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何故SEALDsにシラけてしまうのかーーあるいは何故「左派」は死にかけている?

どうもこんにちは、日に日に政治への関心が消えていくMistirです。

何故だ?何故興味を失うのか?
今の政治が信用出来ないから?
本当か?昔と比べて今の政治家は頼りない?本当に??
そんなに政治家の性能が変わる?

僕はそうとは思えないんだよ。
そりゃ昔は田中角栄みたいなカリスマ性のある人がいた、とかそう言われると反論できないけど……そうとは思えない。

それとは別に、僕は常々「左派」って呼ばれる人たちに「もうちょっと頑張ってくれよ」って思ってる。
このままじゃヤバイぞ、と。
「右傾化」がヤバイんじゃない、ある意味もっとヤバイものだ。
はっきり言って、左派は死に体だ。
で、その理由を語る人っているにはいるけど、全体的に滅茶苦茶難しかったりすることが多い気がする。

なんで今は「左派的思想」がウケないのか?
もうちょい簡単に教えてくれよ!

 

基本的にここから語るのは、ある仮説に対する、ある考え方だ。
反論は一向にかまわない。
是非ともどうぞ!

ってことで、一つ一つ話していこうと思う。
まず、僕は以下のような考え方を持っている。

現代は、夢を持てなくなったわけではない。
けれど幻想には浸れなくなった。

あるいは、こう言おう。
現代は、「幻想の濃度」が凄まじく薄くなってきている。

この「幻想の濃度」って言葉、今回のメインテーマなので覚えておいてくださいね。

さて、どういう意味か?

ある人がTwitterで言っていた。
「現代は創作を発表するハードルが下がったけれど、その分よほどの信念がある人じゃないと生き残れないっていうのを突き付けられるから、逆にそこで心を折られる人ってむしろ増えてるんじゃないか」
といったような意味のツイートだ。
※出典がどこか分からなくなっちゃったので、知ってる人いたら教えて下さい。追記します。

なんというか、すっげぇ分かる。
「本当に力のある人」がウヨウヨといるのが分かるから、そこで心が折れそうになっちゃうんですよね。

他にも例を出そう。
就活。どんな学生でも、どんな企業にでもエントリーできる。
実際、あまり高くない学歴からでも名門企業に!みたいな例をよく聞く。
……でも……うん、コレ以上は語らなくてもいいよね。

他にも、米プレイボーイ紙がヌードを廃止したというのも話題になった。

www.fashionsnap.com

Webで見ることができるから、もう雑誌での裸はいらない、というわけだ。

「エロ」あるいは「女性の裸」ってある意味幻想の極限形態なんだけど、もう幻想として機能していないのがよく分かる一例だ。
ピンと来ない人は、ゆっくりと中学生の頃の性欲を思い出してみましょう。


さらに俯瞰して言えば、「子供は好奇心旺盛だ」って言うけど、僕はそれはちょっとだけズレてるって思ってる。
子供は「幻想にどっぷり浸ってる」し「浸ることができる」のだ。

多分みなさんの中にも「子供は夢に溢れてる」っていうモノの語り方に「イラッと」来る人いるんじゃない?
僕はまさにそういうタイプで。
夢だのなんだのそんなの良いから、この小学校という名の動物園をどうにかしてくれと思っていた。

あー、ここからは本当に喩え話で、僕のことは全然関係ないんだけど。
マジで全ッ然関係ないんだけど。

例えばさ……


これから勉強で戦える領域になれば自分は負けないのに……とか思ったりね。
ほら、小学校でぶっちゃけ勉強できてもそんなに意味ないやん?

「これから勉強で戦える領域になれば自分は負けない」。
これってさ。
夢じゃないけど、幻想ではあるよね。
これで「幻想」と「夢」の違い、ニュアンスがある程度伝わったかな?

例えば勉強で戦える領域にたどり着いたとする。
そういうこと自体は可能だ。
必ずしも「幻想」は「現実」と相容れないものではない。
だけど、そこで「自分より勉強が出来る人」をたくさん見つけて……そこでふと「俺何やってんだろうな」とか。「俺空っぽだな」みたいな。
この「幻想から抜け出る感覚」を知ってる人はたくさんいるんじゃない?
……何度も繰り返しますが、喩え話ですからね!?

