Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

偏差値だけが、僕をこの世界で承認してくれていた

こんにちは、Mistirです。

タイトルにあるようなロクでも無いことを考えていた。
書こうか書くまいか悩んでいたけれど、ある記事を読んで決心がついた。

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

僕は自分のことを「高学歴」って言っていいのかわからない。
というか、一応は世知も習得しているので、わざわざ自分のことを「高学歴」だなどと喧伝しない。
それに今となっては学歴について「特に意味はない」というような綺麗事を言うことも、「意味はある」とそれっぽいことを言うことも、自由自在にできる。

ただ、事実を語るならば。
僕が第一志望として受けた大学は京都大学だった。
もしここに受かっていたならば、まぁ高学歴と言っても差し支えないだろう。
結果的に入った大学がどうだったのか、……それは黙秘権ってことで。

ということでメンタリティとしては上にリンクした記事について「分かる」と言ってもいい程度の権利はあるのだと思う。
あるいは受かっていない以上、「よりいっそうタチの悪い何か」なのかもしれない。

……そう、「タチの悪い何か」だ。
上の記事の言葉を使うとするならば。
「若者」から「大人」になれず、「若者」のままでいることさえ拒み。
「タチの悪い何か」として生きざるを得なくなった、ある存在の話だ。

 

 

「偏差値」と「承認」

自分の話をしよう。

僕は市で4位くらい、進学校と言うにはちょっと劣る、そんな高校に入学した。
中学の頃は釣りとゲームばかりしていて、勉強はいまひとつだった。

高校はいわゆる「ゴリ押しで勉強させる方針」だったので、割とヒィヒィ言いながらついて行っていた。
高校入りたての数学、複雑になった因数分解で既に折れそうになっていた。

定期試験はいくら頑張っても学年8位が限界だった。
良くても4位、だいたい12位とか。

「手を抜いていた」わけではない。
「本気で頑張って」も決して1位は取れなかったのだ。

勝てない、とそう思っていた。
一年の最後、全国模試を受けるまでは。

結果を言えば僕は校内模試で毎回一位を取り続けた。
厳密には1,2度程2位だったことがあったが、基本的にはずっと一位だった。

最初は偶然だと思っていた。
だが、高校一年の最後で「駿台ハイレベル模試」という模試を受けて確信に変わった。

ご存知の方も多いと思うが、この模試は……難しい。
偏差値50前半なら、多くの国公立大学が狙えてしまうという、そんな模試だ。

学年でも比較的成績の良い生徒に声がかかり、その模試を一斉に受けることになった。
勿論、僕もその模試を受けた。

模試の結果返却の際、どうやら全員惨憺たる結果だったらしく、返却担当の先生は何度も
「偏差値50あったら喜んでいいですから!」
と繰り返していたことを未だに覚えている。

そんな中、僕の偏差値は60だった。

読み方が間違えているのではないかと思い、何度も読み返したがどう見ても60だった。

僕は気付いた。
……ああ、僕より上の奴ら、暗記が得意なだけだったのか。
あの僕より頭が良さそうなあいつや、あいつ。それからあいつも、全員。
本当の意味で理解してたわけじゃなかったのか。

………………なーんだ。思い過ごし、だったのか。



僕はそこから調子に乗り本気で京都大学を目指し始める。
京都大学に入りさえすれば後の人生は上手くいくだろう。
その倒錯した妄執は、僕に睡眠時間を削らせ、圧倒的な学力を得させた。

……が、そんな妄執が長続きするはずがない。
僕は高校3年の頃、露骨にペースダウンしてしまった。
多分誰よりも高校2年の頃勉強していた僕は、多分誰よりも高校3年で勉強していなかった。

……それでもなお、僕は学年1位だった。

お付き合い頂きありがとう。
ここから僕の話は核心に入ります。

僕はあの頃、全然勉強が進まなかったにも関わらず……

学年2位を取ることが怖くて怖くて仕方なかった。
本当に怖かった。

よく考えると、意味がわからない。
一度くらい2位を取ったところで死ぬわけでもない。
第一、あまり勉強が進んでいないなら順位が落ちてもおかしくないだろう。

思えばあの頃から歪んでいたのだ。
そう。

僕が安心できるのは、自分の偏差値を、自分の順位を、全てを数値で示された、あの試験結果返却の時だけだった。

そうだ。
僕はそれによって、安心を――世界からの「承認」を得ていたのだ。
今なら分かる。

あの頃、僕は幸せだったか?
あの頃に戻りたいか?
そんなことはない、断じて無い。全否定しよう。

だが、……あの「試験結果返却のとき」の「安心感」は、……はっきりと言ってしまえば「この世界に生きていて大丈夫なのだ」と認められている、あの感覚だけは……

僕が欲しているはずの、あの感覚は。
大学に入って以降……ほとんど味わえていない。

社会で生きるということ

入った大学で色々なことに救いを求めたが、今ひとつ身にならなかった。

京大は落ちて当たり前だと思いながら受けて、案の定落ちたのであまりショックではなかった。……とはいえ深層心理ではショックだったらしく、たまに夢に見てしまったが。

「自分は頑張りさえすれば何にでもなれる」と思っていた。
だが、頑張ることひとつひとつに頑張れば結果が出るというエビデンスを欲した。

大学の頃、頑張って絵を描いていたことがある。
だがどうやら、すこぶる向いていなかったらしい。
今は全く描いていない。そもそも向いていなかったのだろう。
社会人になった今なら思う。

