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MistiRoom

それでも、何かを語るのだ

僕が何を語りうるのか。僕の前にはただ絶対的なモノが転がっている。【バタイユの話】

こんにちは、Mistirです。
ちょっとだけでいいから、ジョルジュ・バタイユという人間のことを語らせて欲しい。
どうしても、語りたい。
僕が大学で専門にしていた人物だ。
「誰やねん、興味ないわ」と言わず、ちょっとだけ読んでみて欲しい。堅苦しいこと、難しいことは書かない。……いや、ちょっとだけ書く。

彼はフランスの思想家であり、同時に哲学者でもあり、同時に活動家でもある。
多数の思想書を出版しながら、同時に驚くほど泥臭い私小説的な小説、ほぼエロ小説っていうようなドギツイ本まで、手がける範囲はかなり広い。

僕とバタイユの出会いは、かつての聖地ヴィレッジ・ヴァンガードであった。
ヴィレッジ・ヴァンガードを知らない人のために一言で言うと、そこは「サブカル系本屋兼雑貨屋」だ。
今、僕は全くと言っていいほどヴィレッジ・ヴァンガードに惹かれない。昔も惹かれて入っていたわけではない。ただ、自分のやりたいことも何もかも分らなくてとりあえずカオスの巣窟のようなあの空間に入って色んなモノを見ながら、色々と考え事をしていたのだ。
大体受験の頃合いから、大学一回生の頃のお話だ。最も「辛かった」時期だ。
やりきれない、どうにもならない気持ちを抱えてあの頃は生きていた。

 

僕の人生に大いに影響を与えた岡本太郎と出会ったのも、ヴィレッジ・ヴァンガードである。僕は岡本太郎の著作を、受験に疲れた心に直接注入するドーピングのように読みふけることになる。
氏の著作の中に、やたらと登場する名前があった。その名こそがジョルジュ・バタイユだった。岡本太郎ジョルジュ・バタイユはかつて同じ組織で活動した関係であり、また同時に親友でもあった。


ロートレアモンのマルドロールの歌に衝撃を受け、フランス文学を専攻することに決めた僕は、バタイユの著作も「なんとなく」手に取ることにした。
最初に手にとったのは『マダム・エドワルダ』だ。角川文庫版で、氏の代表的エロ小説のひとつである『眼球譚』も収録されている。


感想は、「なんのこっちゃか分からない」だった。勉強を続けた今なら分かることも多いが、まあマダム・エドワルダも眼球譚もエロいわグロいわナンセンスだわなんのこっちゃか分からない小説なのである。まだ眼球譚はマシだが……

 


バタイユの『眼球譚』が変態すぎるので4コマ漫画にしてみた : 借力日記

 

こちらのサイトで眼球譚は4コマ漫画になっている。だいたいあってる。
……さて。僕の運命が変わったのは『空の青み』という小説を読んだ際だ。


あまりこういう言い方はしたくないが、分かりやすく言えば「人間失格』並にドロドロした私小説(ただし相当意味不明)」である。
バタイユに詳しい方には「いや、それは違うよ」と言われそうだし、僕も違うと思っている。だが日本の小説で『空の青み』を貫く強烈でドライな不安を表現している作品がない以上、とりあえず代表的な私小説を挙げておくしかないのだ。

『空の青み』を読んで、こう思った。
合いすぎている。僕に。
バタイユと自分は、合いすぎていた。わけがわからないほどに。
『空の青み』に関しては卒業論文で3万字程書いたので、まあそれは良いとしよう。

 

僕が書きたかったのは、他のことだ。
バタイユの代表的著作『内的体験』から、かなり長い引用をさせていただく。僕は、以下の引用に関して語りたくて仕方がない。

 

 誰か他人の前でみずからに問うてみる。いったいこの男は、どんな手だてをつくして、全一者でありたいという欲望を鎮めているのだろう?犠牲的精神か、順応主義か、ぺてんか、詩趣か、倫理か、粋人気取りか、ヒロイズムか、宗教か、犯行、虚栄、または金銭? 以上いくつかの組み合わせか、それとも全部いっしょくたにか? 悪意が、愁いに陰った微笑が、疲労の渋面が、束の間に輝き過ぎる人間のまばたきーー自分が全一者でないということの驚き、それどころか、狭苦しい限界を持つということの驚きから私たちの味わうひそかな苦痛が、そのまばたきのなかに露呈する。かくも公言をはばかる苦痛というものは、やがては内心の偽善へ、遠大にして仰々しい諸要求へと私たちを引きたててゆくのである(カントの倫理学がその例だ)。

