Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

年の暮れに「現実」と「現実味」について考えながら、僕は何かを書く

ども、Mistirです。

突然ですが、今回の記事から大幅に路線変更します。
……まぁ、いつも通りお気軽にお読みいただければ。今後はこういった記事が中心になるよって認識していただければ幸いです。

……年末。
帰省を前にして僕は様々な映画を観ていたのだけれど、ある二本の映画が様々な意味合いで非常に大きな影響を僕に与えてくれた。
一本目はこの映画。

 「手を話したら、彼女は空に落ちていく」ーー
僕はこの監督の作品がそもそも好きなんだけど、それを抜きにしても衝撃を受けた。
なんだ、なんなんだこの世界観は。
重力が「逆」の世界に生きるヒロイン、パテマと主人公のボーイ・ミーツ・ガールの物語なんだけど、世界観も雰囲気も非常にニクい。
空がぱっくりと口を開けて全てを飲み込む深淵に見えてしまう、その描写。
空を覗き込む怖さ。
空の美しさ。
地下世界の廃墟じみた描写にもヒロインの可愛さにも、物語後半に登場する「空の果て」の描写にも、なんというか恋に近い感情を覚えてしまった。

ああ、僕はこの映画が好きだ、と。

勿論突っ込みどころは無いわけじゃない。色々アラはある。でも、そんなことどうでもいい。
僕はこの映画が好きなのだ。

次の日にはアニオタの友人が家に来た。
プロジェクターと100インチのスクリーンがある、逆に言えば他には酒くらいしか無い僕の家で昼からできることなんて映画を観ることくらいだから、とりあえず映画を観ることにした。
タランティーノにもダニー・ボイルにもスピルバーグにも興味はなかろうから、とりあえずこの映画を観ることに決めた。

こちらはもう徹底的に吹っ切れた「エンタメ」だった。
脚本は『魔法少女まどか☆マギカ』で有名になった虚淵玄が担当しているんだけど、氏の作品は全体的に「なんかダークサイドに行っちゃう」っていう印象があって、好きになりきれなかった。
この映画は、違う。
徹底的なエンタメだ。
よくわからない厨二病電波ストーリーにも見える導入から、説明臭くなくスッキリと世界観を理解させるその手腕。
おっさんと美少女のロードムービーを骨格にしながら、純粋なハリウッド映画的興奮(僕はこの興奮を「『アルゴ』のラストシーン的なアレ」と呼んでます)や、社会に対するドライな視線も加えられてて、本当によくできた映画だった。

正直、夢中になった。
途中から、我を忘れた。

いつもいつも映画は分析しながら観てるんだけど、そんなのもうどうでもよくなった。
この映画は濃縮したエンタメの、一撃必殺だ。
ただただひたすらに愉しめる、極上の体験だ。

……本当に良い映画だった。

……もう少し他の映画でも観ていたかったが、夜行バスは待ってくれない。
余韻に浸りながら、東京駅鍛冶橋駐車場から夜行バスに乗って地元に帰った。

夜行バスでじっくりと考えた。
最近ずっと、こういった「物語に没入して我を忘れる」って経験をしていなかったなぁ、って。
……いや、違う。
そもそも時間を忘れてしまうような経験をしてしまうことが、ほとんどない。

冷めてる。
何をしているときも自分を客観的に見ている自分がいる。
自分がいる世界を客観的に見ている自分がいる。

現実味がない。
何をやっていても、自分から離れたトコロで何かが起こっているように思えてしまう。
でも、好きな映画を観ているときや好きな小説に没頭できるときは、なんというか我を忘れられる。
最近腰を据えて小説を読むことも少なくなってきてたから、そういった「我を忘れる」経験に久しかった。

なんというか、「我を忘れる」瞬間にはリアリティがある。
その瞬間、確かに……「我を忘れながらも」「我はそこに存在している」。

「我、ここに在り」。

……。と、さすがに何を言ってるんだって話だけど。
まぁ単純な話、「僕は何をやってるんだろう?」と思いながら仕事をしてるときと、我を忘れるほど何かに没頭してるとき、どちらに「生きてるっていうリアリティを感じられるか」って話だ。
僕は明確に、後者だ。

……だとすると。
僕のリアリティは、リアル(現実)にはない。

僕のリアルは、常に小説だとか映画の中にだけ存在するものなんじゃないか?

