Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

僕らの自由は理解されないけれどーー何度でも、これからの「自由」の話をしよう

こんにちは、Mistirです。

久々にがっつり語ります。
今回のテーマは「自由」の話。

時折思っていた。
「会社の上の世代の人たちと、会話が噛み合わない」
同じことについて話してるのに、同じような仕事のことについて話してるのに、何かがすれ違う。上の世代の人たちのアドバイスが、正しいことを言っているのは非常によく分かるんだけど、何かが噛み合っていない……。
わかるのに、わからない。そういった不思議な感覚。
将来の展望だとかそういうことに関して、他人のどんな言葉も腑に落ちない。


そういった現象に関して、自分の中で「急に」整理がつきました。そのことについてお話したいと思います。

実は、過去に「自由」をテーマにがっつり語ったことがある。そしてニコ動の上の黒い部分に流れて読者さんの数が凄く増えたことがある。
でも今回はその記事とは全くの別方向からアプローチしてみようと思う。
気になる人は読んでみてね。要は「どこにもユートピアは存在しないと気付いて途方にくれた瞬間、自由が始まる」っていう話です。長いので暇な時にでも。

「ネトウヨ」の消失――これからの「自由」の話をしよう:MistiRoom - ブロマガ

……さて。
今回語りたい自由についての「仮説」を、先に言ってしまおう。

「ある時期から(あるいはある世代から/ ある時代から)、自由とは『◯◯をする自由』として語られるものじゃなく、『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになってしまったのではないか?」

この記事は、この仮説が全てです。
この仮説に対する僕の態度は述べますが、現実的な「解答」は述べません(述べられません)。

ここからはこの仮説について、ひたすらに長く語ります。
本当に、長く。
で、長く語って、長く語って、大事なことは全て後で話します
多分全部話してからじゃないと、その「大事なこと」が伝わらないと思いますので。

最後までお読みいただければ幸いです。
気楽に読めるような記事にしますので、カフェオレでも用意してゆっくり読んでくださいね。
じゃ、語ります。

1.この仮説に至った理由

この仮説について根拠を語る前に、この仮説に至るまでの経緯をお話します。

最近、私バイクに乗りまくってるんですよ。
「自由の象徴」ですね。
……とはいうものの。別に自由を謳歌しようと思ったわけではなく、なんとなく目に留まったバイク雑誌を見て、思い立って免許を取ってしまった、という程度の話です。
※「自由」という言葉の厳密な意味については、後でお話します。

バイクの免許に関してはこちらの記事をお読み下さい。

mistclast.hatenablog.com

さて。
バイクに乗って山梨に行ったり栃木にいったり伊豆半島一周したり、納車2ヶ月にして5000キロも走ったわけですが……

バイクに乗って旅をしていると、物凄くいろんなことを考えます。

例えば伊豆半島の中心付近とか、群馬の西側とか、もう物凄く「ド田舎」なんですよね。
家はあるんだけど、人はたまにしか見かけない。
夕方に走ってると割と本気で「俺異世界に紛れ込んだ!?」と怖くなったりします。

普段僕は埼玉を拠点に首都圏で働いているのですが、伊豆半島なんかに行くと「やべえ本気でこの静かな場所に移住したい」と思ったり、同時に……
「ちょっと待って、このレベルに人が少ない地方でも……家を建てられる程度のお金が動いてるのか?」
「それとも、この家々は過去の遺産?」
「実際にここに住んだ場合、浮上する問題ってなんなんだろう?」
とか、あらゆることを考えます。

一度山道を走ってるとき
「この山道はこんな静かなのに、僕は何故都会の喧騒の中で働いてるんだろ」と何やらよく分からないことを思って泣きそうになったこともありますが……まぁそれは別として。

そうやって走っては考え、走っては考えしているのですが、途中で気付きました。


全然自由じゃないな、と。

たまたま遠くに行く力を手に入れたわけですが、別に「自由」を謳歌している気はしない。
むしろ「休日を待ちわびて、休日になったらいそいそと限られた時間を必死で使って遠くに向かう」自分のことを考えると、働いてることの不自由さが浮き彫りになってくる。
予め言っておくと、仕事が嫌なわけじゃないし、今は残業もしてなくて、気楽にやらせてもらってるから仕事場の人たちには感謝している。
そういう話をすると「何が不満なんだ?」と色んな人に言われます。確かに、不満はない……けれど。
おっと話がそれました。

