MistiRoom

旅することと語ること。自由であること。

『けものフレンズ』の「流行」そして「奇跡」を読み解く

こんにちは、Mistirです。

皆さん。
最高の最終回を迎えた、最高の作品をご覧になりましたか。

そう。

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けものフレンズという作品について。

 

僕は、4話の段階でこの作品について語った。
1万字の規模で語った。

mistclast.hatenablog.com

その分析が「間違っていた」とは思わない。
4話段階で、僕の指摘した

「『けものフレンズ』は浄土真宗である」

という理論は、有効だったはずだ。

 

でも。
足りない、と気づいた。
視聴を続けるたびに思う。
足りない。明らかに、足りない。

もしかすると、僕らは……
「奇跡」を目の当たりにしているのではないか?

過去記事に詳しいが、『けものフレンズ』という、かつては「少々バカにされていた」作品。
それが今や『魔法少女まどか☆マギカ』の辺りと同レベル、あるいはそれ以上の「話題作」として扱われている。

何故だ。
「バズ」や、「奇跡」という言葉で済ませていいのか。
この「現象」に再現性は、あるのか。

僕は、考えた。
考えて、考えて、考えて……
この現象の全体像が、分かった。

それは……あまりにも、美しく、それでいて、偶然抜きにあり得ない……
同時に、作品自体の優れた緻密性無しには成し得ない、「奇跡」だ。
少なくとも、僕はそう考えた。

まずは、先程リンクした僕の過去記事をお読み頂きたい。
そして、僕は12話全てを見た方を相手に語ることにする。
ネタバレなんか考慮しない。
僕は、好きにやらせてもらう。

この記事は、以前の自分の記事への「アンサー」だ。
僕が見逃していたものに、僕がその答えを出さねば、と思って書く記事だ。

さあ、語ろう。

語るんだ。
僕らは、語るんだ。

この奇跡の作品について。
僕らが見た、僕らが出会った、僕らが参加した、その「奇跡」について。

11話ショックから作品を再構築する

けものフレンズ』を語る上で、欠かせなくなってしまったのが「11話」だ。

dic.pixiv.net

dic.nicovideo.jp


11話、それは僕らに本当に大きな衝撃を与えた。
それくらいに、11話は衝撃的な展開だった。


休館する旅館が現れた程だ。

nlab.itmedia.co.jp


冗談みたいな話だが、ホントウの話だ。
いや、この際「本当に休館したのか」なんて、どうでもいいのだ。
「それも仕方ないな」と思わせるほどの『けものフレンズ』11話のパワー、それだけで話は十分なんだ。

何故だ。
何故、ここまで僕らは心を乱された。

所詮、アニメだぞ。
アニメの展開に過ぎないんだぞ。
何故、僕らはここまで「打ちひしがれた」?
何に衝撃を受けたのだろう。
かばんちゃんの「消失」だろうか。
「何に」なんだろうか?

わからない。

でも、確実に言える「理由」。


それは……
それくらいまでどっぷりと、僕らが『けものフレンズ』に浸っていたという事実だろう。

僕らは、それ程までに『けものフレンズ』の世界に「耽溺」していたんだ。

僕は、かつて……第4話の段階でけものフレンズ』は浄土真宗、と述べた。
誰でも、極論「アニメに興味がない人でも」、「たのしー!!」「わーい!!」と言えば……君は、フレンズ。
アニメを観ずに語るのは、本来不遜だ。だけど、そんな楽しみ方さえも許容してくれる、作品の「懐の広さ」を僕は語った。


今なら分かる。
その「懐の広さ」は、「あくまでも」入り口に過ぎなかった。

そもそも。
僕らオタクは面倒くさい生き物だ。

厳しい作品なんて、見たくない。辛い思いなんて、したくない。
だけど、作品のもっともっともっともっと深いトコロに触れたい。

そんな、とてもアンヴィヴァレンツな存在。それが僕ら「オタク」だ。

そんな僕らに、『けものフレンズ』は最高の素材を提供してくれていた。
そう。

「僕らは、気楽に作品を観ていても良かった」。

だけど、無視できないほど……否応なしに、僕らに「不穏」は突きつけられる。
僕らは、ドキドキする。
僕らは、困惑する。

でも、戻る。
「たーのしー!!!!」

「不穏さ」を覆い隠すほどの圧倒的な「寛容さ」。そこに僕らは惹かれ続けた。
そして僕らは「楽しみ」続けた。
「無視できない不穏さ」を、直視しながらも……楽しみ続けた。
それでも、僕らは不穏さをもまた……楽しみ続けた。