……こんな厨二病じみたこと、いい歳こいた社会人が考えるかフツー。
……構わないだろう、僕は「フツー」じゃないのだ、それでよかろう。

で、なんだかんだで地元・H県に帰ってきた。
まぁなんやかんやで色々な人と会ってたんだけど、今日12/31は1日フリーだったので家の周りを自転車で走り回っていた。
昔、毎日のように通っていた中古の本やらゲームやらが売ってるディスカウント・ショップ。
併設してたゲームセンターとトイザらス

今日行ってみると、トイザらスがパチンコ屋になってた。

おもちゃ屋のパチンコ屋への変貌。
そう書くとなんだか寂しく見えなくもないが、要は資本主義の静かなバトルがひとつ上手い感じで終わっただけである。
寂しくもなんともない。
ただ、訴求力のなくなってたのであろうトイザらスという大規模なチェーン店が消えたに過ぎない。
トイザらストイザらスで今まで色んな所に「勝って」来たのだろうし、「負ける」こともあるのだろう。
それだけの話だ。

……ただ。
間違いなく言えるのが。

リアリティがない。
現実感がない。

「ああ、パチンコ屋になっちゃったんだ。
どこもかしこもパチンコ屋になっちゃうなぁ」

 

それがどうしたんだろう。僕と関係があるだろうか。

適当にふらりとディスカウント・ショップで買い物したりゲーセンに寄ったりしてから、家に帰って小説を読んだ。

私たちが好きだったこと (新潮文庫)

私たちが好きだったこと (新潮文庫)

 

 4人の男女が一つのアパートに暮らす物語。
よく知らないけど、『テラスハウス』とかもそういった番組なのかな?

この小説は、正直、最初の方は好きになれなかった。
まず「バーで出会った男女が話の流れで同居し始める」っていうのがそもそも謎だった。
無茶苦茶すぎるだろ。大御所作家とは言えやりたい放題だなオイ。

で、別の意味でもヤリたい放題である。察して下さい。

ということで「私たちが好きだったことってどうせセッ◯スだろ?」となんかもう大変にひねくれた読み方をしていたのだけれど、読みながらだんだん考えが変わった。
登場人物が全員「クズ」と「聖人」と、どちらの要素も非常に高度に共存させていて、そのことについて作中でしっかりと言及されているのだ。
登場人物たち、とりわけ女性サイドは行為だけ取り出すとかなり「クズ要素」の高い行動を取る。
はっきり言って、結構酷い。
……だけど、そういったクズさを否定するでもなく、そのクズさを受け入れる心を神格化するでもなく、ただただ恐るべきバランス感覚のもと物語は進んでいく……。
比べるまでもなく、『楽園追放』のエンタメ性はこの小説には無い。
ロボットも出てこないし粋なおっさんがカッコいいこと言うでもない。
だけど、すっと心に沁みてくるようなこの小説に、僕は「我を忘れて」いた。

読み終わった僕は一息ついて、今、このブログを書いている。
書きながらリアリティを味わっているのかそうでないのか、それはよくわからない。
とにかく、あと4時間弱で、一年が終わる。

僕はこの記事を書き上げて、投稿ボタンを押す。
家族とご飯を食べる。
その後、家族が買っておいてくれた僕の好きな缶コーヒーを飲みながら、他の小説を読む。
色々なことを考えながら。
そうして現実感がないのかあるのか結局のところよくわからない一年が終わっていくのだろう。
それは悪いことでも良いことでもない。
ただ、「悪くない」。

一年間僕のブログをお読みいただきありがとうございました。
来年からもよろしくお願いしますね。

では良いお年を。
また次の記事でお会いしましょう。