さて、もう少しだけ続けよう。
誤解がないように、本題に入る前に徹底的に「幻想」について語らないといけない。

誤解してはいけないのが、必ずしも「理想論的なことを言わないからといって」「現実的な思考に浸っているからといって」「幻想から抜け出ているとは言えない」ということだ。

考えてみよう。
毎日毎日、「不安」や「明日自分は死なないのか」に怯えている人がいるとする。極端に。生活ができなくなるほどに。
その人は「幻想に浸ることができない人」なのだろうか?
僕は逆だと思う。
目の前の生活が出来ないほどに、自分の思念という「形なきもの」に苦しめられ続ける……これもまた、「幻想」の一種と言っていいのだと仮定しよう。

……。

この部分を語るとき、僕の歯切れが悪くなっていることに気付いた方もいると思う。
それは何故かって言うと、「自分の思念」は「現実と切り離されている」っていう言い方は本当に正しいのか?っていう考え方が僕の中に残っているからだ。
ここに突っ込み過ぎるとガチで哲学になるので、とりあえずここは「この仮定のまま議論を進める」として保留させておいて欲しい。

僕が望むのは、「幻想の濃度」という尺度を持ち込むことによって、「政治への無関心」に筋の通ったスッキリした「納得」を共有するってことだ。


だって、「政治への無関心」が起こってるなんて、なんか空虚じゃん。
良くも悪くもネット上には政治的なコトバが溢れている。
「今の政治に期待できない」って言葉には、裏があるってのが僕の仮定だ。ただ「政治家が無能だから」で片付けるわけにはいかないと、僕は思う。

あ、ここからもここまでも「幻想の濃度」って言葉はややふわっとしたニュアンスを含みます。
僕も大いに間違っているかもしれない。
だから、徹底的に疑いながら読んで欲しい。


昔は恐らく、人々は「濃い幻想」の中にいられたのだと思う。
分かりやすいのは学生運動だ。
誤解を恐れずに言えば、羨ましくもある。いわば一種の「同時多発お祭り」だったのだろう。
今、そういった「同時多発お祭り」なんて、天空の城ラピュタがテレビで放送されたらTwitterでみんなが「バルス」って同時に呟くってくらいしか知らない。

これ、冗談みたいな話ですけど現代の「濃い幻想」の極致ってTwitterのそういったムーブメントなんじゃないかと思わないでもない。

ここで「違う、学生運動は現実だった!死者も出た!幻想ではない!」って思った人もいると思う。
そういった言葉に「それは現実ではないのですよ」と論理的に説くことは僕は出来ないし、同時にそこの境目を上手く述べる自信は僕にはない。

ラカン的に言えば全て幻想なんですよ、とか言ったって現実味ないだろうし。(なおこの記事を書こうとした理由はこの本を久々に読みなおしていることです)

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

 

だからその代わり、吉本隆明の言葉を語ろうかな。
氏は「60年安保の時も、実は、もみ合いながら醒めていた」と言う。敗戦時の挫折感と比べると、大学の構内でもみ合いしてる時でも、こんなんで死ぬのは俺はいやだぞと思ってたそうだ。
この本に書いてました。

 

悪人正機 (新潮文庫)

悪人正機 (新潮文庫)

 

「じゃあ戦争は幻想じゃなくて現実なの?」って思った人もいると思う。
僕は「その通り、戦争は現実だったのだ」と言いたい。
多分、吉本隆明の「こんなんで死ぬのは嫌だ」っていうのは、「現実」とかけ離れたところで死にたくない、ってことなんじゃないかと解釈している。
極論、学生運動は参加しなきゃ良い。何も起こらない。
だけど戦争は、「そこにあった」。そういう話なんじゃないかな、と。
もちろん僕の解釈だ。

現実との近さ、遠さ。
これは現在にも言えることなんですよ。
現実から遠いことを語る程度の余裕が無くなっている、言い換えれば「現実とかけ離れた政治的議論をする」程度の「幻想」に浸れなくなっている。
その状態を「想像力の欠如」なんて言っちゃダメですよ。何故かは後で言います。

現代の若者は政治に関心がない?
本当にそうかもしれない。本当にいわゆる「大衆」は政治に関心がなくなっているのかもしれない。……ネットを見てマスコミを批判する人間は現実が見えてて、マスコミを信用する人間はオルテガの言うところの「大衆」だなんていう二元論には陥りたくないけど。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

 

だけどさ、何度も言うけど本当か?
本当に政治に関心がなくなってるのか?

ネット上で「政治に関心がある人たち」の話題を見てみると、色々あるけど「自分に直接関わること」に関してはより強い関心を持ってる人たちが多い気がする。

例えば、ブラック企業問題。
例えば、東京オリンピックの問題。
例えば、マイナンバー。

その次くらいに中国・韓国の話題や、ちょっと前にホットな安保の問題になってくるような気がする。
……安保に関してはホットな人と「ホットではないが故にホットな人」の温度差(あるいは温度差のなさ?)が目立ってた気がする。

現実的な「ブラック企業問題」であるとか、「労働問題」に対して特に一部の左派が「じゃあなんでそういうのに問題意識持ってるくせに安倍晋三自民党)を支持するのよ」って言うことを言ったりする。

