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MistiRoom

それでも、何かを語るのだ

「他人のためを思う」なんて、とても自分勝手だ

こんにちは、Mistirです。

 

「他人のためを思って行動する」「他人に合わせて行動する」って考え方に対して、僕は「それって自分勝手だよね」って思うんですけど、どうですか?

以前、この話でわりと議論になりました。
結構ナチュラルに「他人のことを考える『べき』」って考え方の人がいるんですよね。

ここで、
「いやいや、『他人のことを思う』『他人のためを思う』なんて当たり前だろ?」って思った人、貴方は善良な人間です。
善良なのは素晴らしいことだけど、たまに善良って怖いんだよねって話をしよう。

あ、「その通り!!『他人のためを思う』なんて自分勝手だ!」って思った人は、アドラー心理学好きか、または僕と同じ「超ひねくれ者」なので、一緒にこの道を邁進しましょう。嫌われる勇気!!

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

何故「他人のためを思う」ことが自分勝手なのか、二つの観点から話をしたい。
まず一つ目、アドラー心理学的観点。

ここで、アドラー心理学をびっくりするほど上手くまとめている『マンガで分かる心療内科 アドラー心理学編』の6話から、「課題の分離」に関する部分をちょっとだけ引用しよう。

 

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もっと引用したいくらいなんですが、既に引用しすぎ感があるのでやめときます。
引用元はこちらです。本当によくまとまっててびっくりする。これ読むだけでも良いくらい。

yuk2.net

だから、一点目の「アドラー心理学的観点」っていうのはもうこれで終わってる。
詳しくは「アドラー関連本」に全部載ってる。

 

ここからは、僕の観点。っていっても、アドラー心理学の本に相当近いことだけど……「結局エゴじゃん?」という観点。

 

理屈で考えて、「他人の考え」なんて分からない。絶対に分からない。
「紙に書いてたらわかるじゃん!」って言う人もいるかもしれない。例えば、誰かが「とんかつを食べたい」って紙に書いていたとしよう。だったら、「とんかつが食べたいと考えている」と言えるじゃねえか、と。

でも、それでも「分からない」んですよね。
例えば僕が紙に「とんかつが食べたい」って書くとき、その真意は「とんかつと大量の白いご飯、そしてダシの濃い味噌汁とお茶、山盛りのキャベツを食べたい」の意味ですもん。いや、まだあるかもしれない。「爽やかな接客で、ご飯のおかわりが気軽にできるお店が良い……」などなど。

……って、この例えは屁理屈かもしれないけど。
「推測した相手の感情が、相手の感情のごく一部だけである」ならまだまだマシな方で。
「推測した相手の感情が、相手の感情の正反対」かもしれない。

「あ、アンタのことなんて全然好きじゃないんだからね!」から何を推測するか。……なんて冗談は置いといて。

その程度の「冗談」で済むなら良いけど、その次元じゃ「済まない」レベルで、他人のことって、本来分からない。

で、そのことを前提として……
僕は「他人のことを考える『べき』」と言われたら、その時点で反発してしまう。
その「べき」、shouldは誰が決めた?「君」だろう?
って思っちゃうんです。

これだけひねくれたことを言ってる僕も、「他人殴っても痛いかどうかは相手の問題だから知らないよね〜」なんて、そんなアホなことは言いません。
アドラー心理学的に言えば

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こういうことです。
続きはここから読んで下さい。

yuk2.net

 

で、ここから独自の話。

僕が「人を殴らない」理由はたった二つ。「法律という絶対的ルールに属しているから」と、「『僕が』人を殴りたくないから」なんです。

まず、絶対的ルールには従います。いや、勿論「法律って絶対か?」っていう疑問はありますよ。でも、一応ある程度以上明確だし、この世のルールの中では比較的納得のいくものだと思ってる。

大事なのは2つ目の方。
「『僕が』人を殴りたくない」なんです。


だから、僕も「他人の心情を推察して行動する」ことは勿論ありますよ。
でも、それは「『僕が』そうしたいから」なんです。「『僕が』」なんですよ。
だから、このブログも「読者に我が思想を広めることによって何らかの貢献がどーのこーの」なんて考えてないです。

「『僕が』意見を共有したい」だけなんです。

で、この部分をナチュラルに履き違えてる人がいるって、最近思う。

「政治のことを考えるべき」
「他人のことを考えるべき」
愛国心を持つべき」

うっせーよ。べきべきべきべきうっせーよ。骨折してんのか
なんで、

「俺は政治のこと考えるべきだって思うな」
「俺は他人のことを考えるべきだって思う」
って言えないの?って思っちゃいます。

要は、僕は誰かに「代弁者」になられると本気で嫌悪感を抱いてしまうんです

そして困ったことに……世の「善良な人」は「代弁者」になりたがります。
さらにさらに……「自分のことをあまり語らない方がいい」「聞き上手になろう」っていうコミュニケーションの技術を身につけている人も、「代弁者」になりやすい……気がします。