それは「爆弾」として、僕らの心の片隅にとどまり続けた。
そして。

その「爆弾」は、炸裂した。
それが「第11話」だ。

もう一度語ろう。
僕らは、何故11話で泣いた?
僕らは、何故11話で衝撃を受けた?

そう。
僕らの中で膨らんでいたその「不穏さ」が、大爆発したからだ。
でも同時に、それだけじゃない。

僕らは、泣いたんだ。
「かばんちゃん」の選択に。

11話を思い出して欲しい。
かばんちゃんは、サーバルちゃんを助けるために、知恵を使い、走り、跳び、泳ぐ。
フレンズの世界で生きてきた「ヒト」であるかばんちゃんは、「フレンズ」のために、「フレンズ」としての力を全て使ってーー

「A Friend」であるサーバルちゃんのために、覚悟の道を選んだ。

僕らは、「たのしー!!」と叫びながら、かばんちゃんと、サーバルちゃんと、ジャパリパークを探検してきた。
だからこそ、わかるんだ。
わかってしまったんだ。
かばんちゃんの「選択」を。受け入れざるを得なかったんだ。

この言い方が大袈裟であると思うなら、それでいい。
だったら、もっと軽く考えてくれていい。

けものフレンズ』という作品は。
僕らを寛容に「包み込んでいた」。
それは、言い換えるとーー

僕らが「何の疑いもなく」その世界に耽溺してた、ってことだ。
例え溢れるほどの不穏さを抱えていたとしても。

けものフレンズ

僕らが「何の疑いもなく」その世界に耽溺してた、ってこと。
それは、本当にスゴイことだ。

僕らは、一体化してた。
作品世界と一体化してた。

それは何故だろう。
作品世界の寛容さもある。

だけど、その作品世界の寛容さと呼応するように対応していた「世界」がある。

SNS(Twitter)だ。

僕らは、楽しんでいた。
SNSの世界も、非常にこの「『けものフレンズ』旋風」に対して好意的だった。

その盛り上がりの凄さと言えば、僕らは『けものフレンズ』のネタバレを恐れるくらいだったし、信じられないことだけど『けものフレンズ』がいかに「オタク的な」作品かを語って、アニメ業界の構造を批判するようなツイートさえあった程だ。

断言しよう。
そんな語りなど、第一話段階なら一笑に付されていただろう。
当初、「けものフレンズ考察班」は、一種の「ネタ」だった。
冗談の一種だった。
けものフレンズは深い作品だ」なんて、一話段階で言っていたら……それは「ネタ」でしかなかった。


だが。
もう誰も……疑わない。
「それ」を、疑わない。
それくらいの「大ブーム」が起こった。


さあ、今こそ核心を語ろう。

さっき語ったように、僕らは『けものフレンズ』の、「不穏さ」を覆い隠すほどの圧倒的な「寛容さ」。そこに僕らは惹かれ続けた。
そして僕らは「楽しみ」続けた。
「無視できない不穏さ」を、直視しながらも……楽しみ続けた。
それでも、僕らは不穏さをもまた……楽しみ続けた。

まるで、大サビに向かって盛り上がっていく、最大の展開を隠しながら進行する、偉大な音楽のコードのように。

そして、僕らは「呼応」した。

SNSで。
SNSという、「舞台」で。
観客として。
その展開に、ワクワクし続けた。
盛り上がり続けた。
どっぷりと、一体化した。



僕の過去記事を読んでくださった方なら、覚えているかもしれない。

mistclast.hatenablog.com

僕は、こう語った。

アニメが、アニメ視聴を前提としない「グループ」を作り出し。
それがTwitterという場で「グルーヴ」を生む。

でも、違う。
グルーヴは、変わった。
ただのバズじゃない。
いや、ただのバズだけど、ただのバズじゃない。その「バズ」は、あたかも生き物のように、「うねり」、「拡大」した。