一面的には正しい。
(ここで反知性主義」とか言い出すのは手のつけようもないほど愚かだけど。こちらも何故かは後で言います

彼らは、一面的には正しいけれど大事なことを見逃している。

数年前、政治の世界が最も「濃度の高い幻想」に包まれたことがあった。
僕らは、それを知っている。

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幻想の究極形態だ。
学生運動よりある意味では凄まじいんじゃないか?
超わかりやすいって意味で。

そして見事に幻想は、砕け散った。

幻想の末路は2パターンしかない。砕け散るか、飽きられる(あるいは飽きに一致するほど日常化する)か、どっちかだ。
例えばスマートフォン。多分、iPhoneが登場したときの熱気は、あるいはそういったガジェットが好きな人達は本当に濃い「幻想」に浸れたのだと思う。
だけど、だんだんと「今のiPhoneにはがっかりだ」とか「飽きた」とか、そういった言葉が増えてくる。
「飽き」はしなくても、初めてiPhoneに触れたときの「幻想」はもう抱けないのではないだろうか。

僕は全ての記録、予定をiPadに集約するという幻想を抱き続けていますが、何度も挫折してアナログの手帳も併用してます。

余談はさておき。


「飽きられる幻想」はある意味幻想の成功パターンだ。
民主党の場合は失敗パターンだろう。
僕は「民主党が過度に失敗した」とかそういうことを今は言うつもりがなくて、むしろ民主党政権誕生時の「幻想の濃度の高さ」と「それが砕け散ったあと」に非常に着目したいのだ。


民主党政権同時にインターネット・SNSの世界が成熟していった。
ある意味「凄い」重なり方だ思う。
アングラの世界はどんどん表へ、隠されていたことが(それが正しいか正しくないかは別にして)どんどん暴かれていく。

例えば『北斗の拳』は思いっきりマッドマックスの(良い言い方をすれば?)オマージュで、『スラムダンク』は(良い言い方をすれば???)現実のモデルを使って描いていると言われる。
そのとき必ず同時に言われるのが、「現在でそれをやったら炎上していただろう」だ。
必ず暴かれてしまう。
……これはまた少々別の問題かもしれないが。

こんな世界で、「幻想」を抱き続けられるとしたら、3パターンしかないと思うのだ。
・過去の幻想にしがみついている
・よほど芯の強い人
・よほどのアホか狂人
このどれかだと思う。

一番上は語るまでもない。
二番目は、僕はある意味この時代に「濃い幻想」を抱ける人を……とりわけ、現代の「1億総ニヒリズム」一歩手前まで来ているこの現代に「濃い幻想」を抱ける人を尊敬しているからだ。
「うるせえ、俺はそれでいい!」と、そういったパワーを感じさせるような人は少なからずいるわけで。

三番目について語るのはやめておく。
どう語っても事故る。
お察しください。

現実的に、政治的思想は確実に自民党寄りじゃないのに、自民党に投票する。そういった人は絶対に多いと思う。
それは何故か。
濃い幻想が砕け散ったその瞬間を、目を逸らさずにじっと見ていたからだ。
……というのが、僕の結論。

この「幻想」だけど、「濃い幻想」の中にいる人と、「幻想がほとんど持てない(極めて薄い幻想の中で生きている)」人では、見ている世界が全く違う。
本当にびっくりするほど違う。

例えば「資本主義を破壊したい」って考えてる人と「現実の中でどうやったら苦痛なく生きられるか」って考えてる人が一生交わらないのは自明だろう。
憲法9条」なんかはまさにこれだ。
ある人は「9条があれば戦争は起こらない」という「濃い幻想(僕の主観です)」の中で生きている。
ある人は「9条では人は護れない」という「薄い幻想(僕の主観です)」の中で生きている。
幻想の濃度が違うんだから、話がすり合わされるわけがないのです。
わかりにくい?
そうだねぇ……例えば、「何か大きなものを片手に持った人がいる」としよう。
「あいつは多分殴ってこない」と言う人がいる。
「いや、あいつはヤバイ」と言う人がいる。
多分、前者は「何か大きなもの」を花束か何かだと思っている。
後者は「何か大きなもの」を棍棒か何かだと思っている。
でも本当のことは分らなくて、どっちも、結局幻想なのだ。

「僕の主観として濃い・薄い」っていう注釈を入れたのは、僕が「国家のことを考えるときは『相手は確実にいいヤツだ』から入るのは、それは濃い幻想にすぎるだろう」という考えがあるからです。
これはもしかすると、人によったら逆の解釈もできるかもしれない。
念のためこういう書き方をしておきました。

