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MistiRoom

それでも僕は何かを語るんだ。自分が納得するために。

5年経ったからこそ語る、『あの花』という作品

作品分析 アニメ

ども、Mistirです。

Fire TV Stickを買い、プロジェクターに接続し、悠々と100インチのスクリーンに投影する。
そんな贅沢なライフを送ってます。

で。
最近ようやくNetFlixあの日見た花の名前を僕達はまだ知らないを観た。

 実は、僕が最も苦手なタイプの作品だ。
こういった「お涙ちょうだい」は非常に、なんというか、向いていない。

 

 現に友人にも言われた。

「今更あの花観て心キレイになろうとしてもお前はもう無駄だぞ」と。
ほっとけ。

そんなあの花を今更観始めた理由の一つは、バイクでやたらと秩父(あの花の舞台)に行くようになったことだ。
秩父のダムを巡ってると凄く旅した気分になれるゾ。

で。
秩父、道の駅とかでもあの花のポスター貼ってるし、お酒売ってたりするのよ。

 
なんか……これは観ないといけないと、そういう気分になった。


ってことで、帰ってから観始めた。

すぐに結構な嫌悪感に襲われた。
正直、一話目はかなりの嫌悪感だった。

でもなんやかんやで最後まで観た。
最終話。

もうボロッボロですわ。
涙止まりませんわ。
最近涙もろいけど、そのレベルじゃないっすわ。

確信したんですよ。
これは、「これからの」物語だって。
このアニメは、既存の物語に対して、実のところかなり「アンチ」のスタンスだ。
それが分かってたら、このアニメはずっとずっと心に残り続ける。
すっごく丁寧に、「ある展開」を避けている。

ってことで。
初放送から5年。
今、改めて『あの花』について語ろう。
一応、ネタバレ注意です。

都合の良い展開とは?

まずは一話段階で僕が「うわぁ」ってなった理由を。

そもそも、一話段階ではいかにも「都合の良い作品」に見える。

  • 引きこもっているにも関わらず気にかけてくれる幼馴染(あなる)(妙にエロい)、それから父親
  • 死んだ美少女の「復活」


……なんというか、「これでもか」ってほど主人公に優しい世界に見えてしまう。

話はちょっとそれるけど、よく「最近のラノベは〜」という論旨で、以下のような批判を見かける。

  • 主人公が異世界に転生したりとかなんとかして
  • 最初から異様にステータスが高くて
  • 努力せずとも妙に女にモテて


で、それらを満たしてる「最近のラノベ」は

  • あたかも読者=オタクの願望を満たしているように見える


的なアレだ。

っていうかそもそも、そういう批判が出始めたのは概ね……
『僕は友だちが少ない』っていう、良くも悪くも記念碑的な作品が流行した時期、つまりあの花より少し前の時期に近い。

で、この「最近のラノベ批判」は間違ってる部分も多いと思うけど、
「読者が『現実よりも優しい世界』を創作に求め始めてる」っていう意味では、同意してもいい批判なんじゃないかと考えてる。

この話をするとどうしても社会批判じみてくるから、話を戻そうか。

その文脈で『あの花』一話を見るとすると、これがもう、やっぱり……
どう考えても。
「現実より相当に優しい世界」に見える。

社会人的に言えばそんな感じで引きこもれるのが心底羨ましい。
羨ましすぎて殺意が湧く。

しかもなんか、めんまが見えるようになったのを
「鬱屈と思春期の性欲が混じって現れた」
となんか妙に冷静な分析をしてるあたり、いかにもキモオタ感が溢れてて「うわあ」ってなる。

って感じで半信半疑な感じで一話は見ていた。
……それくらい偏屈な見方をしていてもなお「あのエンディング」はぐっと来てしまうくらいのパワーが有るのが凄い……

さて。
数話観て、認識が変わってくる。

あれ?
これ、いわゆる一般的な「蘇り系」だとすると、主人公がだんだんと立場を取り戻していく……って流れが自然のはずなのに……
そして、過去のトラウマが徐々に精算されていくはずなのに……

真逆じゃね?

いや、確かに主人公は「隠れ家」でぽっぽと会うことで少しずつ仲間との繋がりを取り戻していくわけなんだけど……

観てて確信に近づいていく。

あ、これ、何一つ……都合が良くない。
逆だ。
むしろ、全ての「都合の悪さ」がどんどんあぶり出されていく。

多分最初にこの物語に衝撃を受けるとしたら、確実にみんなここだと思うんだけど

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やっぱり、なんというかシリアスな笑いの極みみたいなシーンだ。

いや、笑うのは正しい。
現に僕も笑った。

だけど、最終話まで観るとやっぱり印象が変わってくる。

先に言ってしまうと、この作品は見事なまでに
「そこで、止まっている」
人しか出てこない。

前に進めない人しか出てこない。
もっとも分かりやすいのがこの人。

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この人はもう「これでもか」というくらい、「そこで、止まっている」

