわけじゃないのでどうでも良かった。

それで教師から煽られ、「京大生は卒業式でコスプレをする」という情報を得た僕は、ドラゴン桜に影響されていたこともあり、「残りの人生を楽するために」京都大学を目指すようになる。
独学で唯一入れる可能性があったのが教育学部だったので、教育学にはほぼ興味がなかったが、教育学部を目指すことにした。

部活を3つと生徒会を兼ねながら、睡眠時間は4時間近くで頑張った。

そしたら頭がぶっ壊れた。

ノイローゼを経験した僕は、高3になったが、その頃にはびっくりするほど勉強しなかった。
友人と深夜にゲームセンターとか本屋とかばかり巡っていた。
その友人は、最近自殺した。

そして当然大学に落ち、別の大学に滑り込んだ。
実学は全部クソだと思っていたので他は全部文学部を受けた。
当時、中島義道にクソほど影響を受けていて、哲学を勉強するしか無いと思っていた。

大学は言ったらオタク活動でもするかーと思って漫研に入ったら、「絵を描く人間と絵を描かない人間の派閥争い」に巻き込まれる。
僕は絵がミジンコほども描けない人間だった。
だが絵を描かない派閥とそれに属していることにムカついた僕は漫研を辞め、そのムカつきだけを理由に絵を始める。
そして学部では哲学、それもドイツ哲学を勉強しようとするのだが、内容がより面白かったフランス文学に浮気し、フランス語を勉強し始める。

なお、フランスに全く興味はなかった。
先生が好きだっただけである。

就職は死ぬほど嫌だったので、フランス文学で大学院に行くか、死ぬほど絵を頑張ってイラストレーターになることを考えた。
当時、自分の実力だけで名を売り稼いでいるイラストレーターは僕にとって究極の嫉妬の対象だった。
あまりにも眩しかった。

だが絵の才能……「努力する能力」や「熱意」も含めた才能は自分にはなかったので、フランス文学で大学院に行くことにした。
だが僕と僕の家にはお金がなかった。

ここで僕の過去を説明すると、小2の頃両親が家を買った直後に離婚、つまり2度連続で引っ越しを繰り返し、その後引越し先の祖父母の実家に転がり込み、そこも土地開発の煽りで立ち退き、その後よくわからん引っ越しを経て、5度くらい引っ越している。
引っ越すたびにいじめられた。
今思うと当然だと思う。

話が逸れるが、僕は「いじめられる側にも理由がある」という論調に賛同している。
ただ、「理由はあるが責任はない」という主張をしたい。
いじめる側が一方的に悪い、それは間違いない。
だが、いじめられる側に(いじめる側が本当に目につく全てに噛み付く狂犬みたいな人間であった場合でない限り、ではあるが)「理由」はあるのだ。
「背が低かったから」かもしれない。
「髪色が薄かったから」からかもしれない。
僕自身の理由として、心当たりは多々あるのだが、割愛する。

話を戻す。
大学院に行くためにバイトを気合い入れて大量に入れてみた。

即座に風邪を引いた。
あ、これは無理だ。
そう察したので、就職することにした。

一番学問っぽいことをできる仕事ってことで、ITエンジニアを選んだ。

プログラマの三大美徳と呼ばれる怠惰、短気、傲慢を兼ね備え、なんならそれに加えて色欲や嫉妬も兼ね備えた僕にとってITエンジニアは割と向いていたらしい。
気付いたら独立したりしてそれなりに上手くやっていた。
まぁ独立するということは一社目で完全に上手くいってたわけではないということだが、忘れてほしい。

そして今。
色々あって司法試験合格を目指している。

依存症の話

自分語りに付き合ってくれてありがとう。
なぜこんな話をずっとしたのかと言うと、これだけ色んなことをやってると、色んな人に会う。
だが、何かが違うのだ。

なんというか……
周りの人間は、極論、

こんな感じの人が多いのである。
いや、ここまでは流石に珍しいけれど。
この人をLv100だとすると、Lv30くらいの人は結構いて、自分に近い人でもLv10くらいの中、僕だけLv2くらいで世界を生きている感覚に陥る。何のLvかは後に語る。

彼、彼女らはキラキラするように自分の経験を飾り立てている。……のもあるが、それだけではない、ように思う。
どうも僕とは違う行動原理があるように見えるのだ。

僕はずっと心の中の「退屈」「何かしないと」っていう、うるさいうるさい声に、ずっと疲れて生きてきたように思う。
それこそ小学生の頃から。

それは使命感なんて名のつく綺麗なものではない。
もしそうなら、その声に流されてTwitterを延々眺めたり、YouTubeを延々眺めたり、そんな行動に走るだろうか?
それこそ強迫神経症でも患っているかのように、わずかな時間を見つけてスマホを見てしまう。
そして見る対象は別に大した内容じゃない、まとめサイトだったりする。

だが、見てないと「不安」が襲いかかるのだ。

急に話が飛ぶが、皆さんは某起業家であるホ○○○ンが好きだろうか?
嫌いだろうか?
そしてどちらでも良いが、彼が幸せに見えるだろうか?

