Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

一冊の「体験」……『嫌われる勇気』続編、『幸せになる勇気』

こんにちは、Mistirです。

びっくりしました。
まさか、あの本の続編が出るとは……

岸見一郎、古賀史健ーー
『幸せになる勇気』

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

あまりにも圧倒的な……少々異常な売れ方をしていたあの本。
評価が割れて当然な「書籍」にも関わらず、2016年2月の段階で1200件近くのレビュー。
そして驚愕の平均値、4.3。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

あまりにも胡散臭いそのタイトルと裏腹に、理詰めを突き詰めたようなその内容……

止まらない納得。

そして、ギャグに近いキレッキレの演劇じみた対話。

と、僕はこの本が大好きで何度も読み返しているのです。
基本的に「流行ってるものは批判する」、ダメな中学生的精神をこじらせた傾向のある僕ですが、それでもこの本は大好きなんです。
詳しくはこっちのブログで読書録を書いてます。

mistir-library.hatenadiary.jp


で、まさかその本の続編が出るとは!
さっそく買いました。
そしてさっそく読破いたしました。

結論を言うと……
「時間が経って、冷静に考えたらおかしくね?……と、そろそろ批判したくなった辺り」を丁寧に拾い上げ、そして解説する純粋な「続編」です。

相変わらず平易なコトバで語られるその思想は本当にテンポが良い。
だけど……

難解になってます。

なんせメインテーマが「愛」ですよ。
「自立」ですよ。

「え、それって宗教じゃね?」
と思うでしょ?
思ったでしょ?
一章のタイトルが、アドラー心理学は宗教なのか」だからね。こっちの気持ちを読んでやがるぜ……
しかも、「アドラー心理学は宗教ではない」の根拠に「物語の有無」を持ち出してくる。やっぱり、普通じゃない。


しかも、「自分で仕事を選んで突き進んでても自立してるとは限らない」って断言してんすよ。

そんな思想がするっと理解できるわけがない。
平易なそのコトバを、僕は何度も読み返さないと噛み砕けないだろう。

今後どんどん、そういった方向性での書評は出てくるでしょう。
だから僕は……あまり語りません。

その代わり……
前回よりキレを増した対話の「聞き役」、青年の過激さが増していて、「ギャグに近い何か」どころかもう完全に「ギャグ」です。

青年
はっはっはっ 、これはお笑いだ !言うに事欠いて 、愛ですって ?ほんとうのアドラ ーを知りたければ 、愛を知れと ?
哲人この言葉を笑えるあなたは 、まだ愛を理解されていない 。アドラ ーの語る愛ほど厳しく 、勇気を試される課題はありません 。
青年
ぺっ ! !どうせ説教じみた隣人愛を語るのでしょう 。聞きたくもありませんね !
 

ぺって……お前、ぺって……

青年
(……)われわれは自分に自信が持てないからこそ 、他者からの承認を必要としているのですよ !
哲人
おそらくそれは 、 「普通であることの勇気 」が足りていないのでしょう 。ありのままでいいのです 。 「特別 」な存在にならずとも 、優れていなくとも 、あなたの居場所はそこにあります 。平凡なる自分を 、 「その他大勢 」としての自分を受け入れましょう 。
青年
… …わたしはなんら優れたところのない 、平凡な 「その他大勢 」だと ?
哲人
違いますか ?
青年
… …ふっふっふ 。よくもぬけぬけと 、そんな侮辱を口にできたものだ 。 … …いまわたしは 、人生で最大の侮辱に出遭いましたよ 。
哲人
侮辱ではありません 。わたしだって普通の人間です 。そして 「普通であること 」は 、なんら恥ずべきところのない 、ひとつの個性です 。
青年
軽口を叩くな 、このサディストめ ! 「お前はどこにでもいる平凡な人間だ 」などと言われて 、侮辱を覚えない現代人がどこにいる ! ! 「それも個性だ 」などと慰めを受けて 、真に受ける人間がどこにいる !

口に出して言ってみたい日本語
「軽口を叩くな 、このサディストめ !」

 青年
… …いや先生 、あなたはわたしの自制心に感謝しなきゃなりませんよ 。もしもわたしがあと 1 0歳 、いや 5歳でも若く 、これだけの自制心が備わっていなければ 、いまごろあなたの鼻骨はこの拳でへし折られていたことでしょう 。

ここ読んで笑わなかった人いるのか。
まさか電車で読めねえレベルとは……

 ……これは……この対話で笑っちゃうのは……アレだ。
彼岸島とかグラップラー刃牙(厳密に言えば範馬刃牙)で笑っちゃうアレだ。

matome.naver.jp


でも、バカにしてるわけじゃない。
この自己啓発本が『嫌われる勇気』から凄まじいのは、「物語として面白い」って点だと思う。
小説として、読めるんです。

僕らが潜在的に抱えている「疑問」という伏線が青年の手によって洗い出され、解き暴かれる快感。

全てが一点に収束する、感動。

そういった意味合いで、この本は本当に贅沢な一冊の「体験」なのだと思います。

是非とも前作を読んでからお読みいただきたいですね。
そしてじっくりこの本について語り合いましょう。

最後に、キレッキレな青年の名言を引用してこの記事を終わりましょう。

青年
要するに 「恋に落ちること 」は 、物欲に取り憑かれるようなものだと ?
哲人
もちろん相手は生きた人間ですから 、ロマンティックな物語を付与しやすいでしょう 。しかし 、本質的には物欲と同じです 。
青年
… …くっくっく 、これは傑作だ 。
哲人
どうされました ?
青年
… …人間とはわからないものですね !まさか隣人愛を説くあなたから 、こんな愚かしいニヒリズムの煮汁が染み出てくるとは ! !なにが 「人間の愛 」だ !なにが常識へのアンチテ ーゼだ !そんな思想など 、汚水をすするドブネズミにでも食わせておくがいい !

 さあ、みなさんご一緒に!

……くっくっく、これは傑作だ。

お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で。

備えよ、「一億総『真に受け』社会」に!そして真に受けるな!

ども、Mistirです。
人生模索中です。ってことでブログの更新は非常に久しぶりですがみなさんいかがお過ごしでしょうか。

最近色々なことを考えてます。
なるべく政治のこと、マスコミのことは考えないようにしてたんだけど、丸山さんの発言をNHKが編集したってのは久々に「酷い」話題だなあと思った。

agora-web.jp

 

失言云々でグダグダすることがそもそも嫌いなのに、その上マスコミの恣意的報道云々も加わって、最早地獄絵図でしたね。

……なんで失言云々でグダグダするのが嫌いなのか?
それで政治議論が進まなくなるから……とか、綺麗なことは言えるけど実はそんな綺麗な理由じゃない。

「みんな、人のコトバをよくそこまで信用できるなぁ」っていう。
「コトバなんかどうでもいいよ……どうせんなもんはどうでもいいんだ」という謎の諦めがあるのだ。僕には。

現に「マスコミの報道」は「真に受け」じゃダメなものだったし、第一口八丁手八丁でナンボの政治家が言ってることにどうしてそうはしゃぐ暇があるのか。与党も野党も、あるいは国民も。
……まぁ、百歩譲って中島義道も言ってるように「つい口がスベってしまうことが信用出来ない」と、そういった明晰な論理で批判するのならまあ分かるけれど。

人生に生きる価値はない (新潮文庫)

人生に生きる価値はない (新潮文庫)

 

この本で語られてるから、みんな読もうな!


……まぁ、なんとなく、バカバカしいのである。
で、僕は考えました。
「なんかみんな、『真に受け力』が上がってないか?」と。
そしてこうも考えました。
「世間は僕らに全力で『真に受けさせようと』してないか?」と。

 

単純化するとさ、ネット世界の文章を「ネットリテラシーの低い人たちが信じこむようになった」で済んじゃうかもしれないけど、もう一歩だけ踏み込みたい。

ネットだけじゃない。
全てだ。

就活一つとってもそう。
グローバル人材で、コミュニケーション能力があって、なんたらかんたら。
斜に構えて「はいはいバーカバーカ」って言ってるような人たちも、どこかで真に受けていないか?
なんせ、世間サイドは全力で……ホント恐ろしいほどの勢いで「真に受けさせようと」するから。
絶対昔はこんなこと無かったよなぁ。絶対。いや、さすがにここまで酷くはなかったはず。
なんせ、そもそもの「情報の総量」が少ないんだから。

よくよく考えると、俗に言う「要領の良い」人たちはそういったあらゆる「世間さんサイド」の「正論」を「真に受けない」人で……俗に言う「真面目な」人たちはそういったことを「真に受けちゃう」人なのではないか。
そういった考えが浮かんだ。

なんでこんな考えが浮かんだかって……

僕は非常に、非常に……
物事を真に受けやすい人間なのである。
真面目かどうかはさておき。

言い換えると、影響を受けやすい人間だと言っても良い。

基本的にものごとを酷く疑ってかかるひねくれ者ではあるのだが、その反動故か、少しでも筋が通ってると一気に「真に受けて」しまう。

あなたたち、私を笑いますか!豚だと笑いますか!(ドストエフスキー風)


少なくとも、丸山さんの発言をNHKが編集したってことを「真に受けた」人たちは……僕と同類です。仲良くしようね(地獄への誘い)。

と、前置きはここまで。

僕はこれからの世界、「ある力」を身につける必要があることを感じている。
それは「真に受けない力」だ。


世間が何をうるさく言おうとも、世間がいかに正論でも、それを黙れうるさいやかましいボケとねじ伏せる力だ。

それはあまりにもひねくれた考え方かもしれない。
でも、確実に必要だと思う。

世の中は、『正論』で飽和している。

それぞれの意見が正論で、それぞれの意見がある程度以上の「真理」を含んでいる。
理想は「その全てを高いリテラシーで分離し、分析し、吸収する」ことなのだろう。
だけどこの「理想」は、ある欠陥を孕んでいる。

僕らにはそんな体力が残っていないことだ。

本気でこの理想を追求してもいいと思う。
だけど。絶対にこの理想に近付こうとした結果、……力尽きちゃった人は、絶対に、絶対にいる。
疲弊し、疲弊し、全てがどうでもよくなり……

……僕のことじゃないですよ?……違いますよ?