以前も引用したんだけど、皆さんご存知、太宰治の『人間失格』から生まれた以下のようなメソッド(???)がある。

dic.nicovideo.jp

 

「しかし、お前の、女楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

 という言葉が、舌の先まで出かかって、木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめにうぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

 は、個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗、冷汗」
と言って笑っただけでした。
 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

太宰治人間失格」より抜

太宰メソッドとは、太宰治人間失格」の一節に由来する、ネットスラングのひとつ。
太宰治している手法ではないので注意。

 

って感じ。
「世間とは、君じゃないか」なの。

僕は以前、酒を大分飲んでいる時に、凄く賢い友人の一人に「なんでMistirはいろんな事よく解ってるのに、そこまで自分の話をするんだ?」って言われたことがある。

もちろん、僕自身が自分語りをし易いっていう傾向もあるけど、その傾向は大いにあるけど、決してそれだけじゃないと思ってる。

僕は、かなり意識的に「僕はそう思う」って語り方をするようにしている。
それはもはや主義の領域にまで達している。

で、この「僕が」をすっ飛ばす「善良な人」が陥りがち(と、僕が思っている)な罠があります。

「他人のことを考えるべきだ(そしてそれは常識なのでオマエもやれ)

そう、「押し付け」が生じるんですよ。
僕は全ての「押し付け」が嫌いだ。


何も、「他人のことを考える」に限った話じゃない。
「夢を持つべきだ」も、
「目標を持つべきだ」も、
「ポジティブに生きるべきだ」も、
ぜーんぶ、大嫌い。


「俺はお前がもっと他人のことを考えた方が良いと思うよ。っていうか俺が気になる。だからもっと考えてくれ」
って、そういう風に言ってほしいんですよ。
「不特定多数の代弁者」になってほしくない。
「代弁」は、「責任逃れ」だ、とさえ思っちゃう。

※余談

「企業」の場合は別です。
「上司に『目標を持つべきだ』って言われた!アドラー心理学を分かってない!」とは思ってほしくないです。っていうのも、「営利組織という集団」の話になると、コミュニケーションの隙間にひとつ「カネ」という要素が挟まってくるんですね。今のところ、そういった組織の話は保留していただけると幸いです。

※余談ここまで


僕は、「エゴが強い」とか、「エゴイズム」って言葉にそんなに悪い印象を持ってない。
というか、「謙虚の美徳」もよーく分かるし大事だとは思うんだけど、「自己主張が強い」であるとか、その部分が不当に貶められてると思う。その結果、ナチュラルな責任逃れが起こってる気がする。

で、あまりにも「エゴが悪い」っていう感情が強くなりすぎて、「自分のエゴに気付かないまま、(実は自分一人の倫理に過ぎない)集団の気持ちを他者に押し付ける」って現象がたまに起こってる。気がする。
それはとても、悪い意味で自分勝手だと思うときがある。
このエゴイストめ。せめて開き直ってくれ、と。


「俺がお前にそうして欲しいんだよ!」って言われた方が、よっぽどすっきりする。
僕はひねくれ者なんですよ、多分。

まあ、そういうことです。
これで伝わったのか?って自分でも思うくらい全体的にフワフワした記事になりましたけど……ま、許してください。
で、「独自の観点」とか言ったけど、この辺りも結局アドラー心理学が言ってる気がする。

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yuk2.net


それにちょこっとだけ、中島義道の『善人ほど悪い奴はいない』の思想(ニーチェ本)が入ってる気がします。

 

善人ほど悪い奴はいない  ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

 

 

要は、僕が中島義道の思想とアドラー心理学の思想に「合いすぎている」ってだけの話なのかもね。
その二つが組み合わさった時、僕みたいな超ひねくれ者が生まれるので……注意して下さい。
アドラー心理学の『嫌われる勇気』は新入社員に読まれてる本ランキング1位らしいですが……オイオイ、大丈夫かよ。アドラー心理学って企業の倫理と結構反発するぞ?その辺り折り合いつけられないと結構キツイぞ??僕も結構辛い時があるぞ??

hon-hikidashi.jp


さて。
また余談ですが、僕は自分のことを一切変人とは思っていません。
ただ、しょっちゅう「変わってる」と言われるのと、別にそれを否定する意味も無いって思うので、その部分を他者評価に委ねてるだけです。
実はひねくれ者とも思ってませんが、自分の考え方が多数派だとは「感触として」思えないことが多いので、暫定的に「ひねくれ者」って表現を使ってるだけです。

ま、そんなひねくれ者のMistirですが、今回の記事に対する反論や反発、異論には丁寧にご解答したいと思っているので、ご遠慮なくTwitterにでもこちらのコメントにも書き込んで下さい。というか、今回に限らず常にお待ちしております。ただ、特に今回は反発が多そうだなーって思ったので。


今回の記事はここまで。次の記事でまた会いましょう。