なぜこの話をしたかというと、彼があまりにも僕に似ているように見えるのだ。
彼の方が多少……どころではなく、とんでもなく僕より元気だということは間違いないが。

「退屈だ、何かしないと」という、自分の中にある声。
それをかき消すための行動。
行動の中で、行動自体に依存する感覚。

それから、現代で話題になっている「ファスト映画」や「スマホ依存」、あるいは「映画の倍速再生」。
全てが繋がっているように思えてくるのは、僕だけだろうか?
そしてこれらの脈絡のない記述を貫くキーワードはなんなのだろうか?

自己肯定感

結論を言ってしまうと、僕は「自己肯定感」だと思っている。
先程述べた僕だけ異様に低い感覚、というのはこれだ。

自分がやってきたことを認めたい、割と凄いことをやってきた、という気持ちはある。
だが一方で、自分ができること、やってきたことを心から認められない自分がいる。

そして自分より「努力している」「強い思いがある」感じを出しながら、それでいて自分より(特に仕事上必要な)知識が少ない人間を見ると、無性に腹が立つ。
「え、なんで何一つ熱くなってない、やむなく習得すべきだったから習得した僕より、自分では好きとか頑張ってるとか言っているあなたが知らないの?なんで?ねえねえなんで?」
とか、そう思ってしまう。

この話を知人にしたら「自己肯定感の低さが生んだ怪物」呼ばわりされた。
少し気に入っている。

だがそもそも。
「好き」と言うことに、「熱中している」ということに、わざわざ条件をつけたり、疑いを持つのは、どうやら、自己肯定感の低い人間だけらしいのだ。

恐怖感から様々な行動を積み、最低限の成果を得てきた僕にとって、今、世界は宇宙人まみれになってしまった。
「水上さんはなんでもできる」
そう言ってくれる人が何人かいる。
そう言われるたびに、嬉しいけれど、泣きたくなるような気分になる。

まあ、もしかしたら他の人たちも何かを抱えながら、それで頑張って生きているのかもしれない。
けれど今の僕にそれをぶつける……「他の人だって実は辛い思いしながら、それを隠して頑張ってるんだよ」と言うのだけはやめてくれ。
多分吐いちゃう。

ただ、周りと話していて、想像以上に「繋がらない」ことが多く、多分本当に、何か自分はズレているのだと思う。
……もしかしたらそれを望んでいるだけかもしれないが。

分断

自己肯定感の高い、恵まれた経験をした人が、自分の経験ベースに恵まれたことを言って、炎上する。
あるあるすぎてどうでも良いくらいの話ではあるのだが、実を言うと、この炎上は当然であると思う一方、複雑な感情を抱くのだ。

もう一度言う。
僕にとって彼、彼女らは宇宙人なのだ。
多分彼らは少なくとも僕のように、自分の中にあるうるさい声を聞いて行動を続けているわけではない。
そんな人間の気持ちは僕には分からない。
でも、それは、おそらく。
向こうから見てもそうなのだ。

お前にどうせ俺の気持ちは分からない、とそう言うとき、僕も向こうからそう思われているということだ。

この分断は多分、終わらない、終わりようのないものなのだと思っている。

まあ、こういった人たち基準で社会システムが作られるのは本当に勘弁してほしいので、炎上に意義はある。
一方であまり責めないであげてほしい、とも思う。*1
それは僕が責められることと、鏡写しだから。

今やっていること

『暇と退屈の倫理学』にはこう書いてあった。
「何となく暇で、何となく寂しいけど、こんなもんかな……」と思えるようになることが、依存症からの回復である、と。*2

とてもよく分かるので、あまりスマホとか見ないようにしてます。
暇さえあればYouTubeとか流してたけど、……それこそ空白恐怖みたいな感情で、ずっと音を流していたけど、それもやめた。

そもそも、スマホやらYouTubeやらSNSやらの仕組みは「注意を引くことによる経済圏」、アテンション・エコノミーと呼ばれている。
依存症再生産システムである。
クソなのだ。
離れるに限る。

そして「そうか!俺の行動原理は狂気だったんだな!狂気的な司法試験とかやめよう!」ともならず、細々勉強は続けている。
本当に細々。
何か細いけれど、大事な糸であるように思うから。

仕事なんかで嫌なことは、容赦なく嫌と言う。
その結果凄く弱い社会人になってしまった気がする。
周りはなぜ耐えられるのだろう?とたまに……否、しょっちゅう思う。
もっとも、ここまで「狂気」で蓄積してきたスキルで、今は我儘が結構効く。
この我儘もいつまで続けられるか分からないので、「狂気」でカバーし続けるか、「狂気」の治療を待つか、どちらかの道しかない。

気付いたら孤立し始めてきたので、不安だったからこの記事を書いた。
結局のところ、僕の行動原理は「不安」なのだ。*3

さて、僕は承認欲求のためこの記事をネットに放つ。
でもそれで満たされる承認欲求なんて、本当に虚しいものなのだ。

それが分かっているならやめなよ?

分かっちゃいるけど、やめられない。
これを「依存」と呼ぶのである。
そしてそういう言葉を使う人間は、本当の意味では、まだ「分かって」いないのだ。
……いつか、分かる日が来るのだろうか。

*1:と言う割には選定したツイートに悪意があるように見えるが、どれを選んでも恣意性が出てしまうので、現段階で一番RTされているものを選んだ。

*2:付録脚注より

*3:『暇と退屈の倫理学』は付録で別の視点から「退屈」の原点を分析しているのだが、その議論は明らかに「不安」についての議論になっている。退屈と不安は極めて近い概念なのだ。