僕ら全員を。
アニメにハマった全員を、SNSという「総体」を巻き込んで、「グルーヴ」は11話で「限界まで」突き詰められた。

もう、お分かりだろう、僕が何を言いたいのか。

けものフレンズ』は、入り口こそ「浄土真宗」だった。
誰でも入れる。誰も拒否しない。誰でも楽しめる。

でも、楽しんだなら……みんな、フレンズ。
みんな、同じ会場(SNS)でアニメを観る「観客」。

僕らはみんなで、グルーヴに乗った。
アニメの最高の展開と呼応するように。

そうだ。
けものフレンズは。


けものフレンズは、旋律だ。

SNSユーザー(観客)が、SNS(会場)で、否応なく歓喜して、否応なく涙してしまうような、「交響曲(シンフォニー)」だ。


ここまで「SNSでの盛り上がり」が、完璧なまでに「作品の展開」と呼応していた作品など、過去にあっただろうか。

冗談抜きで、一番似ているのは……
魔法少女まどか☆マギカ』だ。

だが、『まどマギ』はもっと露悪的だったし、ある意味ではその「不穏さ」は分かりやすかった。言ってしまえば、『けものフレンズ』が11話かけた展開を『まどマギ』は3話でやってのけたわけだ。それは言い換えると、「早い段階での提示」とも言える。

極めて奇妙な話だが、アニオタ的に言えば、『魔法少女まどか☆マギカ』の方がよほど「初心者向けアニメ」なのだ(!!!!!!!!)

お分かりいただけただろうか。
けものフレンズ』は、作品のグルーヴ感、展開のダイナミズムが、あたかもクラシック音楽のようにSNSの盛り上がりと呼応し、最高の化学反応を見せた……見せて、しまったのだ。

もう、最終話について語るまでもないだろう。
最終話について。
僕はただ、こう言いたい。

ありがとう。
泣いちゃったよ。ありがとう。素晴らしい作品を、ありがとう。
熱くさせてくれて、ありがとう。
最高の作品を、ありがとう。

それだけで、十分。
また観よう。この作品は、何度も観て、何度も考えて……
そういった鑑賞に耐える作品だ。
まるで、良質なクラシックのように。
何度観ても発見があるだろう。

でも、その素晴らしさを発見できたのは確実に……
SNS(ステージ)のおかげだ。
そのおかげで、僕らはこの作品に出会えた。

それはきっと、奇跡に近い。

けものフレンズ』が残したモノ

僕は「『けものフレンズ』はアニメ史の分岐点だ」と本気で思っている。
それは何故かって言うと、ここまで「作品の盛り上がりとSNS上の盛り上がりが完全に一致して、凄まじい流れを産んだ作品なんてかつてなかった」と考えているからだ。

さっきも言ったように『まどマギ』は比較的近いが、それでも『けものフレンズ』の方がよほど極端だと言えるだろう。

狙っても得られない、とは思う。
他のアニメに真似はできないだろう。
これはあくまでも、「奇跡」。
それでも……矛盾してるようだけど。
その「奇跡」は、あまりにも緻密に構築された『けものフレンズ』の世界観が産んだ「必然」でもある。

僕らは深く考えなくていい。
ただ、叫ぼう。
ありがとう、って。
最高の作品に、ありがとう、と。
かばんちゃんに別れを告げるサーバルちゃんのように。見送ろう、最高の作品の、最高のエンディングを。
そしてまた、出会おう。この最高の作品の、「素晴らしさ」に。

……あー。
なんでこんな熱くなっちゃったんだろう。

やっぱりそれは、僕が「観客として」完全に作品の世界に「参加してた」からだとしか思えない。
そんなことができたっていう奇跡に、ありがとうって言いたい。
ありがとう。

ありがとう。

ーーお読み頂き、ありがとうございました。
ではまた次の記事で。