ということでこんにちは。
好き好んで考えすぎるMisitrです!
さて、こちらの記事。
ブレンディ!
本当にたくさんの方にお読みいただきました。
そしてたくさんのご感想をいただきました。
ありがとうございます!
……
ありがとうございます!
言葉がそれ以外浮かばないです。
……。
ずっとこの話してても先に進まないので先に進みます!!
上の記事に、以下のようなコメントをいただきました。
要約しますが……
「表現規制しようとする人ばかりだから俺はブレンディ応援するわ」
と。
ロックですねぇ。
好きですよ!僕は!
まぁ、一応上の記事では慎重に「表現規制の推奨」的な文脈にならないように気を使って書いていたんだけど、まぁ伝わらないこともあるよなぁ、と。
ってことで。
僕の「表現の自由」に対する「持論」をまとめて語ります!
1年以上前から
「僕の記事はハーレム系ライトノベルでも読むつもりで読んでね!」
って言い続けてるので、今回もそれくらいの感覚でお読みください。
少しの間、前提条件の確認が続くので退屈かもしれませんが我慢してね。
……さて。
まず、前提条件として僕が「嫌いな」論理から打ち出しておきます。
コレ、たまに言う人いるんで。
・「そんなものは表現ではない」、だから表現の自由は適用されない
この言い方のどこがタチ悪いか。
必ずしも間違ってないことです。
どういうことかっつーと、例えばもし僕のブログに
「Mistirの本名は◯◯、就職先は◯◯、(その他個人情報諸々)、臭い」
って書かれたら……
訴えます。
臭くねえよ!と。
……書くなよ!?本名知ってても書くなよ!?本当に訴えるぞ!司法の場に!!
まあ訴訟問題になるのは当然ですね。
でも、辞書的定義から言えば「Mistirの本名は◯◯、就職先は◯◯、(その他個人情報諸々)、臭い」は表現ですよね。
でも、名誉毀損だか個人情報保護法違反だかなんだか知りませんが「違法」だよね。
「違法行為」に「自由はない」。
この前提を覆すと話が別の話になるので、とりあえずはやめましょう。
……この「前提」を逆に利用して「俺の嫌いな表現は違法にしてしまえ」というダイナミック過ぎる考え方の人も現実にいますし、それこそまさに大問題なのですが、それはまた後で触れます。
さて。
では「表現の自由」が担保される表現とは何か?
僕は、基本的に表現は全て自由だと思っている。
実を言うと、上の「表現」も自由だ。
でも、迂闊なことするなら訴えますよ、と。
もっと簡単に言おう。
「怒るよ」ってことだ。
で、「怒る」のは「自由」なのである。
表現に、怒る。
実は、このことは単純に見えて『「個人情報を晒されたから」怒る』というような単純なモノばかりじゃない。
例えば以下の「作品」を仮定してみよう。
作品の「良し悪し」、言い換えれば「芸術性」はとりあえず置いといてください。
すっげぇ美麗なCGで。
明らかに金をかけた豪華な声優陣で。
「ガニ股の汚い中年のおっさんが高速移動しながら『ゆとりは無能!』と叫び続けるだけの映像作品」
想像できましたか?
何、想定できない?
仕方ない、イメージ画像です。
我ながら完璧なイメージですね。
しかも、このおっさん、増えます。
いきなり何の話だって思われたと思いますが……
もし、こんな「作品」があったら、少なくとも僕は以下のように分析するだろう。
「ゆとり世代を批判する世代の、無個性っぷりを皮肉っている(風刺している)」と。
この作品を仮に作品Aとしよう。
次に、作品Bについて考えてみる。
次から次へと、豪華なCGで再現された偉人が登場して、
「ゆとりは無能だ」ということばかり言い続ける作品。
これを作品Bとします。
僕はこの作品を以下のように分析するでしょう。
「……わかんねーよ……ただバカにされてることだけは分かる……」
さて、作品Aに対してですが……
いわゆる「中年世代」の方々は、怒って良い。「ふざけんな!」でも良いですし、「類型的過ぎる!」でも良い。「面白くない!」でも良い。
「怒る」権利がある。
で、作品Bに対して、ゆとり世代は「怒る」権利がある。
怒っていいんです。
でも、ここで「やめろ!」と言ってしまうと……最強の盾が炸裂します。
表現の自由という、最強の盾が。
言い換えると、表現の自由とは、最強の剣でもあります。
相手を幾らでも安全地帯から攻撃できる、敗北無き最強の剣なんです。
オーバーだと思います?