さて。
僕らが欲しているのは「現実的な解」だ。
それは「正論」でもなんでもない。
むしろ……

「正論を意志だけでねじ伏せる、圧倒的な『真に受けない力』」じゃないのだろうか。
っつーか、そういうのがなければ一生「ネット世代の不幸な人間」で終わっちゃうのではないだろうか。よほど「リテラシーと体力が高い」人じゃない限り。

もっと具体的なことを言おう。
「酒は健康に悪いです」というコトバが僕らを助けてくれるか?
世の中の正論なんて全部そういうことなんですよ(暴論)
 

と、そういうことを切実に語って、みなさんの予想通りのオチでこの記事を終わりましょうか。




みなさん、僕の言ってることは何も真に受けないで下さい!!!!
以上!!!!

やっぱり、久々にブログ書くと疲れますね……
今後はどうしましょうかね。精力的に更新しましょうか。

真に受けますか?受けませんか?

ではまた次の記事で。

 

1000円の腕時計、チープカシオの思い出

ども、Mistirです。

さて、タイトルにある1000円の腕時計「チープカシオ」が今流行みたいですね。
実は、その腕時計に関して少し語りたい思い出だとか思いだとかがある。
ほんの少し、お付き合い願いたい。


社会人になって多少自分の使える金が増えると、余計なものが欲しくなる。
例えば、こんな時計。

実は、僕はシンプル至上主義だ。
モノトーン、無機質、そういったものが大好きだ。
余計なものは要らない。
ただただ洗練されたシンプルさを愛している。
スカーゲンという会社は、なんというかどストライクなのである。

余談だが、そんな僕は無印良品とか大好きなのだ。

……にも関わらず、無印良品の時計はこんな感じである。

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かなり惜しい!文字盤が小さくてなんか洗練されてない!
針の感じがちょっと(悪い意味で)チープ!

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惜しい!シンプルだけど文字がでかすぎて少しだけダサい!

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ああもはや惜しいとさえ思わない!ぜんぜん違う!シンプルといえばシンプルかもしれんけど!

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お前は確かにシンプルかもしれんが何もかもが違う!!

……と、そんな感じで。
無印の時計はちょっと違うんです。

ちなみに、5年以上使っている時計がこんな時計だ。

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5000円程度の時計なのだが、これはこれでかなり気に入ってて非常に良い買い物をしたと思っている。
人生で買ったものの中でもベストに入る買い物の一つだ。
あの頃は5000円も相当な大金だった……いや、今でも安くはないが……
※5000円は調子に乗っていると酒で吹っ飛ぶ額なのはご愛嬌


さて。
先程貼った、この時計。

ぶっちゃけ、どストレートに好きである。
欲しい。
だが、さすがに27000円は気楽に出せる額ではない。
それに、先述の通り今の時計でも十分使えるし気に入っている。
ってことで忘れかけていた。

そんな頃、ある記事を見かけた。

www.lifehacker.jp

サムネイルに表示されている時計だが、確かにカッコいい。
かなり僕のツボだ(無印良品の時計よりも)

リンクから、Amazonのページを見てみる。
「へぇ、色々あるじゃん」と、色々と見てみる……
と。
その中の、ある商品の写真に、目が止まった。

……待て。ちょっと待て。
俺、これ持ってたぞ。

……そうか、お前か。
このシリーズだったのか。
厳密にはこのモデルじゃなかったかもしれないが、この時計のことはよく覚えていた。

僕は高校の頃、いろいろな時計を買っていた。
文具や時計には妙にこだわるヤツだったのだ。
かといって、お金はないからドン・キホーテあたりで2000円くらいで買えるような時計を時折(年に3,4回とかだろうか?もっとだったか?)買っていた。
H市をふらふら歩きながら、なけなしのお金で買っていた(もちろん、大抵のものは買えなかった)。

デジタルの時計にこだわっていた。
ストップウォッチがあって、見やすいもの。

……はっきり言って、高校生に腕時計なんて、それほど必要な物じゃない。
だけど何故か僕は時計に……ほんの少し、こだわっていたのだ。
多分、そこで背伸びをしていたのだと思う。
時計にこだわる僕自身にこだわるというか、なんというか。
ヤンキーがピアス付けたりとかワケの分からない服を着たりするのと同じだったのだ、多分。

……で。
デジタルウォッチの最後にたどり着いたのが、これだった。

薄い。
超薄い。
付けてる感じがしない。
にも関わらず、謎の高い視認性。
そして、壊れない。
雑に扱っても全然問題がない。
海なんかに持って行ったことも何度もあったと思う。

……なんだかよくわからない。
よくわからないが、良い時計だった。

……が。
その時計に関しては、せいぜい1年程度しか使わなかったように思う。
正確な期間に関しては、正直全く覚えていない。

何故使わなくなったか?
この時計に出会ったからだ。

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少しだけ良い時計が欲しかったのだ、どうしても。
この時計を買った頃、僕は日常生活で使うありとあらゆるモノを変えようとしていた。
モノを変えることで、何かが変わると信じていた。
それは錯覚かもしれないが、実は未だにその幻想(のような何か)に取り憑かれている。

……まあ、とにかく。
この時計は非常に良いモノで、値段不相応な高級感があった。
結果的に長いことこの時計を使うことになり、先程貼り付けた1年程度(?)使っていたカシオの安い時計は引き出しの奥に仕舞われた。

そして、先程の記事に戻る。

先程の記事を見てから、色々と調べてみた。
どうやらこのカシオの安い時計、流行っているらしい。
それも「チープカシオ」と呼ばれて。
サブカル系女子たちがこぞってサブカル界の新宿歌舞伎町であるInstagramにアップしているそうなのだ。けしからん。
けしからん。


ーー僕が引き出しの奥に仕舞い込んだその時計が、何故か今頃流行っている。
不思議な話だ。

もちろん、僕がその時計を買った頃はネットでその時計について調べるなんて思いもよらなかった。

不思議な事もあるもんだなぁ、などと思いながら。
欲しくなったが、それでもAmazonで買うのはなんとなくやめといた。
まぁ、なんとなくである。
1000円の時計をポチるのが、なんとなくアホらしく感じてしまったのだ。
というかどの時計が欲しいのかよくわからなくなった。

……が。
先日、上野で仕事帰りにとんかつ食べてからゲーセン寄って、その後ふらりと立ち寄ったヨドバシで……見つけてしまった。

壁に大量に陳列された「チープカシオ」を。

……考えた。
考えた、が。
それほど深く考えることはなかった。
3桁の数字がかかれた値札の貼られたその時計を、僕はレジに持って行った。

多分、実家の引き出しに今も仕舞われている。


……妙な高揚感があった。
本当に妙だった。
1000円の時計で、僕はこんなにワクワクしている。
イメージ的には高校の頃の250円くらいの価値だ。いや、もっと安いかも。

着けてみる。

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社会人がスーツと合わせるデザインではない。

だけど、薄い。
見やすい。
そしてレトロさがワクワク感を醸し出す、このフォルム。
ストップウォッチもアラームも付いている。
そして、何より。

昔身に着けていた、あの感覚。

……不思議な話だ。
安っぽいから、アナログが使いたいからと机の奥に仕舞い込んだ時計。
その過去の時計を流行に踊らされて、買ってみて、そして流行に踊らされた割にワクワクしてる。1000円で。
……やっぱり、不思議な話だ。

ここのところ、何かモノを買うときは常にネットで調べて、常に最高のものを買っている。
満足のいくものを。
レビューの値が高いものを。
あとは、昔からモノにこだわってきた僕なりの直感で。
そして「予想通り」いいものが手に入る。
……でも、そのワクワク感と、このワクワク感は全く違う……
根本的に質が違う。

それは僕がおっさん臭くなって、昔の思い出に浸ってるが故のワクワク感なのか。
それとも、昔の「自分だけのセンス」を追求していた頃の自分を思い出した快感なのか。
……でも、結局色々ネットで調べて買ったんだよな、この「チープカシオ」でさえも。
仕方ないじゃん。チープカシオ、調べてると面白すぎるんだよ。
なんだよテロ組織のア◯カイダが使ってたって。
なんなんだよある組織では入隊の証明にこの時計が授与されるって。
面白すぎんだろ。

……とにかく。
モノを買うにせよ、何にせよ、しょうもない「自分のセンス」を愛してた頃、安いものにワクワクしてた頃ってのが必ずあって。
で、いつかそこに「戻る」かもしれなくて……

このちょっとワクワクして、同時にモヤモヤしてる感覚にひとつの折り合いを付けるためにも、ドン・キホーテにでも行って雑な安物を雑に買ってみようかな、とか考える今日このごろです。

今日の記事はここまで。
少なくとも、もうしばらくこの「チープカシオ」と付き合ってみます。

お読み下さりありがとうございました。
ではまた次の記事で。

当ブログ "MistiRoom" について

ども、Mistirです。

かなり今更ですが、現時点での当ブログのご紹介を兼ねまして、現状の方針に関して改めまして一度整理させていただきます。随時変更、更新は致しますが、現段階での方針は以下の通りです。

・基本的に「作品分析」を中心とする

これまで、「書きたいことを書く」をテーマに様々なことを語ってきました。
移転前の記事も含めると、以下のような記事が結構話題になりました。

mistclast.hatenablog.com

ch.nicovideo.jp

そんなこんなでやってきましたが、だんだん「書きたいことを書く」と「ウケそうだから書く」の境界線が甘くなってくるんですよね。
ウケそうだから書いてると、だんだんウケることが目的になり、書いてるこっちがつまらなくなり、死にたくなります
ってことで基本姿勢は「作品(映画・小説等の創作を中心とし、ビジネス書やテレビ番組も含む)分析」を中心としようかなと思います。
大学で専門にやってきたこともそれですしね。
当方、まだ学生気分の抜けない社会人でございますので。

・あとは緩くやる

あとは緩くやります。
「作品分析」からズレることでも書きたくなったら書きますし、ご要望にはなるべく(気が向いたら)答えます。
現在記事作成をご要望頂いてる映画が一本あるのですが、近所のTSUTAYAで見つからず、どーしよっかなーって考えてるところです。

・登場人物

このブログの登場人物をご紹介します。

・僕
→Mistirです。大学でフランス文学学んでました。色々なモヤモヤと常に戦ってます。
・N君
→映画関連会社社員の社畜。僕より映画は詳しいが大分危ない路線で生きてる。頑張れN君。
以下の記事で初登場

mistclast.hatenablog.com

 ・渡邉◯樹
→かなり特殊なメンタリティを持った人として僕がたまに例に出します。

それくらいですかね。
ま、後は随時適当に。

では、引き続き語らせていただきます。
お読みいただき、ありがとうございます!