さて、バイクの話。
バイクは昔から自由の象徴だったわけだけど、同時に(逆説的に)「不自由」の象徴でもあった。

イージー★ライダー コレクターズ・エディション [SPE BEST] [DVD]

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非常に有名なこの映画。
自由を追うライダーの主人公は、自由であるがゆえに迫害される。

この映画に関する詳しい説明は避けるけれど、この映画でテーマにされているのは「アメリカで当時歌われていた『自由』は本当の『自由』だったのか?」というテーマだ。
共同体が掲げる「自由」と、個人が追いかけた「自由」の差異。
奥田民生の『イージュー☆ライダー』は名曲だけど、『イージー☆ライダー』とはある意味対極の作品かもしれない。

www.youtube.com

 『イージー☆ライダー』の解説については他のブログに任せるとして、僕にとっての「自由」の話に戻ろう。

本当の「自由」ってなんだろう?
そんなことを考えても無駄かもしれない。
でも、僕はどうも他人より「自由」に対して粘着質にこだわっているようだ。
それは家庭環境のせいなのか、他の何のせいなのか分からない。
だけど、とにかく「自由」になりたい……と。

そこまで考えて、色々なことが急に繋がった。

「何故僕(あるいは「僕ら」)の言ってることは上の世代の人たちに伝わらないのか?」
「何故上の人たちと、僕がやりたいと思っていることに乖離があるのか?」
「そもそも、僕がやりたいことってなんだ?」
「自分のやりたいことが分からない……」

全てを横断して説明してくれる仮説が、上の仮説だ。

「ある時期から(あるいはある世代から/ ある時代から)、自由とは『◯◯をする自由』として語られるものじゃなく、『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになってしまったのではないか?」

上にスクロールするの面倒だと思いますので、何度も繰り返します。

さて、この記事の論旨に薄々予想がついて来た方もいらっしゃるかもしれません。
このまま最後まで突っ切りますが、ご容赦下さい。

2.仮説の地盤

この仮説について語るために、この仮説を「立証」しなければならない。
だけど、あらかじめ言ってしまうと「立証」するつもりはない……というか、できません。
ここで言う「立証」は「あらゆる文献を探して、統計を取って、客観的に確かだと言える領域まで持っていくこと」です。

この仮説は僕の主観的な印象を基盤にしたものだから、徹底的に印象を基盤に話してもいいと思ってます。ブログだし。
……でも、それじゃあ流石に誰も納得出来ないでしょうし、ある程度の「地盤」程度は語りたい。あまり確固としたものは書けませんが、この仮説について基礎の部分を固めていきたいと思います。
※とはいえ、最後は感覚的な話になるのですがそこはご容赦いただければ。

まずは前提として、
「世代に関わらず、ヒトは自由を求めている」
と考えて下さい。その共通認識が無ければ、ここから読み進めるのキツイと思います。
例えば、「結婚して幸せな家庭を築きたい」という人がいたとします。
それには「結婚するだけの自由なお金と、自由に相手を選べる環境」が必要です。
前提として「あらゆるものに自由は関わっている」という認識で読み進めていただきたいです。

さて、何度も繰り返してますこの仮説
「ある時期から(あるいはある世代から/ ある時代から)、自由とは『◯◯をする自由』として語られるものじゃなく、『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになってしまったのではないか?」
は、前半と後半に分かれています。

1.ある時代の人にとって、自由とは『◯◯をする自由』として語ることができていた。
2.ある時代から(あるいは少なくとも「僕ら」の時代は)自由とは『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになった

この2つです。
まずは前半から

1.ある時代の人にとって、自由とは『◯◯をする自由』として語ることができていた。

……と言いたいことだけど、実はこっちは滅茶苦茶語りにくい。
というのも後半の

2.ある時代から(あるいは少なくとも「僕ら」の時代は)自由とは『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになった
が圧倒的に語りやすくて、それを前提に「その対極」として前半を語ったほうが楽なのです。
ということで後半から語ります。