……僕は昔。
「向いていなかった」など、全て弱者の言い訳だと思っていた。

けれど、今なら分かる。
人間、向いていないことはある。
絶対的に、ある。
もし向いていないことであっても続けられるとするならば、それは……
自分が認めた「枠組み」から、自分が「承認」されていると、常に認識できる場合だけだ。

偏差値は美しかった。
順位は美しかった。
それは僕が認識している「母集団」、言い換えれば学生にとっての「世界」という「枠組み」から与えられた「承認」に他ならなかった。
そこには嘘がなかった。
嘘がないもの、数字の世界、そんな枠組みだけを僕は愛すべき「世界」であると、そう認識してしまった。

もうお分かりだろう。
社会は、世間は、そんな美しいものではない。
それくらい、分かっていたつもりだった。

救いはどこにある?

大学以降、何をやってもカッチリと自分にハマらない、そんな違和感の中で僕は生きている。

だが結果的に、妙にハードボイルドじみた考え方になり、酒と女の子とバイクをこよなく愛する人間になってしまった。
だが彼女はいない


社会人になってから乗り始めたバイクは、あまりにも僕の気質と合致して、僕の人生に必須の存在になるまでそう時間はかからなかった。
そう、これが「向いている」ということなのだろう。

……「好きなものがあるなら良いだろう」
と、そう思われる方もいらっしゃるかもしれない。
けれど……なんというか、僕にとってバイクは「すがるべき宗教」の域に達しており、ある種の足かせでもあると認識している。
「バイクに救われた」そう強く認識しているが、同時に――

「救い」とは「呪い」であるとも認識している。

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RIDEX 1 (Motor Magazine Mook)

RIDEX 1 (Motor Magazine Mook)

 

 
「バイク乗りはレールに乗るような約束された未来など欲しがってはいけない」

この言葉は、僕にとってどれだけの救いであるか。
そして同時に、僕にとってどれだけの呪いであるか。

……最近、大型二輪免許を取った。
その日は知人と飲みに行ったのだけれど、僕は事あるごとに何度も何度も、じっと免許に刻まれた「大自二」の文字を見続けていた。
なんでそんな何度も見ているんだ、と。そう言われた。

文字列として刻まれた、承認。
それは僕にとって、学年一位を取ったときに感じた「安心感」(≠達成感) と同じような何かを覚えさせてくれる。

……そして、もうそろそろ話は最初に戻る。

「若者」にも「大人」にもなれず

会社で褒められようが、評価されようが、それは僕にとって「認められた枠組みからの承認」ではない。
……もちろん「会社」をナメているわけではない。むしろ僕にとって会社、あるいは組織は恐怖・畏怖の対象でさえある。昔から組織という生き物が恐ろしかった。

結局、会社で認められることや、友人・恋人に認められることはどこまで突き詰めても「特定個人からの承認」に過ぎないのだ。
どうやら僕は、それでは「承認された」と脳が認識してくれず、不安に陥るらしい。

そういえば高校の頃、いくら先生に評価されようが「お前は頑張っている」と言われようが、実感が沸かなかった。
僕が認めた枠組みは「先生のような特定個人」じゃなく、もっと大きなものだったのだろう。そんな枠組みが実体として存在していたのか、それはまた別のお話。

……さて。今の話だ。

今は25歳で、同年代がちょくちょく結婚し始めてきたところだ。

……寂しくなる。

が、一方で自分が「結婚」に、少なくとも今の段階では一切向いていないことも理解している。
子供を作る?家庭を作る?絶対に有り得ない。

あと5年働いたら、僕のこの不安は……ゆらぎは、なくなっている?
僕は社会から承認されたと実感できている?
そう実感できるような、新たな「枠組み」を世界の中で認識している…?

実感がない。

今はバイクだけが僕をこの世で承認してくれる。
だが、週末にバイクに乗ることだけを楽しみに死んだように週5日働くのもまた愚かしい。
……それほど仕事が嫌で仕方ないわけじゃない。実感が沸かないだけだ。


……実感。
それを得ることが、僕にとって何よりも難しい。
実感とは、承認されたときにのみ得られるものだから。

僕はどうすれば、世界から「承認」される?
「大人」になった人間は、「世界から承認された」実感の中で生きているのか?

……それとも、全ては最初から壮大な「錯覚」なのか?
僕はまだ子供だから、「錯覚」の世界に生きているだけなのか?

……まぁ。
当分は、独りで考えようと思う。
そうこうしている間に歳を重ねてしまうことが恐ろしくもあるけれど。
……この歳になってもまだ、どうやらもう少し時間をかけないと、「大人」にも、「大人のフリをした子供」にもなれなさそうだ。

……
今年のGSX-S1000Fの黒カラー、超カッコイイんですよ。
みなさんもバイクに乗りましょう。そして呪われろ。

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お読み頂き、ありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。