映画『ロッキー』は案外「オタク的」な映画なのかもしれない

ども、Mistirです。

今更ながら、映画『ロッキー』を初めて真剣に観た。 

ロッキー (字幕版)

ロッキー (字幕版)

 

 

ある程度ストーリーは知っていたつもりだったけれど、想像以上に「オタク的」な映画だった。
それも「現代的」な。

もう少しスポ根系かと思ってたけど、……否、実際にスポ根系ではあったんだけど、少し「ズレて」いた。

最初から語ってみたいと思う。
あ、ネタバレは気にせず語りますね。


この映画、主人公(ロッキー)の内面を観てる人間に理解させるまでの過程が非常に上手い。
茶番にも似た試合から始まって、素人目からしても「安すぎる」ファイトマネーが示される。
そこから流れるような「借金取り立て」へのシーンの移動。
命令に「忠実には」従わないロッキー(良心があるから?)。
この時点で、ロッキーが社会の波に飲まれながら、そこに抗ってる(抗いきれない中途半端な)タイプの主人公だってことが分かる。
……分かるよ(同意の涙)。


非常によくできてるな、って思ったのが12歳の子供に説教するシーン。
これ、見事なものですよ。
このシーンがあることでロッキーのキャラクター性っていうのが明確になるんです。
他人、それも「まだ未来があって」「自分より立場の弱い」子供に説教してるわけですけど、自分はヤクザの取り立て屋ですからね。
そういった自分の立場をすっげー本人も理解してるんだけど、「良心」に従って説教しちゃうわけです。
この「良心」っていうのはなんというか非常にフクザツ極まりないもので……
こういった説教、ついやっちゃうんだよね。なんというか。
子供の目線から見ると「ウゼェ大人」なんだけど、大人の目線からしたら「良心」。
でも本当のところは……?
ーー自分自身が解決できない「正論」を子供にぶつけてるだけじゃないか?
だから、説教のシーンで一気に僕みたいな人間は感情移入しちゃうわけです。
「お前、良い奴なんだよな……分かるよ……絶対にウザがられるタイプだけど……そう、自分で解決できないから人にぶつけちゃうんだ……」

で、ヒロインのエイドリアン。
素晴らしいキャスティングですよね。
はっきり言って、明らかに似合ってない眼鏡付けてるペットショップで働いてる内気な女の子なんて、オタクの好みどストレートじゃないですか(それが「オタク的映画」の理由じゃないですけど)。
で、そのエイドリアンに謎の激しいアタックかましてモノにするわけですけど、このシーンよくわからないですよね、冷静に考えると。
はっきり言って「男慣れしてないヒロインをゴリ押し褒め落としでオトした」ようにしか見えない。
だって、エイドリアンが落ちるシーンまで主人公、「猛烈なアタック」しかしてないですよね。
……いや、その何が不自然かって言うと難しいんですけど。
想像以上に物語のテーマに関わってないじゃないですか
ボクシングのサクセス・ストーリーっていう流れに。

ストイックにトレーニングしたり、アポロへ闘争心を燃やすロッキーにエイドリアンは惚れたわけじゃない。
外に連れ出してくれて、ゴリゴリ褒めてくれて、ゴリゴリ押してくるロッキーにやられちゃったわけです。
これは「良い」とか「悪い」とか、そういう問題じゃなく……通常考えられる「ヒロインとくっつく流れ」とはちょっと違いますよね。
まぁ、もちろん「ロッキーという孤独な男」「孤独のメタファーとしての亀」「ロッキーと亀を結びつける架け橋のペットショップ」「ペットショップの内気な娘エイドリアン」……という流れでエイドリアンの存在を読み解くことって可能なんですが、それは重要じゃない気がする。

僕がなんでこの部分にこだわってるかっつーと、
「最初からヒロインを手に入れちゃってる」
ってことがすっげぇでかいと思ってて。

もうはっきり言っちゃえばさ、この映画観た時の最大の驚きはここだったのよ。
「お前、ベテランに素質認められて、女もいて、宝くじレベルのチャンス与えられてもなおウジウジしてんのか!!!??……あ、ベテラン指導者も乗って来た…………お前またウジウジしてんのか!!!???
だったんですよ。

想像以上にウジウジウジウジしてるんですよ。
びっくりしちゃって。
ロッキーって強い男の象徴みたいなイメージで、もうちょいストイックでシビアに自分鍛えてるイメージあるんですけど。
これだけ「状況が揃って」ようやく動き出せるんです。

で、指導者(ミッキー)に言うじゃないですか。
「そんなこと昔言ってくれなかっただろ!!」って。
お前、日本の会社でそれ言ったらクソみたいなコンサルにぼろくそ言われるぞ???
逆に言えばクソみたいなコンサルには「ロッキーのメンタリティどう思います?」って聞いてみましょう。冗談ですが。

さて。
ここまで考えて、「似てる」って思っちゃったんだよね。

以下、赤字がロッキーの特徴です。
さて、青字はなんでしょうか?

才能、素質があって才能、素質があって
社会の厳しさに揉まれていて世界のシステム的に最弱のレッテルを背負わされてて
女に恵まれてハーレム形成の鍵が随所に転がっていて
突如偶然舞い込んだアメリカンドリームのチャンスがあって偶然異世界に転生して
それでもなおわりとウジウジしててそれでもなおわりとウジウジしてて
根はいいやつで根はいいやつで
良き年長者に恵まれる:良き年長者に恵まれる

右側、大分作為的な面もありますけど……
要は「少し前に批判されがちだったラノベや漫画の固定パターンじゃねえか!」って思っちゃったんです。
もっともっと「王道スポ根」だと思ってたら、ロッキーは思ったより人間臭くて、かつ運ゲーの世界を生きてて、もっと言っちゃうと結構クズだ、と。

もし熱い少年漫画で、これだけ条件背負っててウジウジしてたら、間違いなく主人公として人気出ませんよ普通は。
……でも、そういった「クズ」だからこそ凄く感情移入しちゃうわけで。
別世界の思考の人間じゃないからこそ。
だからこそ、ミッキーとの言い争い〜和解のシーンがすごく良い。
そうそう、人間の喧嘩と和解ってあんな感じだよなって。
人を恨むときって本当に複合的な理由が絡みすぎてて。
全部を吐き出さないと上手く回らないことって本当に多くて……。
そしてラストシーン、そういった人間的な部分、色々なクズさも抱えて、「克服して」、全力で戦い、決して倒れないロッキーに観てる人間は全力で感情移入しちゃうわけですね。上手いなぁ。


で、この記事のオチなんですけど……

映画を観終わった直後の、映画関連会社社員N君の会話を載せておきます。


僕「ここまで条件揃わねえと動かねえって意外だったんだよね。もうちょい王道熱血系主人公だと思ってたし」
N君「アメリカって格差半端ないからそれ反映してるのかも。これくらい条件揃わねえと成功できないって」
僕「なんかな、SA◯とかみたいなライトノベルと凄く被るものを感じたんだよ」












 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

N君「日本も00年代以降は格差社会やからな」



 

THE END


お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で。
今公開してるスピンオフ観に行こうかな……

年の暮れに「現実」と「現実味」について考えながら、僕は何かを書く

ども、Mistirです。

突然ですが、今回の記事から大幅に路線変更します。
……まぁ、いつも通りお気軽にお読みいただければ。今後はこういった記事が中心になるよって認識していただければ幸いです。

……年末。
帰省を前にして僕は様々な映画を観ていたのだけれど、ある二本の映画が様々な意味合いで非常に大きな影響を僕に与えてくれた。
一本目はこの映画。

 「手を話したら、彼女は空に落ちていく」ーー
僕はこの監督の作品がそもそも好きなんだけど、それを抜きにしても衝撃を受けた。
なんだ、なんなんだこの世界観は。
重力が「逆」の世界に生きるヒロイン、パテマと主人公のボーイ・ミーツ・ガールの物語なんだけど、世界観も雰囲気も非常にニクい。
空がぱっくりと口を開けて全てを飲み込む深淵に見えてしまう、その描写。
空を覗き込む怖さ。
空の美しさ。
地下世界の廃墟じみた描写にもヒロインの可愛さにも、物語後半に登場する「空の果て」の描写にも、なんというか恋に近い感情を覚えてしまった。

ああ、僕はこの映画が好きだ、と。

勿論突っ込みどころは無いわけじゃない。色々アラはある。でも、そんなことどうでもいい。
僕はこの映画が好きなのだ。

次の日にはアニオタの友人が家に来た。
プロジェクターと100インチのスクリーンがある、逆に言えば他には酒くらいしか無い僕の家で昼からできることなんて映画を観ることくらいだから、とりあえず映画を観ることにした。
タランティーノにもダニー・ボイルにもスピルバーグにも興味はなかろうから、とりあえずこの映画を観ることに決めた。

こちらはもう徹底的に吹っ切れた「エンタメ」だった。
脚本は『魔法少女まどか☆マギカ』で有名になった虚淵玄が担当しているんだけど、氏の作品は全体的に「なんかダークサイドに行っちゃう」っていう印象があって、好きになりきれなかった。
この映画は、違う。
徹底的なエンタメだ。
よくわからない厨二病電波ストーリーにも見える導入から、説明臭くなくスッキリと世界観を理解させるその手腕。
おっさんと美少女のロードムービーを骨格にしながら、純粋なハリウッド映画的興奮(僕はこの興奮を「『アルゴ』のラストシーン的なアレ」と呼んでます)や、社会に対するドライな視線も加えられてて、本当によくできた映画だった。

正直、夢中になった。
途中から、我を忘れた。

いつもいつも映画は分析しながら観てるんだけど、そんなのもうどうでもよくなった。
この映画は濃縮したエンタメの、一撃必殺だ。
ただただひたすらに愉しめる、極上の体験だ。

……本当に良い映画だった。

……もう少し他の映画でも観ていたかったが、夜行バスは待ってくれない。
余韻に浸りながら、東京駅鍛冶橋駐車場から夜行バスに乗って地元に帰った。

夜行バスでじっくりと考えた。
最近ずっと、こういった「物語に没入して我を忘れる」って経験をしていなかったなぁ、って。
……いや、違う。
そもそも時間を忘れてしまうような経験をしてしまうことが、ほとんどない。

冷めてる。
何をしているときも自分を客観的に見ている自分がいる。
自分がいる世界を客観的に見ている自分がいる。

現実味がない。
何をやっていても、自分から離れたトコロで何かが起こっているように思えてしまう。
でも、好きな映画を観ているときや好きな小説に没頭できるときは、なんというか我を忘れられる。
最近腰を据えて小説を読むことも少なくなってきてたから、そういった「我を忘れる」経験に久しかった。

なんというか、「我を忘れる」瞬間にはリアリティがある。
その瞬間、確かに……「我を忘れながらも」「我はそこに存在している」。

「我、ここに在り」。

……。と、さすがに何を言ってるんだって話だけど。
まぁ単純な話、「僕は何をやってるんだろう?」と思いながら仕事をしてるときと、我を忘れるほど何かに没頭してるとき、どちらに「生きてるっていうリアリティを感じられるか」って話だ。
僕は明確に、後者だ。

……だとすると。
僕のリアリティは、リアル(現実)にはない。

僕のリアルは、常に小説だとか映画の中にだけ存在するものなんじゃないか?