 
さて、何度か
僕ら」 
というワードを強調していますが、このワードには明確な意図があります。

ここでいう「僕ら」は 
「ゆとり(さとり)世代、あるいはその前後の世代」
と考えてください。 

読者の方にその世代と大幅にズレてる方がいらっしゃったら……申し訳ないですが、そう変換してお読み下さい。

「この世代に該当する人は例外なくみんな同じ思想を持っている」って言いたいわけじゃないので、そこらへんも認識いただければ幸いです。
極論、同意できる人に同意していただければそれで十分と考えています(反対意見ももちろんお待ちしています)。

本題に入ります。

思うに「僕ら」の世代は、
「お金によって自由を得ること」
を、根本的に「信じていない」。というか、想像することができないしもっと言えばバカバカしい錯覚だと思っているんじゃないか。
そして、この感覚こそが上の世代との決定的な隔たりなのではないか。

多分、20代の誰も「30代で家族を持って、家を買って……」みたいなかつての「普通」を「普通」だと「思うことすらできない」し、ついでに言えば「憧れすらしない」のではないか。

blog.livedoor.jp

さて、その根拠……というか、地盤になるものを少しずつ並べていこう。

近年、「ミニマリスト」という言葉をよく見かけるようになった。
「持たないこと」を是とする生き方のことだ。
最小限の持ち物で「自由」を追い求めていくという生き方。

で、そういった人たちの出版する本が次々に話題になっている。

20代で隠居 週休5日の快適生活

20代で隠居 週休5日の快適生活

 

 

持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない

持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない

 

こういった本が話題になり始めたのはそう昔のことではない気がする。
僕は後者の本は読んだんだけど、妙に共感できる内容だった。

この「ミニマリスト」の中高年版というか、「お金のある人版」が「田舎への移住」だったり「スローライフ」だったりするわけだけど、そういった風潮に対して精神科医の斎藤環は『生き延びるためのラカン』で、「全ての欲望は他者に起因する創りだされた欲望である」という文脈の中で、こう指摘する。

たとえば、いま中高年を中心に盛り上がってる「ロハス」や「スローライフ」って言葉があるね。あれ、どう思う?あれは要するに、引き算文化だ。あれもこれもと貪欲に頑張る人生をちょっと降りて、環境に配慮しつつ地域に根ざした、身の丈にあった生活を楽しみましょう、ということだよね。僕なんかすぐ「じゃ、これからはニート・いきこもりLOHAS組ってことで!!」とか提案したくなるけど(実は本気です)、まあ世間は許さないわな。なぜなら引き算部文化は、さんざん足し算をしてくたびれきった勝ち組のみなさんだけが、最後に辿り着く憩いの地なんだから。でもああいう、あえて欲望を抑制する文化も、僕員は「満たされない欲望を持ちたい欲望」の産物に見えるんだけどなぁ。

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

 

見事な分析だけど、この本の初出は2006年。
当時は「ミニマリスト」という言葉は流行っていなかった……と思う。


それが今はどうだ。
ピンと来ませんか?
この引用の中で「まあ世間は許さないわな」と言われてる引き算文化……
僕らの世代にとって、全く違和感なく受け入れられるものになっているのではないか」!?

この風潮を先取りし、若いまま実践した人が、一人思いつく。 

 

年収150万円で僕らは自由に生きていく (星海社新書)

年収150万円で僕らは自由に生きていく (星海社新書)

 

そう、言わずと知れたカリスマブロガー、イケダハヤト氏だ。


さて、ここまで精神科医の斎藤環氏を除いて3人の著者を引き合いに出した。

「20代で働く必要性から」自由になった、大原篇理氏。
「持つことのプレッシャーから」自由になったpha氏。
「東京での消耗から」自由になったイケダハヤト氏。(煽ってるみたいだな)
お気付きだろうか、三人の方向性が全て同じであることに。

抑圧からの、自由。
それはテーマとしては古くからある。一々語る必要もないほどに。

だけど、僕らの世代はその思想にあまりにも親和性がありすぎているのではないか。
ここで、先程も少しだけ触れた「さとり世代」に関する記事を読んでみよう。

【追記】
ここで引用してた記事は削除されてました……
別途参考になる記事はこの辺りだろうか。ちょっと表層的に過ぎる感はあるけど……

mayonez.jp


【追記ここまで】

……

まんまじゃないか。

……

さとり世代の元ネタ、ゆとりに関しても色々なことが語られている。

biz-journal.jp

「プライベートを優先する」というのは、ゆとり世代を分析する際によく言われる言葉だ。
でも、変じゃないか?
プライベートが優先されているなら、さぞ現代の若者は趣味が充実してるんですよね?

