Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

コロナが連れてきた過去の日々

大学の頃を思い出す。

真面目に授業は受けていたし、成績もそれほど悪くはなかったけれど、熱心に勉強していたとは言い難い日々だった。

社会人になりたくなかった。
厳密に言えば、「普通の」社会人にはなりたくなかった。
贅沢な悩みだと言うのは分かっていたけれど多くの人が通る道だろうし、今でも考え方はそれほど変わっていない。

何か夢中になれるものを探して、ペンタブ買って絵を描いてみたりだとかカードゲームに手を出したりしてみたけれど、どちらも今ひとつモノにはならなかった。
特に絵は変なコンプレックスをこじらせながら中途半端に頑張ってはいたのだけれど、自分の才能の無さには薄々気づいてはいた。

そんな日々の中、ゲームも酒も、全部現実逃避に思えた。
ずっと、うっすら、焦っていた。
「自分は正しくないことをしている」。

大学4年になると単位も足りてしまって、睡眠がだんだん乱れ始めた。
ひどいときには目が覚めると夕方4時だった。
体内時計を戻そうとしても、どうしても戻らない。

そんな僕でも、結局なんだかんだで社会人になった。
社会人一年目の土日は何をやっていたか今ひとつ覚えていない。適当にゲームセンターに行ったり、誰かと飲んだり、そんな日々だったと思う。
焦りは相変わらずだった。

そして焦りを抱えた日々を繰り返したある日。

僕は、バイクに目覚めた。

埼玉に配属され、上京先の大田区から毎日2時間近くかけて通勤していた日々。
仕事帰りになんとなく立ち寄った五反田の書店でバイク雑誌が目に入ったのがきっかけだ。

そこからはあっという間だった。
1年で2万キロ近く走り、2年乗って買い替え、さらに3万キロ走り、また買い替え……

そうして晴れてさえいれば走る、そんな日々を繰り返し、有名なツーリングスポットはだいたい走ってしまった。
ライダーハウス、ゲストハウスも20以上巡っただろうか。どれくらい経験したか、もう覚えていない。
サーキットデビューもしてしまった。

……そして。

なんとなく、飽きてしまっていた。

バイクに根本的に飽きるということはあり得ない。
バイクに飽きたら、バイクに乗りながら考えれば良いのだ。
有名どころを走り尽くしたとしても、バイクに終わりはない。
どこにでも行ける。
知らないゲストハウス、地方の知らない小さな博物館、知らない小さな田舎の料理屋。知り尽くすには一生あっても足りない。

そして去年の冬が過ぎた。
春になったら行きたいところをいくつも決めていた。







そして、ヤツが来る。

 

今に在り、そして過去へ戻る

僕は一般論としての「人の密集したところは避けるべきだ」ということすらわざわざ口に出して言いたくない。
その一般論は極論、「人の密集したところや、人と常に接する職業で稼ぐビジネスモデルに従事している人たちは滅んで当然だ」という論理を内包している。
その上で一般論を言う人たちを悪く言いたいわけじゃない。
「絶対的な正しさがある」と思う人たち、あるいは「正しいことを言っていれば正しい」と無自覚に思う人たちを良く思わない……というかはっきり言って嫌いだというだけだ。

それでも、今構築されつつある倫理を念頭に置くと「バリバリ外出しろ!」とは言いにくいし、実際にそうは一切思わない。

結局、各々が各々の正義に従って行動すべきで、他人から反発を受けるような抑圧の押しつけは無意味だから避けるべきだという、中庸を嫌う人がとても怒りそうな結論に僕は至っている。
だがそれこそが紛れもなく、僕が至った結論なのだ。

その前提の上で、僕は明確に「ツーリングくらいやっても良い」と思っている。
立ち寄るのはコンビニとサービスエリア程度、人が密集している気配を感じたら速やかに去る、……を心がけていれば、事実としてリスクは近所のスーパーに行くより低いだろう。

……ただ、なぁ。
「そういった人の密集を現実的に避けられるのか」という問題は捨てきれないし、それ以前に……

そんなカリッカリの制限のもとで走っても、楽しくないんだよなぁ……

ゲストハウスにも行けない、地方の小さな博物館にも行けない。小さな田舎の料理屋でご飯を食べることもできない。

それなら首都高でも走ってどこにも立ち寄らず帰れば良い。
事故のリスクを別にしてノーリスクどころかゼロリスクだ。

ただ……それはただただ、面倒くさい。

結果として、僕はここまでの考え方を全て抜きにして、ここ最近はツーリングに出かけていない。
というより土日の朝、あまりにも眠くて眠くて、とても朝起きて走ろうという気にならないのだ。

だから土日は昼ごろまで寝て、適当にゲームして、酒飲んで寝てを繰り返している。

結果として……
僕は過去に戻った。
過去の、最も焦っていた、最もどうしようもない日々を、今僕は繰り返している。
そして、そんな日々は。
結果的に、鉤括弧付きの「正しい」日々なのだ。
反吐が出るほどに、正しい。

僕が抜け出したかったその日々は、僕の手元に舞い戻り……
そして今の社会 (いわゆる一般論) によって、肯定される生き方になった。
これはなんだ?
喜べば良いのか?

……まぁ。
そもそも、「正しくない日々」をバイクによって脱したという認識そのものが錯覚だったのかもしれない。
そもそも日々やら人生やらの本質はそこまで変わっていない……

……などと言うと言葉としてはキレイだけど、なぁ。

事実として生き方が変わったというのは間違っていないだろう。
変わった、というか戻った、というか……

結果的に、最近は在宅で仕事、YouTube、ゲーム、YouTubeYouTube麻雀、酒、仕事YouTube、ゲーム、麻雀、酒、YouTubeYouTube仕事YouTube、酒酒YouTubeたまにニコ動みたいな日々だ。
VTuberの雑談流しながらゴリゴリにプログラムを書いている。
それで一切ペースは落ちていないどころか、仕事が退屈じゃなくなった分、むしろ効率的になった。
これに関しては皮肉なことに、唯一この状況で「不幸中の幸い」と言えることだけれど、それ以外に関しては……
割と、どうしようもない。

だが。
そんな日々が、限りなく「正しい」のだ。
気が狂いそうになりながら、同時に……
自分の中で「正しくなかった」日々が「正しい」ものになった感覚を味わっている。

自分の中で「正しい」日々が「正しくない」ものになったこの感覚。
「正しくない」日々が「正しい」ものになったこの感覚。
それは多分戦後を生き抜いた日本人がみんな経験した気持ちなんだろうなぁ、と一種の新鮮さは覚えている。

この日々の後、「正しい」ことと「正しくない」ことは何か、頭が擦り切れるくらい考えた人たちは、絶対に絶対に強くなる。
人として強くなる。
それを成長と言って良いかはわからない。
それでも、確実に強くなる。

「正しい」ことと「正しくない」ことについて馬鹿みたいに考えることは、鉤括弧付きではなく、本当に、正しい。そのはずだ。

決して片方に流れてはならない。
幸いなことに、(そして悲しいことに)、それを考える時間だけはある……

もう少し、過去と現在を身体で味わおう。
やむなく、だけどね。

お読み頂きありがとうございました。ではまた。