……こんな厨二病じみたこと、いい歳こいた社会人が考えるかフツー。
……構わないだろう、僕は「フツー」じゃないのだ、それでよかろう。

で、なんだかんだで地元・H県に帰ってきた。
まぁなんやかんやで色々な人と会ってたんだけど、今日12/31は1日フリーだったので家の周りを自転車で走り回っていた。
昔、毎日のように通っていた中古の本やらゲームやらが売ってるディスカウント・ショップ。
併設してたゲームセンターとトイザらス

今日行ってみると、トイザらスがパチンコ屋になってた。

おもちゃ屋のパチンコ屋への変貌。
そう書くとなんだか寂しく見えなくもないが、要は資本主義の静かなバトルがひとつ上手い感じで終わっただけである。
寂しくもなんともない。
ただ、訴求力のなくなってたのであろうトイザらスという大規模なチェーン店が消えたに過ぎない。
トイザらストイザらスで今まで色んな所に「勝って」来たのだろうし、「負ける」こともあるのだろう。
それだけの話だ。

……ただ。
間違いなく言えるのが。

リアリティがない。
現実感がない。

「ああ、パチンコ屋になっちゃったんだ。
どこもかしこもパチンコ屋になっちゃうなぁ」

 

それがどうしたんだろう。僕と関係があるだろうか。

適当にふらりとディスカウント・ショップで買い物したりゲーセンに寄ったりしてから、家に帰って小説を読んだ。

私たちが好きだったこと (新潮文庫)

私たちが好きだったこと (新潮文庫)

 

 4人の男女が一つのアパートに暮らす物語。
よく知らないけど、『テラスハウス』とかもそういった番組なのかな?

この小説は、正直、最初の方は好きになれなかった。
まず「バーで出会った男女が話の流れで同居し始める」っていうのがそもそも謎だった。
無茶苦茶すぎるだろ。大御所作家とは言えやりたい放題だなオイ。

で、別の意味でもヤリたい放題である。察して下さい。

ということで「私たちが好きだったことってどうせセッ◯スだろ?」となんかもう大変にひねくれた読み方をしていたのだけれど、読みながらだんだん考えが変わった。
登場人物が全員「クズ」と「聖人」と、どちらの要素も非常に高度に共存させていて、そのことについて作中でしっかりと言及されているのだ。
登場人物たち、とりわけ女性サイドは行為だけ取り出すとかなり「クズ要素」の高い行動を取る。
はっきり言って、結構酷い。
……だけど、そういったクズさを否定するでもなく、そのクズさを受け入れる心を神格化するでもなく、ただただ恐るべきバランス感覚のもと物語は進んでいく……。
比べるまでもなく、『楽園追放』のエンタメ性はこの小説には無い。
ロボットも出てこないし粋なおっさんがカッコいいこと言うでもない。
だけど、すっと心に沁みてくるようなこの小説に、僕は「我を忘れて」いた。

読み終わった僕は一息ついて、今、このブログを書いている。
書きながらリアリティを味わっているのかそうでないのか、それはよくわからない。
とにかく、あと4時間弱で、一年が終わる。

僕はこの記事を書き上げて、投稿ボタンを押す。
家族とご飯を食べる。
その後、家族が買っておいてくれた僕の好きな缶コーヒーを飲みながら、他の小説を読む。
色々なことを考えながら。
そうして現実感がないのかあるのか結局のところよくわからない一年が終わっていくのだろう。
それは悪いことでも良いことでもない。
ただ、「悪くない」。

一年間僕のブログをお読みいただきありがとうございました。
来年からもよろしくお願いしますね。

では良いお年を。
また次の記事でお会いしましょう。

【ほぼ全て】ご感想へのご返信(2015/12/29)

ども、Mistirです!
年末ですね。皆さんいかがお過ごしですか。

ってことで、これまでの記事へのご感想のうち未返信のものに関してご返信させていただきます。
※「返信はしない」と述べたものに関してはしておりません。

では、早速。

mistclast.hatenablog.com

前提といたしまして、多分今後こういった記事を書くことはなくなるか、相当少なくなると思われます。
なんか、今は人の発言を分析することに意味を見出せないんですよね……
「物語」や「作品」は喜んで分析するのですが。
だから以下のご返信もやや歯切れの悪いものとなっております。
僕の変化を反映しているものとして、ご了承下さい。
では、参ります。

 伊豆

こんばんは。
記事を拝読していたら「卑屈の壁」が立ちあらわれて少しへこみました。

「人見知り」を克服した人に対しての「すみません。まだ、人見知りのままで」という卑屈w
「人見知り」ですけど、それが?なにか問題でも?
と言い切るにはコミュ能力に対しての憧れを捨てきれないようです。ww

モヤっとしてたのですがリンク先の「才能は欲求」「威圧感の無い人」が
心にストンと落ちてきてモヤっとが払拭されました。^^


余談。

「伝える」から「思う」になったくだりは、私は違和感を感じなかったです。

ウザがられる程嫌われてる人に「伝える」という行動は
「ストーカーになるんじゃないの?「でも思う心は自由だよね。」
(君の気持ち分かるよ、応援するよ、そんな君、過去の僕の為に歌をうたうよ!(←妄想ww))

「人見知り」が「相手に対して失礼」と思っている方が
「相手の気持ちを無視して伝える」のも「相手に対して失礼」と思っての流れだと感じました。

 

過去記事にも目を通して頂いたようで、ありがとうございます!
克服した人に卑屈になっちゃいますよね。ヤツはヤツ、オレはオレで良いとは思うんですけどね。
なるほど、「思う」は特に「伝える」の文脈とは関係ないって話ですね。ふむ……

 wasa

そもそも、この文章の流れから読み取れる「俺は努力したからお前らもしろ」という目線がいまいち気に食わないように思えます。
勝手にしてくれと言いたくなってしまう。

コメントありがとうございます!
僕もそういったところに過剰反応するクセがあるので、そこで反応しちゃったのかも。今後は僕の記事、こういった内容のものは減っていくかもです。余談ですが。

 つるじ

この文章からは善意を感じるような気がします。「君も悩む必要は無い。一歩踏み出すんだ。」という具合の。よって責める気は毛頭無いのだろうなと、私は思います。
成功者は自分の成功譚をあたかも正解であるかのように語りがちです。この文章は大多数の人の心に響くかも知れませんが、それだけのように思います。誰も知ったことではないので。
駄文失礼しました。

コメントありがとうございます!
ああ、なるほど。度々引用してる中島義道的な考え方ですね。 

善人ほど悪い奴はいない  ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

 

なるほど、成功者の成功体験と同類ですか。僕も無意識のうちに、そういった要素に嫌悪感を覚えちゃってたのかもしれません。

 BadBoy 17

この文章に「人見知りだと思うことをやめた。好きな人には好きだと伝えるようにした」と書いてありますけど、ふつう人見知りの人間って、好きな人に好きだと伝えられないから人見知りなんじゃないですかね。
それに対して星野源さんは、自分が人見知りだと思いこんでいるから、好きな人に好きだと伝えられなかった、しかし自分が人見知りであるという意識を取り払った結果、人見知りでは無くなった……つまり本来人見知りでは無いのに自分が人見知りだと思い込んでいたということになるわけで。
結局、この文章の意味するところは『人見知りだと言うことが恥ずかしいこと』なのではなく『星野源が自分を人見知りだと勘違いしていたことが恥ずかしいこと』なのではないでしょうか…
というより、この文章はそもそも多くの人に同意を求めるために書かれた、いわばポエム的なものなのでしょうね。

コメントありがとうございます!
星野源が自分を人見知りだと勘違いしていたことが恥ずかしいこと』ですか。なるほど。多分、矢印は自分に向いていたのでしょうね。多方面に向いてるものとして僕が解釈しちゃっただけで。僕が厳密に見すぎていた部分があったかもしれませんね。それは一種悪趣味だったかもです。
引用元のツイートの「正論」っていう言い方に僕が反応しちゃったんですね。

 にこじろう

面白く拝読しましたが、私の解釈とは真逆ですね。
私の解釈では、星野さんの文章は、要するに、「僕は、過去にラブラブ過ぎた人から言われた一言ですっかりブロークンハートしちゃったトラウマから、自分は人見知りな性格と思い込み、周りにもそう宣言することで、周りと壁を作ってきた。そうすることで、他人とのコミュニケーションに伴い必ず発生する心の痛みから逃げてきたんだ。でも本当は僕は寂しがり屋なんだって気付いたんだ。だから頑張って人見知りバリヤーを解除することにしたんだ」っていうちょっと萌え話的な文章に読めたんですが。
ちょっと私の頭が沸いてるからでしょうか。

コメントありがとうございます!
この方の感覚を凄く好きな女性の方はとても多いみたいで、おっしゃるような反応の方が多いことは察せました。多分、そういったハートブレイク的な要素をすっ飛ばして僕は読んでいたわけですね。

 id:nonkini

自分はそれほど違和感は感じませんでしたが、星野源氏は「人見知り」=劣っている⇒克服すべきもの と思い込んでいたんでしょう。世間一般にはそんなもんでしょう。
ライフハッカーの記事にあったように、優劣など考えず生きられたら… それが理想ですね。

コメントありがとうございます!
僕も「人見知り」=劣っている、っていう理屈は直感的には実は分かります。誰とでも仲良くできたらその方がええやん、と。
そういった考え方を僕は「理論」で否定するわけです。まぁ、認めたくないからですねw
僕も優劣っていうのに凄く向き合ってますが、最近マシになってきたかも?