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現実は、少なくとも僕の印象では真逆だ。
「プライベートを優先する」ということが「趣味がかつてよりも充実している」を意味しているとは、とても思えない。
むしろ……

結婚だってそうだ。
「結婚とコスパ」論なんて、典型的な「結婚を抑圧」と捉えた考え方だ。

toianna.hatenablog.com

大人世代は1人でも幸せに生きられる選択肢が増えたいま「結婚や子育てはリスクを負っても幸せになれる投資ですよ」と売り込む言葉を持たない。

この言葉は非常に的確で、僕の記事もここに帰結するレベルだ。
そう、大人たちは言葉を持っていない……
結婚について、だけじゃない。
「自分で自由を掴み取ること(あるいはその素晴らしさ)」を売り込むことが、最早誰にもできないのだ!!

ここで仮説に戻ろう。
「ある時期から(あるいはある世代から/ ある時代から)、自由とは『◯◯をする自由』として語られるものじゃなく、『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになってしまったのではないか?」

前半部分、
1.ある時代の人にとって、自由とは『◯◯をする自由』として語ることができていた。

ここ。
先程の引用と重ねてみよう。

大人世代は1人でも幸せに生きられる選択肢が増えたいま「結婚や子育てはリスクを負っても幸せになれる投資ですよ」と売り込む言葉を持たない。

大人世代は、
「僕らは働くことで、頑張ることで、自由を掴めるんですよ」と売り込む言葉を持っているのか?
持っていないだろう。

……念のため。あらかじめ言っておくと、この記事はバブリーな時期に生きた世代を非難するものではありません。同時に「良い時代だった日本」の良さを持ち上げて、現状を「どうしようもない」と嘆くだけで止まろうとする記事ではありません。目的は、もっと奥にありますので最後まで付き合っていただきたいです。

さて。
僕らより上の世代の中で、究極の「自由人」として、思いつく人がいる。

www.barks.jp

matome.naver.jp

そう、このブログでたまに引用してる所ジョージ氏。
凄い人だと思う。だけど……同時に思う。

この人は、僕らの世代にとって、自由人のモデルケースにはなり得ない

何故か?

金だ。

そりゃ、キレイ事を言えば、所さんの自由人としての本質は「お金じゃない」のだろう。
キレイ事を言えば。

だが、現実は……?

先程も言ったように、僕はバイクに乗ることが好きだ。
でも、バイクに少し乗るだけでも……とてもお金がかかる。

4年ローンで買ってるので、月々のお金は案外かかっていない。
それでも、お金がかかる趣味であることに違いはないだろう。
で、バイクの平均年齢は51歳らしい。

平均年齢51歳-深刻な若者のバイク離れ-

お金がかかって安全でもない、バイクは僕らの世代にはそぐわない趣味らしい。
が、僕がそういった趣味に身を投じている理由は、後で説明します。

とりあえず所さんに戻ろう。

ああ、男の趣味の世界!──究極の趣味人 所ジョージの超ホビー生活|メンズライフスタイルニュース(インテリア・旅行・レストラン)|GQ JAPAN

こういった趣味の世界観には本当に憧れる。
でも……本当に、「本当に憧れてる?」

「所ジョージ氏のような趣味人になりたいから=そういった趣味の自由を掴み取るために頑張って働こう」と考える人が、今の世代で本当にいる?

いたとしても、絶滅危惧種だと思う。

結局「カネがない問題」に帰結させるのは物凄く嫌なんだけど、ある時代を期に「カネがあれば自由や素晴らしきライフスタイルが買える」、「そしてそれは必死で汗を流した対価として相応しい魅力を有しているし、必死で汗を流せばそれは確実に手に入る
という価値観が消滅したのだと考えている。
この価値観はある時代まではまだ「生きていた」としか思えない。
「上の世代の人たち」と話していると、この価値観のもとに生きているとしか思えないのだ!