 逆に、もはや全一者でありたいと望まぬことは、すべての事物を訴訟にまきこむことにほかならない。苦痛を免れようというので、腹黒くも宇宙の全体とおのれ自身とを混同してしまう人間は、だれもかれも、まるで自分が宇宙の全体であるかのようにして一つ一つの事物を判断する。これは、腹の底で自分を不死の人間に見立てているのと同じやりくちである。こうした不明瞭な幻影は、生を享(う)けると同時に、この生を耐え忍ぶのに不可欠な麻薬として私たちが手に入れるものなのだ。だが、私たちがひとたび麻酔から醒め、私たちのあるがままの姿を知るに至ったとき、私たちはいったいどうすればいいのだ? 饒舌家どものあいだに、また、饒舌から射しこんでくる見せかけの光をひたすら憎悪するより仕方のないこの夜の中に、深く迷いこんでいる私たち自身の姿を見たそのときには? 麻酔から醒めた者を保証人とする苦痛ーーこれがこの本の主題である。

 私たちは全一者ではない。それどころか、この世界にあってたった二つの核心、つまり、全一者ではないという確信と、やがては死ぬという確信しか持ってはいない。私たちが、死すべき者であることを意識するようにして全一者でないことを意識するとしても、それは何ごとでもありはしない。だが、私たちが麻薬を持たぬとき、そのときひとつの呼吸不能の真空が姿をあらわす。私は全一者でありたいと望んだ、だが今、この真空の中で失神しつつ、勇気を奮いおこしておのれに向かっていうとしよう、「全一者でありたいと望んだのは恥ずべきことだ、なぜなら、今にして私には分るのだが、それは眠ることだったから」と。このときから、ひとつの奇怪な体験がはじまる。精神は、死の不安と恍惚とがたがいに合成しあうような異様な世界の中を動き始める。

(...)

 この本はある絶望の物語だ。 

 

僕はこの引用に関して語りたくて仕方がない。
だが、「解釈し」「解説し」「骨抜きにする」つもりは一切ない。バタイユの文章は本当にドライで、淡々としたものだ。一つ一つの言葉が釈明不要の語りとして、読者の喉元に突き付けられるような鋭さがある。その鋭さを鈍らせる「解釈」はお断りである。

語りたくて仕方がないが……何も、語れない。ただ間違いないことは、上に引用した文字列がこの世にある以上、僕にとってカーネギーの『道は開ける』も、コヴィーの『7つの習慣』も、ありとあらゆる自己啓発書も、あるいは絵を描くことも、こうやってブログを書いていることも全てが誤魔化しで……麻酔に過ぎず、あるいは本質的に何一つ僕に与えてくれないものになるっていうことだ。

それくらい、この文字列は僕にとって大きい。大き過ぎる。
いかに僕が饒舌であったとしても、この文字列の前には全ての意味が消え去る。


『内的体験』という絶望の本を前にして、僕はどうすればいいのだろう?
麻酔を打ち続けながら生きるしか無いのか?
何故、バタイユという人間はここまで「解りきって」いるのだろうか……。

何一つ、僕はこのブログで「本質的な」ことを伝えられない。だが……とりあえず引用して、ここに書き記しておきたかったのだ。「語りたい」という気持ちを。この文字列を一人でも多くの読者に突きつけたいという願望を。

僕は(も)、何かどうしようもない何かを求めているのかもしれない。

僕はこれから、バタイユを語る機会があるのだろうか……?
あるいは、バタイユ的な「何か」を。

 

そういえば、僕は池田晶子という哲学者が色んな理由で嫌いなのだけど、物凄く同意できる記述があった。
確か……「人生は『無意味』ではなく、『非意味』だ」と。
人生には「意味が無い」のではない。人生は「意味ではない」のだ、と。
何故今このことを思い出したのか、それはよく分からない。


これじゃ締まらないので、ちょっとだけ「意味がある」ことを言っておくと……上の引用に何か思うことがある人は、とりあえずバタイユ読んでみようぜ!一緒に勉強しようぜ!

 

まあなんやかんや言いながら「麻酔的な」ブログは続けます。
それじゃ、次の記事で。