 hokushi

読み手の自意識によって、感じ方が大きく異なるのかな。

自分の人見知りをコンプレックスに感じている人には、啓蒙しようとする上から目線。
→不快 or 自分もがんばろう

人見知りじゃない人や、克服した人には、成功体験の喜び報告。
→良かったねぇ とか へぇ〜

ただ、「自分もがんばろう」の人は、彼がうまくいったからといって、鵜呑みにしてはいけない。成功を保証しているわけではないから。
さらなるトラウマを抱える可能性も高い。
そういう意味では「無責任」という感想もあるか。

コメントありがとうございます! 
なるほど、読み手を選ぶ側面は非常に大きそうですね。確かに、この記事を「正論」と言ってしまうと傷つく人というか、無用に否定されちゃう人が絶対にいると思いました。

 ゆう

にこじろうさんとだいたい同じ考え方です。
星野さんの人見知り、というレベルは単にシャイだとかなかなかうまく喋れないというものだけではなく、人に挨拶できない、面倒だしストレスがたまるからなるべく挨拶したくないといった高度な(?)人見知り状態だったと思われます。でも、いくら人見知りだと言っていても他人には挨拶しないのでは、人間関係を築けないし、そこから抜け出したい思いがあったのだと思います。誰にでもフランクに話せる人が羨ましい。でも、自分は出来ない。むしろ、会話なんて気を使ったりするのは疲れるからしたくない。
これは人それぞれですね。私は共感できました。

(私は、学生なのでビジネストークについては分かりません。すいません)

好きな人のくだりは「思う」じゃなくて「伝える」じゃないですかね。ここはミスかと。


星野さんの文章は、同意を求めるようなものではなく、自分の考えを整理しているように思えます。なので、それほど威圧感とかは感じないです。


乱文失礼。

コメントありがとうございます!
なるほどなぁ、高度な人見知り状態ですか……そういった発想がありませんでした。そういう意味では、最近「高度な人見知り」状態ですねwそこから抜け出したいという、星野さんの個人的な思いの発露があの文章だったわけですね。

 y

人見知りするかしないかで言ったらする方に周りが気を遣うのは間違いない
努力するかは人それぞれ
星野氏は人が好きだから努力してるんじゃないかな
一人でいい人は気にしなくて良いと思う

コメントありがとうございます!
最初から「人それぞれ」な問題だったのかも。「正論」ってコトバに過剰反応してたのは僕なのでしょう。
僕は一人で良いのかどうかビミョーですが、まぁテキトーにやってテキトーに周りには人がいるから深いこと考えなくてもいいのかも。

……さて、これでこの記事の全てのコメントへご返信したわけですが……
歯切れ、悪いですねw
まあご容赦下さい。自分の記事に対して無責任といえば無責任ですが、もうこの領域は僕の「管轄外」です。
考え方が最近大幅に変わりまして……

まあ言い訳はさておき、次の記事へ進みますね。

mistclast.hatenablog.com

 

……この記事もなんですけど。
解決しちゃったんですよね……
この記事の途中で、

何千万の「正論」を聞き飽きた。

ってあるんですけど、結局それは要するに「情報の過多に対する過剰反応が原因の一つ」だったわけです。
……で。それに対して……

 

Twitterやめてネット減らして入ってくる情報絞って、今までTwitterやネットに使ってた時間と脳のリソースで小説読んだり映画観たり考察したりするのに全て振り分ける

 
で、ほぼ解決しちゃったんですよ。
バカみたいでしょ?
僕、バカなんです。

今の夢というか目標の一つが結構はっきりしてて。
自分自身が圧倒されるほどの量の小説や映画の感想を、考察をEvernoteクラウド記憶アプリ)に残そう、と……
そういう目標ができました。
ってことで、何をご返信してもぁ……って感じなんですよ。
全てのご感想に目を通しましたが、今の自分がなんというか……みなさんの真摯なコメントにご返信できる気がしなくて……

ごめんなさい、この記事へのご返信は今はやめておきます。
全て目を通させていただいておりますので、何かございましたらコメントしていただければ。

mistclast.hatenablog.com

 

 BadBoy 17

なんか今回はやけにぱっとしないのですが、これはつまり、評価されたいという欲望を否定したいのでしょうか……それともみすちーさんにとってブログは語ること自体が報われる行為であるのに対して、絵を描くことは評価されることでしか報われた感覚を味わえず(あるいは画力が低いために書いていても満足感を感じられない)、その差異に苦悩しているという内容なのでしょうか……
自分も多様な趣味を持っていて、それぞれの趣味に時間を割けないために、一生報われないだろうなと思ったことはありますが、正直報われようが報われまいが、趣味とは内なる欲望に触発されて行うものであり、そこに有益さや生産性などが生じようとも、根本的に意義や目的の存在するものではないと思っています……だからこそ趣味なのでは。

直接ご返信させていただきましたが、お答えしていなかった
「評価されたいという欲望を否定したいのでしょうか……それともみすちーさんにとってブログは語ること自体が報われる行為であるのに対して、絵を描くことは評価されることでしか報われた感覚を味わえず(あるいは画力が低いために書いていても満足感を感じられない)、その差異に苦悩しているという内容なのでしょうか」 
の部分にご回答いたします。
端的に申し上げると、「評価されたいという欲望は否定出来ないし否定されるべきものでもない。だけど、『評価を求めて』創作をすると、大抵何かがズレる」が僕の考えです。
なので、後半部分の「絵を描くことは評価されることでしか報われた感覚を味わえず(あるいは画力が低いために書いていても満足感を感じられない)、その差異に苦悩している」はある程度近い内容ですね。
まぁ「本来の創作って一人にでも伝われば十分なんだよなぁ」っていうボヤキを8000字に渡って続けていると思っていただければ。

 ものくろこーひー

毎度拝読させていただいてます。どももー。
確かになんで描くのか?を疑問に思うことは、たくさん描くような人には向いてないとは思いますw
しかし普段描かなくとも、ある日突然思いついた時に絵を描くことも一つのお絵かきスタイルであると思います。
描いてる時になにを込めたのかMistirさんが思い出すことができれば、それはこのブログでは同じような効果、それでいて文章では手の届かない頭の中を抽出するような、絵を描くことにそんな価値が出てくるかもしれないと勝手に想像してみましたw

ご感想ありがとうございます! 
最近、Twitterから距離を置いたら「無意識のうちにTwitterのRTを稼ぐゲームとして絵を捉えていた」という事実に気づきまして……
だから自分の中での絵の価値観が一度リセットされつつあります。今後、もしかしたら思い出したように絵を描くかもしれませんね。
……ただ、今はやりたいことがあって。それが幸せっす。

 asahi

こんにちは。

絵を描いて「評価されたい」という気持ち、私にもすごくあります。私は、その気持ちを産むひとつの要因として、「他人と自分の内面を共有したい」という願望があるのではないかと思います。

たとえば私は、美しい景色を見ると絵を描きたくなります。光を反射する水面や青々とした木の緑などを見ると絵を描きたくなって、その絵を人に見せたくなります。「私にはこの景色はこう見えていて、すばらしいと思うんだけど、あなたにはどう見えているの?」と聞きたくなる。いくら同じ風景を同じ場所で見ていても、自分と他人は個別の存在だから、自分が見えている風景と他人が見えている風景は違います。その上で、自分が感じたことを他人も共有しているのかを知りたくなる。そして自分が美しいと感じた部分を他人も美しいと感じてくれているとすごくうれしくなる。そこには、どこまでいっても交われない個別の存在であるというある種孤独の中で、自分の内面を一部でも共有できたのではないかという、他者と交われたという充実感があるのではないでしょうか。「他者から評価される」ということは、自分が他者と共有したかった自分の内面の一部を、他者が共有し共鳴してくれたという、自分の心の孤独を掬い取ってくれるという一面があるのではないか、と思います。

mistirさんの、某ゲームキャラの女の子の絵、私はこのキャラを知りませんが、穏やかな表情や赤い頬、ふわりと服に乗る髪に柔らかなフォルム、一方で違和感を生む歪んだ時計、なんとなくですが、mistirさんがこのキャラのどこに琴線が触れているかが伝わってくる気がしますし、このキャラの素敵な部分を表現したいという気持ちが伝わってきます。絵がうまくなりたい、といのは、「自分の内面を、より正確に外に出せる技術を会得したい」という欲求なのではないでしょうか。

すごく自分語りになってしまってすみません。実は私も絵が上手になりたいと思っているいる一人なのですが、壊滅的に下手なのです。表現したいことができなくて、いつも絵を描くとヤキモキしています。下手すぎて何の絵かも理解されないことも多いのですが(重症です)、たまに色使いで何を表現したかったか気づいてもらえることがあります。「あなたにはこう見えていたのね。」といってもらえるだけで救われることがあります。褒められなくても、ただ自分という人間の内側に育った気持ちを理解しようとしてくれたことを嬉しく思うのです。それが共有できたらなおのこと嬉しい。

表現したいものを見失っている、とありましたが、描くために表現を探しているとなかなか出てこないもののように感じます。一方、外に出して誰かに理解してほしいと思える自分の内面の欲求が現れて、それを表現する最適な手段が「絵を描くこと」と感じたときに、手が動くのではないのかと感じました。

ご感想ありがとうございます!
自分の絵に関してそうやって観ていただくことって滅多にないので、お恥ずかしいですね……w
でも、確かにそういった自分の気持ちを、見方を伝えたいっていう欲求はありました、少なくともこの絵を描いた時は。
コトバにできないものを伝える……それが絵の最も根源的なパワーなのかもですね。
そして創作全てにも言えることである、……と。
長らく忘れていた衝動でした。もう少し、考えてみます。

 

mistclast.hatenablog.com

 

 BadBoy17 (id:Badboy17)

もし東京にお住まいならユナイテッドシネマ豊島園で4DX導入記念で12月2日から12月11日まで4DX3D版で放映してますよ。
余計なお世話だったら申し訳ありません
http://www.unitedcinemas.jp/toshimaen/film.php?movie=3486&from=movie

ありがとうございます!
……家で見ちゃいましたw 良い映画だったんですが、ちょっと僕的に許せないポイントもあるっていう映画でしたね……
僕の映画観はいずれ語りたいところです。

 nicho

なんか救われたような気がしました。
ありがとうございます。
自分③の可能性もあるけど…(ノД`)

ありがとうございます!
僕も3かもしれないので、同じですねw

 

mistclast.hatenablog.com

 

 BadBoy17 (id:Badboy17)

映画エイリアンとかはもうどこをとっても性的なメタファーだらけですよね

コメントありがとうございます!
そうです、その通りです!
ホラー映画の性的なメタファーは研究がたくさんあって非常に面白いですよ。「抑圧と解放」がホラー映画の一つのテーマですからね。