ここに来て思いっきり主観であること、ここから主観が増えることを許していただきたい。
だけど、こればっかりは当事者の世代ではないので推測で語るしか無いのだ(当事者の世代の方が読者にいらっしゃればいいのだが……)

僕らの世代は、「頑張って手に入る何か」に期待していない。
強いて言うなら、頑張って手に入る「技術」にはかなり期待しているが、「頑張って収入を増やしてその収入で自由に生きる」的なことには、全く期待していない。
こりゃもう、びっくりするくらい期待していない。

何故なら、そんな理想的な行き方を実現した人が身の回りにいないから。
所ジョージさんレベルの現実離れしたところにはいるけど、身近にはなかなかいないし、強いて言えばお金をがっぽり稼いで夜の街で散財している人がいたとしても……かっこ良くて憧れるなんてことはないのではないだろうか。
スマートにお金を使ってる人の中には「もう日本はダメ!海外に移住!」みたいな人もたくさんいて、結局身近なところから離れちゃってるし……

そろそろこの章のまとめに入ろう。
僕らにとって、イケダハヤト氏や大原篇理氏の語る「幸せ」は、はっきり言ってかなりリアルだ。
一方、頑張った果てに自由を掴むっていう考え方には、全くもってリアリティがない。

実現性を考えれば考える程、僕らにとっての自由は「◯◯しない自由」としてしか現れなくなってくる。

仮説に戻ろう。
「ある時期から(あるいはある世代から/ ある時代から)、自由とは『◯◯をする自由』として語られるものじゃなく、『◯◯しなくていい自由』として表現されるものになってしまったのではないか?」

ある程度、繋がっただろうか?
結局僕が言いたかったのは、僕らの「リアル」は、どうやって「抑圧するものを遠ざけるか」、そこに重点が置かれていて……もっと言ってしまえば。
「抑圧してくるものを一つずつ数え上げて、その要素を一つずつ潰していく生き方」
がメインストリームになっているのではないか。
もっともっと言えば、そういった抑圧してくるものが「消えた」状態こそが幸せだと信じている人が本当にたくさんいるのではないか。

ああ、そういえば。
僕がブログの中で幾度と無く引用している中島義道の理論は、僕の趣旨とは異なるけれど、まさしく僕らの「自由観」を語っている(少々毒があるけれど)。
「結局死んでしまう」という事実に絶望した若者は、こう考えるようになると。

不健康な夢幻空間を膨らますうちに、一条の光が差してくる。それは、哲学や文学あるいは宗教や芸術という名の仕事である。デカルトがすべてを疑いぬいた後疑っていることそれ自体は疑いえないことに気づいたように、仕事に関する悩み自体を仕事にするという道である。
こうした青年たちの多くは、誰にでもできる簡単な仕事によって単にカネを得れば満足するわけではないだろう。むしろ、仕事に多大なほどの期待をしている。負け犬にはなりたくない。あくまでも勝ちたいが、魑魅魍魎のうごめく社会のまっただ中に飛び込んで傷つきたくはない。身を挺して戦いたくはない。あくまでもその外側の安全地帯に留まり、しかも社会から抹殺されたくない。とすると、彼らは人生それ自体を対象とする仕事を模索することになる。哲学者とか作家とか芸術家とか……。
つまり、傲慢至極にも、社会を拒否しつづけながらその社会において承認され尊敬される道を選ぶんだ。社会を拒否する態度そのものによって社会から尊敬をかち得ようとするんだよ。

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫)

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫)

 

ちょっと穿ち過ぎな気もするけど、これはまさに僕の話だったので凄く同意できる。共感できる人は多いのではないか。


そういった「窮屈な世界から脱出したい」思想を、僕らの世代は、ーー必ずしもそう生きていなかったとしてもーーなんとなく、理解できる。
だけど、この思想は上の世代にはどう映るか。

多分、「若さ故の」「甘え」に見えるんじゃないか

違うんだ。あなた達のスタイルはもう……理想ですらなく……
……。

……伝わらないだろうなぁ。

次の章でもう少し考えてみよう。

※余談だけど、行儀よく真面目なんて出来やしなくて夜の校舎の窓ガラスを壊して回る歌(1985年)は、僕がこの記事で述べている「上の世代」の自由観が傾きつつある時代に歌われた歌だと思っている。
少なくとも……尾崎豊的な生き方をしたところで自由になれるわけじゃないと、今の世代はみんな醒めてるんじゃないかなぁとは思う。色々思うことはあるけれど、深く語るのはやめておこう。