だから、僕の主観として、感覚としてなんだけど……
今のSEALDsあるいは左派に、「あんたら特濃の幻想の中にいるよね」って言いたくなる人、滅茶苦茶いるんじゃないかって。
「理想論を語っていて現実を見ていない」、そう言ったら終わる話かもしれない。だけど「特濃の幻想」はまたそれとはちょっと違う気がするのだ。
僕の中で。
そんな気がするだけ。

僕は例えばSEALDsが「若者が行動している」って……それこそ、上の世代の人々から賞賛されるのに、凄まじいまでの違和感を覚える。
「その方々(SEALDsの方々)は、僕から見るとあなた達の幻想を引き継いだ人々にしか見えないんですよ」
「言い換えれば、彼らを『若者』と括りたくないんです」
ってね。
なんかこう語ると、「理想論を語っている」だけじゃ語れない何かが見えてこないですか?
「濃い幻想を継がされる若者」

ちゃうねん。
僕らは君らの世代が持ってた、とっても濃い幻想から醒めてるねん。

ブラック企業問題批判するやろ?
なんでか分かる?
あいつらの「濃い幻想」が、鬱陶しくてしょうがないねん。
しかもその「濃い幻想」、人を使うために捏ね上げられたパチもんやろ?なおさらあかんわ。
……アレ?ある意味究極に「幻想の無い状態」かも?
言葉遊びみたいになってきた。難しい。保留!

さて、ここまで長く語ったので、何故「幻想の濃度」という言い方をしたのか、もう少し詳しく語ろう。
もしかすると、この記事で最も大事なのはこの部分かもしれない。


幻想から人は、抜け出せないのだ。
ラカン的に言えば……やめときますw

例えば、ネットであらゆることが分かるような気がする。
だけどそれが幻想だっていうのは、ある程度以上読書をする人ならば大抵知っている。
この件は冒頭で述べた「不安に取り憑かれている人は幻想から逃れた人ではない」ということに繋がっている。

インターネットで全てが分かるなんて、それこそクレアおばさんが煮込んだシチューより濃い幻想だ。

僕は「現代は幻想が薄くなっている」と述べた。
でも、多分また違うタイプの濃い幻想に支配されるんじゃないかなぁ、これからの世の中。
Twitterとかまさにそんな風になってる気もするし。
もう既に始まってるのかも。

時代はループするっていうのは、幻想の濃さが波になって僕らを襲うことだって思ってる。
けれどここまで「あらゆる幻想のヴェールが同時期に剥ぎ取られる時代」ってそうそう無いと思ってて、その時代の荒波をモロに受けた世代……、そう、ゆとり世代は本当にこれからどうなるんだろ、って感覚が凄く強い。

mistclast.hatenablog.com

↑参考文献。
「夢を持てない」と「幻想を持てない」は今回分けて考えたいので、上の記事を読むと混乱するかもしれないけどね。

さて、最後に。
この記事を読んでくださっている「自分は左派的思想がある」って思ってる方々に言いたい。
あなた方はもう死にかけている。
左派的思想はそもそもが「幻想」に立脚した思想だっていうのが僕の考え方です。
でも僕は、あなた方に生き延びて欲しい。何故か?
右傾化が云々?違います。
なんというか……寂しいじゃん。
「幻想が剥ぎ取られた政治思想しか存在し得ない世界」なんてさ。

僕はこの件で「想像力の欠如」って言葉を使っちゃダメで、さらに言えば「反知性主義」っていう言葉を使うのはどうしようもなく愚かだ、って言いました。
何故か?
「そもそも幻想が共有できていない」という前提をすっ飛ばして、あるいは「何故幻想が共有できないのか」という事実をすっ飛ばして、濃い幻想の中に浸りながら相手を批判する、その感覚がとっても嫌だからです。

だから左派の皆さんには、「譲歩」していただきたい。
決して「大上段に構えて」「自分の幻想から抜け出ず」「反知性主義などという言葉で人をバカにする」ようになっちゃいけない。
同じ幻想を共有すれば、必ず人の心には届く。
これは右派の人にも言えることだ。
価値観は共有できなくてもいい、だけど相手の幻想を共有すれば、言葉が共有できるようになる、かもしれない。
すっげぇ難しいことだけど、これは究極の譲歩であって……

同時に。

僕が見ることの出来る、最大限の、最高に濃い……「幻想」なのかもしれない。

宗教の教祖みたいなこと言ってるな俺。


そういえば、今回の記事では右派の在り方を語ることを保留しましたが、1年ほど前に書いたこの記事をお読みください。
誤っている部分も多く、現在はこのとき抱いていた思想と大幅に違いますが、概ねの流れとしてはまだ有効かな、と考えています。

「ネトウヨ」の消失――これからの「自由」の話をしよう:MistiRoom - ブロマガ


お読みいただきありがとうございました。
また次の記事で、お会いしましょう。