 いわし二号

男根のメタファー語りありがとうございました。正直、このトレンドを目にした次の瞬間にはMistirさんの分析を期待していました。期待どおり、この問題点の気持ちの悪さがずいぶん腑に落ちました。

隠喩にはレベルがあるということですね。
作り手も視聴者も暗黙の了解で対象物を合意しているほぼ直喩のもの(=チョコバナナ)から、個人的解釈である隠喩(=Mistirさんのドラえもん)まで無段階です。ツイート主が思う「作り手も男根のメタファーとして提供しているし、視聴者もそう見ている」という決めつけと、現実のギャップに、今回のツイートの問題があると思います。さらにそれに、「外国人」という使い古された「虎の威」で説得力を持たせようとしているところが苦しいです。

さて、私は育休中30代のおばさんですが、このツイート主にはおばさんならではの気持ち悪さがもう一つあります。
こちら、のうりんのポスターに対する他のおばさん発信のツイートですが、

https://twitter.com/jasminjoy/status/671833881784377344

なんでしょうね。被害者意識?ご自身が被害者なわけではないのですが、男が女にこんな役割を期待していて、それがこういうところに反映されているのだ!という固定観念が見えます。(このツイートに対しては、「ならばリラックマは凶暴性や生命力を排した理想の動物像か?」と聞きたい。セクシーさを含む可愛らしさに、いちいち被害者妄想を投影しないでほしい。)
今回のメタファーのツイート主もこれと同じで「男(特にオタク)は、常に私たち女に未成熟な像を押し付け、軽んじて征服したがり、私たち女はその危険に脅かされている」という被害者意識を感じてなりません。

知的水準が高いと自認して高尚な語りをする女性ほど、こういった偏ったご自分に気付かずご高説をぶつ。この我田引水な思考回路こそが、女性の活力云々を妨げているんだと思います。

飛躍しました。長文失礼しました。

ご感想ありがとうございます!
……明晰かつ的確なコメントで、僕には上手くご返信ができないです……w
男性か女性かは別にして、なんかアラがある語りですよねぇ、この人。少なくとも僕にはそう思えました。

 ハートフル雅橋 (id:Fujikaze065)

 男根のメタファーがツイッターで話題になり、Mistirさんに考察していただけるのではないかと期待しておりました。ポルノとメタファーを同列視して語ったことや、エセ西洋人・ステレオタイプなガイジンを引き合いに出したことが炎上の一因であるとの指摘、しっくりきました。メタファーは作品を楽しむひとつの要素として考えるものであり、件の人物のようにまず何が何でも批判や中傷をしたい、その為の道具として、ある種アラ探しのように"メタファー"を引っ張り出してくると途端に薄っぺらく訳の分からない主張になってしまうように感じます。ただ件の人物は、ステレオタイプな思考で凝り固まっているようにも思えますが。


 楽器が男根のメタファーという見方は、私も結構面白いと思います。
けいおんまどか☆マギカ、ガールズ&パンツァーと言った少女達が主役の作品では、徹底的に「力強さや威厳を持つ"男"」が排除され、ステレオタイプな"男"や"チカラ"と言った存在は少女たちの道具としてのみ存在しているように思えます。特にガールズ&パンツァーでは戦車が恋愛対象のメタファーとしてかなり印象強く描かれており、この観点から見ると一層楽しめるように感じました。

ご感想ありがとうございます!
みなさん、どれだけ「男根のメタファー 」で僕を想像してらっしゃるんですか……嬉しいですけどw
そうですそうです、列挙されたアニメは本当に典型的なもので(ガルパンは未見ですが、一応そういったタイプのアニメと認識してます)。
映画分析をメタファーを使ってやるのはベタな手法で、そうであるがゆえに楽しいんですよね。

 Iridium

 個人的には男性(と囁かれている)であるはずの久美氏の精神がいったいどう捻じ曲がってここまで女性的な、ナチフェミ的な思考回路を持つに至ったのかも気になってしまいますね……。
 
 みすちーさんも文中で仰っている通り、メタファー=暗喩として機能しているなら「そのものにはなれない」はずである、ということは少し考えれば理解できる事実でしょう。それから、あそこまで論を展開できる人間である以上は、久美氏も分かっているほうの人間であるはずなのです。ゆえに、分かっていながらに確信犯的(誤用)に児童ポルノと同じ文脈でこれらを語ることで同胞を奮い立たせ、確信犯的(正用)に炎上を作り出しているんじゃなかろうかと勘繰ってしまうんですよね。彼に放火された”オタク”たちは理性的にしろ衝動的にしろ何らかの形で必ず反旗を翻しますし、その旗に正論が記されていたとしても、決定的な溝を隔てた向こう側にいる”女性”たちは必ず嫌悪を抱き、溝をさらに掘り進めるからです。こうして”オタク”たちを散々な加害者に仕立て上げることで、比喩的な性表現さえ取り締まるディストピア的な規制社会をちゃくちゃくと作りあげているんじゃなかろうか。こわいなぁ。
 
 ……なんてことを陰謀論大好き人間としては考えてしまうわけですが、それはさておき。
 絵画には『愛の寓意』などでちょっとばかし有名な(ちなみにこの絵を有名にした中野京子さんもかなりフェミニスティックな展開で絵画を語る方です。…それ自体はこの話に関係ないのですが)寓意画というジャンルがあって、画面に配置されたオブジェクトや人物の配置などから絵の語っている意図を紐解く、という楽しみ方をするものが存在します。また宗教画は必ず沢山の暗喩を含んでいますし、メタファーでもって作品を楽しむのはこれに近い考え方なのかなーと思うと俄然、楽しそうです。文学や映像作品でそういう風に遊んだことはそういえば無いので試してみたい次第ですを

ご感想ありがとうございます!
そうですね、確かに確信犯的(故意犯的って言ったほうが良いのかな?)な一面は見られる用に思います。
楽しいですよね、メタファー。絵画にも応用できますし、何に対しても応用できて。
さらには「このメタファーは下手くそじゃないか?」みたいな見方もできます。例えば、以下の小説では「壁に釘で貼り付けられたトカゲ」が露骨にメタファーの役割を果たすわけですが、それを露骨と見るかどう見るか。楽しいですよ。

春の夢 (文春文庫)

春の夢 (文春文庫)

 

 ……これくらいにして、次の記事へ進みますw

 

mistclast.hatenablog.com

 

 id:telleroid

うわ〜んヽ(;▽;)ノ泣いた…
何処で泣いたかは秘密ですが♡
名前に重きを置いて考えた事もなく
習字の時のハラいが難しい字で形になり辛く
うらめしい事はありましたが……
氏名に対してはやはり同級生が学期途中に
変わった時に、ご両親離婚なり
何かしら別離があったのだなと悟ります。
そんな場面は端からも何か寂しさを感じたりは
しますよね
自分自身何者か当事者の子供なら
自分の問題としても考えるでしょう。

選ぶ余地なく法律的に氏名を語らせる日本と
自分の選択で氏名を語れる他国とがあるのに
いま知りました。(サンジャポ見た)

生きる過程の中で各々が重きを置く事は
様々なのだなぁって今更ながら思います。

理性的論理的感情論じゃなく語る事は
本来なら難しく、
その理性的な物言いでは互いに届きにくい筈なのに
理性的にそう語らなければ周囲は納得しないし
理性的なら却って納得するような現象で。

自分の立場(生きてきた道筋)をさし置いて
語る事は本来とても難しく
理性的に問題提起をしたとしても結果
知を分断させ格差を煽るような気さえ
します。
(理知的な物言い>感情的な物言い)
よって、さも理性的な面構えの奴が
旨味を吸うような……

だからと言ってどうお互いの目論見を
どう会話していけば良いのか……

しかし理性的論理的感情論に走らず冷静には
いたい所でもありますが…(すぐ泣く(≧∇≦))


感情を押し殺す…
私の前では押し殺して欲しくないなぁせめて…
とか大切な人には思ってしまいますけれどね♡

又のblog楽しみにしておりま〜す♡

男女内おごるおごらない割り勘から読み解く
男女同権とかいろんな形の結婚とは〜等
Twitterで昔、件に対して何周もしてまして
みんなもう飽きてるかな。
これこそ、生きてきた道筋から
いろんな論が生じてどれにも賛同出来る
のですが…
私もいつもそれなりに悩むのですよ…
(相手との関係性、相手がお金持ちなら
良いのか、恋人なら長続きしたいから折半論とか
ある意味おごらない男ありえないとか、
…私的に嫌な折半はラブホ代です!って所に
女として弱者気取りかよってオマエモタノシンダクセニ
嫌だな自分!とか(≧∇≦)
いつかお話聞きたいです♡

 

ご感想ありがとうございます!
理性と感情は必ずしも分断して対立させればいいとも限りませんよね。
やっぱ、どっちの目線からも語ってみて考えるのが一番良い気がします。大事なのは焦らないことで。
……折半の話はよくわからなかったので、今度またお願いしますw

 asahi

名前は、アイデンティティを形成する上で大切な一部だと思いますが、その意味合いが昔と今とは少し違ってきているのかなって思います。

少し前までは、自分の産まれた「郷土」の中で一生を終える人が多かったように思います。都会に出ても、最後に死ぬときは先祖代々の土地で死に、産まれた土地の共同体の一員として墓に入る、みたいな常識が根付いていました。その中では「家制度」というのはとても大事だし、「どの家の息子」と「どの家の娘」が家族になり、今後その土地を守っていくのかを、周りの共同体の構成員に示すことはとても大切だったように思います。女性が結婚して男性の性に変えるのは、その男性の家に入り、血縁をつなげ、その土地を夫と共に守ることがその女性に課せられた使命であることを示した、一種のアイデンティティの形成方法だったと思います。(もちろん、ここで「だから女性蔑視だ!」といいたいわけではなくて、それが当然の時代だったということで、男性もそもそも産まれた土地がら離れないという同等かそれ以上の帰属意識を持っていたと思います。)

しかし、現在「郷土」という認識は薄れつつあります。親子3世代、別々の土地に家を構えることも珍しくありません。そうなると、名前で共同体への帰属意識を形成させる必要がなくなります。名前は固体を識別するための記号の意味合いが強くなり、そこにどのような意味を持たせるかは本人次第になってきているのだと思います。アイデンティティは産まれた土地から「与えられるもの」から、「自分で形成するもの」に変わってきています。