で、「蘇り系」の作品は基本的に「そこからどう進むか」こそがテーマだったりする。
「そこで、止まっている」時間を、過去の象徴が現れて、動かし始める。

それが王道なんだけど……なんだけど。

この作品は……なんというか。
「そうさせない」という、強い意志を感じるのだ。
その意志に気付いた瞬間、僕はこの作品が大好きになってしまった。
さあ、語ろう。

救われない人々

この作品は、「そこで、止まっている」。
そして、「救われない」

ゆきあつはもう露骨of露骨だし、主人公はどう考えても(第三者目線で言えば)あなるとくっつけばいいのに、全然その気配がない。というか、そうなってはいけないという物語の意志を感じる。
あなるの心情を察するともうきっついきっつい
これは本当にきっつい。
少なくともめんまを視認できないあなるからすると、主人公はまさしく「そこで、止まってる」し。
ゆきあつはもう語るまでもない。

さりげなく、物凄く作品として技巧的なのがぽっぽという存在。
確かに最後に明かされるトラウマっていうのは後付感が否めないんだけど、その代わり「世界を回ったとしても、この場所に戻ってきてしまう」=「場所に囚われている」っていう設定が、他の人たちとは違う形で「時に囚われて前に進めない」ってことを表現してるわけで。
作品としてのバランスにだいぶ貢献してる。

実はつるこが一番わかりにくい。
さりげなくこの作品の中で最難度のキャラだと思う。いやマジで。
あまりにややこしいので、ニコニコ大百科を軽く読んでくれ。

dic.nicovideo.jp

つるこだけで記事一つ分になっちゃうから、本題に戻ろう。

さて、話も進みに進んで、いよいよ僕は10話まで見ました。

……救われてねぇ。誰も救われてねぇ。

過去を振り切るためだけに、苦しみながら「蘇った愛しい存在」を(各々が各々違う理由で)成仏させようとする作品などかつてあっただろうか?

冷静に考えると、気持ち悪くならないですか?

必死だ。
みんな、必死だ。
どれだけ苦しむんだ、お前ら。

何話だったか忘れたけど、あなるを口説くゆきあつなんか、もう凄いよね。
「救われないことが分かっているが故の、共依存的妥協」
吐きそう。

そう。
誰一人、救われないんです。
誰一人。
「誰かが救われるという展開」を、くどいほど避けてるんです。

見ようによっては、めんまのオカンは弟君のおかげで少し前に進めたようには見えるけど……吹っ切れた、とは確実に違うしなぁ。

じゃあなんだ?
この作品のテーマはなんだ?

……それがこれ以上ないほど分かりやすく表現されたのが、最終話だった。

あの最終話の意味

実はあの最終話のラストの「かくれんぼのくだり」は、あくまでも物語としての「シメ」に過ぎなくて、作品としての真骨頂は「懺悔大会」にあると思っている。
いやさ、かくれんぼのくだりも泣けるんだけど、力技で泣かされてる感あるのよ。泣けるんだけど。

もうお分かりだろう。
救われない彼らに許されたのは何か?
「懺悔」だ。

もうこれが全て。
それによって、何かが具体的に解決するわけじゃない。

でも、「懺悔」によって与えられるものがある。
それは何か?

「許し」だ。
誰が誰を許す、というわけじゃない。
彼らは懺悔したことで、自分で自分を許すための糸口を掴んだに過ぎない。
でも、「許される前と後」では、何もかも違う。

背負ったものは、下ろせない。
だけど、「背負ったまま生きていくことはできる」。

この作品のタイトルとは何だったか。
あの日見た花の名前を僕達はまだ知らないだ。

本当に、秀逸なタイトルだ。
まだ知らない」のだ。
知らないままで、生きていくのだ。
いつか、知るために。

まあ言葉にすると簡単だけど、「救い」と「許し」の差は、結構難しい。
だから比較的ふわっと「『あの花』という作品の中では『何も問題は解決していない』っていう事実だけ分かってれば十分だと思う。

問題の解決はしない。
だけど、懺悔を経た彼らなら、過去を受け入れることができる。
この点で、何かしらの「救い」が与えられる作品群とは一線を画している、というのが僕の考え方だ。

これからの作品

「安易な救い」というと語弊があるけど、もう作品で「救い」を書くのって物凄く難しいんじゃないかな
分かりやすいトコロで言えば、『シン・ゴジラ』がどうやって「最後の解決に向かったか」っていうのを考えてみるといい(観てない人はごめん)。

少なくとも、「アメリカ映画的な分かりやすい救い」はなかったはずだ。
そういったものに対して「時代が懐疑的になってる」

何故か?
簡単な話だ。

「時代が救いを与えてくれないから」だ。
あらゆる「救い」に見捨てられて、僕らは今を生きている。

絶望的だけど、2000年代以前の作品よりも、「手軽な救い」は描かれにくくなってるんじゃないかな、実際問題。
一方で……
「優しい作品は、もうとことんこれでもかってほど優しく、最初から救われきっている」
そして、そういった作品群はそういった作品群で、また別の価値を有し始めている。
上の青字を体現しまくってるのがこの作品だろう。 

救いの必要性が、どこにも、微塵もない。
ありとあらゆる苦難が、ありとあらゆるトラウマが作品から締め出されていて、いっそ美学さえ感じる。


一方。
安易な救い難しくなったこれからの作品群の中で「懺悔」を最終話の主軸に据えた『あの花』の価値は、理解さえされるならば、今後ますます上がっていくんじゃないか、っていうのが僕の仮説だ。

ってことで、このアニメを観て感じたことを長々と書きました。
結構偏った考え方だと思うので、話のネタにでも使って頂けると幸いです。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事で。