思い出してみてください、ある事件を。
安全地帯から、「表現の自由」という最強の剣を振りかざし、日本に斬りかかった相手がいたことで、日本政府が反発した「事件」がありましたね。
そう、シャルリー・エブドです。
あ、これはあくまでも例えとして出しただけで、これが良いとか悪いとかそういう話は今したくないのでやめときます。
……でも、日本政府としては「やめろ!」の一言くらい言いたくなりますよねぇ。
でも、「表現の自由」がここで叫ばれる。
僕、ずっとこれモヤモヤしてたんですよ。確かに表現でバカにされたら表現で返せばいい。でも……それじゃ。それじゃ……
そう、無限に続く「戦争」になっちゃう。
ブレンディのCMの話をちょっとしましょう。
以下のようなツイートがありました。
で、僕がこのCMに思うのは「これ批評じゃなくて『冷笑』だよね?」ってこと。海外の審査員はこのCMに「家畜のように管理される少年少女」への批評を善意として読み取ったわけだけど、僕が感じるのは「ほんとこいつらって家畜だよなあ」という冷笑で、むろん芸術とは悪意や冷笑であるという論は判る
— Cdb (@C4Dbeginner) 2015, 10月 3
実はこのツイート、僕の記事に対する反応みたいで「うーん、良い分析!」って思いました。
で、漫画家(兼その他色々)の矢野健太郎氏も反応
まさにその『「冷笑」を向けられた若者』の側からの血の叫びが、例の「冷静に分析する」 http://t.co/RpFqRl8IVC の到達点だったのだと腑に落ちる>RT群
— 矢野健太郎 (@yanoja) 2015, 10月 4
そう、その通り。
僕は叫んだ。色んな人も叫んだ。それだけの話なんだ。
よく引用される画像がある。
鋭い。
だけど、「自由な批評」は確かにすることはできるけどさ。
福島原発の件もそうだけど、冷ややかに笑われたら「やめろやオイ」とか「アカンで」くらいは言いたくなるよね。
そこで「あなたの表現に自由はない!」みたいに言っちゃうから話がこじれたりするけど、そういう問題じゃなくてさ。
バカにされたら、怒るでしょ?
不快になるでしょ?
そういうことです。
……だけど。
この話にはまだ少しだけ続きがある。
正直、この先の話はあまり触れたくない。
誤解を招く可能性もあるし、言ってて結構ツライからだ。
あるいは、僕の記事を読んでくださった方々を失望させてしまうかもしれない。
でも、避けては通れないから語ろうと思う。
ある作品に対して「やめろ」と言いたくなる心理には、直接的な怒りや呆れの他に、次のような心理が存在する。
「直接バカにされてるわけじゃないのに、その作品に『やめろ』と言いたくなる心理」だ。
それが、まさに今一番ある意味アツい、「二次元への規制」ってことになる。
「誰も不幸になっていないにも関わらず、怒る」。
こういった人々、かつ怒り方がズレてる人たちをを俗に「風紀ババア」と呼んだりする。
でも、実はこの問題、「ブレンディのCM」にも混ざっている。
そう、「性」の問題だ。
おそらく、ブレンディのCMに「怒った」方の中には、「女子高生」が「男性管理者に『濃い牛乳を出し続けるんだよ』」に怒った人も多いことだろう。
それは、僕が記事のラストに書いた「他人事とは思えない」感覚とは、おそらく根本的に違う……「義憤」に近い感覚かと思う。
あるいは、自分自身がそういった「嫌な目線」に悩まされ続けたという方もいらっしゃるのだろう。この場合は「冷笑」に対する怒りと同様の構造ーーこの記事の前半部分で触れた構造と同じ構造になる。
僕が今話題にしたいのは、「第三者として」「怒った」方々。
もちろん、僕はその「怒り」を抱いた方々を「風紀ババア」と言うつもりは毛頭ない。
だけど、実は表現の自由で最も難しいのがこの「義憤」の扱いなのだ。
本当に難しい。
おそらく、非実在青少年云々の「二次元にも人権はある」的なことを言ってらっしゃる方々の中では、論理が通っている、それこそまっとうな「義憤」なのだろう。
そういった人々に何を言っても伝わるものではない。
「論理」なんて「感覚」の後に幾らでもでっち上げられるものなのだ。それが客観性があるかってことは別だけど。
僕個人の意見として述べるなら、ブレンディのCMのおっぱい表現は「アカンで」の種類がまた全体にたいする「アカンで」の種類と違うのである。
「こういうのがナイーブになってる世の中に、明らかに無神経にやってるやん……」の「アカンで」なのである。
つまり、僕も「義憤」に近い感情を抱いたわけだ。おっぱいに幻惑されただけで
※なお、関西人の「アカンで」はかなり色々な意味があります。注意!
で、この「義憤」。
僕はあって当然だと思っているし、必要だと思っている。
だけど一番「風紀ババア」なりその他悪いものに転嫁しがちなのがこの「義憤」です。
だから、「自分に対すること以外で」怒りを感じたら、「すっ」と引いて考えねばならない。
その上で「妥当だ」って思ったら……
怒りましょう。
で、「表現の自由」……いや、違いますね。「怒る自由」を行使しましょう。そして言いましょう。
「アカンで」と。
僕はその程度で良いと思うんです。
なんせ、表現の過激派リベラルやからね、僕は。
お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で。
あとはおまけ。
しっかり「怒るフリ」をする、演義としての怒りを身につけようという中島義道の著作があります。
電子版が異様に安いのでどうでしょう。