だから、夫婦別姓を認めれば、より多くの人が独自のアイデンティティを形成する幅が広がるのになと思います。昔のように、家や土地を守る決意を持って名字を変える人がいればそうすればいいし、名字が自分の個性の一部で一生変えたくないと考えている人がいればそのままでいれば良い。名前に帰属意識を期待しすぎない人も、名前に何かしらのこだわりがある人も満足できる制度にすれば良いのになと。ただ、今と昔とでは名前の持つ意味合いが変わっているということを心に留めておかないと、「感覚」とか「感情」での話し合い担ってしまうのではないかなと思います。

ちなみに、私は女性ですが、名前の字画数が名字を含めて大吉なので(運勢的な意味で)あまり変えたくないです。ただ、今の名字より運勢が良くなる名字の人と結婚するとしたら変えるかも知れません。私にとっての名前はゲン担ぎの一種で、よくも悪くもその程度です。

ご感想ありがとうございます!
家制度が崩壊しつつある今、名前の意味合いは?という指摘は非常に重要な指摘だと思います。
世の中が変わっても、それでも名前に対する「感覚」は変わらない、これまた重要で。
難しいですね。
僕はどうでしょう。本文で述べてるように、変えられたらショックなような、それでも別に良いような。
難しいんですよね。「理屈」ならどうでもいいのですが。

 id:syougisyougi

最後の方にある、
強引に夫の名字に変えられるのは嫌だ!
というのがこの問題の根底だと自分は思います。
確かに名前はそんなに大事ではないかもしれません、しかし大事でないからといって、いや、大事でないからこそ法律で無理やり変えさせられることは不快なのだと思います。
性別などといった人生を決めるような大事なことを変えられないなら、せめて名前くらい自分の好きにしたいものです。

コメントありがとうございます!
大事じゃないからこそ、ですか。……難しいですが、そういった発想もあるのですね。
法律が無ければ、確かに夫婦別姓という「自由」は享受できるわけですよね。でも、それが法律によってできなくなってる。それは法律によって強引に苗字を変えられるのと変わらない……
難しい問題ですよね、やっぱり。そこで苗字が大事かそうじゃないかは、実はそんなに問題じゃないのかも。

mistclast.hatenablog.com

えっと……
この記事の解決方法も、一つみつかっちゃいました。
……また今度機会があれば語りますね。
コメントへのご返信は、この記事は保留ということで。

ってことで、年末総決算的にコメントへのご返信をいたしました。

今後はコメントへご返信するかどうか、わかりません。
まぁテキトーにさせていただきますね。

今後はまたブログの「ノリ」も変わると思います。
順次色々と語りますが、「今の心境ならこれ絶対記事にしないなぁ」って記事が大半でした。
やっぱり色々心変わりがあって……

……まぁ、ややこしいですが今後もよろしくお願いしますね。

ではまた次の記事でお会いしましょう。
次の記事がいつになるかわかりませんが、とりあえず、良いお年を。

Twitterから離れたら精神が回復した

ども、Mistirです。

最近Twitterから離れ、ついでに言えばブログの更新もご無沙汰で……

これ、結構理由があるんですよ。
つらつらと語りますね。

 

実は、僕は以前もTwitterから離れたことがありました。

mistclast.hatenablog.com

この頃は、「物語が物語として楽しめなくなっちゃう」っていうそういう理由でした。
ややこしいので、もしよろしければ上の記事を読んでみてください。

っていうかそもそも、Twitterから離れたことが結構何度もあります。

でも、禁煙に失敗するかのごとく何度もTwitterに復帰しました。
なんだかんだで思考停止して情報を集めるツールとしては究極の中毒性誇ってると思うんですよ、Twitter

一番直近でやめようとしたのは、10月なんです。
ただ、離れようとした瞬間なんかとんでもないことになっちゃったんですよね。

mistclast.hatenablog.com

この記事がTwitterで凄くバズっちゃって、僕もその反応が気になっちゃうからTwitterに張り付いちゃう。
冷静に考えると、それは「悪手」でした。

精神の健康には、すこぶる悪い。
ついでに言えば、ブログの健全な運営にもすこぶる悪影響を及ぼしてます。

ふと気付きました。
僕は「Twitterの反応を『良いこと(正義)』だと認識している」と。

絵にせよブログにせよ、「見られたほうが良い」に決まってます。
でも、それを目的にした瞬間「ある歪み」が生じることに気が付きました。

まず、反応が気になりすぎて自分の軸が歪むこと。

もう一つは……
「反応」を求める精神があったら……

「反応があること」即ち「幸福なこと」と認識してしまったら……

そもそもTwitterには、「反応を貰える人」が山程いるんです。
エロ可愛い絵描いて1万RTとか。

つまり。
そういった人たちが。
みんなみんな。

みんな幸福に見えるんです。

周りがみんな幸福に見えるとどういった現象が生じるか。

Facebook不幸性症候群です。
さっき命名しました。

buzz-plus.com

僕、Facebookやったら絶対に不幸になるって解ってるから、絶対にやらないって決めてたんですよ。
でも……

まさか、Twitterで同様の現象が起こってるとは思わなかった。
いや、マジで。
Twitterってもう少し憎悪がうごうごしてるスラム街みたいなところって認識だったから、Facebook不幸性症候群とは無縁だと思ってた。
でも、結局は同じだった。

ヒトとヒトが繋がるトコロ、そこに疲れが生じないわけがない。

ってことで、しばらくTwitterから完全に離れてみました。
そうすると何が起こったか。

まず、物事が自分の中で完結し始めます。
上手く言えないですが、例えば凄い映画を見て、凄い膨大な感想を抱いたとしても、それをさらっと140字以内で呟く事によって「コトバに」収めるってことをしなくなります。
そうすると、どうも「自分の時間」が増えるような気がしてくるのです。
……まあ、Twitter見ない分物理的に時間増えてるってのも大きいのですが。

で、僕は色んな趣味を「Twitter基準に」考えていたことに気が付きました。
Twitterで話題になることが目標、みたいな感じにいつの間にかなっちゃってたんですよね。

そういった思考が、たとえ無意識にせよすっげー疲れるって気が付きました。

そしてさらに気が付きました。
いつの間にか、Twitterは僕の価値観の屋台骨にさえなっていた、と。

そして読書量も減っていたことに気が付きました。
……これは、やばい。

ってことで、Twitterから少しキョリを置くことにしました。
グダグダ語りましたが、理由はいたってシンプル。
「その方が幸せだから」です。

で、ブログももう少しだけシンプルに今後取り組もうかなと思ってます。
今までTwitterで話題になってたことについて語ることが多かったんですが、やめよっかなーって。

その分、作品分析とかそういった方向性をもうちょっと進められたらと思ってます。
いや、まぁぶっちゃけどうなるかなんて僕にもわかんないんですけどね。

なんかたくさんの人にお読みいただいてありがたい限りなんですが、色々方針を変えながらまったりとやってみようと思ってます。
少なくとも今は、前の記事書いた時より頭がスッキリしてます。

mistclast.hatenablog.com

まあ、今Twitterのアカウント消すのは流石にためらいが凄くて、直接ご感想いただけたらやっぱり直接お返ししたいし、なんだかんだで広報用(???)として便利なので、今後も「広報用」としては使っていくかなーと。

ただし、タイムラインはもう多分見ません。
リプライだけ見ます。

今後は上手くTwitterともキョリを置きつつ、ブログも「語りたいから語ってる」っていう、そういった次元のお話をもっともっとできればなぁと思ってます。
その結果、大分つまらなくなっちゃうかもしれませんが、まぁそれはそれで構わないかって。

ってことで、今後ともよろしくお願いしますね。

ではまた次の記事で。
今度は何を書こうかな。とりあえず、ご感想へのご返信かな……。

 

適当な生き方が、下手くそになった

こんにちは、Mistirです。
今回は最近思うことをつらつらと。

いつからか、テキトーに生きられなくなった。

中学の頃は毎日ゲームばっかりして、人より少しでも多くの時間ゲームするようにしてた。
ひたすら、ひたすら。
何故そうやってひたすらゲームやってたのか、今は分からない。
多分、小学校の頃親に言われてそんな長い時間ゲームできなかったことへの「反発」だったんじゃないか。

高校の頃は色々あったけど、高1辺りの頃は「図書館の司書になってテキトーに生きたい」って思ってたし、「いい大学行ってイージーモードな人生送りたい」とか思ってた。

本当にいつからかわからないのだが、「テキトーにしつこく」物事に執着するってことができなくなった気がするのだ。
なんで必死こいて昔の自分はゲームやってたんだろう?

……いや。
あの頃もまぁ、飽き飽きしながらそれでもしがみついてただけのような気がする。
今で言えばネットにしがみついてるようなものか。

今はまあ、それなりどころじゃないくらい自由も不自由も手に入れた。
ゲームしか無い自分よりは、まぁ世界は広がったんだろう。

でもなぁ。……広くなればなるほど、途方に暮れてる自分がいる。

どっちがマシなのだろう?
今と昔は。

最近は、どうも何かから逃げてるような気がしてならない。
何にだろう?
何から逃げてるんだ、僕は?
何からも逃げてないはずだけど、何もかもから逃げてる気がする。

なんつーかさ、20歳やそこらでも、趣味を仕事にしてガーッと有名になって稼いでる人、いるじゃん。
なんか負けてるなぁ、っていうか。
今の自分、緩いなぁって。
つまらないなぁって。
かといって、頑張ろうとも思わないし、頑張り方もわからない。せいぜい筋トレするくらいだろうか?
で、このヌルさは誰かに「断罪」されるだろうか?
一人で東京に来て一人で生きてるの、それなりに凄いと思うんだ、自分では。
でもみんなそうやって一人で生きてるんだよなぁ。
みんなすごい!素晴らしい!
頑張ってますね!
……そう、みんな頑張ってるんだ。

まあそれはそうとして、さ。
これは確実に言えるんだけど、昔なら……
「趣味で稼いでる」ような人たちや、若くして成功してる人たちは完全に僕と別人種の人間だって思ってたから、負けてるだとか緩いだとか、そういうこと絶対思わなかったんだよ。

ーーあ、そうですか。
ーーそちらはそちらで頑張ってね、と。
ーー私には関係ないことでございます。

いつから、そういった世界との「関係性」が生まれたんだろう。

……あー、多分ネットだ(確信)。


僕はFacebookを避けてるんだけど、Facebookはやればやるほど周りが幸せに見えて不幸になるっていう側面があるらしいね。
僕も、もしかするとネットに触れすぎてそういった思考が身についてきてるのかもしれない。
じゃあネットは一方的に僕を不幸にしてるのだろうか?
……いや、それは論理の飛躍だろう。

僕はどうやら、未だにどうにかなると思っているらしい。
……実際、「どうにかなる」のだろう。
「どうとでもなる」のだろう。

未来は無限だ。
残酷なほどに。

その無限の中を、どう生きるか。
自由になればなるほどしんどくなるよね。

生きれば生きるほど、昔にまた戻っていく気がする。
読書量が圧倒的だった高校時代に。勉強量が圧倒的だった高校時代に。ゲーム量が圧倒的だった中学時代に。
せめて、何者でもなくなった今の自分より……その頃のほうがまだごく僅かに「自分」だった気もするのだ。
錯覚かもしれないけどね。
……いや。多分錯覚だろう。

今、注意や関心があらゆる方向に向くことをどうやって防止するか徹底的に考えてる。
家にある本の選択肢が30冊くらいあるから、どこからでも読めちゃって、結局何も読まなかったりすることがザラ。
とりあえずこの問題を解決したいんだよね。
その中で何か見つかるのだろうか?