3.僕らの自由

この記事で僕は「大事なことを言いたい」と最初に語った。
そろそろ、語っていいと思う。

これだけ長く語って何が言いたかったのか?
上の世代の人たちに、僕らのことを理解して欲しい?違う。
僕らの世代の自由に対する考え方は「間違ってる」?違う。
上の世代の人たちは間違っていた?違う。
上の世代の人たちが悪い?全然違う。
もっともっとお金を使って経済活動に貢献すべき?全然、違う。


僕が言いたいのは、ただひとつ。
僕らが……
「抑圧してくるもの、あらゆる不安から解放された状態」を自由として定義して……
そういった「自由」を求めて生きるとしたら……

 


寂しいよなぁ、ってことだ。
それは、とても寂しい。

世の中は色んな不安に溢れている。
そんな時代に自由もへったくれもないのかもしれない。
自由とか語っているヒマがあったら、現実的に明日メシを食えるように生きるべきなのだろう。
その一つの解として、『20代で隠居』のような「お金がなくても、必死にならなくてもスローに充実した人生は送れるんだぜ」っていう思想は、よく理解できるし納得できる。
でも、ちょっとだけ寂しい。

一方、もういつかの時代のように、必死で働いてその先にある幸せを掴むことはリアリティが全く無い。
……上の世代にもそこにリアリティが無いことを心の底から気付いた人たちがいるのだろう、そういった人たちこそが斎藤環の指摘した「スローライフに目覚める中高年」だ。
悲しいかな、僕たちにとってはそれがリアルになってしまった。

じゃあどうしろと。
どこにも進みようがないじゃないか。

それでも、僕はそこに止まっていたくない。


静かに生きたい。
働きたくない。
頑張りたくない。
疲れた。
東京の満員電車なんて大嫌いだ。
不安まみれだ。
お金もギリギリ。
伊豆半島に移住して、「隠居」してやりたい。

……でも。
本当に、それは僕が求める「自由」か?
そうなのか?

ここで止まりたくない。
僕が求めうる自由は、何かあるはずだ。
どこかに、何かが。

悪あがきをするようにバイクに乗っているのは、そのためかもしれない。
絵を描いたり、ブログを書いたり、何かを伝えたりしているのも、そこに帰結するのかもしれない。
結局、優等生じみたそういったみみっちい抵抗の結果が僕にとって「趣味」として表出しているのかもしれない。
言い換えれば、警察の世話になるのが流石に怖いから、「夜の校舎の窓ガラスを壊す」ことの代替行為としてそうしているだけな気もする。

さっき実はサラッと触れているのだけれど、僕らの世代は「頑張って手に入る『技術』」には結構期待している……気がする。
それは僕らを裏切らないから。

クリエイターに憧れる若者が多いのは、多分
「金で手に入る自由」でもなく「窮屈な世界から逃れる自由」でもない、第三の自由ーー「自らの内面世界を自在に表現する自由」が得られるからじゃないか。
でも、それだけじゃなくやっぱり「社会からの自由を得たい」っていう側面もあるよなぁ。中島義道が指摘したように。

結局、何が正しいのかわからないし、どんな欲求なら寂しい物じゃなくて、どんな欲求なら寂しいものなのか、言ってる僕自身にも答えがあるわけじゃない。

でも、とにかく……寂しいと思うのだ。

バイクで色んな所を旅しては、日本ってキレイだよなぁ、と思う。

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同時に、自分は不自由だとも思う。
自由って何なんだろう?走り回ってたら手に入るのだろうか?
そんなことはないよなぁ、イージー☆ライダー的に言えば不幸にしかならねえぞ。

……わからない。
本当に分からない。

わからないからこそ、探し続ける。
もっともっと楽しく生きるために。

読者さんに言いたい。
「何度でも、僕らの『自由』の話をしよう」
この記事は一万字に渡って「寂しい話だよなぁ」っていうことをお話しただけです。
それじゃダメだよなぁ、って。
「こうしたら寂しくなくなるぜ!」って話は何もしてないです。
がっかりされてしまったかもしれない。

だから、何度でも話をするしかないですよね。
何度でも、話すことはできる。
それが……僕が今見つけた「自由」のカタチです。

長い記事になりました。
お読み頂き、ありがとうございました。
コメント、お待ちしております。

ではまた次の記事で。