……昔は昔で、とんでもない閉塞感があったけど、中学の頃は高校に進むっていう救いが、高校の頃は大学に進むっていう救いがあったんだなぁと今しみじみ思う。
今の救いはなんだろうか。
救いが欲しい。
できれば酒以外で。
今はシラフですよ、年のため。

と、別に仕事が不調なわけでもない今日の呟きでした。

いつもお読みいただきありがとうございます。
コメント、凄い密度で頂いているのですが、「保留」という名の「逃げ」に走ってます。
年末年始にまたお返しできると思いますので、またよろしくお願いしますね。
リア充なので年末年始も半端ない予定の密度だけどな!人に会わない日がねえぞ!!
……リア充、か。……うーん?
深く考えるのやめとこう。

ではまた次の記事で。
そのときには、少しでも前に進んでいたい。

夫婦別姓問題で、名前を大事にしてる人の多さを知った

こんにちは、Mistirです。

最近世間を賑わせてる夫婦別姓の問題だけど……
この話は色々議論されてるから、僕はちょっと別方向から語りたい。
……いつものことやね!


みんな、名前にこだわるんだなぁ……って話だ。

突然だけど。
みんな、名前ってそんなに大事?

ここで言う「名前」に深い意味は無い。
「有名」の「名」だとか「名誉」の「名」じゃない。

あなたが田中太郎さんだったら、その「田中太郎」のことだ。
山田花子さんだったら、その「山田花子」のこと。

結論、そして極論を言っちゃうと……
名前にそんなに執着する意味、あります?
いや、そりゃさぁ……「長いこと一緒に生きてる分愛着が湧く」っていうのは分かる。

でもさ、名前なんて自分が頑張って手に入れたものでもなければ、予め備わった才能のようなものでもない。
もちろんこの理屈で言ってしまえば、「じゃあ貴方が男であることも『頑張って手に入れたものじゃない』んだから、貴方は明日女として生きて行けるのですね?」と反論されてしまうかもしれない。
だけど「名前」と「性別」には同じ「生まれつき決められたもの」という点以上に明確に違う点がある。

性別は生物の問題だけど、名前はシステムの問題だってことだ。

性別は気楽には変えられない。
もちろん、身体は男性だけど心は女性って方はたくさんいるだろう。でも、今はそういった話をしてるわけじゃない。
「今まで男性として生きてきた精神も男性の人が、明日から急に女性になれるか?」って話だ。
多分、なれないだろう。

でも「名前」は?
「明日急に名前を変えるとして」。その際の面倒な部分って、システム的な部分だけじゃない?戸籍がどうのこうのとか。
あと、「友人に改名を通知する」っつーのももちろん人間の「システム」の問題だし。

前置きが長くなったけど。

僕が言いたいのは、『「名前」ってそう大事なもんなの?』って疑問の提示だ。
あくまでも、「疑問」。「反語」じゃない。
『「名前」ってそう大事なもんなの?全然大事じゃないじゃん!!』ではないということだ。
じっくり「本当に名前って大事なのかなァ?」って疑問を掘り下げてみたいと思ったのだ。

マイナンバーってあるじゃん?
アレ色々と批判されたけど、役割としてはぶっちゃけ「名前」も同じだよね。あまり言う人いないけど。
身も蓋もないことをいっちゃうと「名前」も「ナンバー」も、パソコンの世界にぶち込んでしまえば同じ1と0の羅列に変換できるよ。
「名前」に個人のアイデンティティが結びついてるとするなら、じゃあ同姓同名はどうなんの?って話だし。マイナンバーの方が重複しない分確実に「個人」を表してる。

じゃあ名前とマイナンバーには違いがなくて、マイナンバーの方が優れてるか?っつーと全然そういう問題じゃなくて。
名前は
・それ自体が意味を持ち
・親から付与される
っていう特徴がある。
多分、親も「滅茶苦茶可愛い子に育って欲しい!」と思ったときに「権兵衛」とか「平八郎」とか付けないだろう。
「革命家になってほしい」と思ったら「平八郎」って付けるかもしれないね。
まあそれはそれとして。

でも、この「意味」って……ホンットに身も蓋もないこと言っちゃうと……
「親のセンス次第」だよね。
身も蓋もなさすぎるけど、これって結構残酷なんだよ。
一時期DQNネームってよく聞いたけど、アレは要は親にセンスが無いってことなんだ。

……まぁ。

mistclast.hatenablog.com

この記事で語ってるように、「多少難読であるだけでDQNネーム呼ばわりされる」っていうとんでもない被害者もいるわけだけど。
それはまた別問題。

上の記事には「僕は僕の名前が好きだ」と書いてある。
ここまでの内容と矛盾してるように思われるかもしれない。

一応僕もそれなりのアイデンティティ感覚は持ってるらしく、「明日から名前を変えろ!」と言われたら、確かにショックは感じると思うのだ。
なんせそれで数十年生きてるわけだから。
だけど、案外ためらいなく改名できそうだ。
「もっとカッコよくてもっと画数が少ない名前」に。
画数少なけりゃ普段ラクじゃん。
なんやかんやで、僕にとって名前ってそういうものな気がする。
でも同時に、それはなんか親に申し訳ないなーって気もする。一応親も色々思いがあるわけだろうし。

じゃあ「名前」を大事にするとするならば、それは親のためなのか?
僕のためではなく?
じゃあその理屈で言えば、「この苗字を途絶えさせないでくれ」という親の思いがあれば、それを根拠に夫婦別姓に反対することもできるわけだよねぇ。
なんだこの違和感。
なんというか、それは時代に合ってないだろって気もする。

面倒くさいのでもういっそのこと名前なんて全部自分の意志で自由に変えられるようにすりゃいいんだよとも思うのだが、それはシステム的な問題でクッソ不便だろうな、とも思う。
あややこしい。

今回の記事はいつもに増してグダグダだが、言いたいことはここに帰結する。
「名前って、個人そのものと一致してるのか?」
ってこと。

友人の山崎くん(仮名)が諸事情で佐藤くん(仮名)に変わったことがある。
最初は違和感があったけど、山崎であれ佐藤であれそいつはそいつだった。
すぐに慣れた。

今後友人の女の子の苗字がどんどん変わっていくことは想定されるけど、そいつはそんなに変わらずにそいつだろう。確実に。

でもまぁ……
「名前が個人と一致する」っていうのを「錯覚だ」って切り捨てるのもまた違う気もしていて。
ここまでグダグダ語ったのはこの動画を見たからなんだけど。

www.youtube.com

この動画そのものに関する批判やらなんやらは保留。
「賛同も反対もできない」とだけ。

だけど最後に引用されてたこの発言。

www.sankei.com

「合憲判決を聞き、涙が止まらなかった。(戸籍上は別の姓のため)自分の名前で死ぬこともできなくなった。これから自分で生きる方向を見つけなければならず、つらい」

これはなんというか、「名前依存」っていう例だよね、と思ったのだ。
例えば……「圧倒的にピアノが上手く弾ける」人が、何らかの理由でピアノが弾けなくなって「これから自分で生きる方向を見つけなければならず、つらい」って言う。なんというか、こっちの方が納得がいく。
でも「名前」に関してもそのレベルでアイデンティティの基盤を作っちゃう人がいる。
それは「自然」なのか、「不自然」なのか。

わかんないよねぇ。
断ずることはできない。
ただ、やっぱり「納得」はしないかな。「そこまで名前にこだわる?」っていう感想が来ちゃう。

まぁ夫婦別姓は別の問題もあるんだろう。
田中っていう苗字に全くコダワリがなかったとしても、強引に夫の名字である山田に変えられるのは嫌だ!みたいな。


以下余談。
今思い出したんだけど、昔、アイヌの若者が「俺はアイヌの人間だ!」っていうことをデモで訴えるっていう映像を見た。
僕はどうもその映像が腑に落ちなかった。
「貴方はアイヌの人間、だからどうしたの?」って思ってしまったのだ。
おそらく、この感覚は文化人類学とかそういった領域に詳しい人なら「それは日本人が民族の問題に疎いからだ」って指摘するかもしれないね。
実際そうかもしれない。
でも、もし「明日からお前は韓国人だ!」って僕が言われたとしたら……多分、そんなに僕は反発しない気がするんだよなぁ。僕は韓国の政治に関しては明確にアホやなぁと思う部分が多々あるから、あえてそういった国を引き合いに出したけどさ。
……別に明日から韓国人でも構わない。ただ……
「だからお前も安重根伊藤博文を暗殺した人)を尊敬しろ!」って言われたら、それはちょっと嫌かも。
あ、もしかしてアイヌの人もそういった問題なのか?……いや、違う気がするぞ。
そのアイヌの人、「人生の途中で自分の出自を知った」って感じで、同調圧力に怒ったって感じじゃなかったし。
んー、難しい。

そういえば、こんなこともあった。
高校の何かの授業で「家制度に関してどう思いますか?」みたいなアンケートがあって、僕はただ二文字「不要」って書いた。
はいそこ、厨二病とか言わないの。その通りだけど。
……そうしたら先生が苦笑いしながら「アンタらしいわ」と言った。どうやら周りからもそう思われているらしい。

僕には僕特有のバイアスが、たぶんある。

やっぱり「名前」について考えるとき、そのバイアスを抜きに語ることは、多分僕には無理だ。
……まぁ、このブログはそういった方針で別に構わないのかな。

グダグダ語りましたが、今回はこれくらいで。
お読みいただきありがとうございました。

ではまた次の記事で。